human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

虹を探す話

ときどき、目標を持った方がよいと思いました。
これは読んだ本そのまんまですが。

生活を大切に、着実にと思い、効率や成果主義から距離をおいていますが、ときどき迷走することがある。
こだわりを持たずにいたいと強く思っているうちに、「こだわりを持たないことにこだわりを持つ」状態になるようなものです。
あるいは変化への志向が定常化して一次関数的変化(傾きが一定、まあ不変に近い)に落ち着いてしまうような。
それで気が落ち着くならそれはそれでいいのかもしれませんが、大体は沈みます。
本来思い描いていた「生活の流れ」とは違う、なにかが澱んでいる、一体なにが起こったのか、いつからこうなっているのか?
きっかけが明確にあれば、そのきっかけが過ぎ去れば、影響が落ち着けば元に戻る…という考え方が既に後ろ向きで、おおげさな話ではないけれど「元に戻る」ことはありえない。
だから、流れが澱めば、それは新たな質的変化のチャンスでもある。
つまり今がそのチャンスである。

話を戻しますが…
仕事では当たり前としても、生活においても目標はあった方がいいと思います。
子供のいる家庭を想像すれば早い。
具体的な目標でなくてもよくて(「子供をきちんと育てる」とは、行動としてはとても具体的だけれど、目標としてはとても抽象的で、どれだけ言葉を費やしても表現し切れないし、ましてや数値化できるものではない)、「目標に向かって(着実に)進んでいる」という感覚が持てる程度であればいい
僕は成果主義を生活に持ち込みたくないばかりに目標を立てることを意識の外においていたらしい。

ではその目標をなににしようか、とはすぐには思い浮かばないけれど、大事なこととして、「目標を持つのはときどきでよい」ことがある。
たぶんそれは、仕事も含めた日常の全体において、なにか拠り所がほしいと思った時だ。
仕事と生活のバランスとか、人間関係の偏りとか、いろいろ含んでの調和が乱れて、それを元に戻そうとする外部の力に頼りたい時だ。
受け身でいるとその「調和の乱れ」さえ受け入れようとして、余計に状態がこじれがちになる。
「それでもいい」と頭が思うのは頭の勝手で、身体が「ちょっとやめてんか」と訴えかけてくるなら、頭は素直にそれに従って「能動的に」(とはいっても身体の訴えという入力があるのだが)計画を練る必要がある。
そしてその計画は、主題化されて常に念頭におかれるようなものではなく、日が経てば自然と生活に溶け込むようなものがいい

ちょっと考えてみましょう。

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蟲師 (2)  アフタヌーンKC (284)

蟲師 (2) アフタヌーンKC (284)

ちょっと前の話ですが、中沢新一氏の本を読んでいて『蟲師』(漆原友紀)を連想したことがありました。
漆原氏があとがきか何かで「昔から伝わる民話をもとに描いている(作品もある?)」と書いていたと思うんですが、下の抜粋の下線部はまさに2巻の「あめがふる にじがたつ」ではないかと思いました。
こういう回路でマンガが日常とつながるのは嬉しい経験です。
ちなみに2巻の中では僕も虹郎(こうろう)が好きで、たぶん「世間擦れしたように見えて子供のような純真さを(持て余しながらも)大切にしている」ところが好きなのだと思います。

 そのとき私の心に浮かんだのは、虹のイメージだった。空中にあざやかな綾羅錦繍の色彩の帯を立ち上げる虹こそ、大地の内部に隠されていた「臓物」を、天空高く出来させるものではないだろうか。虹が空にあらわれたことで、人間の世界には病と死がもたらされたと説明する神話もたくさんある。その逆に、虹が出現する場所にたどり着いたものは、とてつもない幸運と富を手に入れることができる、と語る民話もある。いずれにしても、大地の「臓物」が天空に放出されるという出来事は、それまで自然の皮膚の下に閉じ込められていた力が、外にあふれ出てきてしまうことを意味している。たしかに虹と処刑とは、深い共通性をもっている。
「第三章 天皇制との格闘」p.165(中沢新一『僕の叔父さん 網野喜彦』)

この写真は寮のベランダから(出勤前に見つけてあわてて)撮ったものです。
そういえば五年も住んでいて、部屋から虹を見たのはこの一度だけですね。

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