human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

free dialogue in vivo 4

「そういものが、あるとしての話です」


現実とは何か?
畑を耕したり、車の部品を組み立てたり、そういうことだけではない。
本を読むことも、一人でご飯を食べることも、そういったことも含む。
現実は、生活と言い換えてもよい。

生産性という観点に立てば、現実や生活はなにかしら生産に貢献しているかもしれない。
ものを生み出すことに直接携わる仕事。
ものを生み出すための道具や身体を維持する間接的な行為。

形の有無を問わないとして、生産の対象を広げて考えてもよい。
その場合に問題となるのは、生産の成果を捉えにくくなること。
形のないものは、一人の従事によって、いつ、どれだけ生まれるのか?
この問題の看過を許さないのは、生産性を評価分析する目があるからだ。

評価分析は個人の営みではない。
自分以外の人のための仕事を媒介するためにそれはある。
それゆえ自己分析は他者を挟んで評価分析が二重になったものだ。

仕事の評価は、その円滑な遂行が目的である。
社会生活における遅滞なき仕事の進行は、個人生活を豊かにする。
よって個人生活の内側で閉じる評価分析はその本来の役割を見失う。

「前に進むことがそのまま、あの頃に戻ることだったらいいのに」


有機物はすべて変化の機能を自らの奥深くに秘めている。
機能は、原理であり、必然であり、宿命であり、消尽である。

人間の脳における変化は、人間の身体を含めて他のあらゆる有機物と異なる特徴をもつ。
脳内の複雑怪奇な神経ネットワークに宿る変化は、創造性と直に結びつく。

意識は時間経過における同一性を認識のベースに置いている。
自己を一定とみなし、地位や関係に固執し、過去の記憶に撞着する。
不変の志向とも思われるこの意識作用はしかし、創造性の発揮には不可欠の基盤である。
変化現象を了解する前提は、以前と以後の両状態の把握およびその差異の認識である。

ところで、ここで了解される変化は、創造性の過程で認識しうる側面に限られる。
意識は可知対象を拠り所にせざるを得ないが、その深い底に充満する靄を無視できない。
靄の中をうつろう影の本体を見定めようと、手を突き入れて掻き回す。
創造性は、無秩序な影遊びと、勝敗の決まらぬ影縫いの、時空を超えた戯れである。

「もう、終わりにしましょう」


始めるために、終わらせる。
終わってほしくない思いは、始まりの予祝である。
始まりの期待は、終わりの未知に同期する。

現実は、いつも始まっていて、いつも終わっている。

 × × ×

パロール・ジュレと紙屑の都

パロール・ジュレと紙屑の都

コンポステーラの記憶、歩く必然

四国遍路の回想記↓は、序盤の山場手前で長らく更新が途絶えています。
司書講習が始まる前の、時間を少々持て余していた時期に書き始めたものです。
社会的立場は今もその時と変わりませんが、今はなかなかその時間が現れてきません。
大沢温泉(値段の安い自炊部)に連泊して、集中的に書く気がないでもありません。

とにかく遍路の話は、まずは回想記に書こうと思っていました、が。

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序盤の山場とは3日目の12番焼山寺の山越えのことです。
急勾配の山を越え、下りは長々と緩く、5日目は平地でお寺が密集した所を歩きます。
その後、たしか6、7日目だったか、「第二の山場」の麓まで進みます。
アップダウンの激しい2つの山と、それぞれの高所にある2つのお寺。

いろいろ名前を忘れていますが、その第二の山場の麓にある民宿での話です。


公式*1その民宿のほかに麓に宿がなく、僕が泊まった日は多くの宿泊客がいました。
夕方前に宿に着いて、早めのお風呂に入った時も、遍路が数人いました。
その中の一人、旅の年季の入った風体の男性から、湯船に浸かる間に少々話しました。
話したというより一方的に聞いていたのですが、淀みない口調も旅慣れたものでした。

ヨーロッパの巡礼で有名なのが、たしかスペインの「なんたらコンポステーラ*2」への巡礼。
男性は過去にその巡礼を行ったらしく、四国遍路との違いを説明してくれました。
国をまたがる数千キロの道のり、多国籍の巡礼者、巡礼然とした道と宿場街。
安く簡素な宿、街で素材を調達しての自炊、あって有り難い冷シャワー。

今追って想像するに、巡礼者の年齢層も、四国遍路とは違うのでしょう。
定年を過ぎた年配より、前途を見はるかす若者の方が多いに違いない。
歩く理由も、それに応じて違ってくるでしょう。
具体的に想像はつきませんが、「歩く理由の多様さ」という点において。

 × × ×

そんな大した記憶ではありませんが、今日ふとこのことを思い出しました。
例のごとく読中長編『特性のない男』の、ウルリヒの特性の描写にあたって。
そして自分の海外への興味について、新たな視点を得ました。
大陸へ行く必然は、定住ではなく巡礼にあるのかもしれない、と。


僕はビザを取ったことがなく、つまり日本を離れたことがありません。
外国への興味はつねにあって、そしてその内実は日本を外から見ることにある。
きっと自分はかなり日本的で、日本的な性質が好きで、しかし同時に嫌いでもある。
嫌いなのは、おそらく日本人の集団特有の、多数派的な諸々の性質。

そういった好きも嫌いも、日本で暮らし続けて感得するに至ったものです。
このことに良いも悪いもありませんが、この認識は固定化される運命にある。
いくら分析し掘り下げても、日本にいる限りは「身体丸ごとの視点」は変わらない。
その内容がどうあれ、自分のなにかが固定化されることは、好ましくない。

これが日本を外から見ることの動機で、しかしこれは単なる旅行では達成されない。
行きそして「戻ってくる」ことを前提とした旅行は、軸足を母国に残したままとなる。
そう考えると、自分の思想の基盤を揺るがす変化は、外国に住むことでしか起こり得ない。
異文化の異質に触れ、それが自分の身ぶりに決定的に影響するような状況としての定住。


と、こういった考えは今言葉にしてみて、そのまま持ち続けていることを知りました。
考えの中で想定した状況に至る必然の「ひ」の字もないことも含めて、そのまま。
この必然ということを考えた時に、巡礼と結びついたのは、それが「歩くこと」だからです。
歩くのが好きな僕は、どういう事情で歩くことになっても、難なくそれを受け入れてきました。

 それがどれだけ常識外れで、無意味で、徒労で、そして過酷であっても。

ここまで書けば、あとは簡単。
「認識の固定化」を打破する必然に、どうすれば自分は導かれるのか?
…歩けばいい。
大陸の「とある地点」に降り立ち、そこから歩き始めるだけでいい。

これも前↓と同じく、今の生活が許す奔放な想像の一例ではありますが。
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 × × ×

彼は、むかし旅の途中で汽車を降りてしまい、目的地に行かなかったことがあったなと、このときなんとなく思い出していた。なぜそうなったかといえば、やり手ばばあのようにいわくありげに、あたりの風景からヴェールを剝ぎとる澄みきった日が、彼を駅から散歩に誘い出した。そして日が暮れたころには彼は見捨てられて、荷物をもたずに何マイルも離れた村に置きざりになっていたからである。とにかく彼は、自分でもわからなくなるほど長時間外を歩いて、そしてけっして同じ道を戻らないという特性を、自分がつねにもっていたということを、いま思い出していた。

「第23章 ボーナデーア、あるいは病気のぶりかえし」p.158 (ムージル『特性のない男Ⅳ』)

*1:知る人ぞ知る、あの「黄色い地図」のこと。

*2:書き上げてから一応調べました。正式名称はこれのようです。 サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 - Wikipedia

病中後の審美的生活メモ

今週は過動で体調を悪くして、寝飽きるくらいずっと寝込んでいました。
過労ではなくて「過動」(ボルダリングは生活の一部)、登り過ぎです。
一日おきの一日7時間は、あまり休憩を挿まないにしては負担が大きい、
という教訓を得ました(3日以上間を空けたのは初めてかもしれません)。

そういえばここひと月ほど、指の皮(指紋の部分)が薄くなってきて、
回復には3日(ジムのオーナ)から14日(いちクライマ)はかかる、
という幅広い情報を得ていていつ対処しようかと考えていたんですが、
これを機会に指の皮を分厚くして、発展的復帰を図りたいと思います。

体はまだ本調子ではなく、月〜木は一歩も外に出ず、
行こうと思っていた花南巻温泉へ金になんとか行き、
その日に月一で通う紫波図書館へもなんとか行って、
やっと今日掃除と洗濯ができるくらいになりました。

原因は過動だけではなく、生活習慣と衛生面にもありそうです。
一日二食はまあいいんですが、登った後の夜に食べ過ぎていた。
今後は腹八分目、「もう少し食べれる」の一歩手前で止めたい。
外食がラーメンか台湾料理のみなので、自炊の頻度も一定度は。

掃除を週に一度は必ずやることにしましょう。
講習中は終盤までなんとか守れていましたが、
寒くなってくると途端にやる気が落ちました。
埃が多いからですが、この時期はカビが大敵。

結露がひどくて、寝室の和室は天井の一部に水滴がびっしり付きます。
特定の場所なので配管か配線かと思いますが、油断すると畳に落ちる。
畳は布団を敷いていた中心付近に埃が溜まりやすい、どうしてだろう、
とメガネでよく見たらカビで、処理して布団を敷く場所も変えました。

このたびの体調悪化でとくに喉がやられたのはきっとカビが一因で、
今まで見たことのない所に発生するのを岩手に来て何度も見ました。
ペールボックス、まな板、しゃもじ、箸入れ、壁紙、掛け布団など。
今こう書きながら、根本的な湿気対策をする気に初めてなりました。

ちょっと調べて、氷水ペットボトルか竹炭をやってみようと思います。

<生活メモまとめ>
 ・週一で家を掃除する *1
 ・適度な運動量を探る *2
 ・腹八分目に食事する *3
 ・部屋の湿度を下げる *4

p.s.タイトルの「審美的」の意味はブラウザ次第で判明します。

 × × ×

昨日借りた6冊のなかに、こんな本があります。

今までにない職業をつくる

今までにない職業をつくる

「今までにない職業」とは甲野氏の古武術研究家のことでしょう。
こういう視点も今なら持てるな、と思いつつ読んでみるつもりです。

この本はいくつかの縁に導かれて借りました。
(Iターンの本などがある特設コーナ「まちづくり全般」に配架されていました)

つい最近連想した「限界芸術」と本書の副タイトル「市民芸術」との呼応。
これは連想元の『特性のない男』とも繫がる。
また、本書まえがき冒頭に宮沢賢治の言葉が引用されていたこと。
今住んでいる花巻は、宮沢賢治が生きた地域です。

その冒頭、『農民芸術概論綱要』の一節を孫引きしておきます。

 職業芸術家は一度亡びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である

「止むなき」とは、それが必然であることです。

*1:登壁2日休みの二日目に。

*2:無理はよくないが現状維持でもない?
生活ボルダリングの目的たる身体性の賦活が「維持」かどうかは謎なので「探る」です。

*3:空腹と体重減を不安にしない。

*4:ホームセンターに竹炭を買いに行こう。

限界芸術と「身の丈、ありもの生活」

『特性のない男』の三冊目を今日読み終えました。
どの巻も最後の章はとくに思索に富んでいるのですが、
三冊目終章の以下の箇所を読んでいて、鶴見俊輔氏の「限界芸術(論)」を連想しました。

「限界」という単語がそうさせたのでしょうが、
この連想における双方の「限界」の使われ方が違っていて、
それが何か思考を生みそうな気がしました。

ああ、それだけではなく、
引用後半の「世俗の人間として」というのもキーワードでした。

ところで、この兄妹の間で進行していることの手がかりをまだつかめていないような人は、この報告をどうか脇に置かれるように。なぜなら、そういう人には、けっして是認してもらえないような冒険が、この報告には書かれるからである。すなわち、不可能なものや自然に反するものの危険、いや嫌悪の念を起こすものの危険に軽く触れながら、いやときにはそれ以上のことをしながらする、可能なものの限界への旅が、ここで記述されるからである。それは、真理に至るために、時折不条理な数値を利用する数学の自由をしのばせる、制限された特殊な妥当性の「限界のケース」(ウルリヒは、それをその後こう呼んだ)のことである。彼とアガーテは、神に陶酔したものの仕業と多くの点で共通性のある道に踏みこんだのだ。しかし彼らは、敬神の念もなく、神も魂も信じることなしに、もちろんまた彼岸や彼岸での再生さえも信じることなしに、この道に入ったのである。彼らは、世俗の人間として、この道に踏み入り、そして世俗の人間として、この道を歩んだ。そしてこれこそが注目に価することだった。

第2巻第3部 第12章「聖なる会話。波乱にとんだ継続」p.313(R.ムージル『特性のない男Ⅲ』松籟社

鶴見氏のいう限界芸術とは「限りなく芸術に近い、生活から生み出されたもの」です。
芸術性を意図せず、ただ生活を営む中で作られたものが、
審美眼に耐え、あるいはとてつもない美しさを獲得する。
たとえば、シンメトリでない和製陶器とか。
具体的なモノであったり、遊びであったり、その対象はいろいろで、
ちくま学芸文庫の『限界芸術論』にたっぷり書かれていますが、
具体的なところは忘れました。
(「遊び」は、歌留多とか、あるいは影踏みのようなものも含んでいたはずですが、
 これは限界芸術の例ではなく別の著作に書かれていたことかもしれません)

限界芸術における「限界」は、境界のような意味を指しています。
つまり、生活と芸術の境目のギリギリのところに限界芸術がある。
対して引用中の「限界」は、極限の意味をもちます。

極限だってある意味で境界ですが、違うところといえば、
極限にはその先、境界の向こうにあるものが分からないことです。
数学でいう極限、高校では数Ⅲで習う無限大(∞)がそのよい例です。

「限界」が境界と極限の2つの意味を持ち、
その2つは厳密には異なりながら共通した概念領域をもち、
だからこそこれらは同じ言葉で表されているわけですが、
このことが意味することもまたある気がしたのでした。

それを概念的に先に言えば「交換可能性」で、
今回の話では、「境界たる限界」は「極限たる境界」でもあるだろう、と。
この可能性は論理の正しさの水準で問題にされることではなく、
つまり言葉の緻密さではなく曖昧さに機能性を見出すことで生じます。


話を戻しますが、
限界芸術は「芸術に限りなく近いもの」で、
生活と芸術の境目、あと一歩で芸術の域に踏み入る創作物、
生活の必要から生じた「創作の意図のない創作物」ですが、
このような表現はそのまま受け取れば、
限界芸術に芸術へのベクトルを感じてしまいます。
芸術性への意図はないが、芸術に近ければ近いほどよい、というような。
(だからここでいう「ベクトル」は志向のことではありません)

上述の「交換可能性」の具体的なところを考えた時に思ったのは、
鶴見氏の表現の意図もたぶんそうだと思いますが、
限界芸術の「芸術への近さ」は「ある美しさを獲得している」ことしか意味せず、
限界芸術とは芸術とは方向性の異なる創作物である
、と。
つまり、共通の基準で限界芸術と芸術を比較することはできない、または意味がない。

芸術は、ある美しさの極限を追求する。
限界芸術は、芸術とは関係なく、また別の美しさの極限を追求する
「美しさの追求」という性質を持つ言葉が「芸術」以外にあれば、
もしかしたら限界芸術は、これとは異なる表現を得ていたかもしれない。

表現のことはつい思いついて書いただけであまり興味ありませんが、
限界芸術が美しさを追求するのはもちろん生活のなかであって、
僕はこの点に興味というか、魅力というか、当事者感覚をもちます。
「身の丈感覚」の「ありもの工夫(ブリコラージュ)*1」の生活
この全く創作と関係のない必要性に応じる生活が、
これを洗練させれば「ある美しさ」を獲得する可能性をここに見出せるからです。


自分の生活のなかでこのことでなにか具体例が出せるかな、と考えて、
上の必要性を必然性(というか「流れでそうなった」)に言い換えてになりますが、
今の生活の中心軸の一つであるボルダリングを思い浮かべました。
登壁にあまり思考を介在させないようにするために、
これまでボルダリングについて言葉にすることは(初期を除けば)控えていましたが、
まあこれもいい機会なのでちょっとやってみようと思います。

記事が長くなったのでこの話は次にしましょう。

 × × ×

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

*1:学術的にはブリコラージュは「器用仕事」ですが、これはカッコに入れて、自分で表現を考えてみました。語呂のよい七字になりました。

「土着の玄人」の安定感

二人の言うことは同じではありませんが、
共通のなにかを見ることができます、
ということの中身について書きます。

ハシモト氏の文章には説明がいらないほど克明かつ大胆なので、
氏の文章の他との関連を見出せた時には、
その「関連先」を理解する大きな手がかりとなります。

2つの引用の下線部、太字部がそれぞれ対応しているように見えます。

クロートにとっての「自分」とは、「自分の技術」という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体「樹木」ではないのである。一本の木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが「自分」という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だからクロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。余分なものがチラつくからこそ、「下手」なのである。ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは「自分」を覆い隠すことが出来ない。すぐに「自分」を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう──「自分とはなんだ?」などと。
 クロートはもちろん、「自分とはなんだ?」なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、「自分の技とはなんだ?」と考える。「自分のやってきたことはなんだ?」という悩み方をする。クロートが「自分とはなんだ?」と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートは、それだけで自殺をしてしまう。技術とはそういうものであり、クロートとはそういうものである。近代ではどう考えるか知らないが、そう考えるのが前近代の常識なのである。

「90「下手」とはいかなることか」p.347-348 (橋本治『ああでもなくこうでもなく3 「日本が変わってゆく』の論)

 高めることと低めること。鏡をみながら化粧している女は、自分を──すべてのものを眺めることができるこの無限の存在を──小さな空間に閉じ込めていることを恥ずかしく思わない。同様に、自我(社会的自我、心理的自我、等々)を高めるとき、どんなに高く上昇させても、われわれがただそれだけにすぎないものになれば、際限なく下落する自我が低められている場合は(エネルギーが自我を欲求に高める傾向がないかぎり)、われわれが自分がそれだけにすぎないものではないことを知っている
 非常に美しい女は、鏡に自分の姿を映し見ながら、それが自分であると思いこむことが十分にありうる。みにくい女は、それが自分ではないことを知っている。

「遡創造,7」(シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』)

ハシモト氏の「土壌」の人間的な比喩から、「土着」を連想します。
土壌を耕すには、その地に「根づく」必要がある。
また土壌に気を配ることは、樹木の維持管理でもある。
木の成長は「一面」で、土壌の土着的安定性が、盛衰のサイクルを成立させる

2つの引用をリンクさせると、タイトルのような言葉が浮かんできました。

人間のなかに自然界の秩序を見る話は、そういえば少し前↓にも書きました。
このテーマが、最近の自分には関心が高いようです。

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p.s.
"enracine"で検索して、とある博士論文をみつけました。
序文には「『根をもつこと』に述べられている思想に関する包括的な研究」とあります。
印刷しないと読めませんが(目が弱いので)、機会があればぜひ読みたいです。

存在しない神を愛する

と、こう言った時に、
「神は死んだ」(ニーチェ)の近現代が念頭にあるように聞こえますが、
最初にそう思って、けれど読むうちに違うと気付きました。
エレクトラって、ギリシャ神話ですもんね。

 単なる想像上の報酬(たとえばルイ十四世の微笑)は払われた労力と正確に等しい価値をもつ。なぜなら、それは払われた労力の価値を過不足なくもっているからである──ところが、現実の報酬は、それが現実のものであるかぎり、余分であるか、でなければ不足である。したがって無制限の努力にエネルギーを供給するのは、たとえばルイ十四世の微笑のような、もっぱら想像上の恩典だけである。(…)
 宗教の場合もある程度まで同じである。ルイ十四世の微笑という報いがないので、われわれにはほほえみかけてくれる神をこしらえるのである。
 さもなければ、さらに自分自身を崇める。価値の等しい報酬が必要なのである。これは重力と同じように避けようがない。
(「真空と埋め合わせ」, 19部分、太字部は本文傍点)

 死んだオレステースのために嘆くエーレクトラー。もし人が神が存在しないと考えながらも神を愛するならば、神はその存在を顕示するであろう
(「執着から抜け出すこと」, 16)

 エーレクトラーは、権力者たる父の娘であるが、奴隷の境涯に陥り、自分の弟にしか希望をつないでいなかったが、ある青年がこの弟の死を告げ知らせた──そして、悲嘆がその極に達したとき、この青年が弟であるとわかった。
 「婦人たちはそれが園丁だと思っていた」〔ヨハネ福音書二〇・一五〕。見知らぬ男のうちに自分の兄弟を認めよう。宇宙のなかに神を認めよう
(「読み」, 2)

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
(「遡創造」, 1部分)

シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵

4つ目は、一つ前の記事でも取り上げた抜粋で、
一つ前の記事を書いている時に、この抜粋について最初はこう書こうとしました。

"神は存在しない"という認識は、神による人間の遡創造の帰結である

こう書いてみて、論理的に考えればこうなるがまさかそんな不敬なことではあるまい、
と思って消してしまったのですが、書き上げて夕食をとってから読書に戻り、
2つ目の抜粋箇所に行き当たって「まさか」と思い驚き、本記事を書いています。

たぶんこの4つの抜粋で、タイトルの意味がわかるはずです。
説明はいらないのかもしれませんが、とりあえずなにか書いてみます。


脳=意識の特性は「際限がない」ことで、この点において身体と対立します。
今は身体の話はしませんが、この脳の際限のなさは脳にとっての「自然」で、
物欲=身の丈の必要に限界があってそれが満たされても経済が発展し続けるのは、
経済がもはやマネーゲームと化しているからで、しかしこれも脳には「自然」です。

脳が欲する想像上の報酬は無制限で、しかしそれを受け入れるシステムが宗教にはある、
別に宗教にだけあるのではないが、というのが一つ目の抜粋。
想像上の報酬を神から授かる場合、その神は想像上の存在であり、つまり存在しない。
神が存在してしまうと、その報酬は現実のものとなり、過不足が生じる。

神が存在しないがゆえに、神から無制限の報酬を授かることができる

では「存在しない神」をどうやって愛することができるのか?
その方法は本書に(ストイックなことが)たくさん書かれていて、
3つ目の抜粋に書かれているのは「その結果の一例」です。
僕はこの断章を咀嚼しながら、アニミズムとの類似性を考えていました。

僕の認識ですが、「八百万(やおよろず)の神」という思想は物神崇拝の一種で、
これは石ころや草木や、あらゆるものに神が「宿る」と考える。
石ころが神様それ自体なのではなく、神の媒質として、いくらかの神性を帯びている。
媒介者は現実に存在し、しかし本体はたぶん想像上の存在であり、つまり存在しない。

アニミズムにおいて「存在しない神」を愛する方法は、ただ一つ、
媒介者を「媒介者として」愛する
これは、物への執着を薄めてくれます。
大切に扱ういたわりも、役目を終えての供養も、執着に基づくものではない。

アニミズムは脳の「自然」を自然界に馴染ませる、知恵のあるシステムだと思います。

遡創造と不確定性原理

『根をもつこと』を返却した日に、もともと書架の傍に並んでいた、
重力と恩寵』を借りました。

重力と恩寵

重力と恩寵

断章の形式で書かれていて、
一つひとつは短く、一息で読めますが、難しい。
使われる言葉は難しくないが、
断章にはその短さとは比較に絶する意味を含む重さがある。

何度も読み返しながら、立ち止まって考えるよりは、
なにか共鳴すると思われる断章をリンクさせることで、
理解が進むような手応えを感じています。

 愛する人が私の期待を裏切る。私は彼に手紙を書いた。私が彼にかわって心のなかで考えたとおりのことを、彼が返事してよこさないはずはない。
 人びとがわれわれに負うもの、それはその人びとが与えてくれるだろうとわれわれが想像しているものにほかならない。彼らにこの負債を免除してやろう。
 彼らがわれわれの想像の創りなしたものではないことを認めること、それは神の行為としての放棄を模倣することになる。
 私もまた、自分がそうであると想像しているものとは異なる。そのことを知ること、それがゆるすことである

「真空と埋め合わせ」p.23 (シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』渡辺義愛訳、春秋社、2009、[135.5/べ])

引用太字部「神の行為としての放棄」には註があり、「遡創造」の章を参照とあります。
この遡創造(原語は"decreation"でシモーヌ氏の造語)という言葉に惹かれたのですが、
当の章をあたってみると、とても難しい。
上述の通り、リンクする断章をいくつか探してみました。
各断章末の数字は、「遡創造」の章(p.60-74)のいくつ目かを指します。

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
 破壊。ある創られたものを、虚無のなかに移り行かせること。遡創造の不届きな代用品(エルザッツ)。[1]

 創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する神の愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、われわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。[2,部分]

 放棄。創造における神の放棄に倣うこと。神は──ある意味で──すべてであることを放棄する。われわれはなにものかであることを放棄しなければならない。それだけがわれわれにできる唯一の善である。
 われわれは底のない樽である。底があることを理解しないでいるかぎりは。[6]

 われわれは自分が放棄するものしか所有しない。放棄しないものは手から逸れていく。この意味で、神の手を経ずになにかを所有することはできない。[9]

 神の現存。それは二通りに理解される。神は創造者である。それゆえ存在するすべてのもののなかに神は現存する──それらのものが存在するからには。一方、神が創られたものの協力を必要とする現存がある。それは創造者としてではなく、霊としての神の現存である。第一の現存は、創造の現存である。第二の現存は遡創造の現存である(われわれの助けなしにわれわれを創ったおかたは、われわれの同意なしにわれわれを救うことはないであろう アウグスティヌス)。[26]

 放棄することによる所有([6,9])。
 余談ですが、このことは一つ前の記事の非所有を連想させますが、
 たぶん「現実の非所有」ではなく「非現実の非所有」のほうです。

書こうと思ったことは、この章からの引用の一つ前、
最初の引用下線部を読んでいて思ったことについてです。

この下線部は、相手の存在をまずは留保なしに認めること、
価値観の違いがあってもそれは意味付ける以前に存在であること、
といった道徳的な内容に読めますが、たぶん、
その強度を「神の行為の模倣」によって担保すること、
その行為が「放棄」であることへの興味が、
「遡創造」の章を詳細に読ませたのだと思います。 

 × × ×

一つ目の引用下線部を読んで、僕はふと、
ハイゼンベルク不確定性原理」を連想しました。
前にちょっと触れたハイゼンベルクの自伝『部分と全体』をいま併読していて、
ちょうど昨日、この原理が生まれた時の出来事が書かれた部分を読みました。

確かにわれわれは、いつでも霜箱の中における電子の軌道は観測することができる、と軽々しく言ってきた。しかしひょっとすると、人が本当に観測するものはもっとわずかなことであるのかも知れない。(…)だから正しい設問は次のようなものに違いない。量子力学において次のような状態を表現することができるか? その状態では、一つの電子が、ある程度の不正確さでもって、ある一つの与えられた場所に存在し、また同時に、再びある程度の不正確さでもって、前もって与えられた速度の値を持ち、そしてこの不正確さの程度を、実験との間に困難をきたさないように、できるだけ小さくすることができるか? と。そのような状態を、数学的に表現することができて、そして不正確さについては、後に量子力学の不確定性関係と名づけられた、あの関係が成り立つことを研究所へ帰ってからのちょっとした計算が証明したのであった。場所と運動量(…)との不確定さの積は、プランクの作用量子より小さくはなり得ない。これでもって霜箱の中における観測と量子力学の数学との間の結びつきが遂に整えられた、と私には思えた。

「新世界への出発」p.127 (W.ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房、1999、[289.3/ハ])

量子力学は大学で習いましたがその記憶はなく、
(ただ本書のような専門的記述の多い自伝を抵抗なく読める*1のは講義のおかげでしょう)
不確定性原理について覚えていることは、
観測する行為そのことが測定系に影響を与える」ということ。
顕微鏡でなにかを見る時に、電子線なりガンマ線なりを照射しますが、
測定対象がどんどん小さくなる(=解像度が高くなる)と、
その照射による測定対象の状態変化が観測結果に現れてくる。

この自伝には、科学研究と政治や歴史、宗教との関係の対話があり、
その中に「科学の進歩が宗教や哲学に新たな認識をもたらす」といった言葉がありました。
量子力学という学問の発展がまさにその一例で、
直観で理解できるニュートンの物理学から量子力学へは、
認識における大きな飛躍があります。
ただこの「新たな認識」とは、
科学が宗教や哲学に先んずるという意味ではなく、
科学が宗教の力を弱める(あるいは宗教に別の役割を与える)、
宗教や哲学が古くからもっていた思想に科学が後ろ盾を与える、
などの様々な影響のことをさします。

今書いた「後ろ盾を与える」が、
不確定性原理の遡創造に対する関係かもしれない、
という思考の端緒が、
後者から前者への連想に含まれていたかもしれない、
という思いがここまで書いてきた動機の一つですが…

宗教における言葉と科学における言葉とで、
同じ言葉(たとえば「存在」)でも指す意味が異なる、
ということについてのハイゼンベルクとボーアの対話が、
自伝の中に収録されています。
宗教の言葉は価値を表す一方、科学の言葉は事実を表す、
そうきっぱり割り切れればよいが(プランクはそういう人だったらしい)、
宗教の言葉が事実をも表していたとされる過去の宗教が、
その形を変えずに残っていることは科学の言葉によって力を削がれることと相関する。
そして宗教の「社会統治システム」の側面に長い歴史がある、
あるいは人間社会の本質が含まれている以上、
その側面において科学が宗教になることも避けられない。
(自伝には科学信奉者ディラックをパウリが警句的に茶化して諌める場面が出てきます)

何を書こうとしたのか、
もう書きたいことを書いたのか、
よくわからなくなりました。

この自伝は専門的な記述も多いですが、
量子力学という一つの学問分野の発展の中での、
非常に人間的な過程(内容の多くを研究者たちの対話や討論が占めます)を通じて、
科学の「プラクティカルでない側面」について多くを知ることができます。
この側面の認識は、日本で漠然と生活する限り、決して得られないと思います。

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

*1:専門用語に見覚えがあること、登場人物に馴染みがあること、など。本書には、定理や公式にその名が冠された人びと、たとえばパウリ、ボーア、プランクアインシュタインディラックなど数多く登場し、彼らがそれぞれ、彼ら自身の言葉で語ります。もちろんハイゼンベルクの頭の中で、ということですが。

非現実の非所有

これほどの長編(全6巻)を本腰を入れて読むのは始めてですが、
同じテーマが繰り返し現れる時に、
「それが長編であること」の効果を感じています。

一つ目の引用の章タイトルがないのは本を返却していて手元にないからで、
ではなぜ引用ができるのかといえば、気になった部分を複写にとっていたからです。
引用を二つ並べたことの意味はたいしてなく、
継続的に読み続け、一つ目を目にし、読み続け、二つ目を目にしたときに、
思いついたことがあり、その内容が本記事の本題ですが、
二つ目を読んだ時に一つ目の状景が思い浮かんだのでした。

因みに一つ目の太字部は『ああでもなくこうでもなく』(橋本治)に同じテーマが出てきたので、
また気が向くか、何かべつのものとリンクするか、妙に思い出した時に触れようと思います。
 ということもありますが、本記事を書いてから読み返して思いついたのは、
 ハシモト氏の広告時評連載*1は「日本で起こった事件に精神を与える」ものだ、と。

また二つ目の太字部「等々」は、「滔々」でもあって、
本文中ではここの説明部に「一瀉千里」というすごい四字熟語があてられていました。

これは、次のように要約できると、ウルリヒは主張した。われわれ人間は、何が起きるかはあまり問題にせず、誰に何処で何時そのことが起きるかを問題にしすぎる。そのため、事件の精神ではなくて事件の粗筋が、新しい生活内容の開発ではなくて既存のものの割り振りがわれわれには重要事で、それはちょうど、本当に優れた戯曲とただ成功しただけの戯曲との相違に相当する。しかしわれわれは、これから引き出される結論とはまったく反対のことをしなければならない。まず第一に、経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度を捨てなければならず、したがって、経験を、個人的で具体的なものよりも一般的で抽象的なものとみなすか、あるいは、経験がまるで絵とか歌になってしまっているかのように、個人的には経験をまったく自由なものとみなすようにしなければならない。経験を自分の方に向けてはならず、それを上方あるいは外へ向けなければならない。そしてこれでも個人的だとみなされるなら、さらに何かを集団的にしなければならない。この何かについてはウルリヒにもうまくいえなかったが、それは、葡萄搾りと葡萄酒の貯蔵と関係があり、彼はそれを精神の濃縮と名づけて、もしこれがなければ、もちろん個人は自分のことをただ無力な存在と感じて、好きなように振舞うだけだと考えるにちがいない、といった。

「第84章 ***」p.142 (『ムージル著作集 特性のない男Ⅱ』加藤二郎訳、松籟社

「そら、いつかあなた[=ウルリヒ]はいったじゃない──あたしたちの暮らしている状態には、割れ目があって、いわばそこから考えられないような状態が、こちらをのぞいているんだって。(…)それであなたは、人は怠惰と習慣のために、この穴の方に目を向けないか、それとも悪いことをいろいろやって、それから気をそらせているんだといったのよ。さあ、これからの話は簡単よ。この穴を通って、人は抜け出さなければいけない! そしてあたし[=クラリセ]にはそれができるのよ!(…)でも、あんたには、みんなわかっているわね! だって、現実には考えられない状態がある、そして人は自分の体験を自分の方に向けたり、それを個人的な現実的なものとみなしてはならず、それを、歌われたり描かれたりしたものと同様に、外へ向けなくてはいけない等々と、あなたが話したとき、あなたはそういうことを考えていたのですものね。あたしには、あなたのいったことを全部、そっくりそのまま繰り返すことだってできるのよ!」

「第123章 反転」p.188-189 (『特性のない男Ⅲ』)

下線部を読んだ時に、脳と身体のことを考えました。
そして現実と所有の、いくつかの関係を考えました。

現実とは、身体性とアフォーダンスに規定される有形のものです。
非現実は、ここでは簡単に精神とします。
所有とは、なにかを個人が私有することです。
非所有は、所有以外の所属形式を指します。
 非所有は共有も、放棄も、昇華も含みます。
 別の問題意識ですが、クラウドストレージは非所有ではない気がしています。


引用の下線部中のウルリヒの提案は、「非現実の非所有」のことをいっています。
 体験は、それそのものを現実と呼ぶのかもしれませんが、
 体験を「扱う」段になると、それは精神の側に属するものになります。
こう考えたとき、これに"対応"するものとして「現実の所有」があると思い、
僕自身の関心に即した表現になおせば、これは「身の丈の生活」です

引用下線部の前段(「経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度」)は、
上記にたいして「非現実の所有」をさします。
そしてこれも上記と同じく"対応"を考えると、それは「現実の非所有」になります。

これら「非現実の所有」と「現実の非所有」は、
後者がどういう状態をさすのかイメージが湧きません(あるいは忘れました)が、
どちらも「際限がない」という性質をもちます。
あるいは、両者が「お互いの際限のなさを昂進してゆく関係」にある。

こう言い換えたのは、「現実の所有」と「非現実の非所有」の関係においては、
「非現実の非所有」自体が際限のなさを二乗した性質であるにもかかわらず、
それを「現実の所有」が(適切に機能すれば)有限の枠に納められるからです。


上の説明のなかの"対応"は、この表現の説明は今思いつきませんが、
「脳と身体の対応」という言い方をするならば、これと同じような意味だと思います。

 × × ×

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

*1:この連載が本になっている、いまはないマドラ出版が発行の(つまり絶版の)『ああでもなくこうでもなく』シリーズは全6巻で、そのインデックス版が集英社から1冊でています。

退廃から遠く離れて ─ 『根をもつこと』を読んで

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を、いちおう読了しました。
時間切れという面もありますが(おそらく日が変わりたての今日が返却日)、
読みたいと思った部分である第一部と第三部はひととおり読みました。

根をもつこと

根をもつこと

抜粋が多くなりますが、時々コメントを入れながら以下に抜粋します。
理解が及ばない文章が多いものの、今の自分に重要だとは分かって、
そのままの文章で記憶にとどめて、後になにか形をなすことを待ちます。

本書を読む間は坂本龍一のピアノ「戦場のメリークリスマス」を頭の中で流していました。
なんとなくの選曲だったのですが、読むうちに本書が、
第二次大戦中にフランスがドイツに占領されていたおり、
シモーヌ氏が亡命中のニューヨークからロンドンへ行ってレジスタンスに参加し、
戦中の戦意発揚と戦後フランスの思想的復興のために書いた文章だと知りました。

なんとなく、クリスマス。

↑関係ないです。

 × × ×

 魂の第一の要求、その永遠の運命にもっとも密接な関係にある要求は秩序である。すなわち、なんびとも、ある厳正なる義務を遂行するために他の厳正なる義務を侵害することを迫られないような、社会的諸関係の織り目である。

 最後に、さまざまな義務の感情は、かならず、唯一にして不動なる善への渇望から、すなわち揺籃より墓場まで、万人にとってすぐそれ自体として確認される善への渇望から生じる。この渇望がわれわれの奥底でたえず活動しているために、義務が両立しえないような情況に忍従することはできない。われわれは、あるいは義務が存在することを忘れるために虚言に援けを求め、あるいは義務の存在から脱れようとして盲滅法にもがくのである。

 もし、真の人間的秩序への想念をたえず脳裏にとどめ、そのときに直面すれば、全面的な犠牲行為をも厭うべきでない対象としてこの秩序を考えるならば、われわれは、導き手もなく闇のなかを歩みつつ、しかも、おのれがたどろうと欲する方向をたえず想いめぐらす人間の境位に立つことになる。こうした旅人には、大いなる希望がある

 要求を欲望や気まぐれや悪徳と分かち、糧を珍味や毒と分かつ第一の特徴は、要求がそれに対応する糧と同様に限界を有するということである。吝嗇漢はいくら金貨を所有してもこれでよいということがない。しかしながら、ひとはだれでも、好きなだけパンを与えられた場合、もうけっこうだと言う瞬間がくる。糧は満腹感をもたらす。魂の糧についても同様である

「"秩序" 第一部 魂の要求するもの」p.30,31,32

環境問題は、事実であり、現代社会の秩序に対する破壊的な事実なのだと思います。
知った以上、背負い続けねばならず、さもないと退廃に陥る。

「旅人」という表現がいい、そして意外に思えた「希望」という言葉。
これは恐らくあとで抜粋する「純粋な善の追求」に対してだと思います。

そして、身の丈感覚。

 人間の魂に欠くべからざる糧は自由である。語の具体的な意味における自由は、選択の可能性に存する。もちろん、ここでいう可能性とは、実際的な可能性である。共同生活があるところではどこでも、共同の利益のために課せられる規律が選択を制限することは避けられない。

 規律は、十分に合理的かつ単純なものであって、そのようにのぞみ、また中程度の注意力をそなえた人間ならだれでも、それらの規律に対応する利益と、それらの規律を課した事実上の必要とを理解できるといったものでなければならない。また規律は、外国のものとか、敵のものとかみなされない権威、それに服する人間たちのものとして愛される権威から発する規律でなければならない。さらに十分に安定し、十分に数少なく、十分に一般的であって、思考はそれらを決定的なかたちで自己に同化し、なにか決心しようとするたびごとにそれらと衝突することがないといった規律でなければならない。

「"自由" 同上」p.33-34

たぶんここでは明文化された規律のことをいっていて、それとは違う話になりますが、
この「規律」は、自分が見出していかねばならないものだと思います。
少なくとも僕にとってですが、これは前に書いたこと↓と深く関係しそうです。
そして見出すとは、創るのではなく、過去を照らした結果でのことです。
cheechoff.hatenadiary.jp
抜粋に共同生活で課せられる規律とある通り、これは本来集団で共有されるべきものです。
だから、見出して「自己に同化」させることは、「スタート」だということになります。

 服従は人間の魂の生命的な要求の一つである。服従はつぎの二種類に分かたれる。すなわち、既成の規律にたいする服従と、首長とみなされた人間への服従である。服従の前提になるのは、受けた個々の命令にたいする同意ではなく、万一の場合にには良心の要請に従うという唯一の留保条件のもとに、決定的なかたちで与えられる同意である。懲罰にたいする恐怖、ないしは報酬の誘惑ではなく、この同意こそ、事実上、服従の主要なる原動力をなすものであり、服従には隷属のかけらすらないということが、一般に、とりわけ首長たちによってぜひ認められなければならない。

「"服従" 同上」p.35

この「唯一の留保条件」が有効でない関係においては、知的退廃が生まれる。

 労働者の文化に対する第二の障害は、労働者という境遇には、他のすべての境遇と同様、それに対応する固有の感受性の傾向があるということである。したがって、他人によって他人のためにつくられたもののなかには、すべてなにかしら異質のものが存在することになる。
 これにたいする解決策は、翻案への努力である。つまり、大衆化への努力ではなく翻案への努力である。この両者はまったく別種のものである。(…)
 真理を置換する技術は、もっとも基本的な、しかももっとも知られていない技術の一つである。この技術が困難とされるのは、それを実践するにあたって、当人がすでに真理の中核に身を置いた経験がある、すなわち、偶然にその真理が開示された特殊な形式を越えて、赤裸々なかたちでそれを所有した経験があることが必要だからである。
 かつまた、置換は、それが真理か否かを識別する公準の一つである。置換されえないものは真理ではない。同様に、視点にしたがって外観を変えないものは実物の対象ではなく、実物のように描かれた絵にすぎない。思惟のなかにもまた三次元の空間がある。

「"労働者の根こぎ" 第二部 根こぎ」p.101-102

真理は、それと向き合う人の価値観や文化的背景に応じて、その表現を変える。
これは当り前のようにも聞こえるし、ありえないようにも思える。
「翻訳の不可能性」が言われる諸言語のレベルではない、ということは言えると思います。

 吝嗇漢は、金を蒐めはじめた当初において、吝嗇漢ではない。おそらく彼はまず、金で手に入れることのできる愉楽の想念に動かされているのだ。だが毎日負わされる努力と禁欲とが誘引力を生み出す。犠牲が当初の衝動をはるかに乗り越えてしまうと、犠牲の対象である財宝が、彼にとってそれ自体目的となってしまう。そして彼という人間をこの目的に従属させてしまう。蒐集狂もまた、同種のメカニスムのうえに成り立つ。(…)
 このメカニスムはつぎのような構造をもつ。すなわち、一つの行動は、まがりなりにも、まずその外的動機によって推進されたあと、それ自体が執着の対象となる。その結果、行動がそれ自体よいか悪いかにしたがって善か悪かが生じてくる
 フランスへの奉仕のためにドイツ兵を殺し、そのしばらくあと、人間を虐殺することに喜びを感じるようになるとすれば、それが悪であることは明らかである。
 フランスへの奉仕のために、ドイツへの強制移送から逃れようとする労働者を援け、そのしばらくあと、不幸な人間たちを救うことに歓びを感じるようになるとすれば、それが善であることは明らかである。
 あらゆる場合がこれほど明らかであるというわけではない。だが、あらゆる場合をこの方法で検討することが許されよう。
 とにかくすべてが同一条件なら、それ自体としていつでもそのなかに善への誘引力を含んでいる行動様式のほうを選ぶべきである。すべてが同一条件でないときでも、たいていはそうしなければならない。善のためにそうしなければならないというだけではなく(これは充足理由である)、さらにまた有利さのゆえからもそうしなければならない
 悪は、善よりもはるか容易に、効果的な原動力となる。しかし純粋な善がある魂の内部で効果的な原動力になると、涸れることも変わることもない推進力の泉となる。このことは、悪の場合にはけっしてみられない

「第三部 根をもつこと」p.282,284

この「純粋な善」についての文章は、そのまま吸収しておきます。
序盤で触れましたが、この一文をさして「希望がある」と書いたのではと思いました。

 その天分がきわめて純粋で、はっきりと、聖人のうちでもっとも完全な人たち特有の偉大さにきわめて近いといえるほどの天才たちが存在する以上、なにゆえその他の天才を讃美して時を浪費することがあろう? その他の天才たちを利用し、彼らから知識と愉楽とを汲み取ることはできる。だが、なにゆえ彼らを愛することがあろう? なにゆえ善以外のものに心をゆだねることがあろう?
 (…)
 散文の分野では、おそらくラブレーのなかに神秘的な純粋さが存在する。とにかく彼においては、いっさいが神秘的なのだ。

同上 p.312,313

美術や文学の分野でももっと多くの人が挙げられていますが、
なぜか気になったのでこのラブレーという人だけメモしておくことにしました。
たぶんどこかで名前を聞いた(読んだ)ことはあるんですが、覚えていません。
そういえばシモーヌ氏にも同じ感覚を抱いていましたが、
ブログ内で検索してみつけた記事によれば、『困難な自由』(レヴィナス)でした。

 かさねて言っておくが、糺弾することが正当とされるのは、見棄てられ、あわれな姿で放浪していた、かの飢えた魂の青年ではなく、彼に虚言を与え、それを食べさせた人びとなのである。彼に虚言を与え、それを食べさせたのは、われわれより年長の人たちであるが、われわれもまた彼らに似ているのである。
 現代の破局においては、死刑執行人もその犠牲者たちも、なによりもまず、われわれがその深淵に横たわっている怖ろしい悲惨についての証言を、意識せずしてともにもたらしているのだ。
 犯罪者を懲罰する権利を獲得するためには、彼らとおなじ罪がわれわれ自身の魂のなかに種々変装してひそんでいる以上、まずもってそれらの罪からおのれを浄めなくてはなるまい。だが、この努力を首尾よくおこない、ひとたびそれがなし遂げられるや、われわれはもはや懲罰にたいするいかなる欲望も有しなくなるであろう。たとえ懲罰をおこなわざるをえないと信じたとしても、最小限にとどめ、それをおこなうに際しては、極度の苦痛を受けることになろう

同上 p.318

抜粋中の「青年」=「死刑執行人」は、ヒトラーのことです。

 ある瞬間にブラジルの首府がどこかを知らなかったのに、つぎの瞬間にそれを学んだとするなら、彼は一つ余計に知識を得たことになる。だが、なんら以前より真理に近づいたわけではない。知識の獲得は、ある場合にはひとを真理に近づかせる。だがある場合には近づかせてくれない。それぞれの場合をどのように識別したらよいのか?
 ある男がひとりの女性を愛し、その女性の全幅の信頼を寄せていたのに、たまたま彼女の不倫の現場をとらえたとするなら、彼は残酷なかたちで真理を接触したことになる。だが彼と面識がなく、はじめて名前を耳にした女性が、それにおとらず彼と面識のない都市のなかで夫を裏切ったことを知ったとしても、真理と彼との関係にはなんらの変更も生じない。
 この例は問題を解く鍵を与えてくれる。知識の獲得がひとを真理に近づけるのは、ひとが愛しているものにかんする知識が問題とされる場合だけであって、他のいかなる場合でもない
 真理への愛というのは適切な表現ではない。真理は愛の対象ではない。真理は対象ではないのだ。ひとが愛するのは、存在するあるもの、ひとが思考するあるもの、その思考を通じて真理か誤謬かの契機となりうるあるものである。一つの真理とはかならず、あるものにかんする真理である。真理自体は実在そのものの輝きである。愛の対象は、真理自体ではなく実在である。真理を欲するとは、実在との直接的接触を欲することである。実在との接触を欲するとは、それを愛することである。ひとが真理を欲するのは、真理において愛するためである

同上 p.333-334

蒙を啓かれる一節です。
この一節を頭の中で回していると、言葉が溢れ出てきそうな予感があります。

 人間というものは、おのれが他人に蒙らせることをごく当然と考える不幸でも、おなじ不幸を相手がおのれに蒙らせうるとは想像しない。ところが実際にそういう結果になり、みずからその恐怖の渦中に置かれると、その不幸をごく当然と思うようになる。彼らの心情がおなじ取扱いを他人に蒙らせることを嫌わなかったために、おのれの心情の奥底に、その取扱いに対する怒りや抵抗を生み出す力の源泉を見出すことができないのだ。すくなくとも、たとえ想像力によってさえ、もはや外側からは支えになってくれるものがなにもなく、心情の内奥にしか力の源泉を見出しえない破目になった場合はそうである。いわんや、過去の犯罪がそれらの源泉を破壊してしまっているならば、弱さだけがすべてであって、いかなる度合の恥辱でも受け入れてしまうのだ。この人間の心情のメカニスムのうえに、『黙示録』のなかでつぎの文章が表現している相互性の法則が成り立っている。「ひとが相手を奴隷状態のなかに引きずり込むならば、彼もまた奴隷状態のなかに引きずり込まれるであろう」〔黙示録一三・一〇〕。

同上 p.358-359

後半が何を言っているのかよくわからないのでまた読み直すとして…

「実際にそういう結果になり」とありますが、自覚があれば、
そういう結果になる前から「その不幸をごく当然と思うようになる」。
僕はこういう経験があり、自覚がありながらそれをそのままにし、
そうして自分自身の退廃を見て見ぬふりしていたことがありました。
一度知ったことは、なかったことにできない。
そう思いながら、この退廃が自分の現状を維持していることも知っている。

あんな状況にはもう二度と陥りたくはなく、この思いが、
理想の行動より理想の状態を志向する今につながっているのではないかなと、
前に働いていたある時期を思い出しながらふと考えました。

 人間が、神のわざであると考える特別な計画は、すべて、因果的結合の無限といってもまだ足りない複雑さから切り取った断片にすぎない。われわれは持続のなかで、ある種の出来事を、それから生まれる諸結果のうち、幾千もの数あるなかから選ばれたある種の結果に結びつけることによって、かかる切り取りをおこなう。それら切り取られた断片について、それが神の意志に適合していると言うだけなら、われわれは正しい。しかしそれは、あらゆる種類の人間の精神、あるいは人間ならざるものの精神が、いかなる大きさの段階にあるかを問わず、空間と時間とのなかで、宇宙の複雑さから切り取ったいっさいの断片と、ただ一つの例外もなく、おなじ程度において真実であるにすぎない

同上 p.369

これは一つ前の記事の「本題」なんですが…気が向けば別記事にまた書きます。

 虹にかんする伝承は、あきらかにモーゼがエジプト人から借用したものであるが、世界の秩序が人間に与えるはずの希望を、もっとも感動的なかたちで表現している。
 「神は言われた。……私が雲を地のうえに起こすとき、虹は雲のなかに現れる。こうして私は、私とあなたがた、およびすべて肉なるあらゆる生き物とのあいだに立てた契約を思い起こすがゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。」〔創世記、九・一四─一五〕
 虹の描く美しい半円は、この地上の現象がいかに怖ろしいものであれ、それらすべてが一つの制御に服しているという証言なのである。この行文のすばらしい詩情は、神にたいして、制限する原理としての彼の役割を思い出させることをねがっているのだ。
 「あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、ふたたび地を覆うことのないようにされた。」〔詩篇、一〇四・九〕

同上 p.374-375

とりあえず一つ言いたいこととして、
「虹が制限を表現する」という発想に「へー!」と思いました。
雲間や森林の光芒は「直進する光の性質」を思い起こさせますが、
そういう自然原理の一例ではなく、「自然原理の統率性」の現れとみるのですね。

虹にはなにかとかきたてられる思いがします。
前に虹について書いたことをリンクしておきましょう。
cheechoff.hatenadiary.jp

 科学的探究における知性の働きは、非物質的な、力ならざる関係の網目として物質を支配する必然を想念のうちにあらわにしてくれる。この必然が完全なかたちで理解されるのは、それらの関係が完全に非物質的なものとしてあらわになったときである。そのときそれらの関係は、力に服しない魂の一点から発する、高度で純粋な精神集中の結果として、想念のうちに現前するようになる。人間の魂のなかで力に服する部分は、必要の支配下にある部分である。それらの関係を非物質的な純粋さにおいて理解するためには、いっさいの必要を忘れなければならない。その境地に達するとき、満足が必要にたいして与えられたり拒否されたりする力のからくりが理解できるようになるのだ。(…)
 自己自身の思惟、自己の個人的な思惟に魂が満たされているのを黙認するかぎり、その人間は、おのれの思惟の一番深奥のところまで、完全に必要の拘束と力のメカニックな働きとに服している。そうではないと信じるなら、彼は誤謬に陥っているのだ。しかし真の精神集中によって魂を空虚ならしめ、そこに永遠の英知への想念を流入させるならば、すべては変わってくる。そのとき彼は、自己のなかに力をも服従させる思惟を宿すことになるのだ

同上 p.378

全体的になにが言われているのかがよくわかりません。
が、下線部、とくに太字部はなんとか理解したい思いがあります。
というわけでここも、そのままのみこんでおきます。

いや、少しだけ考えてみますが、
「満足が必要に与えられる」は単純に"必要を満たすこと"で、いっぽうの
「満足が必要に拒否される」とはなにか?
必要を満たしても満足しない、ということ?
 それは「必要」なのか?
 肉体的な満足では精神は満たされない?
満足を伴わない必要がある、ということかな(あれ、同じ?)。
んー、有限的満足と無限的満足(矛盾語だな)があるということかな。
よくわかりません。



長かった…一記事では過去最長かもしれません。
なにかのきっかけでシモーヌ氏を思い出したり連想した時に、
本記事を読み返すようにしようと思います。
きっかけがないと、読み返すにも苦労する量と重さですからね。

零の禅、思惟の啓蒙、メカニスムの持続

森博嗣のVoid Shaperシリーズはいま二作目を読んでいます。
(タイトルの"blood"、"scooper"に、装幀が"bamboo"です)

主人公がゼンという侍で、スズカ・カシュウという師に山で育てられたが、
師が死に、その遺言に従って山を下りるところから(シリーズの)物語が始まります。

人物名がみなカタカナで、でも日本名なので漢字を想像させるのですが、
カシュウは「夏秋」、カシュウの旧友で住職のカガンは「彼岸」かなと、
真賀田四季からの連想で勝手にそう思っています。
(ちなみにスズカはシシオ(=志々雄)の一字ずらしかな、と)
一月前の記事↓のタイトルは(本文に関係しませんが)そういう意味です。
では、二作目で登場した同じく旧友の読書家クローチは? 
…しばらく考えておきます。
cheechoff.hatenadiary.jp

以上は余談で、以下も余談ですが、
ゼンはむしろゼロの方がいいのではと思えて、
というのは山から下りたゼンは世間知を知らずに世を渡り歩いていくのですが、
僕の感じる面白さはゼンが「ゼロから考えていく」ところにあります。

ものを考えたり状況を判断するときに、
人は常識や経験や知識を元手にしますが、
それらが自分の身につき、自分と不可分であるほど、
それらを抜きにして(括弧に入れて)考えるのは難しい。
内田樹氏はこれについて「情報を抜く」という言い方をしています。
 情報を抜く (内田樹の研究室)
原理的思考という言葉がありますが、
「〜原理主義」とは違う、本来のこの言葉の意味に近い。

余分な知識も豊富な経験もなく人と相対すれば、
その人の言葉を、身ぶりも含めてまずは受け入れる。
疑うことを知らないほど子どもというわけでなく、
疑うかどうかを判断するための情報が不足している状態。
論理的思考は師から学んでいて、だからまずは全てを吸収して思考材料とする。

ゼンと知り合うことになった人は彼に「無邪気」と言う、
けれど、だからそれは子どもっぽい=無知であるのではなく、
きちんと思考に基づいた上でそうあるべくしての純真である、
読んでいて清々しくなる理由はこのゼンになれるからかもしれない。

 × × ×

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を読んでいて、
上記の二作目『ブラッド・スクーパ』を連想したのが本記事の動機でした。
なのでいちおう、ここからが本来の本題です。
(上記が若干書評っぽくなったので、寝かせてしばらくあとで書評サイトに投稿しましょう)


シモーヌ女史の本に対する姿勢は前に書いた通りで、
常識と違ったり(これは岡潔氏の本に対してとは違って時代背景の知識が自分にないので
判断できませんが)理解できない文章に出会った時に、それをすっ飛ばすのではなく、
どう解釈すればよいのかと立ち止まって考えることになるのですが、
もちろんもてる知識と思考力に応じて解釈に限界はあって、諦めて進むことになって、
しかしそれが「なぜだかわからないが頭にひっかかる文章」となって蓄積されていく。
前に「渾身系」と表現した人の本にはこういう文章が多々生じる。
これは、本を読む前と後とで変わりたいと思って読む人にとっては喜ばしい現象です。

 当然の結果として、摂理の観念もすっかり姿を変えてしまった。摂理は思考を茫然たらしめるほどの紛れもない不合理である真の信仰の神秘もまた不合理であるが、この不合理のほうは思惟を啓蒙し、知性にとって明白な真理を大量に現出させる。このほかのもろもろの不合理は、おそらく悪魔の神秘に属する。そしてこの両者の神秘は、現在のキリスト教思想のなかに麦と毒麦のように混じり合っている。

「第三部 根をもつこと」p.364-365(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』春秋社)

この抜粋の太字部にとても強い力を感じて、付箋をつけました。
宗教心がなくても宗教に関心をもつ理由はここにあるのでは、と今読み直して思いました。
本題は下線部なんですが、先にこちらに触れておきます。

たとえば内田氏の『私家版ユダヤ文化論』などに書かれたタルムードの話がこれかと思います。
口伝律法であるタルムードの内容解釈が、代々のラビ(偉大な宗教的指導者)によって異なる。
同じ一つの条文から、個々に様々な解釈によって絶えず新たな真理が生まれる。
ここでいう解釈は僕らの日常的なレベルのものではなく、抜粋の「思惟の啓蒙」と対応する。

この「思惟の啓蒙」については、本書にも書かれていると読みました。
次に抜粋する部分は「メカニスム」という言葉の説明に興味を惹かれました。
メカニズムは、保坂和志氏の思考関心の中心でもあります。

 種子にかんするいっさいの譬えは、非人格的摂理の観念に照応している。恩寵は神のところからあらゆる人間に降りそそぐ。恩寵がそれぞれの人間のなかでどんなものになるかは、彼らがいかなる人間であるかに左右される。実際に恩寵が滲透したところでは、それが結ぶ実は、メカニスムに類似した過程の結果である。かつこの過程は、メカニスムとおなじく、持続のなかでおこなわれる。忍耐の美徳、この忍耐というギリシア語〔υυπομονηη〕をもっと正確に翻訳するならば、不動の待機は、この持続の必要性に関連している
(…)
超自然的メカニスムは、すくなくとも物体の落下の法則とおなじように正確である。自然的メカニスムは、価値にたいするいっさいの考慮なしに、事件を事件として生ぜしめる条件である。また超自然的メカニスムは、純粋なる善を純粋なる善として生ぜしめる条件である。(…)
 十字架の聖ヨハネの全作品は、超自然的メカニスムの厳密に科学的な研究にほかならない。プラトンの哲学もまたそれ以外のなにものでもない。

同上 p.345,346,347 抜粋中ギリシア語のアクセント記号は省略

「メカニスムは持続のなかでおこなわれる」。
こう言われて、メカニズムは構造とは違うと気づきます。
機械の機構など、ものの仕組みのことをメカニズムとも構造とも呼びますが、
この使い方においては時間的経過、つまり持続にあまり重きは置かれていません。
内燃機関の動作などは典型的な「反復」動作で、これは「持続」と似ているようで異なる。
保坂氏が小説で書いているのは、人間関係や、人と家の関わりに関するメカニズムで、
家に住んでいた人々の"なにか"がその家に残る(猫はそれに気付いている?)といった現象は、
家族が何十年と住み続け、友人たちも頻繁に出入りするといった「持続」がもたらすものです。

あと、抜粋の「不動の待機」というのがいいなあと思ったんですが、ちょっと話を戻しまして…

上記の「知性の啓蒙」によって現出した「真理」の例を一つだけ抜粋しておきます。
…と言いながら、以下の抜粋で何が言われているのかよくわからないのですが、
「何かが頭にひっかかり」、何度読み返してもその理由がわからないので抜粋するのです。
わかりませんが、「真理」とは格言のようにシンプルに表現できるものでは実はなく、
そこから言葉を引き出さずにはいられないものを指す
、のかもしれません。

 一番遅れてやって来た雇い人の物語のなかには、葡萄畑の主人の側に気まぐれがあるように思われる。だが少し注意してみるならば、事実は逆である。彼はただ一つの賃金しか払わない。ただ一つの賃金しか所有していないからである。彼には小銭がない。聖パウロは賃金を定義して、「私が知られているように、私は知るであろう」〔コリント人への第一の手紙一三・一二〕と言っている。ここには程度の差はない。おなじように、賃金を受ける行為にも程度の差はない。呼ばれたとき、駆けつけるか駆けつけないかである。たとえ一秒たりとこの呼びかけに先んじる能力はだれにもない。やって来た時期など問題ではないのだ。また、葡萄畑における労働の量や質も考慮されないのだ。時間によってではなく、同意したか拒絶したかによって、ひとは、時間から永遠のなかに入ることが許されるか否かなのである

同上 p.347-348

寄り道が長くなってしまいました。
本題だった「摂理の観念」の併読リンクについては記事をあらためます。