human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非現実の非所有

これほどの長編(全6巻)を本腰を入れて読むのは始めてですが、
同じテーマが繰り返し現れる時に、
「それが長編であること」の効果を感じています。

一つ目の引用の章タイトルがないのは本を返却していて手元にないからで、
ではなぜ引用ができるのかといえば、気になった部分を複写にとっていたからです。
引用を二つ並べたことの意味はたいしてなく、
継続的に読み続け、一つ目を目にし、読み続け、二つ目を目にしたときに、
思いついたことがあり、その内容が本記事の本題ですが、
二つ目を読んだ時に一つ目の状景が思い浮かんだのでした。

因みに一つ目の太字部は『ああでもなくこうでもなく』(橋本治)に同じテーマが出てきたので、
また気が向くか、何かべつのものとリンクするか、妙に思い出した時に触れようと思います。
 ということもありますが、本記事を書いてから読み返して思いついたのは、
 ハシモト氏の広告時評連載*1は「日本で起こった事件に精神を与える」ものだ、と。

また二つ目の太字部「等々」は、「滔々」でもあって、
本文中ではここの説明部に「一瀉千里」というすごい四字熟語があてられていました。

これは、次のように要約できると、ウルリヒは主張した。われわれ人間は、何が起きるかはあまり問題にせず、誰に何処で何時そのことが起きるかを問題にしすぎる。そのため、事件の精神ではなくて事件の粗筋が、新しい生活内容の開発ではなくて既存のものの割り振りがわれわれには重要事で、それはちょうど、本当に優れた戯曲とただ成功しただけの戯曲との相違に相当する。しかしわれわれは、これから引き出される結論とはまったく反対のことをしなければならない。まず第一に、経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度を捨てなければならず、したがって、経験を、個人的で具体的なものよりも一般的で抽象的なものとみなすか、あるいは、経験がまるで絵とか歌になってしまっているかのように、個人的には経験をまったく自由なものとみなすようにしなければならない。経験を自分の方に向けてはならず、それを上方あるいは外へ向けなければならない。そしてこれでも個人的だとみなされるなら、さらに何かを集団的にしなければならない。この何かについてはウルリヒにもうまくいえなかったが、それは、葡萄搾りと葡萄酒の貯蔵と関係があり、彼はそれを精神の濃縮と名づけて、もしこれがなければ、もちろん個人は自分のことをただ無力な存在と感じて、好きなように振舞うだけだと考えるにちがいない、といった。

「第84章 ***」p.142 (『ムージル著作集 特性のない男Ⅱ』加藤二郎訳、松籟社

「そら、いつかあなた[=ウルリヒ]はいったじゃない──あたしたちの暮らしている状態には、割れ目があって、いわばそこから考えられないような状態が、こちらをのぞいているんだって。(…)それであなたは、人は怠惰と習慣のために、この穴の方に目を向けないか、それとも悪いことをいろいろやって、それから気をそらせているんだといったのよ。さあ、これからの話は簡単よ。この穴を通って、人は抜け出さなければいけない! そしてあたし[=クラリセ]にはそれができるのよ!(…)でも、あんたには、みんなわかっているわね! だって、現実には考えられない状態がある、そして人は自分の体験を自分の方に向けたり、それを個人的な現実的なものとみなしてはならず、それを、歌われたり描かれたりしたものと同様に、外へ向けなくてはいけない等々と、あなたが話したとき、あなたはそういうことを考えていたのですものね。あたしには、あなたのいったことを全部、そっくりそのまま繰り返すことだってできるのよ!」

「第123章 反転」p.188-189 (『特性のない男Ⅲ』)

下線部を読んだ時に、脳と身体のことを考えました。
そして現実と所有の、いくつかの関係を考えました。

現実とは、身体性とアフォーダンスに規定される有形のものです。
非現実は、ここでは簡単に精神とします。
所有とは、なにかを個人が私有することです。
非所有は、所有以外の所属形式を指します。
 非所有は共有も、放棄も、昇華も含みます。
 別の問題意識ですが、クラウドストレージは非所有ではない気がしています。


引用の下線部中のウルリヒの提案は、「非現実の非所有」のことをいっています。
 体験は、それそのものを現実と呼ぶのかもしれませんが、
 体験を「扱う」段になると、それは精神の側に属するものになります。
こう考えたとき、これに"対応"するものとして「現実の所有」があると思い、
僕自身の関心に即した表現になおせば、これは「身の丈の生活」です

引用下線部の前段(「経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度」)は、
上記にたいして「非現実の所有」をさします。
そしてこれも上記と同じく"対応"を考えると、それは「現実の非所有」になります。

これら「非現実の所有」と「現実の非所有」は、
後者がどういう状態をさすのかイメージが湧きません(あるいは忘れました)が、
どちらも「際限がない」という性質をもちます。
あるいは、両者が「お互いの際限のなさを昂進してゆく関係」にある。

こう言い換えたのは、「現実の所有」と「非現実の非所有」の関係においては、
「非現実の非所有」自体が際限のなさを二乗した性質であるにもかかわらず、
それを「現実の所有」が(適切に機能すれば)有限の枠に納められるからです。


上の説明のなかの"対応"は、この表現の説明は今思いつきませんが、
「脳と身体の対応」という言い方をするならば、これと同じような意味だと思います。

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ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

*1:この連載が本になっている、いまはないマドラ出版が発行の(つまり絶版の)『ああでもなくこうでもなく』シリーズは全6巻で、そのインデックス版が集英社から1冊でています。