human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『モオツァルト・無常ということ』(小林秀雄)を読んで(1)

『モオツァルト・無常ということ』(小林秀雄)を読了しました。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)

本書には戦前や戦後間もない頃に書かれた文章が載っています。
氏の昔話(骨董にハマっていた、というか骨董で生計を立てていた!?頃の話)はまだ相対的に軽い調子ですが、タイトルにもなっている「モオツァルト」をはじめいくつかの文章は一つひとつが「渾身の一文」という如く、密度が極端に濃いというか、口にすれば色々言いたいことが出てきそうなところをぐっとこらえて短い言葉に凝縮しているというか、流し読みせずに一文ごとにじっくり向き合って読むとどっと疲れてしまうようで、僕は(最低限の読書リズムのために)読み飛ばさざるを得ない箇所も多くあって、「時をおいて二度、三度と読むべきだな」と今あらためて思っています。

それでも、今現在の僕の関心に触れる箇所も多くあったので、何か書きたいと思った箇所を以下に抜粋していきます。

 × × ×

 ここで、もう一つ序[つい]でに驚いて置くのが有益である。それは、モオツァルトの作品の、殆どすべてものは、世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するという様な時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。而[しか]も、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺してはいない。
 これは、不平家には難かしい、殆ど解き得ぬ真理であるが、不平家とは、自分自身と決して折合わぬ人種を言うのである。不平家は、折合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが
「モオツァルト」p.58(小林秀雄『モオツァルト・無常ということ』)

これは偶然ですが、抜粋の下線部は昨日書いた文章↓と共鳴するように思います。
本書はもともと7泊8日の湯治中に読もうと秋田へ行く新幹線の中で読み始め、
至極意外にもハードな湯治になってしまって滞在中は全然進まなかったのですが、
抜粋部は確か帰りの車中(5月末)には読んでいたはずです。

だから偶然か必然かというのは、因果を想定する範囲の広さ次第とも言えます。

精一杯生きられない時に嘆く対象は、その状況ではなく、その意志でありたい。
内から湧き出る悲しみを、外からやってきたと取り違えたくない。

鴨川が 浮かぶツバメの 雨宿り / 観自在… - ユルい井戸コアラ鳩詣

 × × ×

晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。
「無常ということ」p.75 同上

この一文(下線部)だけで、本居宣長への興味を惹き起こされる思いがします。
が、ここで書きたいのは別のことで、下線部を見て僕は以下のようなことを考えました。

人に騙されることを嫌う僕は、騙されないための努力というものを日常的にしています。
その一方で、騙されて清々しい、爽快だと感じるような騙され方に魅力を感じてもいます。

解釈に通暁することで、「解釈を拒絶して動じないもの」を見つけることができる。
これと同様に、騙されない努力は「爽快に騙される」ためにしているのではないか
、と。

 × × ×

続きます。