human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「身の丈の必要」を探る思想について

前の続きです。
無名性、象徴、役割、そういったものに関して。
そして新たなトピックとして、自給に関して。

 × × ×

kurahate22.hatenablog.com

自給について、いろいろな表現が試みられたturumuraさんの記事のなかで、
いくつか、僕に合うものがありました(記事の中でスターをつけたもの)。
これらについて連ねてみたい言葉については、後で書くかもしれません。

 ・自律的なものに出会う方法。
 ・備わるものを生かすこと。流れを掴むこと。
 ・あるものにゆだねること。主体になること。
 ・必要を知り、必要に応じること。探り、確かめていくこと。

僕は一般にいう自給自足の生活をしていません。
畑もなく、自分でなにかを作って糧を得ているわけではない。
でも、「身の丈の必要性」を知ろうとし、それに従う生活をしています。
それは自給生活をすれば自ずと(必要にせまられる形で)実現するはずのものです。

僕においては「自ずと」ではなく、つまり意思に基づいている。
その、生活中の個々の行動を導く意思は、思想に基づいている。
そうしないと実現できないから、そうしている。
そしておそらくそうしたいから、そうしている。

 × × ×

人間関係の、象徴や無名性との関わりについて考えています。
生活に自ずと生じる人間関係には、象徴や無名性がついてくる。
言い換えると、そこに個性は、表立っては出てこない。
「個性と個性のぶつかり合い」と表現されるような人間関係は、
人間関係のための人間関係のことを指している。

家族の関わりは複雑で、おそらく両者を含むと思います。
後者の例として…
いや、サービス業やサークル活動がその例だと思ったのですが、
これらも、両者を含みますね。
前者の例として、近所付き合い、学校や職場の交友関係など、
と…これらも、両者を含みます。

どんな人間関係にも上に分けて書いたものの両面性をもっていて、
その比重が変わるとすれば、関係の深さと相関するのではないか。
これは比較的単純な考え方で、それが当てはまることも多いけれど、
たぶん僕は、このようではない場面、について考えようとしています。


話は変わりますが橋本治という人はとても個性的な作家で、
しかし彼の文章には驚くほどの普遍性がある。
ものを書くことは、人に伝える文章を書くことで、
自分だけで閉じない文章はもちろん必然的に、普遍性の獲得を目指す。

「個が普遍に至る」という表現を氏について何度も使ったことがあって、
けれどそれは「個性的であり過ぎて普遍に行き着く」なのか、
「個性的であることを超えてはじめて普遍へ至る」なのか。
この2つの違いもわかりにくいですが、
おそらく後者には、どこかで質的な変化がある。
そして後者の現象には、
個性と、無名性あるいは象徴との作用が、関係している。

いや、身体性という側面を忘れていました。
身体は、各個で異なりながら、同じである。
「異なる=同じではない」とは脳の判断で(大きさ、美観、等々)、
身体にとっては、ほかの身体に対して同じも違うもなく、
これに対する脳の妥協的解釈が「同じ」となる。
(たとえば、生理的側面、各身体部位の機能性、等々)
この、身体の「同じ」という側面が、そのまま普遍性につながる
言葉とは脳が操るもので(と常識的には思われていて)、
しかし身体が言葉を語れば、あるいはそういう状況を脳が導ければ、
彼の語る言葉は普遍性を獲得する

「無名性」と「象徴」を並列して使ってきたので今自分で混乱していますが、
身体はまず(上記の「同じ」という側面において)無名性を帯びている。
…今思ったのですが、
「象徴」は、脳を身体につなげる「なにか」を指すのではないか。
あるものの「象徴」といった時、その意味を言葉にして解説はできても、
「象徴」が指すのは、そのあるものの言葉にならないなにかをも含んでいる


話を人間関係に戻しますが、
「個性を伴わない人間関係」というものが、
現代では重きを置かれなくなっているのではないか
とふと思います。
上で触れた比較的単純な考え方からすれば、それは「浅い関係」だからです。
でも、そうとは限らない。
つまり、それは本当に「浅い」のか?

僕の関心の話ですが、
おそらく言葉でよく考えるようになってから(=読書が生活になってから)、
自分が関係をもつ人に、なにかしら普遍性を見出す*1ようになりました。
それで、最近の経験もあって、
「個性と個性がぶつかる関係」と上に書きましたが、これは言い換えると
「個性が執拗に問われる関係」でもあって、これがつまり
「個性を伴わない人間関係」の対極にある関係で、…

なんだろう、急にくだけるんですけど、
「そればっかりだと、つまんなくない?」
と思います。

 × × ×

さいきん何が言いたいのかわからない文章ばかりです(それは別にかまいませんが)。
そして新たなトピックと書いた「自給」の話が未だ出てきません。
唐突なれどそれをこの記事に登場させたからにはつながりがあるはずです。
という見込みが「知性への信頼」で、そのために頑張らねばなりません。


直感で書きますが、
「個性を伴わない人間関係」は、身の丈感覚(志向)と関係があります
それは、その逆を考えるとなんとなくわかります。

人が個性に拘れるようになったのは、身の丈の必要性が満たされたからです。
生きるのに汲々としていれば、個性にかかずらう余裕なんてない。
その時は、象徴的であっても、それを言葉にする必要はなかった。
(「象徴的」と言っているのは、現代の視点からです)


「貧乏を知っているアジアは、発展ではなく"貧乏の豊かさ"を示すべきだ」
みたいなことを広告時評でハシモト氏は言っていますが、
過去に経験したある状況があって、その状況に「戻る」という時に、
なにもかもそのまま「昔と同じ」にはなれない。
物資的な充実を知ってから貧乏に戻るには、
思想をたずさえて行かねばならない。
その思想は「知っている」からこそ構築できるし、そうせざるを得ない。

身の丈の必要がとうに満たされた現代の日本社会で、
その必要をあらためて探るためには思想が「必要」である

と、すぐ上に書いたことを個人レベルで言い換えるとこうなります。

 × × ×

turumuraさんのブログから抜粋した言葉を再掲します(一部太字化)。
以下に書くことはもちろん、この言葉を僕が吸収した上でのことです。
スターをつけたのは、これらを「自分の中に吸収できる」と思ったからです。

 ・自律的なものに出会う方法。
 ・備わるものを生かすこと。流れを掴むこと。
 ・あるものにゆだねること。主体になること。
 ・必要を知り、必要に応じること。探り、確かめていくこと。

ここにある「必要」とは、「身の丈の必要」のことだと解釈します。

「自律的なもの」は、本記事でこれまで書いてきたことを踏まえると、
「現代日本社会で身の丈感覚の維持を助ける"なにか"」を指します。
ある人物かもしれないし、考え方かもしれないし、畑仕事かもしれない。
それに出会えれば、自分は「自律」できる。
それに出会う方法がわかれば、自分以外の人の「自律」を助けることができる。

「備わるもの」。
この言葉からすぐ連想したのは「ブリコラージュ」です。
「器用仕事」と訳されるレヴィ=ストロース(『悲しき熱帯』)のこの言葉は、
内田樹氏のざっくばらんな言い換えだと「ありものでなんとかする」。
つまり「備わるもの」=「ありもの」です。が、
「ありもの」が具体的に何を指すかが、現代ではとても難しい。
便利な世の中で、(自分にとっての)「ありもの」の吟味をすること、
これは上に書いた思想=生活思想の大きな仕事の一つです

 

*1:本記事をいちど書き上げて読み返している間に思いついたのですが、これは畑仕事をしている時に感じる「大地とつながる」のメタファではないかと思います。すごいですね、これ。