human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「類似性と差異」の可能性、「閃きエネルギ」減衰の法則

具体的な経験の可能性を広げる、
たとえば連想を形成する繋ぎ目の種類を増やすような、
そういう抽象的思考には躍動感があります。

多くの経験は意識に上っているが、その周囲を莫大な無数の経験が囲んでいる。そしてこの宇宙[ジェイムズの言葉できう「談話の宇宙(the universe of discourse)」]の全体が不定形なままで時間とともに変化していく。宇宙のなかでは複数の経験どうしが関係しあうが、その関係のあり方にもさまざまなものがあり、全体として経験どうしの関係は親密−疎遠(intimate or foreign)というスケールのもとで理解される。
(…)
「関係にはさまざまな親密さの度合いがある。ひとつの談話の宇宙において複数の項が単に互いに「共にある」というのは、それらがとりうるもっとも外的な関係であり……同時性と時間間隔はその次に来るものであり、さらに空間的隣接と距離とが来る。それらの後に続くのが類似性と差異であり、これらは多くの推論の可能性を伴っている。そして作用という関係があり、項どうしを結びつけて、変化、傾向、抵抗そして因果的秩序一般からなる、一連の出来事を生じさせる。最後に、精神の状態を形成し、互いに連続していることが直接意識されるような項どうしの間に経験される関係がある。記憶、目標、努力、達成あるいは失望のシステムとしての自我の組織化は、関係のなかでももっとも親密なこの関係に付随したものである。(…)*1
「Ⅱ-1 純粋経験の世界 3 人格という小宇宙」p.176-177(伊藤邦武『ジェイムズの多元宇宙論』)


分類するのは状況を整然とさせて満足するためではなく、
その分類した項目を使って思考対象をさらに深めるためです。


やはり「連想」に一番の関心を持っている自分は、
「この中でどれが連想に当てはまるだろう?」
というような考えをもってしまいますが、
連想がどの関係に当てはまるか、という言い方はおかしくて、
正確には「これらの関係を見つけるのが連想だ」で、
僕の興味に直してこの疑問を進めると、
「僕がいつも閃く連想はどの程度の親密さの度合いなのだろう?」
…いや、
「僕が「連想を閃いた」と言った時の連想はこの中のどの関係と近いか?」
でしょうか。

この疑問に対しては下線部でいちおうの答えを示してみたのですが、
各項目に全部引きましたがひとつだけ項と説明のまとまりに下線を引いたものがあります。
「類似性と差異」です。


抜粋部の各項目の、後段にいくほどその前に出てきた項の性質を含むのかな、
と一読して何がしか考え込み始めた最初に思ったのですが、
全てがそうではないがある程度そういう捉え方をしてもよい気がしました。
具体的にいえば、
ある2つの項目の「類似性」を見出したとき、
それらが今読んでいる文章の近いところにあったのなら「空間的隣接」があった、
またはそれらが同時に頭に浮かんだのなら「同時性」があった、
などと言えるということです。
…そして僕の興味はこの「同時に頭に浮かんだ」についてもっと掘り下げることにあります。


抜粋には、
「類似性と差異」は、「多くの推論の可能性を伴っている」
とあります。

…「あら、書いてあったわ」というトボけた声を出したい気分ですが、
(何せ自分で言葉をひねくり出そうとしていたものが既に目の前にあったもので)
広い意味での関係の構築のモチベーションは「関係をより親密な方向へもっていく」ことにあり、
思考にせよコミュニケーションにせよ、抜粋部の下の方の関係を目指すわけですが、
僕の「連想を尊ぶモチベーション」はこの通常のそれとは違うようです

いや、単純にそう言い切るのも誠実な言葉の使い方でない気がしていて、
たぶん「(もっとも)親密な関係」というのは、巷ではその構築がゴールのように言われますが、
その(もちろん変化を伴う)存在自体が数え切れないほどの関係を生み出すもので、
変化を達観的前提(?)とした場合の「親密な関係」のいちばんの効果はこれです

そして一方の僕は「親密な関係」の構築をすっ飛ばしてその効果を見ている(分析している)
と考えるとひとつ自分に対して納得できる説明がつきます。


なんだかわけのわからない抽象的な話をしているようですが、
このことをスッキリかつ見事に表現している言葉がありまして、
まあこの「表現している」とは僕の解釈が言わせているのですが、
そして出典が簡単には出てこなくて文脈もへったくりもないのですが、
長山靖生氏のとある著書で読んでから頭を離れない言葉でもあって、それは

「可能が可能のままであった頃」(@夏目漱石

という言葉です。

もちろん「親密な関係」の構築を軽視しているのではなく、
今の僕の興味が違うところに向いているというだけの話で、
この分析がその構築に対して「別の方向から光を当てる」ことも十分あり得ます。

そう思っておくことが社会性の発揮だと考えます、
という最後の一言は余計ですが。


 × × ×


今日の記事は特に「言いっ放し」ばっかりで説明が足りませんが、
平日に書くとまあしょうがないですね。

しかし平日にも関わらず抜粋部を読んだそばから書こうと思ったのは、
「閃きのエネルギ」は別の閃きが生じると減衰が一気に進んで、
当初の閃きに関する新たな連想によってしか再活性化が困難である
ことを、
書きかけの記事を見返した時に続きを書く意欲がない自分に正直になることで見出したからです。

仕事と生活のリズムを崩さないという大前提のもと、
生まれたての「閃きエネルギ」をなるべく大事にしていきたいと思います。

別に再活性化が「電子レンジでチン」のイメージだとは言いませんが(実際全然違います)、
一期一会であることだけは確実に言えます。

*1:純粋経験の哲学』(伊藤邦武訳)岩波文庫、二○○四年、p.51-53(註 p.268)