human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「意識を伴う生態系」について

調和 、あるいは、
秩序 について。あるいは、
生態系 について。具体的には、
一人の中の生態系 について。

 × × ×

 「下手な本を読むと体を壊す」──このことから敷延[ママ]して、「悪い影響力を批判なしに受け入れていると、いつか"しゃべる"という機能に障害が起こる──体がいやがって、激しくセキ込んで体を二つに折るような状態になる」──このことが私の結論でございますね。つまり五月や六月に私が会った、「やたらとセキが出る」系の人々はみんな、「言いたいことが言えない病」だったというわけです。
(…)
「言いたいことが言えない病」の原因は三つあって、一つは、「自分の言うべきことを保留にしとかなけりゃいけない状態が長く続く」ですね。私はこれでした。もう一つは、「言いたいことはあるが、どう言っていいか分からないから言えない」で、残る一つは、「言いたいことを言い出すだけの根性がない」ですね。後の二つは私には関係ないけど、「世間にある」ということに勝手にしてしまった「言いたいことが言えない病」は、この三つの原因がからみ合って出来てるんだと思います。

「なんだか「あとがき」じみた、この巻の終わり」p.491-492(橋本治『ああでもなく こうでもなく』マドラ出版)

調和とか秩序とかいうキーワードがずっと念頭にあって、
その核はマーク・ストランドの詩のタイトルなんですが、
("Keeping Things Whole"、邦題は「物事を崩さぬために」)
最近読む本はどれもこのことがテーマにあるように思えます。

調和、秩序のスケール(想定される場の大きさ)はいろいろありますが、
ここでは自分、一人の人間をそのフィールドとして考えようとしています。


自分の話ですが、
抜粋書を再読していると「いかに自分が橋本治氏に影響されてきたか」がよくわかり、
「いまの自分はこういう考え方をしているな」という記述の発見がその第一ですが、
勉強になる、こういう考え方もあるのか、と思って読む部分が多々あるなかで、
あらためて感心したその思考内容を探るとそれがもう既に自分の中にあったりする、
ということもあります。

抜粋した中の下線部「言いたいことが言えない病」の原理について、
 この段落に書いてあることはそのまま僕も同じだなと思い、
 自分は「保留にし」たくなくて、自分に「根性が」あったから、
 最近よく書いてる「ある関係」がああいう終わり方をしたんですがそれはさておき、
書きたい衝動に従って書くということもこの原理に従ったもので、
もちろんそこには「書きたいけどまあ今はいいか」と思うことも含まれている。

本は読むために読むが、読み終えるために読むわけではない。
読書の時間を惜しんで書きたい(考えたい)ことを書かないのは、
読む本に期限が切られている(つまり図書館で借りている)ことがその理由で、
社会的にまっとうな考え方ではありますが、
こういうことをしていると、
知らぬうちに「読み終えること」が読むことの目標になっていく。
たとえばそれは、
小説を読み終える時にその終わりを惜しむ感覚を薄めてしまうかもしれない。
(これは今思いついたことで、そう実感したことはまだありませんが)


秩序の話に戻りますが、
書きたいことをすぐ書く、あるいはあとで書こうと保留する、
このどちらもが、それぞれ相応の作用を自分にもたらす、
これらすべてが秩序の中に含まれている、
あるいは秩序の中で起こる(起こっている)こと、
であるとして、
この「秩序」という言葉がやけに静的に響くと思ったとき、
「生態系」という言い換えを思いつきました。

一人の人間の、思考、意識の営みについて考えていて、
その流れに「生態系」という表現をもってくると、
なにやら不思議な感覚におちいります。
自分がしたいからそうする、するとその行動に伴った出力が表れる、
そういった行為や結果が、もとは主体性や予測に基づいていたはずが、
そういうものとは違う、それらを超えたなにかに従っているようである。

「意識を伴う生態系」…。

弱肉強食のピラミッド構造、エコロジカルニッチ、
そういった用語と結びつく本来の生態系と、
「意識の有無」を捨象すれば等しいのではないか、
という妄想が膨らんできました。


そういう目で、以下の「自然の"意外な"一面」を眺めるとき、
(自然に「意外性」があるという、その自然とは?)
「意識を伴う生態系」の秩序(←?)について、
なにかヒントが得られるかもしれません。

これは自分に対するアドバイスですが。

棚は、公園の池の、渡り遅れたオナガガモが、最近他種の鳥と群れをつくっていることを話した。
──混群、というのは面白いですねえ。
──カラ類でも、シジュウカラエナガ、コガラやなんかが群れをつくるし、どうかすると、キツツキの仲間のコゲラなんかもその群れに混じることがあります。同じ大きさということなんだろうけど。この間テレビで見た、アフリカのヌーの群れの中にも、シマウマやトムソンガゼルなんかが結構混じっているんです。自分たちが偶蹄目であるって、知ってるわけでもないでしょうに。
──なにか、大きな仲間意識があるのかもしれませんね。
──それで、その草原に、寝そべっているライオンの群れもいたんです。ヌーたちも、ライオンたちが今、狩りモードにないってことが分かっているかのようにリラックスしていて、みんな、気持ち良さそうに、草や木の葉をなびかせている同じ風に目を細めているんです。ヌーたちも、ライオンたちも。陽の光で、草もきらきら光って。それを見てると、ライオンすら、ヌーの群れの一部みたいに思えてきました。

梨木香歩『ピスタチオ』