human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

零の禅、思惟の啓蒙、メカニスムの持続

森博嗣のVoid Shaperシリーズはいま二作目を読んでいます。
(タイトルの"blood"、"scooper"に、装幀が"bamboo"です)

主人公がゼンという侍で、スズカ・カシュウという師に山で育てられたが、
師が死に、その遺言に従って山を下りるところから(シリーズの)物語が始まります。

人物名がみなカタカナで、でも日本名なので漢字を想像させるのですが、
カシュウは「夏秋」、カシュウの旧友で住職のカガンは「彼岸」かなと、
真賀田四季からの連想で勝手にそう思っています。
(ちなみにスズカはシシオ(=志々雄)の一字ずらしかな、と)
一月前の記事↓のタイトルは(本文に関係しませんが)そういう意味です。
では、二作目で登場した同じく旧友の読書家クローチは? 
…しばらく考えておきます。
cheechoff.hatenadiary.jp

以上は余談で、以下も余談ですが、
ゼンはむしろゼロの方がいいのではと思えて、
というのは山から下りたゼンは世間知を知らずに世を渡り歩いていくのですが、
僕の感じる面白さはゼンが「ゼロから考えていく」ところにあります。

ものを考えたり状況を判断するときに、
人は常識や経験や知識を元手にしますが、
それらが自分の身につき、自分と不可分であるほど、
それらを抜きにして(括弧に入れて)考えるのは難しい。
内田樹氏はこれについて「情報を抜く」という言い方をしています。
 情報を抜く (内田樹の研究室)
原理的思考という言葉がありますが、
「〜原理主義」とは違う、本来のこの言葉の意味に近い。

余分な知識も豊富な経験もなく人と相対すれば、
その人の言葉を、身ぶりも含めてまずは受け入れる。
疑うことを知らないほど子どもというわけでなく、
疑うかどうかを判断するための情報が不足している状態。
論理的思考は師から学んでいて、だからまずは全てを吸収して思考材料とする。

ゼンと知り合うことになった人は彼に「無邪気」と言う、
けれど、だからそれは子どもっぽい=無知であるのではなく、
きちんと思考に基づいた上でそうあるべくしての純真である、
読んでいて清々しくなる理由はこのゼンになれるからかもしれない。

 × × ×

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を読んでいて、
上記の二作目『ブラッド・スクーパ』を連想したのが本記事の動機でした。
なのでいちおう、ここからが本来の本題です。
(上記が若干書評っぽくなったので、寝かせてしばらくあとで書評サイトに投稿しましょう)


シモーヌ女史の本に対する姿勢は前に書いた通りで、
常識と違ったり(これは岡潔氏の本に対してとは違って時代背景の知識が自分にないので
判断できませんが)理解できない文章に出会った時に、それをすっ飛ばすのではなく、
どう解釈すればよいのかと立ち止まって考えることになるのですが、
もちろんもてる知識と思考力に応じて解釈に限界はあって、諦めて進むことになって、
しかしそれが「なぜだかわからないが頭にひっかかる文章」となって蓄積されていく。
前に「渾身系」と表現した人の本にはこういう文章が多々生じる。
これは、本を読む前と後とで変わりたいと思って読む人にとっては喜ばしい現象です。

 当然の結果として、摂理の観念もすっかり姿を変えてしまった。摂理は思考を茫然たらしめるほどの紛れもない不合理である真の信仰の神秘もまた不合理であるが、この不合理のほうは思惟を啓蒙し、知性にとって明白な真理を大量に現出させる。このほかのもろもろの不合理は、おそらく悪魔の神秘に属する。そしてこの両者の神秘は、現在のキリスト教思想のなかに麦と毒麦のように混じり合っている。

「第三部 根をもつこと」p.364-365(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』春秋社)

この抜粋の太字部にとても強い力を感じて、付箋をつけました。
宗教心がなくても宗教に関心をもつ理由はここにあるのでは、と今読み直して思いました。
本題は下線部なんですが、先にこちらに触れておきます。

たとえば内田氏の『私家版ユダヤ文化論』などに書かれたタルムードの話がこれかと思います。
口伝律法であるタルムードの内容解釈が、代々のラビ(偉大な宗教的指導者)によって異なる。
同じ一つの条文から、個々に様々な解釈によって絶えず新たな真理が生まれる。
ここでいう解釈は僕らの日常的なレベルのものではなく、抜粋の「思惟の啓蒙」と対応する。

この「思惟の啓蒙」については、本書にも書かれていると読みました。
次に抜粋する部分は「メカニスム」という言葉の説明に興味を惹かれました。
メカニズムは、保坂和志氏の思考関心の中心でもあります。

 種子にかんするいっさいの譬えは、非人格的摂理の観念に照応している。恩寵は神のところからあらゆる人間に降りそそぐ。恩寵がそれぞれの人間のなかでどんなものになるかは、彼らがいかなる人間であるかに左右される。実際に恩寵が滲透したところでは、それが結ぶ実は、メカニスムに類似した過程の結果である。かつこの過程は、メカニスムとおなじく、持続のなかでおこなわれる。忍耐の美徳、この忍耐というギリシア語〔υυπομονηη〕をもっと正確に翻訳するならば、不動の待機は、この持続の必要性に関連している
(…)
超自然的メカニスムは、すくなくとも物体の落下の法則とおなじように正確である。自然的メカニスムは、価値にたいするいっさいの考慮なしに、事件を事件として生ぜしめる条件である。また超自然的メカニスムは、純粋なる善を純粋なる善として生ぜしめる条件である。(…)
 十字架の聖ヨハネの全作品は、超自然的メカニスムの厳密に科学的な研究にほかならない。プラトンの哲学もまたそれ以外のなにものでもない。

同上 p.345,346,347 抜粋中ギリシア語のアクセント記号は省略

「メカニスムは持続のなかでおこなわれる」。
こう言われて、メカニズムは構造とは違うと気づきます。
機械の機構など、ものの仕組みのことをメカニズムとも構造とも呼びますが、
この使い方においては時間的経過、つまり持続にあまり重きは置かれていません。
内燃機関の動作などは典型的な「反復」動作で、これは「持続」と似ているようで異なる。
保坂氏が小説で書いているのは、人間関係や、人と家の関わりに関するメカニズムで、
家に住んでいた人々の"なにか"がその家に残る(猫はそれに気付いている?)といった現象は、
家族が何十年と住み続け、友人たちも頻繁に出入りするといった「持続」がもたらすものです。

あと、抜粋の「不動の待機」というのがいいなあと思ったんですが、ちょっと話を戻しまして…

上記の「知性の啓蒙」によって現出した「真理」の例を一つだけ抜粋しておきます。
…と言いながら、以下の抜粋で何が言われているのかよくわからないのですが、
「何かが頭にひっかかり」、何度読み返してもその理由がわからないので抜粋するのです。
わかりませんが、「真理」とは格言のようにシンプルに表現できるものでは実はなく、
そこから言葉を引き出さずにはいられないものを指す
、のかもしれません。

 一番遅れてやって来た雇い人の物語のなかには、葡萄畑の主人の側に気まぐれがあるように思われる。だが少し注意してみるならば、事実は逆である。彼はただ一つの賃金しか払わない。ただ一つの賃金しか所有していないからである。彼には小銭がない。聖パウロは賃金を定義して、「私が知られているように、私は知るであろう」〔コリント人への第一の手紙一三・一二〕と言っている。ここには程度の差はない。おなじように、賃金を受ける行為にも程度の差はない。呼ばれたとき、駆けつけるか駆けつけないかである。たとえ一秒たりとこの呼びかけに先んじる能力はだれにもない。やって来た時期など問題ではないのだ。また、葡萄畑における労働の量や質も考慮されないのだ。時間によってではなく、同意したか拒絶したかによって、ひとは、時間から永遠のなかに入ることが許されるか否かなのである

同上 p.347-348

寄り道が長くなってしまいました。
本題だった「摂理の観念」の併読リンクについては記事をあらためます。