human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

身体不離、臨終図巻、カラス・スナイプ

明日から雨ということで、今日はお休みを取りました。
というテキトーな理由付けでもしないと取り忘れてしまうのです。
それほど忙しいわけではないのですが、週休2日で生活リズムを作っているとそれを崩すのにエネルギィがいるのです(祝日は不可抗力なので仕方ないですが)。
有休がありがたいかと言えば、あれば(年度末に未消化分が滅するのが惜しいので)使うが無くてもそう不都合はないという程度。
かといってワーホリ(Working Holidayではない)ではなく、単純に生活リズムの問題です。

で、普段土曜にしていることを今日したわけです。

それはいいのですが…

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身体の話を書こうとしていました。

歳をとるとだんだん各所に不都合が生じるものですが、この歳(around30)で歳のせいと言うにはまだ早い。
学生の頃、あるいは新入社員の頃より不都合が増えたようにも思いますが、自覚する限りでその原因は生活習慣と「過去の無自覚」があります。
仕事がデスクワークで家ではずっと読書なんて生活してれば首が凝る(肩はたぶん平気ですが…)というのが前者の生活習慣で、では後者はどういう意味か。

昔から(たとえば大学生の頃から)ガタがきていたのに、最近までそれに気付いていなかっただけ、ということです。
健康的かは別として規則正しい生活、余裕のある(=暇ではないが時間は有り余っている)生活、またそれらを前提として成り立つ自分の身体と向き合う時間のある生活をしていると、生活を営む中で調子が変化する身体部位の存在に気付き、そこで初めて好調あるいは不調という評価を行うことができます。
僕は健康であることよりも、自分の身体から「感覚的に離れない」ことを優先して生活しています


いきなり話が飛びますが、昔は「自分は長生きしないだろう」と思っていました。
自分が死ぬ時はどのような死に方をするだろう、と高校の頃に考えていた時期があって、友人にも世間話のように話していたのであるいは気味悪がられていたかもしれませんがそれはさておき、「老衰はあり得ない。理想は凍死だ」と言っていた記憶があります。
高一で雪山に登り、登山部にも入っていたからそんなことを考えていたのでしょう。
身体の末端から凍傷になっていき、意識がどのように薄れていくかを熱く語っていたような気もしますが、たぶん昔の僕は「凍傷は(感覚がなくなるから)痛くない」と思っていて、それから極限体験の本などを読んでその認識は覆されています(今思い出せるのはNational Geographicで北欧の女性登山家ゲルリンデがK2(だったかな?)に登攀した時の記事くらいです)。
まあ若さの成せる無知ゆえの情熱があったわけですが、死に方に対する関心は今も変わっていません。
つい最近だと田口ランディ氏の看取りがテーマの連載記事↓を(会社の昼休みに)熱心に読んだり、あ、そうだ、「読中本棚」に置いておきながらしばらく手をつけていなかった『人間臨終図巻』(山田風太郎)↓↓の続きを昨日久しぶりに読んだ時に、この本の機能というか一つの読み方を発見したところでした。igs-kankan.com

人間臨終図巻〈上巻〉

人間臨終図巻〈上巻〉

『人間臨終図巻』には古今東西の有名人の死に際が享年別に、内容は劇的にかつ筆致は淡々と書かれています。歴史上の人物(たとえば森蘭丸)、文人(石川啄木)、俳優(ジェームス・ディーン。年配の人の文章で何度も見掛けたことはあるが僕は知らない)など色々です。
養老孟司氏か誰か忘れましたが、書評本でこの本のことが書かれていて面白そうだと思い入手したのですが、ほんとうに淡々としていてまるで用語集のようで、読む前に持っていた興味が読み始めてあまり長続きしなかったのでした。
それが昨日再び手に取ったのはTPOの偶然の組み合わせによるもので、それで読んで思ったのは、「これは自分の死に際を想像するための参考書だな」と。

今まさに死なんとする本人やその周りの人に感情移入して読めば、「良い死に方」か「悪い死に方」かが感覚的に判断できます。
周りに迷惑をかけるかどうかや、苦しむ苦しまないといった個別の評価項目は人と喋る話題にはなるかもしれませんが今の僕には興味はなく、もっと全体的な漠然とした印象のこと、つまり「その人の死に方に憧れるか」「その人の死に際に立ち会った時にその人に憧れるか」を考えます。
(この本を読むこと自体がまさに「(想像の中で)その人の死に際に立ち会う」ことなのですが)
そしてこの憧れが何を生み出すかといえば、つまり自分の死に際の具体的な想像を数多く生み出すわけで、「願えば叶う」に近いというかそのままなんですが、自分の行き先(いやむしろ「生き先」)がそこに導かれていくのですね。
極めておおざっぱに言えばそうで、そして想像を逞しくすれば、「それ」は日々の僕自身の振る舞いにも影響を与えないとも限らない。
…というのは今書きながら指が勝手に流れて書いてしまいましたが昨日読んでいた時に思ったことはこれではなく、別の方向に想像を逞しくする話なのですが、
実際の自分の死に際に『人間臨終図巻』で読んだ”自分が憧れた死に様”を連想するかどうか」を考えたのでした。
具体的に言うと、それは誰にどういう場所で看取られてという状況の類似が喚起する連想ではなく、もっと漠然とした(今日はこの表現よく使うな…)、「死に際の感覚の類似」による連想があり得るかどうか
もしそれがあり得たとして、自分の死の体験が(自分に執着して自分の中で閉じるのではなく)他人の死に繋がる感覚というのはどういうものなのか
それはあるいは、自分の身体が、土に、自然に還っていく感覚と、何かしら関係しているのではないか。
『人間臨終図巻』が用語集のように(取り上げられた人々はみな際立つ個性を備えるが、それは死を際立たせるためだけに効果を上げ、むしろ個人の個性を埋没させんとして)淡々と書かれていることの意味も、ここにあるのではないか。

などと考えていると、もともと重厚な装幀(黒い布張りハードカバーに金文字)の図巻が、読中棚の中で存在感を増していくのでした。

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身体の話のつもりがなぜ…

「首の話」はまたいずれ。

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そうだ、色々ついでに書いておけば、今日生まれて初めてカラスに糞を頭に落とされました。
カラスは電柱のてっぺんで辺りを睥睨していたのですが、僕が電柱のだいぶ手前でじーっと見つめていたのが癇に障ったのかもしれません。
電柱の下を通り過ぎる時に塵かゴミが前髪に当たる感覚があって、なんだろうと手で触れる直前に「あ!」と気付き、触れると白と茶の云々かんぬん…
前髪のさきっちょでしかもごく微量で助かりましたが、「あの高さで命中させるなんてあり得ない!」と最初は運の悪さに憤慨したものですが、空を飛ぶ生き物を人間と一緒にしちゃいけなくて、空中で獲物をキャッチする鳥(カラスがやるかどうかは知りませんが)のことを考えれば朝飯前なのかもしれません。

しかしまあ憤慨とか書きましたが、驚いたのはほんの一瞬でその後は冷静に対処しました(ポケットティッシュを持っていて、裸眼で視力が悪いので頭の高さくらいのカーブミラーを見つけて拭きました)。
強くなったね…というか、歩いている間は歩くことに集中しているので周囲の出来事にあまり動じないのでした。
いろいろ考えながら歩いてると思っていますが実際はほとんど空っぽで、「脳内で自覚的に回せる一部分を思考に用いている」くらいなもんなんでしょう。
歩きながら考えると思考がよくまとまるというのは、脳の思考に使える領域が少なくて雑念が入りにくいからですね、きっと。