human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『未明の闘争』(保坂和志)を読んだ

 ホッシーが言うように人は前世と同じ人生を生きるのだとして、それは一回きりでなく、何回も同じ人生を繰り返す。宿命とはそのことを言ったかどうかわからないが、宿命の一番正しい言葉の意味はそういうことに決まってる。
(…)
(…)アキちゃんは今度は難しい顔をして、ゆっくり右手を上げてまた降ろしている。
「言ってもわかんないだろうけど、全然言わなかったら絶対わかんないから言うんだけど、」と、アキちゃんは右手の上げ下げをしながらしゃべり出した。「人生っていうのは、完全に同じ人生が何回も何回も繰り返されてて、今が何回目かなんて全然わかんないけど、このあとも何回も何回も繰り返されるんだよ。」
(…)
俺がこうやって手を上げるってことは、いま上げてるだけじゃなくて、この人生の前の何十回分でもあるし、この人生のあとの何十回分でもあるんだけど、本当は何千回とか何億回かもしれないんだ。」アキちゃんは本当だと思った。

保坂和志『未明の闘争』

運命は予め決まっているが「決まっている」ことと「わかっている」ことは違う、ことになるほどと思い、引用下線部を読んで思わず自分の本を持ってない右手を見つめてしまったのだけど、この動き、動いてない動きも含めた動きがただ今だけあるのではなく、今以外のいつと具体的に考えると目眩はするがそれこそ「一万光年分」の途方もないだだっ広い時間軸それ自体の実感云々はおいてもある時間幅において「厚み」があると感じられて頼りなさやよるべなさが減じる思いがする。
一番初期のスーパーファミコンマリオカートでタイムトライアルをやる時に自分の過去ベストの走りを再現した半透明の自分と一緒に走るゴースト機能を連想して、過去ベストではなく今の走りそのものの半透明の自分が何人も一緒に走っているようなものかと今考えて、その意味はおいといてそれならとても実感しやすいと思う。テレビ画面の中のマリオをコントローラで指で動かした経験に基づく実感だ。

上の下線部の感覚で下の引用下線部を読んで想像するととても不思議な気分になる。今にいながら「今とは別の今」に首を突っ込んでいながら、その「別の今」は今とは無関係でなく今がより濃密になったように感じる。お互いが相手と相手でない何かを経由して会話していて、それによって(反応に時間差が起きて)距離が遠くなるようでいて(より相手の懐に入り込めるように思えて)距離が近くもなる。

というか、俺たちはこうして生きていていろいろ具体的なことを知るわけだけだが、本当にこれを知りたいと思って知ったわけじゃなくて、向こうが勝手に「これはこういうことだ」と俺たちに具体的な姿をあらわすから俺たちは知っただけだ。知るということはこっちからそこに迫っていって知るわけじゃなくて、向こうからこっちに転がり込んでくる。視覚とか聴覚なんてのはそんなもんだ。だから自分から何かを知りたいと思ったとき、もうそれは本来のこの生を外れ出ている。
「いやっ、ホントにそうなんだよ。」と、アキちゃんは小林ひかるの後ろに連綿とつづく小林ひかるを説得できなければ、ここにいる小林ひかるは説得できないと思っているようだった。「恐怖っていう感情っつうか、あれは感情じゃなくて、生の根源みたいなもんなんだけどよお、恐怖っていうのはそのことなんだよ。
 ひかるはよお、聞きたかったことが親父さんから聞きそびれるかもしれないってことを怖れてるんじゃなくて、親父さんがいなくなっても親父さんに向きつづける意志を自覚したことを今は怖いと思ってるんだ。今は、な。でも、人の意志っていうのの本質はそれなんだって、わかるよ。それは自分が死んでも閉じない。

同上

この本の中で一箇所だけ「たたかい」とひらがなで出てくる所でタイトルに関係あるのかと、そういう緊張でその箇所周辺を読んだ記憶だけあって場面の記憶は全くないが、「未明」とは「意識(言葉)以前」ということだと思う。そして「闘争」とは、「意識(言葉)以前が意識(言葉)になろうとすることに抗する『たたかい』」だと思う(この「たたかい」は上の「たたかい」とは関係ない、ことはわかる)。この闘争の結末は、寺山修司が見届けたかもしれない。


未明の闘争

未明の闘争