human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「背負わされる人びと」のこと

cheechoff.hatenadiary.jp
このブログは去年の6月から始めて、あと少しで1年になります。
1年弱の間に何度か文章のスタイルが変わっています。
一度大きく変わったのが11月で、冒頭に掲げた記事では軽くそのことに触れました。
その中で「共感できるもの」と書いたのは、turumuraさんという方のブログ↓を見てのこと。kurahate22.hatenablog.com

僕は普段あまりネット散策はせず、人のブログを読むことは少ないです。
主な理由は虚弱な目のせいで、ディスプレイごしに文章を長時間読めない。
一日デスクワークの仕事ができているのが不思議で、これは本当に「毎日が綱渡り」。
自慢にもなりませんが、ディスプレイの表示輝度の低さは間違いなく職場一です。

それでいて家では頻繁にブログを書くので、どこか生活の深層に虚無的な所があります。

話を戻しまして、turumuraさんのブログ記事を読んで、居ずまいを正さねばと思いました。
なぜと言われてよく分かりませんが、もう少し自分の文章の体裁を整えた方がよいのでは、と。
それからは「一記事の中のどこかで琴線に触れる文章」を意識して書いています。
論理の飛躍や謎が相変わらず多いですが、投げっ放しもなるべく減らしたいとは思っています。

以下は自分勝手な解釈で恐縮ですが、紹介のようななにかです。

turumuraさんが公開されているプロフィールには、訥々とした文章が書かれています。
感情を交えず淡白に、しかし絞り出すように。
ニュアンスはどうあれ、社会(の常識)に対する見方に僕は共感します。
その中の一文に、今の自分の思考と共鳴する部分がありました。

個々のやりがいとは、個々の根源的な苦しみを背景に成り立っている。
turumuraさんのプロフィール - はてな

すぐに連想したのは、1月から読み続けているレヴィナスの本の箇所です。

 受苦には魔術的効果などありはしない。受苦する価値があるのは、彼が受苦しているからではなく、苦難に耐えて昂然と頭を上げている彼の正義のゆえにである
シモーヌ・ヴェーユ、反聖書」p.163


 それは義人が自らの外部にいかなる救いも見いだしえぬとき、いかなる制度も義人を保護してくれぬとき、幼児的宗教感覚のなかへの神の臨在という慰藉自体が容認されぬとき、個人がその意識=良心のなか、とりもなおさず受苦のなかでしか勝利しえぬときである。これが受苦のユダヤ的な意味であり、いかなる場合であれ世界の罪に対する神秘的贖いというような価値をもたない。秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受苦と呼ぶ。
「神よりもトーラを愛す」p.166
エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』内田樹訳)

内田樹氏の著書で読みましたが、レヴィナスは同朋ユダヤの民の死を背負っているといいます。
アウシュビッツで咎なく無意味に殺された数多くの同朋に対して、なぜ自分は生き延びたか。
その有責性の感覚がレヴィナスの思想の根底をなし、著書の中に通奏低音として響いている。
人は時に、自分の意思に関わらず「状況に背負わされる」ものがあります。

それは幸運や利益であることもあり、迷惑や被害、苦難であることもある。
後者であれば、なるべくならそれから逃れたいとふつうは思います。
しかし元は受動的であれ、「背負わされたもの」が自分の一部となることがあります。
たとえ苦難でも、死活的状況で血肉化したそれは、自分の拠り所として生きていくしかない。

軽薄を推奨する世の中に馴染めず、考え続けることを止めることができない人。
僕は軸が右側に偏った「思考と健康の天秤ばかり」を日々ぐらつかせて生活しています。
重くなった「思考」を吊るす糸がぷつりと切れて、やっと思考停止して健康を気遣う。
もしかしてturumuraさんも、そのような傾向の方ではないかと思っています。

折にふれてブログを拝読させて頂きます。