human in book bouquet

図書館司書を念頭に、ボルダリングと読書の生活。

限界芸術と「身の丈、ありもの生活」

『特性のない男』の三冊目を今日読み終えました。
どの巻も最後の章はとくに思索に富んでいるのですが、
三冊目終章の以下の箇所を読んでいて、鶴見俊輔氏の「限界芸術(論)」を連想しました。

「限界」という単語がそうさせたのでしょうが、
この連想における双方の「限界」の使われ方が違っていて、
それが何か思考を生みそうな気がしました。

ああ、それだけではなく、
引用後半の「世俗の人間として」というのもキーワードでした。

ところで、この兄妹の間で進行していることの手がかりをまだつかめていないような人は、この報告をどうか脇に置かれるように。なぜなら、そういう人には、けっして是認してもらえないような冒険が、この報告には書かれるからである。すなわち、不可能なものや自然に反するものの危険、いや嫌悪の念を起こすものの危険に軽く触れながら、いやときにはそれ以上のことをしながらする、可能なものの限界への旅が、ここで記述されるからである。それは、真理に至るために、時折不条理な数値を利用する数学の自由をしのばせる、制限された特殊な妥当性の「限界のケース」(ウルリヒは、それをその後こう呼んだ)のことである。彼とアガーテは、神に陶酔したものの仕業と多くの点で共通性のある道に踏みこんだのだ。しかし彼らは、敬神の念もなく、神も魂も信じることなしに、もちろんまた彼岸や彼岸での再生さえも信じることなしに、この道に入ったのである。彼らは、世俗の人間として、この道に踏み入り、そして世俗の人間として、この道を歩んだ。そしてこれこそが注目に価することだった。

第2巻第3部 第12章「聖なる会話。波乱にとんだ継続」p.313(R.ムージル『特性のない男Ⅲ』松籟社

鶴見氏のいう限界芸術とは「限りなく芸術に近い、生活から生み出されたもの」です。
芸術性を意図せず、ただ生活を営む中で作られたものが、
審美眼に耐え、あるいはとてつもない美しさを獲得する。
たとえば、シンメトリでない和製陶器とか。
具体的なモノであったり、遊びであったり、その対象はいろいろで、
ちくま学芸文庫の『限界芸術論』にたっぷり書かれていますが、
具体的なところは忘れました。
(「遊び」は、歌留多とか、あるいは影踏みのようなものも含んでいたはずですが、
 これは限界芸術の例ではなく別の著作に書かれていたことかもしれません)

限界芸術における「限界」は、境界のような意味を指しています。
つまり、生活と芸術の境目のギリギリのところに限界芸術がある。
対して引用中の「限界」は、極限の意味をもちます。

極限だってある意味で境界ですが、違うところといえば、
極限にはその先、境界の向こうにあるものが分からないことです。
数学でいう極限、高校では数Ⅲで習う無限大(∞)がそのよい例です。

「限界」が境界と極限の2つの意味を持ち、
その2つは厳密には異なりながら共通した概念領域をもち、
だからこそこれらは同じ言葉で表されているわけですが、
このことが意味することもまたある気がしたのでした。

それを概念的に先に言えば「交換可能性」で、
今回の話では、「境界たる限界」は「極限たる境界」でもあるだろう、と。
この可能性は論理の正しさの水準で問題にされることではなく、
つまり言葉の緻密さではなく曖昧さに機能性を見出すことで生じます。


話を戻しますが、
限界芸術は「芸術に限りなく近いもの」で、
生活と芸術の境目、あと一歩で芸術の域に踏み入る創作物、
生活の必要から生じた「創作の意図のない創作物」ですが、
このような表現はそのまま受け取れば、
限界芸術に芸術へのベクトルを感じてしまいます。
芸術性への意図はないが、芸術に近ければ近いほどよい、というような。
(だからここでいう「ベクトル」は志向のことではありません)

上述の「交換可能性」の具体的なところを考えた時に思ったのは、
鶴見氏の表現の意図もたぶんそうだと思いますが、
限界芸術の「芸術への近さ」は「ある美しさを獲得している」ことしか意味せず、
限界芸術とは芸術とは方向性の異なる創作物である
、と。
つまり、共通の基準で限界芸術と芸術を比較することはできない、または意味がない。

芸術は、ある美しさの極限を追求する。
限界芸術は、芸術とは関係なく、また別の美しさの極限を追求する
「美しさの追求」という性質を持つ言葉が「芸術」以外にあれば、
もしかしたら限界芸術は、これとは異なる表現を得ていたかもしれない。

表現のことはつい思いついて書いただけであまり興味ありませんが、
限界芸術が美しさを追求するのはもちろん生活のなかであって、
僕はこの点に興味というか、魅力というか、当事者感覚をもちます。
「身の丈感覚」の「ありもの工夫(ブリコラージュ)*1」の生活
この全く創作と関係のない必要性に応じる生活が、
これを洗練させれば「ある美しさ」を獲得する可能性をここに見出せるからです。


自分の生活のなかでこのことでなにか具体例が出せるかな、と考えて、
上の必要性を必然性(というか「流れでそうなった」)に言い換えてになりますが、
今の生活の中心軸の一つであるボルダリングを思い浮かべました。
登壁にあまり思考を介在させないようにするために、
これまでボルダリングについて言葉にすることは(初期を除けば)控えていましたが、
まあこれもいい機会なのでちょっとやってみようと思います。

記事が長くなったのでこの話は次にしましょう。

 × × ×

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

*1:学術的にはブリコラージュは「器用仕事」ですが、これはカッコに入れて、自分で表現を考えてみました。語呂のよい七字になりました。