酔狂(的)架橋(的)越境(1)
朝歩いていて、保坂和志の(HPに載ってる)エッセイのことを考えていた。最近読んだ中で、加藤典洋やら橋本治やら僕自身が著書に親しんでいる人々について言及していて(早稲田での講演だったかな)、このリンクは嬉しいなあと思いつつ保坂氏は歯に衣着せないので内容的にウッとくるものでもあった。
— chee-choff (@cheechoff) 2015, 11月 7
昨日の夜中に連続ツイートした話(の最初がこれ↑)を、ツイートした時に連想した本やブログの箇所を改めて読み直したらちゃんと書きたくなってきたので、やってみようと思います。
(あ、本記事とは直接関係ないですが、この講演録むちゃくちゃ面白いんで全部読まれることをオススメします。僕は(これに限らないけど)紙で印刷してグイグイ下線を引っぱり星マークをつけたりしながら読みました)
ツイートの「エッセイ」の実際の箇所を抜粋します。HPにあると一気にコピペできてしまうので長いですが、下線部が僕が書こうとする話に関わる部分です。
加藤典洋という文芸評論家がいて、実はその人は僕が『プレーンソング』っていう小説でデビューするときに「群像」の編集者に僕を紹介してくれた人で、非常に恩のある人なんですが、その加藤さんが岩波書店から『日本人の自画像』っていう本を出してまして、その最初の章のところで精神分析のラカンの鏡像段階という理論を使って、日本人はいつから自画像を書くようになったのかということを書いているんです。ラカンの鏡像段階というのは、赤ん坊が一歳前後のときに自分の姿を鏡に見て、「これが自分の姿だ」、つまり自分の体が一つの統一されたものである、ということをそのとき初めて発見することです。それが分かるまでは、赤ん坊にとって手とか唇とかは全部バラバラなんです。それが、鏡を見ることで一つの統一体であることを発見する、っていうのが誰にでも起こることとされています。
で、そのラカンの鏡像段階の理論を使って、日本人が幕末の開国のときに「世界に見られている日本」という意識によって、まず国という統一体を考えて、そして自画像を描くようになったと言っているんですけど、これは理屈として大間違いなんですね。ラカンの鏡像段階というのはあくまでも、個人の身体の認識であって、国民の問題ではないんです。ラカンの身体の認識で大事なことは、「視覚が関与している」ということなんですね。脳の科学なんかでも言われてますが、身体イメージというのは頭の頭頂葉のどこかの部位にあって、幼児期に作られた身体の統一感が大人になってもつづいている。つまり、頭頂葉に身体イメージを作り出している部位があるから、人間は自分の体のイメージとか統一感を持てているわけで、頭頂葉を怪我した人は自分の身体イメージをもてなくなってしまうという症例がある。
これは、ラカンの言っている鏡像段階の体の統一感の完成と同じ意味だと思うんですけど、そこに視覚が絡むというのが問題になるんですが、問題はそこまでです。国民には頭頂葉はないわけなんですよ。頭頂葉のようなものが、何か比喩的にはあるかもしれないけど、そういう比喩的な使い方はしてはいけないなです。頭頂葉は頭頂葉で、体にしかないんです。それを国民に当てはめるというのが一番間違った文学的な考え方で、すべての物を比喩的に使ってしまうというのが、これから消えてなくならなくてはならない文学的思考だと思うんですね。
(…)
質問者7:あの、最初の方にですね、物事を比喩にして考えるのはダメだ、とおっしゃいましたよね。保坂さんのおっしゃっている比喩というものはどういうものでしょうか。
保坂:人間の思考ってのはどうしても、ある程度モデルに置き換えざるを得ないわけですよ。オーケストラみたいなことみたいに。ただ、置き換えたっきり戻って来ない人のことを言ってんですよね。何にでも比喩は使えちゃうわけですよ。その比喩はどういうことかっていうと、ラカンの理論を日本の国民の意識の成り立ちみたいに、イデオロギーの成り立ちにそのまんま当てはめてしまうのを比喩的な思考という風に僕は言ってるんですけど。ラカンの理論は鏡像段階というものの理論であって、イデオロギーが作られるときは別の要因がいろいろあるんですよね。国民に頭頂葉はないわけですから。で、それをそのまんま置き換えるっていうのが比喩の思考という風に言っていました。
ツイートの「ウッとくる」が指しているのが抜粋で最初に引いた下線部で、まあ自分が興味津々で読んでいる著者の本(のある箇所)が間違ってると言われれば、まずは動揺しますよね。
いろんな本を読んでいればこういう事態にはよく出くわすもので、というのは自分の好きな著者が二人いるとして、一人がある本の中でもう一人の著書や考え方を否定したりすると、まず「えらいこっちゃ」と思い、「ちゃんと考えねばならん」と思うのです。
ちゃんと書けば…冷静になって、僕が好きという二人の著者(や著書)の、それぞれ具体的にどこが好きなのか、そして一人がもう一人を否定している内容はそれとどう関わるのかを考えようということです。
これをやらないと、その二人の著書を読む際の僕自身の価値判断が混乱してしまいます。「僕はいいと思って読んでいるはずだけど、この本を僕が私淑するあの人が面白くないと言っているから、もしかしたらうわべで読んで納得したふりをしてるだけなんじゃないか…」とか。
で、そういう動揺を抱えながら保坂氏の講演録を読み進めていき、最後の質疑応答の、最後の質問者に対する回答に僕の待ち望んでいた記述(抜粋の最後の下線部)があったわけです。
質問者の質問にも下線を引きましたが、ホントにいいこと聞いてくれました。もしかしたら僕と同じ初動的印象(「保坂氏が加藤氏を否定している…!」)に不安を感じて質問したのかもしれません。
といった内容のほんの一部(具体的にどれかはもう記憶にないですが)を、昨日の朝BookOffの道すがら考えた(何せ1時間近く歩くのです…とはいえ実際考えたのはほんの数十秒ですが)時に、この話が何かと繋がる、いや意識化で繋がっていて今まさにこのことに自分は気付こうとしている、という予感を持ちました。
この閃きに衝き動かされて記憶をぐいぐい掘り起こし(これに要したのが数十秒です)、目当てを掘り当てた時の快感といったら…本読みがやめられないのはこの瞬間があるからだとすら思います。
そういえば昔書いていた別のブログに、この「ある本と別の本の内容がふと繋がる瞬間(とその内容)」に特化したカテゴリーを作って書いていましたが、こういう風に構えてやってしまうとマンネリ化するような気がしたので止めたような気がします。
やはり「ふと」が大事で、そして意外なところで繋がる(思ってもみない共通点を発見する)ことが快感で、もっと言えばこの意外さが際立てば「読者としての個性の確立」に明示的に寄与することになります。
つまり、ある一冊の本を読む人は買われた冊数だけ沢山いますが、ある二冊の本を読む人は(その二冊の傾向が離れていれば)ぐんと数が減り、そしてさらにその二冊にリンクを見つけた人なんて自分しかいないだろう、という自己満足ができるわけです。
上にリンクを張った「併読リンク」のタグ記事の中にはそういう自己満足を得たいがために書かれたものも多いと思います。
それはそれで精神衛生上悪くないのですが、それが自己目的化してしまうと「閃きの煌めき」は気付かぬうちに色褪せてしまうのです。
(読者の個性なんてのは、純粋な本読みにとって考える必要のないことです。必要がないだけで、興味深いテーマではありますが…)
ということに気付いたのは今ではないですが、整理して言葉にしたのはこれが初めてかもですね。
そしてこの併読リンクという話がそれたはずのテーマは、もともと書こうとしていた内容と深く繋がっています(というか同じ話か…!)
やっぱりむちゃくちゃ長くなりそうなので、まずはここで切ります。
続きはたぶん一週間後かな。