human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

サイホン/タコの死にゆく道

「大きな月というのは、なにをどうやってもうまくいく、ついているということだ。かならずしも蓄積ではなく、相互に非常に異なるケース、コントラスト、正反対の色、あらゆる方角で一斉に響く和音、下から上へ、あるいは対角線に沿って社会をくぐりぬける、接線、内心を探られる、玉虫色のきらめき。大きな月、それは現実がほんとうに君に語りかけるとき、君になにものかを知らせるときのことなのだ」
「なぜ?」
サイホンをまぬがれた印だ…」
「サイホンて?」

p.299 (フィリップ・ソレルス『ゆるぎなき心』)引用下線は本文傍点部

この本は半年かもしかしてそれ以上前からちびちび読み続けていて、
隔日(平日の二日に1回)で本を開いているのに未だ半分を過ぎた所で、
本書はたぶん小説なのですが「各方面へ風刺の混じった膨大な詩」の印象があって、
というか詩として読むしかないほど文脈が意味不明だから読むスピードが極端に遅くなる。

集中的に読めばストーリが頭に入らないとも限りませんが、
一日に2、3ページしか進んでいないのでなおさら文脈と縁遠くなっています。
加えて、もともと小説ではないと思って読み始めた経緯もあります。
というわけで、文脈がなければいつにも増して僕の中で「勝手なリンク」が形成されやすくなる。

肉体からの液体の排除… それがどういうふうに行われるか、知ってる? 機械が、その辺にある他の肉体を底のほうに突っ込むあいだだけ、いくつかを持ち上げる、そして──浴槽や洗面台の底からよく聞こえてくるような、短いごぼごぼいう音──それから今度は彼らの番になるんだが、次のものたちがもう踊っている… 粛清とか清算とかいうけれども、まさにその通りだ。機械で作り出される専門家たちもいる。周辺破壊を任務とする頑丈な官僚たち、男女とりまぜた死の衝動の配管工。それが彼らのたったひとつの仕事なのだ…

同上 引用下線は引用者による

冒頭にした引用はこう続くのですが、
先週末に一度読んで、今日同じ箇所を再度読んだ時に、
「肉体からの液体の排除」というキーワードに引っかかりました。
これは… これは…

タコや!!」 と。

このキーワードから連想した文章は、最初に読んだ時の強烈な印象が残っていて、
きっかけさえあれば頭の中でアニメ的に再現できるほどのシーンなのですが、
あらためて読み直すと、上の引用の後ろの下線部も「タコのこと」を言っているように思えてきて、
抽象的な文章から具体的なものが立ち上がる経験はゾクゾクするなあとあらためて感じました。

というわけでその「タコの話」を以下に引用しておきます。

 僕は前ここ[ハワイのカウアイ島]に来たときに、ヤマテさんという日系二世のおじさんと二人でタコ取りに行った。夜明け前に起きて、潮の引いた浅瀬をとぼとぼ歩いてタコの巣をみつけ、やすみたいなものでほじくりだして捕まえるのである。
(…)
 捕まえたタコをどうするかというと、家にもって帰って、全部まとめて洗濯機に放り込んで、洗濯してしまうのである。ギリシャの漁師は捕まえたタコをコンクリートの床にがんがんと叩きつけてやわらかくするわけだが、アメリカのタコ取りはさすがにそんな野蛮なこと(ポリティカリー・インコレクトなこと)はしない。シアーズ全自動洗濯機の「すすぎ」とか「脱水」のスイッチを押して、ごとごとごとごとごととやって、それでおしまいである。しかしタコにはなりたくないですね。気持ちよく寝ているところをずるずる引きずりだされて、「なんだ、なんだ」と思っているうちに洗濯機に放り込まれて「脱水」なんてやられたら、これはたまったものではない。そんな死に方だけはしたくないなと思う。

「生きていたコウタロー、アルバトロスのリスキーな運命、タコの死にゆく道」p.228-229(村上春樹『うずまき猫のみつけかた』)引用下線は本文傍点部

僕が小学生の頃、実家には洗濯槽と脱水槽が分かれて並んだ薄緑色の洗濯機があって、
脱水槽に洗濯物を入れる時に偏らないようバランスよく入れないと
脱水槽が回転する時に回転軸がブレてしまって、
それこそごとごとごとごとごととけたたましい音を立てていたものです。

そんな昔の記憶もあり、「しかしタコにはなりたくないですね」に強く共感したのでした。



ところで、サイホンって何でしょう?

サイホンとガーファンクル?(違う)