human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '18→'19 2

人はどのように回復していくのか。

この問いを念頭に、訥々と言葉を紡ぎ続けているturumuraさんのブログをずっと読んでいます。
昨日投稿された記事の内容は、普段のように深く考えさせるものでありながら、年の瀬にふさわしいようにも思えました。

以下のいくつかの抜粋は、その記事の中からです。

kurahate22.hatenablog.com

「幸せ」になるために生まれてくるのではないと思う。生まれてきた時点で終わりであって、全ての人は難民としてこの世界にきていると思う。生は無秩序であり、容赦がない。

「容赦がない」、たとえばこのような語りには、容赦がない。
現状把握の、客観あるいは主観の認識の手を緩めない、これはニヒリズムに通じる。

でも僕は、turumuraさんの一貫した姿勢は、つねにその先を目指しているように思え、だからこそ、時に冷徹で無慈悲な表現にも厭世を感じない。

僕が好きな言葉、宮崎駿の「突き抜けたニヒリズム」を、草の根で実践されている。

コントロールする「意思」ではなく、どうしようもなさが生きものの特徴であり、人間の特徴であるのだと思う。人間を意思の主体と考えるか、どうしようもなさを生きるものと考えるかで、そこに生きる人たちのやさしさは随分と変わるだろうなと思う。

”自分のやりたいことが、できない。
お金がないから、家族が邪魔をするから、みんなが自分の価値に、才能に気付かないから。
生まれや境遇や、不運のせいで、今の自分は妥協に甘んじている。
今やっていることは、自分がほんとうにやりたいことではない。”

主観としてありうる認識だし、客観的な分析として根拠を抽出し補強することもできる。
でも、ありうる認識は、ただ一つの認識ではない
当然だ。
それを、他には選択肢がないかのように思い込むのは、「自分にしっくりくる考え方が正しい」と決めつけているから
陰謀史観はそのようにして、根を絶やさず伝達されていく。


でも、冷静に考えてみる。
叶わぬ夢を持つのは勝手だし、現状に不満を持つのも勝手だ。
けれど、そういう満たされない気持ちを抱えることは、同じく選択肢の一つなのだ
僕らが選べるのは、人生の岐路と呼べるような大仰なものだけでもないし、日々の些細な行動が全てでもない。
その行動の一つひとつに、あるいは何もしていない時に、自分が意味づける思考も、選ぶことができる

選択肢があるという意味で、思考は行動と変わらない。
自由度の高さという指標をとれば、この2つは月とスッポンの差だ。
あるいは、子供用の折り畳みプールで水遊びをするのと、大海でイルカと戯れるほどの違いがある*1


つねに本気でトライする。
どんな状況でもベストを尽くす。
それが理想的な生き方とされて、怠惰に生きたり、生産性のない暇潰しで一日を終えるような生活を、努力が足りないなどと中傷する。
それはたしかに一つの見方としてありうる。
ただ、逆に考えることもできる。

僕らがやっていることは、意識的に複数の道筋の中から一つを選ぶ場合も、選択の余地なく行動を強いられる場合も含めて、何かしらの基準で「よかれ」と思ってやっていることだ
選択肢などというものは、自分が立たされた状況を自分が鵜呑みにした段階でリストが固定されるもので、状況を無視すれば、枠を取っ払えば、その場から逃げ出せば、身の回りのすべてを破壊し尽くせば、どうにでもなるものだ。


いじめを苦にする小学生は、クラスから逃げ出す発想を持たない。
親の虐待を耐え忍ぶ子供は、家庭の外へ助けを求める方法を知らない。
良し悪しを別にして、彼らはみな、状況を前提として、その状況の中で最善を尽くしている。
家族を養うために嫌々会社に通う父親だって同じだ。

彼らが選択肢がないことを嘆くのであれば、それは自分自身を嘆いていることになる。
自分で、勝手に、しかも意識せずに、道を一つに絞っているのだから。
選択肢が増えれば、彼らの中には、救われる者も、喜ぶ者もいるだろう。
でも、それに自覚が伴わなければ、救いも、喜びも、彼自身の内に留まる。


自覚は、意識は、思考は、一人の人の内部に滞留すれば消えてしまう儚いものを、普遍化する力がある。
自覚によって、人はいつだって、スタート地点に立つことができる。
命の絶える、直前にだって。
そしてこれは言祝ぐべきことなのだ。

だって、一つのゴールは、その次のスタートのためにあるのだから。

わたしとは、この状況というピンボール台にいれられたピンボールなのだと思う。記憶や認識とは状況であって、わたしではない。

そんな感覚がふつうに感じられるようになることが僕にとっては救いであるように思う。

ついこの間、ある女の子と「自分の中にいる他人」について話をしました。

彼女がいうには、なにか行動に対する判断をしたり、行動している自分をふと客観的に見るような時に、「自分の中の人」にお伺いを立てることがある。
その人は、実在の人でありながら、彼女のその人に対する印象の産物ではなく、主観的には完全に自分とは別の人なのだという。
自分の中に、自分ではない人がいて、その人と会話ができる。
そのことによって、自分の考え方が広がった、前の自分なら凝り固まって結論がパターン化するようなことがなくなったという。

彼女の元々の表現とはだいぶ変わっているようですが、僕はその話を聞いて、「人とのコミュニケーションが生データとして蓄積されている」という表現をしました。
その別の表現、「コミュニケーションの履歴」という言葉が彼女は気に入ったようでしたが、それはさておき、僕にはそのようなことはできない、とその時は返答しました。

他人との会話や、表情の交換、総称してコミュニケーションですが、あるいはその蓄積が印象となった(特定個人に対する)人間関係。
後者ほどデータに手が加えらているんですが、僕の場合は、人とのやりとりはなんらかの操作、加工、分析を通して内に蓄えられていくというイメージを持っています。
「あの人ならこう考えるだろうなあ」という「あの人」は、僕の思考回路、情緒回路で濾過された結果として僕の中に生成されたものです。
当然、それは生データとは言えない。

彼女の中にあるものが「生データ」であること、それが本当かどうかは僕にはもちろん彼女にだってわかりませんが、僕がすごいと思ったのは、それを確固たる主観的な認識として持っていることでした。
そしてどうやらそれは、彼女の「自己と他者の境界が薄い」ことと関係している。
たとえば「ドアの入り口とか机の端とかに、手とか足よくぶつけるねん」とかいうドジっ子発言は、単に微笑ましいことで済ませることもできますが、他と照らし合わせて考えると、それは「自己の境界が身体の末端である手足よりも外側にある」という稀有な人間性の現れを示すものでもある。

自分が手にしているコップも、その下のテーブルも、今喋っている目の前の人も、私の身体の一部である。
彼女がそう意識して行動しているのではなくて、彼女の身体が、それを前提として活動している。
そして彼女は、女性の多くがそうであるように、身体と脳が非常に密接に結びついている。

それがどういうことなのか、今の僕にはわかりません。
そして、とても深い興味があるが、それは分析したい、というものではない。
ただ、彼女の近くにいれば自分は確実に変化できる、そんなニュートラルな予感だけがある


turumuraさんの言葉に続いてこんなことを書いたのは、なにか関係があるという直感が先にあったからです。

自己と他者の境界が薄い。
あるいは、自己が身体の境界を超えて延長している。
それは、自我の肥大であるかもしれないし、自己の希薄化であるかもしれない。
体積の増加に注目すれば前者の、体積増加による密度の低下を仮定すれば後者の認識が得られます。
こんなことは、いや、これだけだと、解釈の違い、言葉遊びに過ぎません。


「わたし」が、当たり前の「わたし」を超え出ていること。
それは、希望の糸口でも、絶望の前兆でもあり得ます*2
そして、そのどちらであれ、ここでは変化の坩堝が口を開け、中では何か得体の知れないものが渦を巻いている。
その渦は、とりもなおさず「流れ」である。
中心へ向かうほど速度を増す、急流あるいは激流の総体。

けれど、

身の丈の感覚を維持する限り、その「流れ」は「よきもの」である。
珍しいことに僕の脳と身体は、この意見で一致を見せているのです。

 × × ×

今年は年の変わり目の初詣は行かないかもしれません(もう数分前ですが)。
紅白見ました、椎名林檎は会場に来ちゃうと本領発揮できませんね。
米津玄師が一昨年の林檎ポジションでした。

皆さま、どうかよいお年を。

chee-choff

*1:これは、ボルダリングの入門書で室内壁と外岩の違いの喩えに使われていた表現です。

*2:権力者は身の丈を超えた思想を持たないと集団を統治できないと同時に、権力の暴走と権力者の身の丈感覚の希薄さは強固な因果で結びついています。