human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

シモーヌ・ヴェーユと岡潔と「渾身系」

長いまえおきですが、まず花巻近隣の公共図書館について。

 司書講習の後半くらいから、図書館めぐりをしていました。
 車があったので、高速を使って市外へも行きました。
 東北の有名どころとしては、南相馬、川崎村、一関へ行きました。
 岩手県外ではあと、仮設の名取へも行きました。
 (うろ覚えですが以上4つは福島県宮城県かのいずれかにあります)
 市内は東和以外の3つ(花巻、大迫、石鳥谷)へ行きました。
 そして花巻市のお隣の、北上、紫波へも行きました。

 各図書館の比較や批評をするつもりはなくて、
 ただ紫波町立図書館のことをちょっと書いておきたかった。

オガールという紫波中央駅前の複合施設の中にあるその図書館は、
できてからが新しく、いろいろと先進的な特徴もあります。
が、これまで二度行きましたが、ほぼ100%利用者目線で行ったので、
ここでは一利用者としての感想だけ書きますが、
蔵書がとても充実していました。

松丸本舗松岡正剛がプロデュースした書店の本棚)の紹介本があって、
そういう書評本を読むと読みたくなる本が一気に増えるので普段は近づきませんが、
この前行った時はあまり考えずに手に取ってぱらぱら眺めてしまい、
案の定で読みたくなった本が5,6冊ほど出てきて、
そのタイトルをメモして館内検索にかけると、
その全てが蔵書にありました。


家から遠いのでそう頻繁には通えませんが、
貸出延長も使って月1で行く習慣にはしようと思っていて、
今はそのペースに合わせて全6巻の『特性のない男』(ムージル)を
月に1冊ずつ読み進めようと思っていて、
それがけっこうウェイトがあって他に「重い本」を差し挟む余地は少ないのですが、
上に書いた5,6冊(どれも館内でいくらか読みました)の中で、
これは借りて帰って読もうと思ったものが1冊ありました。
(これ以外にハイゼンベルクの自伝『部分と全体』も「保留」にしてあります)

根をもつこと

根をもつこと

この人のことは「名前は聞いたことあるな」くらいの印象でしたが、
本のタイトルを見てまず『根をもつこと、翼をもつこと』(田口ランディ)を連想し、
ランディ氏はこれを読んだことがあるかもしれないと思い、
(エッセイを読んだ記憶では、たしかランディ氏は大学で哲学を学んだ時期があったはずです)
また原語タイトルが "L'enracinement" とあって、
デラシネ(根無し草)の対義語だなと思いました。
そしてT.S.エリオット(たしか詩人)が書いている本書の序文を読んで、
これは「渾身系」の本だと思いました。

「渾身系」というのは造語で、
司書講習を一緒に受けたI画伯(多分野の本に詳しい)と話す中で生まれたのですが、
手癖や手管でなく、渾身を込めて、やむにやまれず書かれた本、
あるいはそういう風に本を書く著者に対して用いる表現です。
画伯と話した中では、そういう著者として鶴見俊輔高村薫を挙げていましたが、
最近読んでいる本の中では、岡潔宮崎駿もそうだと思います。

「渾身系」の本の特徴は、
書いてあることをそのまま論理的に理解するものではない、ということ。
書かれてある言葉に、その人の人となりが陽に陰に表れていて、
正偽や虚実の視点(判断)から漏れてしまうものが多大にある。
言い方を変えれば、その人を知って読む場合とその人を知らずに読む場合とで、
読む人が受け取るものがかなり違ってくる本。
それはまた、こう言い換えてもいい。
読むことによって受け取れる、連想されるものの質、量が、
それを読む人の一人ひとりによって大きく違ってくる本*1


そういう本を今の僕はわりと選択的に読んでいる気がしていて、
それも借りた理由の一つなのですが、
もう一つ、こっちが決め手になった理由ですが、
今読んでいる、上でも触れた『特性のない男』に書いてあることが、
同じテーマで、それも同じ趣旨でこの本にも書いてあるのを見つけたからでした。

テーマをいえば「理想の国(の作り方、在り方)」というもので、
趣旨はここで簡単に触れるには力量不足なので省略しますが、
少し考えてみれば、このテーマは、
同時に今読んでいる(つい最近読んだ)別の2冊、
『ピスタチオ』(梨木香歩)、『風の帰る場所』(宮崎駿)でも触れられていたのでした。

 ちょっと脱線しますが、後者は宮崎氏のインタビュー集で、
 インタビューでもそのことに触れていますが、
 作品として実際に提示されているのが漫画版の『風の谷のナウシカ』だということでした。
 映画作品のマンガといえば、映画の映像の静止画を切り貼りしたイメージがあって、
 あまりまともに読んだことはないのですが(ジブリもたぶんナウシカ以外はそうです)、
 ナウシカはそうではなく、またストーリーも映画とは違うということをこの本で知りました。
 それでこの漫画版ナウシカも今借りてじわじわと読み進めています。

 × × ×

と、ここまでが長い前段でした。

そんなこんなで、
『根をもつこと』を借りたはいいが読むタイミングがなかなかなく、
1週間経った今日、の先ほどにやっと読み始めたのですが、
例の「横文字」的現象がまたまた起こるので、
もう書かずにはいられないと思ったのが本記事を書く最初の動機でした。

本記事のエッセンスは、一つ前の記事とおなじく「併読リンク」です。

 根こぎは、人間社会のずばぬけてもっとも危険な病患である。なぜなら、根こぎは増殖してゆくからである。完全に根こぎにされた人間には、ほとんどつぎのどちらかの態度しか許されない。すなわち、古代ローマ時代の奴隷たちの大部分とおなじように、死にほとんど等しい魂の無気力状態に陥るか、さもなければ、まだ根こぎにされていない者たち、ないしは、部分的にしか根こぎにされていない者たちを、しばしばこのうえなく暴力的な手段によって、根こぎにすることをめざす活動に飛び込むか、である。
 ローマ人は一握りの亡命者にすぎず、それが人為的に寄り集まって都市をなしたのである。彼らは地中海地域の諸住民から、その固有の生活、祖国、伝統、過去を奪い去ったが、それがあまりにも徹底的だったので、後世は彼ら自身の言葉を信じてローマ人をこの地域における文明の創始者とみなしてしまったのである。(…)スペイン人やイギリス人は、十六世紀以降、有色人種を虐殺したり奴隷化したりしてきたが、彼らのほとんどは、母国の深い生命とは接触をもたない冒険家たちだった。フランス植民地の一部にかんしてもおなじことがいえる。とにかくそれらの地域は、フランスの伝統の生命力が弱まった時代につくられたものである。根こぎにされたものは他を根こぎにする。根をおろしているものは、他を根こぎにすることはない。
「第二部 根こぎ」p.78-79(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』、春秋社、2009新版(1967初版)、[135.5/べ])

 [科学の発達における]利益に対して、害のほうはというと、戦争一つだけでも実にたっぷりと害があります。いま世界が二つに割れて相争っているのも、科学が機械を生み、その機械が科学をないがしろにしていることの結果です。しかも、その害はこれからどこまで大きくなるかわからないという現状にあるのです。いまの世の姿はギリシャ時代からローマ時代に移ったときとそっくりだと思いますが、文芸復興まで二千年間ローマ時代の文化の状態が続いたことを考えると、これからやはり二千年間はローマ時代が続くのかも知れません。五十年間でこんなありさまになったのですから、その四十倍というとどんなひどいことになるか、想像もつきません。ただ一つ確信をもっていえることは、人類はこんな大きな試練にはとうてい耐え得ないということであります。いま、真の中における調和を見る目がどれほど必要とされているかがおわかりのことと思います
「数学を志す人に」p.143(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫)、[ ]内は引用者挿入

 いまはギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか、何もかも。ローマ史を研究するつもりなら現代をながめるだけで充分だと思うんですよ。月へロケットを打ち込むなんて、真善美とは何の関係もありゃしません。智力とも関係ないんですね。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです。
「新春放談」p.170 同上

太字部はまた別の記事で書きたいことで、ここでは下線部です。

上に書いた「渾身系」というキーワードに応じて、
シモーヌ・ヴェーユの本は岡潔のように読もうと思って読み始めて、
それだからかもしれませんが、
さっそく抜粋前者を読んでいる時に岡氏を連想して、
探して見つけたのが後者の抜粋です。

とくに分析はしませんが、
「読み方はこれで間違っていない」
という認識をもたらしてくれた連想でした。
 

*1:「言葉」に"本来"期待されている機能と対極にある性質をもつ本。これはとても不思議な現象だと思います。おそらく進化や発展という文明の指標からは外れる性質でしょう。