human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

人への興味、「突き抜けたニヒリズム」 ─ ある関係の始終についての変転的思考 (1)

 マティは、ぼうっとした顔をして、三本脚の腰掛に座っていた。屠ったばかりのヤギの皮をああいう形に組んだ木の杭に被せておくと椅子になるんだぜ、どんどん固くなっていくんだ、と三原が傍らでどうでもいいようなことを囁いた。そこに座っている人間より、人間を座らせている「もの」、民芸品や生活用品の方が三原の興味のプライオリティの上位を占めるのだろう。いや、自分のそういう部分をわざと強調する、これは彼独特の、露悪的なシニカルさなのかもしれない。

梨木香歩『ピスタチオ』

なぜか、ここを読んだときに、ふと「カウンセラー」という言葉が浮かんできました。
そういえば、高校生の頃に精神科医になりたいと思っていたことがありました。

 司書系の仕事を毎週ハローワークで探していて、
 それと同じ要領で「カウンセラー」をキーワードに仕事を探すと、
 岩手県内で(正社員募集で)70件ほど出てきたのに驚いて、
 (司書系だと正規はほぼゼロ、バイトで5,6件程度)
 資格欄を見て言葉をひろって行くと、
 「精神保健福祉士」「社会保健福祉士」「臨床心理士
 あたりが出てきました。

 そこから資格取得についてちょっと調べると、
 前二者(国家資格)は「大学で通年講義→試験」、
 後者(民間資格)は「指定の大学院卒業→試験」、
 という道筋がありました。

へえ、と思って、
とりあえず前者を養成する大学の募集要項を取り寄せる、
ところまではやってみました。

大学はまあまだ通えるだろう、
という手応えを先の2ヶ月半では得ていて…

 × × ×

「人に興味がある」、
あるいはこれと同じ意味で
「人が好きだ」、
ということを今回の出来事のいちばん最後に実感しました。

 当事者であるとともに、どこか他人事でもある。
 客観的に見られる、という表現はあまり使いたくはなく、
 「自分より大きな"もの"が僕らを見ている」、
 という感覚があったかもしれない、
 「当事者かつ他人事」という自分の状態を成り立たせたもの
 幸福も不幸も、そこにはない。

 責任は「負うもの」だが、
 責任を引き受ける大きさ、広さは、自分の身の丈サイズ。
 それ以上はその「自分より大きなもの」に委ねる。
 僕自身に引き寄せればそれは「流れ」かもしれない。
 良い悪いの判断は、そこにはない。

生きていくのは惰性でもできますが、
生きたいという意志は、
人と「全的に人として」接することで、
湧き上がってくるものだと思いました。

 × × ×

単なる思いつきで、
それが不思議であったから文章にしてみたまでで、
じっさいはほとんど何も考えていません。
関心は気ままの散漫で、
調べた大学の近くのボルダリングジムを探したりしている。

 × × ×

そういえば最近読了した『風の帰る場所』(宮崎駿)に、
突き抜けたニヒリズム」という言葉がありました。

ニヒリズム、あるいは虚無主義という思想が、
それだけでは現実否定的なニュアンスを帯びていて、
別の言葉はないかと探したことが過去にありました。
行雲流水とか、諸行無常とか…
しかしこれらは思想というよりは、
自然、人間を越えたものを指しています。

宮崎氏はこの言葉をたしか堀田善衛氏について使っていて、
この二人と司馬遼太郎氏の鼎談書『時代の風音』は読んだことがあり、
その本(まだ手元に残っている)を読んだ印象を思い起こし、
宮崎氏の映画について語る言葉とその映画を思い浮かべて、
これはいい言葉だと思いました。


『風の帰る場所』はボルダリングジムに近い北上図書館で借り、
その図書館のすぐそばに「日本現代詩歌文学館」というところがあって、
行くとそこでは通年で現代詩の展示会をやっていて、
見学者参加型の作品がひとつありました。

 横一列に狭い間隔で縄がぶら下げられていて、
 隣り合う縄同士が所々で縒り合わされていて、
 食堂によくあるビーズ紐の簾が網の目に絡まったような状態。 
 縄は太いので網の目の隙間はほとんどない。
 見学者は栞状の紙に「ある言葉」を書いて、
 絡まった縄の隙間にはさみ込んでいく。

ある言葉とは、僕の記憶ではたしか
「大切な人へ」「未来(過去)の自分へ」
向けての言葉だと、作品の解説に書いてあったと思います。

僕は栞に、名を記さず、ただ「突き抜けたニヒリズム」とだけ書きました。

 × × ×

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

時代の風音 (朝日文芸文庫)

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