human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-11 微々と縷々

 
前記事からの続きです。
いや、インタールードかな。
久しぶりに、フェンネル氏登場。
対するは、直接は初登場のアニス嬢。

 × × ×

香辛寮「G&S&B(ジーエスビー)」のリビングにて。
テーブルには一組のコーヒーと、各々その傍らに男女。

時は夕暮れ。
建物は静寂。
男は縷々と説き。
女は微々と笑み。

裸電球が黒い2つの水面に映える。


「僕の思考は入り口が沢山あって出口が一つもないのが特徴で、そんな話に付き合わせて非常に恐縮なのだけれど」
「構いませんよ。ディルウィード君から聞いていた通りだわ。困った顔で面白そうにお話しされるのね」
「え、そんな風に見える? まずいな。思ったことはほとんど口に出さないんだけど、その代わりに顔に出るんだよ」
「正直ですね」
「それだけが僕の長所なんだ。嘘を取り繕う自分は嫌いで見たくもないし、それも顔に出るから、やれば必ず拝むことになる」
「対話相手は鏡のようなもの」
「そうです。相手の目には必ず、幾らか自分の目が映る」

「でも、そればかり気にしていては、相手を出汁にして自分だけを興味対象に見ていることになるのではないかしら?」
「…その通り、そこがよく誤解される。というか相手に理解されようという心掛けが足りない、といつも指摘される。ぐうの音も出ない」
「誤解を訂正する気がなければ、相手の中でその誤解は正解になってしまうわ」
「うん。だから僕の方が誤解を言挙げするのは不適切だね」
フェンネルさんは思考が好きで、対話も好きだと伺っています。でも貴方の対話は独白とそれほど変わりませんね。私はそのつもりで対面しておりますので、特に気になさることはありません」
「手厳しいな。どうも僕は他人への興味の持ち方を忘れてしまったらしい。アニスさんと話していると、あなたはマジックミラーどころか、純粋な鏡のように思えてくる」
「それがお好みなのでは?」

「そうかもしれない。でも、まだ違うと断言しておきたい。…いや、そういうことではないんだ。僕は常に新しさを求めている。会話の新鮮さ、出会いが起こす互いへの変化。それが先鋭過ぎて、相手の期待にそのまま応えることに躊躇してしまう」
「先回りして考え過ぎてしまうのですね。状況とか、流れに身を任せる姿勢があってもよいのではないかしら」
「それは自覚している。自分から何かを切り出すことがないのは、その一つの表れだと、自分では思っている」
「先手を相手に任せて、相手の思惑に乗ったふりをして、実際は無関心ということ? そんな矛盾した態度に喜ぶ人はあまり多くないでしょうね」
「いや、そこはちゃんとした誤解だ。変な言い方だけど。…僕は基本的に他人に興味がある。そして予定調和が嫌いというほどでもない。ただ、他人に対する明確な意志がない。命令だとか、権力志向だとか、広い意味では誰もが他者に対して持つものに対する魅力がことごとく希薄なんだ」
「そうですか。簡潔にいえば、貴方は孤独好きなのですね。私はここに居ていいのかしら?」

 フェンネルは言葉に詰まり、俯向く。
 アニスは一貫して微笑み続けている。
 その目はフェンネルから殆ど外れない。
 (ディルウィード君も妙な男だ)
 (こんな「鋼の女」に惚れるのは最早才能の域だろう)
 (彼は一体どこまで買い出しに行ってるんだか…)


「話を戻すけれど、鎖書というセット本の魅力は市場主義向きではないんだ。『非消費者的な読書の提案』と銘打っている通り、コスパの両者、つまりコストとパフォーマンスの評価が読み手に委ねられている。『身銭を切る』という言葉があるけれど、この場合は二重の意味で適用される。つまり、お金を使うことと、そのお金の意味を考えること、の二つ。普通の消費者なら無視するか、介入の意思があるとすれば、怒り出す」
「では貴方は、鎖書店というコンセプトを、ビジネスとして捉えてはいないということね?」
「正直に言えば、そうだ。思いつきのコンセプトを繰り返し形にしていく経験を重ねながら、ビジネスに敵う形式に発展する可能性もうっすら期待していたけれど、そちら方面の道筋は全く現れていない」
「それは分かりますわ。古書店と同じ一品目の在庫が単品でありながら、出品にかかる単位時間の異常な長さ。そういう目で見れば、誰もが趣味でやっていると考えますわ」
「だろうね」

「だとすると、貴方のお店の運営目的は営利ではない。目的も趣味的なのかしら。知的好奇心を満たすため?」
「いや、大事な要素だけれど、そこに限定されるものではない。まず、鎖書をセットする選書の過程が非常に興味深いんだ。それを個人の自己満足で留めておくには勿体無い、というくらいに」
「その選書と呼ばれる作業は、私には『ある特殊な趣向をもった読書』と表現しても差し支えなく思えますが」
「うん、普通はそう考える。面白い趣向だと思っても、それを抽象化するというか、一般的な価値をそこに持たせようとはあまり思わない。例えば、作家の片岡義男も、三冊を独自の趣向で組み合わせるという発想を面白いと感じたとエッセイに書いていたが、彼のその発想は個人ライブラリの範疇にある」

「そう仰るということは、つまり、フェンネルさんは鎖書に一般的な価値を見出す試行錯誤をなさっているのね。鎖書の選書を通じて。それなら、販売はもののついで、本筋ではないがモチベーション維持のためにやっている、と」
「そうかもしれない。自分で言葉にしたことはなかったけれど、言われればそうに違いないと思えるくらい、それは自然な発想だね。けれど、そこは断言しないで、可能性を開いたままにしておきたいところ」

「わかりました。今の話の中で私の興味を引くのは、貴方が探索しておられる『一般的な価値』の形ですね。個人の連想基準で本を組み合わせる鎖書。この『連想』という形式に重要な意味を担わせて、鎖書の魅力に関してそれ以上の詳細な説明をなさらないのは、『言葉にならない部分がキモなのだ』という言外の意思表示と受け取れますが、『一般的な価値』を見出すとはつまり、この『言葉にならない部分』を言葉にすることなのではないかしら?」
「! そう……そうか。自分はそこのところを、読み手の独自性に任せて有耶無耶にしていたかもしれない。事前に価値が分かったものを、同じく価値が明確な対価を払って手に入れる、という消費活動にはない『価値の個々なる創造』のような形態を理想だと考えていた。ただ、その具体的な発現はそれぞれの、一つの鎖書と一人の読み手ごとに違うのだとしても、そこに、その出会いと創造に至るまでの道筋の入り口のところで、つまり鎖書を販売する書店という窓口において、やはり鎖書のコンセプトが言葉として提示されている必要がある。それがなければ、鎖書が人々の手に渡ったからといって、その人々それぞれの満足があったとしても、それが鎖書の『一般的な価値』の認識には繋がらない。いや、購入した人にだけわかるというのでなく、鎖書というものがあると知った段階でそのコンセプトが伝われば、それこそが『一般的な価値』といえる」
「そう。それをぜひ、お聞きしたいわ」

「いや、今君に気付かされた通りで、言葉には全くなってないんだけど…」
「無論、今ここでお考え下さればいいのよ」
「うーん。誠に申し訳ないことをした」
「貴方がなさりたいのなら遠慮はいりません」
「ええと、そうではなくて、今考えたいのは事実だけど、さっき君のことを鏡だとかなんとか…」
「あらあら。そんなの構いませんわ、お互い様ですもの。全く以って、厳然たる事実」
「…………」


 (あああ、やっぱりこうなるんだよなあ)
 (先輩もアニスさんも気配り上手だけど、根っこが自分本位だから)
 (話が落ち着くまでどこか行っておこう)
 日は暮れ、いっとき廊下にディルウィードの気配。
 しかしドアは開かれず、細長い影は弱々しくリビングから遠ざかる。
 長くもあり、短くもある、夜はこれから。
 

香辛寮の人々 2-10 存在と意味

 
「僕にも昔ね、気になる女の子がいたんだよ。小さいんだけど妙に落ち着いていた。女子には珍しく女子同士でグループを作らずにさ、男子たちのノリにたった一人で違和感なく混ざりながら、その表情には妙に惹きつけられる可愛さがあった。
 ふつうの女子にはないような両極端な性質があって、でもバランスが悪いというのでなく、極端な性格の一つひとつが彼女の存在感を補強するような、不思議な統一性があったな」
「へえ、そうですか!
 聞くだに、フェンネルさんの好きそうな人ですね」
「わかるかい」
「はい。だって、わかりやすい人に興味ないじゃないですか」
「そんなことはないよ。
 わかりやすさの裏に潜り込めれば、そこには未知の世界がある。誰にしても、その当人にとってもね」
「そうかもしれません。みんな生活上の付き合いばっかりで、深堀りしませんものね。
 それで、その女性とはどんな関わりがあったのですか?」
 
「うーん、それがねえ、あったようななかったような」
「む? あれですか、お得意の『純粋な観察対象』というやつ」
「失礼だな。やりとりはいろいろあったさ。
 在校中の半分くらいは一緒のクラスで、その間は取り立てて喋った記憶はないけれど、卒業してからの方がなぜか付き合いが増えて、何度か旅行に行ったこともある。グループでだけれど」
「はあ。それもまた不思議な展開ですね。どうしてそんなことに?」
「僕なりに、具体的な行動を起こそうとしたんだ。大学に入ればクラスの目は気にならなくなるし、一年ずれたけれど同じ大学にもなれた。それがきっかけだったかな。
 ああ、無闇に周りを意識するのは昔も今も変わっていない。今はその自意識過剰を制御できる理論というか、知性を組み上げているけどね」
 
「そうですか。では、フェンネルさんの青春はその頃ようやく花開いたと」
「いやほら、そこはだから複雑なところで。
 ディルウィード君に失礼だと言ったのは言葉の綾で、正直なのは君のよいところで、つまりは正解だということで…」
「ええと、つまり?」
「一緒にいる機会は増えたが、ただそれだけのことだった。いわば間近で観察してたわけだ。これは君としては純粋な観察とは言えないことになるのかな」
「いや、別にそれはどちらでも構いませんが。すると、フェンネルさんが起こした具体的な行動とは?」
「それでおしまい」
「えええ!」
「おしまい、さ」
「えー。もう少し参考になる話かと思ったのに…」
「いやいや。落胆するにはまだ早い。話はまだ始まってないんだから」
「??」
 
「君は同学科のアニス嬢が気になるという。それは好意かもしれない。はたまた愛情かもしれない。彼女が君をどう思っているかはわからないが、それは二の次。まずは君自身の気持ちを君の中で解明しておいた方がいい。そのために僕のなけなしの青春時代を掘り起こしているわけだけど」
「はい。でも別に、フェンネルさんとその人との間には、何もなかったのでしょう?」
「その通り。僕と彼女のあいだで、どちらも相手に踏み込む行動を起こさなかった。そして彼女が僕をどう思っていたかも、全くわからない。
 それでも確実に言えることが一つだけある。僕の彼女に対する関心は、クラスが一緒だった当時から現在まで消えずに残っていること。これは考えてみれば、すごいことじゃないかな?」
「ほへー。するともう十年以上の片思いなわけですか。
 ああまた、フェンネルさんそうやって『片思いがプロセス志向の最たる恋愛の王道だ』とかなんとか言うんでしょ。結局それって『若者よ悩め苦しめ』ってバジル爺のいつもの繰り言と同じじゃないですか」
 
「待て待て、早とちりはよくないぜ。こういう問題への実際的なアドバイスは世の中どこにでも転がっているから、そういうのを欲しければ拾いに行けばいいさ。でも君はそうせずに、僕という人間を知っていて、その僕に聞きにきたのだろう?
 なら話は早い。何事も『話は全然早くない』ところがスタートなんだから
「またそんな…」
「特に人と人との関係には時間をかけないと、必ず失敗する。というか、成功しても失敗しても得るものが何もない。これを『無時間モデル必敗則』という」
「言いませんよ! ぷんすか」
 
「ごめん。真面目にいこう。話を戻すと、えーと何だったかな」
フェンネルさんの『若かりし何事もなかりし日々』についてのお話でした」
「まあまあ、怒るのもそのくらいにして。ちょっとコーヒー淹れようか」
「あ、自分がやります。フェンネルさんは座っててください」

────

「面倒な話になるのはいつものことだが、そこは我慢してくれ。
 僕がその彼女のことをいまだに考えているのは、僕が彼女のことをどう思っていたかが未だに呑み込めないからだ。当時はそれはシンプルに好意で、だから相手にそれを伝えられないことを片思いだと考えていた。でもね、進展しないまま付き合いが途絶えてから、あれは憧れだったんじゃないかと思うようにもなった」
「それは同じことなのでは?」
「違うんだ。異性としての憧れじゃなくて、人間としての憧れのほう。だから、憧憬の内容を具体的にいえば、僕が彼女のそばにいることではなくて、僕が彼女のような人間になるってこと」
「うむむ。そんなこと、あり得るんでしょうか?
 異性に憧れるというのはその人と、恋愛とか、あと結婚もなのかな、そういうプライベートな関係に至ることしかないように思いますが」
 
「それがねえ。だから僕もディルウィード君くらいの頃は同じことを考えてたさ。だけど長じてみると、そうだな、時間をおいて経験が客観化されるのと、本とかで知識を仕入れたりすると、話はいつもそう単純ではないとわかるようになるんだ。だから…」
「え、じゃあこの話って、自分にはフライングってことですか?
「いやいやいや。それは違うというか、知らないというか…まあそんなことはいいんだ。それも含めて話は単純じゃない」
「……もう何でもいいです」
「うんうん、話を戻そう。
 
 好意ではなく憧れなのか。しかもそれが異性を恋愛感情抜きで見る姿勢だという。この考えは、僕が当時二人の関係を積極的に進展させなかったことの言い訳にも思えた。僕が彼女みたいに明晰で冷静で透明な人間になりたいと思って、それを目指すのだとすれば、その僕の意志にとって、僕と彼女の関係に心を乱されることは邪魔になる、というわけさ。
 まあ確かにこれは、傍にいていろいろ想像するだけで充実だという片思い状態と見分けがつかない。
 うん、同じだ
「あれ、話が違ってきてませんか」
「ちょっと。もう少し待って。考えながら喋ってるから質問は最後にしてくれ」
「……」
 
「好意か憧れか。それはどちらが正しいかではない。どちらがもっともらしいか、でもない。過去の自分の心の状態を問うているわけだけれど、それは今の自分とつながっているんだ。だから歴史の同定とか過去の確定とかいう問題じゃない。
 そのどちらを取れば、現在の僕自身に資するか。意味があるか。発見があるか。関係そのものは一旦終わっているが、その関係がいまだに自分に問いかけてくること。これを正面から受け止めれば、回想はプラグマティックに行われなければならない。そして、そうやって腰を据えた今まさに生み出されたのが、第三の解答だ」
「第三ですか……いえ。邪魔はしません、続きをどうぞ」
「それがね、最近読んだ本で、非常に面白い小説論でさ、ページを繰るたびに思考が刺激されて疲れちゃって、読み終えるのにけっこう時間がかかった。いや、今君と喋ってて、その内容が天啓のように閃いてね。『主語が述語に根拠を与える』という…これだけ言っても意味わかんないんだけど」
「根拠、ですか? 文法の話でしょうか」
 
「違うんだ。たとえばね、『この物体は青い。』という一文があるとする。これが物体=青い、でないことはわかる。ひっくり返して『青いは物体である。』としても通じないからね。でもふつうは、英語でいうbe動詞で結ばれる主体と客体は、一方通行であれイコールのように使われている。
 でもそれだけじゃない、というか、文として全く別の機能をもつ種類のものがある。さっきの例でいうとそれはこういうものだ。『青い』は『この物体』によってその存在、手応えを保証されている。『この物体』がなければ『青い』の実体はなにもなく、空虚に過ぎない、と。ややこしいだろう」
「……?」
 
「この例じゃわからないね。元の話題に即していえば、そうだな、『私はあなたが好きです!』という告白。
 これはふつうに考えても事実というよりは、未来を見すえての意志が含まれているよね。お互いもっと知り合いたいとか、将来あなたを幸せにしてみせますとか。こういうのは言語学的には、行為遂行的言明というらしい。これに対して天気予報なんかは事実認知的言明という。
 それはいいんだが、さっきの『主語が述語に根拠を与える』というやつね。この見方でみると、この告白は『私の「好き」という感情は、あなたの存在によってその根拠が与えられています』ということを意味する。どうだい」
「…なんだか、シンプルな告白の、意味がぶ厚くなったような感じですね。当たり前のような、そうでないような、不思議な感触の言葉ですね」
 
「うん、僕もよくわからないんだけど、まずここには時間が介在してるよね。私があなたを好きだという状態がポンとあるだけなら、それは瞬間でもありうる。そうではなく、私の「好き」という感情、これは言葉でもあるけれど、そういう抽象的でもありうる曖昧なものが、あなたという存在によって確たる手応えを得ていて、その手応えはあなたと私とがある関係をもつ限りにおいて維持し続ける、あるいは強まったりする、弱められることもありうる、という」
「この告白そのものが、力を持っているみたいですね。好きだと相手に言うことでその好意に気付く、とかもっと好きになる、とか」
 
「そうだね。そういう側面もある。でもね、僕が言いたいのはつまりこういうことなんだ。
 『存在が意味の実質を生む』。意味というのは、単語ごとにいくつか備わっていて、それを組み合わせて文章や発言にして相手に伝えたい内容を伝えるものだとふつうは考えるよね。これは言葉のツール的な、道具としての側面。でも、それは意味の発祥の形ではないし、辞書が整備されれば意味はもう生まれないのかといえばそんなわけもない。
 言葉になる以前のものを伝えるための言葉は、辞書的な意味だけでは力不足だ。定義された意味は社会の共通認識であるとともに、コミュニケーションの微妙なニュアンスの中でその定義から外れていくための土台でもある。その動機、つまり定義から外れて、個々の関係において独自のニュアンスを創造していくモチベーションはどこにあるか。それが『存在』なんだ。『存在が意味の実質を生む』の意味はここにある」
「うむむ。気の遠くなるような…では話を戻していただくと、どのようになりますか」
 
恋は人間を成長させる、かな」
「いきなり俗に戻ってきましたね。今までの話はいったい…」
「うーん、まあそれはいいんだ。こういうのは断片だけ印象に残れば、のちのち必要な時に浮かび上がってくるから。ディルウィード君、話に整合性を求めすぎると禿げるよ
「何をまた。フェンネルさんの方が…」
「み、皆まで言うな。墓穴でした。。
 
 そうだね…君のアニス嬢に対する気持ちが何なのかは、あまり決めつけない方がいいんだが、アプローチを変えてみるのも一興だよ。
 つまりね、それを恋心だと仮定すれば、ディルウィード君のイメージする恋愛という言葉にひとつの実質が与えられるわけだ。すると、小説や哲学書なんかを読んだ時に、そこに書いてある出来事や論理と、君のイメージとを比較することができるようになる。その比較によって、君の恋愛という言葉が新しい意味を獲得して、君がアニス嬢を見る眼もそれに応じて変わっていく。
 大事なのは、彼女と君との関係が恋愛かどうかではなく、君と彼女との関係を通じて恋愛とは何かを知っていくという姿勢なんじゃないかな。関係は固定しようとするより、変えていこうとする方が面白い。恋愛はそう言えると思うよ、結婚はまた別かもしれないが」
 
「なるほど。
 自分は考え方が保守的になっていたような気がします。いや、でも積極的に行けばいいわけでもないですよね…そうか、彼女のことをちゃんと見た方がいいとおっしゃるんですよね。言葉に囚われ過ぎるのはよくないと」
「そう。言葉は媒体だからね」
「難しいですね。彼女と喋っていても、一言一句に敏感になっちゃうもんなあ。
 そういえば、話を蒸し返しますが、フェンネルさんの『第三の考え方』でしたっけ、結局あれは何だったんですか?」
「ん? なんだっけな。えーと、恋でも憧れでもなく?
 
 ああそうそう。つまりね、あれは僕にとっての宿題なんだ。『存在が意味の実質を生む』。僕にとってはもう十数年会ってすらいない彼女が、いまだに意味ではなく存在として僕の中にいる。それは端的には謎で、謎だという認識は昔から持っていたけれど、君と話していて気付けたのは、彼女が存在であり続けることによって、それが僕の現在と未来の経験に対して相互作用をすることで新たな意味の実質を生み出す可能性を持っているということ。だから第三というのは、『未確定』か、『募集中』でもいいな」
「ははあ、前向きですねえ。とすると、彼女に会ってみたいとは思わないんですか?」
 
「どうだろう。会えば何かが更新されるか、別の何かが生まれるか、あるいはデリケートな何かが脆くも崩れ去るか。起こりうることが想像できないから、どちらでもいいのだと思う。
 それは巡り合わせ次第だけれど、星が回るためにも、少なくとも生きていては欲しいね。その辺がちょっと危うい子だったから」
「えっ」
「彼女のことを透明だと言ったよね。そういうところにも当時は憧れたんだと思うけど。
 卒業文集か何かにさ、当時流行っていたアニメで、朽木ルキアに似てるって書いたんだよ。誰も同意してくれなかったけど、顔が似ていた。でも今思えば、本質的には黒崎一護の方が近い。教室とか何かの集まりでいつの間にかいなくなることが多かったのは別にしても、『ふっと消えてしまいそう』な感じが、時々あった」
 
「すみません、そのアニメ知らないです」
「そう。僕もそんなに詳しくはないけれどね。有名な海賊アニメでたとえれば、サイボーグの逆三兄ちゃんが仲間になったぐらいまでしかフォローしていない」
「すみません、そのアニメ知らないです」
「そう。……アニス嬢に嫌われちゃうかもよ」
「!!」
 

香辛寮の人々 2-9 Can one speak about unspeakable? (5)

 フェンネルは向かいの椅子に向かって話しかける。
 
「すべての言葉は沈黙に通ずる」
 テーブルには彼以外だれも座っていない。
「言葉というか、会話だけども。二人で延々と続けていれば、いずれお互いに言うことがなくなる」
 もちろん空間は返事をしない。
「言葉はそもそも、会話のためのものなのだから」
 しかしフェンネルは、椅子の上部の空間に何かを感じとっている。
 空間は何かで満たされている。

 
「会話は目的があって始まる場合もあるし、ふとしたきっかけで始まることもある。けれどいったんそれが始まれば、お互いが意思をもってそれを続けようとする。その意思が、最初にはなかった目的を生む」
 フェンネルは考えている。
 自分は椅子の上の空間を占拠しているが、
 同時にここには、空間の欠如がある。

「その意味で、会話は創造的行為であるといえる」
 僕がいるせいで本来あるはずの空間が、その存在を否定されている。
 あるいは、ある〝べき〟はずの空間が。

 
「これまで現実に存在しなかったものを新たに生み出す。形があるわけでなく、発したそばからすぐに消えていくものであれ、彼らを含めこれまで誰も、見たことも聞いたこともないそれが、彼らのあいだでどんどん勢いを得ていく。その勢いは、彼らの意思に関わりなく、独自の生命力をもっているようでもある」
 形の現実的存在は、空間の否定をともなう。
 では、空間の肯定は形の不在なのか?
 当然そう。対偶だ。

「しかし会話は時を経て、その勢いを少しずつ失っていく。また、唐突にこと切れる。二人の協力によって創造されたそれは、遠からず死を迎える。小さな死。ほとんどの場合彼らは、その一時的な死を喜びをもって迎える」
 ではそれは〝そこには何かがある〟ということではないのか?
 
「会話の死によって、そこに沈黙が訪れる。沈黙はまた、新たな会話の開始によって破られるかもしれない。会話と沈黙は互いが勝手に相手を生み出す、永遠機関のようなものかもしれない。けれども永遠は現実にはない。最終の会話は最終の沈黙に呑み込まれる。最後に残るのは沈黙だ」
 空間の肯定……。
「彼らは沈黙を遺した。彼らの存在を証しするものは、彼らが存在する間だけ空間を漂い、彼らが消えていくとともに、その証も霧消した。沈黙は彼らの存在の証ではない。では彼らは何も残さなかったのか?」
 あるべき状態として自分が認める何かが、そこにはある。
 そこに何もないのだとしても。

「……君はずっとそこにいた。そしていない。これからも、ずっと」
 
 フェンネルはコーヒーを淹れるために立ち上がる。
 

香辛寮の人々 2-8 (承前)

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」 - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-6 (承前) - human in book bouquet
香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前) - human in book bouquet

* * *
 
「僕はここ最近ずっと、システムについて考えている」
「へえ、何のシステム?」
「特定の何かじゃないんだ。一般的な…という言い方もよくないな。定義を考えよう。僕が言いたいのは……『人の意図から離れたところで社会を維持しようとする仕組み』のことだ」
 セージは天井を見上げる。白熱電球がひとつ、あかあかと光を発している。
「君のいうそれを、今はシステムと呼ぼう、と?」
「そうだ。だからいろんなものを含む。いちいち挙げるのは面倒だけど、たぶんシステムに含まれないものはほとんどないと思う」
 彼は頭を戻し、とりとめのない面持ちでフェンネルの眉間を眺める。

 どうやら彼の頭は高速回転しているらしい。
 そこには充実の雰囲気があり、同時に空回りを運命付けられているようにも見える。
 個人が扱うには大きすぎる問題?
 どうなのだろう。
 そもそも何をもって、大き「すぎる」などと判断するのか?
 意識に限界がなければ、意識の扱う対象にだって限界もないだろう。
 もちろん、健全だとか酔狂だとか、そういったことはまた別問題だが。

「それで…君のいうシステムは、具体的に考えるよりは、なんというか、概念のまま考えた方がわかりやすいのかな?
「いや、分からない。それは考えてみないことには」
「うーん、そうであれば、とりあえずは具体例に落とし込んだ方が、考えやすいんじゃないかな? 理論を構築したいわけでもなし、あわよくば教訓だとか、警句みたいなものが導ければいいくらいに思っているのだろう」
「いや、分からない」

 フェンネルはセージに向き合っているが、その目が何をとらえているのかは窺い知れない。
 そうだった、下手に相づちを打ってもフェンネルの場合には逆効果なのだった。
 円滑な言葉のキャッチボールが、そもそも求められていないのだから。
 だから気を遣う必要はない。
 ないのだが……。

「何を問題にしていたのか、ちょっと忘れちゃったけど、新聞の話をしていたんじゃないかな。そう、新聞を読んでいるとね、そこに書かれている言葉の多くに、ちぐはぐな印象を受けるんだ。論理性とか、嘘か本当かとか、そういう問題じゃない。ニュースにしろ評論にしろ……いや、そこはひとくくりにできないな。主に政治の言葉にしておこうか。政治家の発言、行動、政治的なニュース。一つひとつのニュースには、それが報道される意味がある、と少なくとも送り手は考えて紙面を構成している。その意味に従って、ニュースの書き方、つまり実際に起こったことの切り取り方が選ばれる。そういう報道側の意図は裏にあって、でも表には、政治家の意図がある。国会で、記者会見での発言、あるいは靖国に今年は行ったとか行かなかったとかの行動、彼らの言動の一つひとつが目的を持っている。少なくともそのはずだと僕らは考える。政治家は自分が見据える目的を達成するために、日々活動しているわけだ。その目的が、彼ら自身のためなのか、僕ら有権者のためなのか、はた目に明らかではあるけれど、そこは今は問題じゃない。僕がちぐはぐだと感じているのは、彼らが目指していることと、彼らの言動がもたらす結果とが食い違っている、ということだ。それも、社会情勢とか人民の反応に対する彼らの『読み』が間違っているからではなく、端的に彼らのもっているはずの思想と実際の言動とが乖離している」

 セージは目を丸くしてフェンネルの話を聞いている。
 真剣ではあるが、その内容に驚いているようにも、何も理解してないようにも見える。

「どう表現すればいいんだろう。あんた、本当にそんなことやりたくてやってるの? 言いたくて言ってるの? ざっくり言えばこうなのかな。何かに無理やり言わされていて、でもその自覚が全くない。自分の意思ではないものを、あたかも自分の意思であるかのようにして自信満々に振る舞っている。……いや、そうか。自信満々に振る舞うことが正しいんだ、という確固とした自信があるんだ、彼らには。で、形式、姿勢にばかりこだわって、彼らの発言の内容にまで思考が届いていない。内容なんて後でどうにでもなると思って、とにかく政治家としての格好を取り繕うことに夢中になっている」
「ああ。それはそうかもね。国会でのやりとりを見ていると、閣僚の答弁の杜撰さに動揺して発言が混乱する野党議員の方が異常に見えるくらい、大臣の面々はつるりとした顔で発言しているからね」
「あの国会答弁の絵面は相当にグロテスクなはずで、だから国会中継がニュースの素材になる時はニュアンスが皆無になるほど細切れの断片でしか扱われない。まあでも、どこかの放送局では最初から最後まで見られるはずで、そのグロテスクが完全に隠蔽されているわけではない。ただ、というかだからというか……『世の中って結局こんなもんだよ』という諦念、あるいは侮蔑の認識の象徴になっているんだよ、あれが」

「あれというのは…国会答弁の中継が、かな。国のお偉いさんがテキトーなこと言ってごまかしているのが常識になる、というようなことかい」
「うーん。そういう一面もある。ただその……まず、『閣僚の答弁の酷さは市民のモラルハザードを招来する』みたいな発言を野党の誰か、えーとあの福耳の人かな、言ってたけれど、あれは一面的な見方であって、閣僚答弁は彼の言う原因であるだけではなく、結果でもあるんだ。つまり、彼らの存在を許しているのは紛れもなく僕ら、有権者一人ひとりだからね。その、政治家の誠実さとか、まっとうさよりも経済政策を優先した一部の大勢が求めた結果が現状なのかもしれない。それは経済情勢の好転のために他の面には目を瞑る、という判断だね。だけど、その判断自体がモラルハザードであり、その始まりであると考えることもできる。だから彼らは鏡、政治家の醜悪な姿は僕らの映し身であって、見るに堪えない理由は倫理観とか義憤の表れではなく、羞恥心なんだよ」
「ふむ」
「それとね……そうそう、こっちの方が大事だ。政治家の印象の話をしても仕方がない。その印象が、当たり前に受け入れられている、あるいは華麗にスルーされている、問題はこちらの方だ」
「ええ? 誰も受け入れてはいないだろう」

「個人の感情としてはね。だけど総意として、たとえば内閣支持率もその一つだけど、もう内閣総辞職してもいいくらいの失態をいくつもしているのに未だ現状が維持されていること。常識外れな突拍子もない政策が立案されて批判され、実行されて批判され、撤回されて批判され、それでもまた同じようなことが繰り返されていること。これらが意味するのは、結果として、今の政権を社会が受け入れているということだ」
「結果として、ね。なんだか突き放した言い方に思えるけれど。あれだな、ゲーム理論を思い出すね。一人ひとりが効率を追求して、結果として集団全体が非効率に運営されるという話」
ゲーム理論? 信頼理論じゃなかったっけ。まあいいけど…でもそうだな、そういう話かもしれない」
個人主義の追求が社会を衰退させる」
「うん……誰が言ったか全然思い出せないけど。ダメだな、理論を整理するには提唱者の名前もしっかり記憶しておかないと」

 話すごとに俯いていくフェンネルの額は、今はテーブルにくっつかんとしている。
 肘を付いて持ち上げられた両手の指がひよひよしている。
 餅を喉に詰めて苦しむ田舎の爺さんのようだ。
 声を上げて助けを呼びたいが、嫁の手前、格好悪い姿を見せられない。
 その表情はわからないが、だいたい想像はつく。
 まあ、こういう時にはフォローが必要か。

「ん? いや、別に理論的な考察をしたいわけではないのだろう」
 指のひよひよがぴたりと止まる。
 予想に反して、少し浮いた頭の下は無表情だ。
「そうだった。……コーヒー入れよう」
 セージの興味津々という観察顔は、フェンネルの目に入らない。
 彼は立ち上がって、ふらりと台所に向かう。

 文脈不明な話を長々と聞いているだけなのに、セージは自分が元気になってきたことに気付く。
 彼のエネルギーを吸い取ってしまったろうか、と思う。
 エントロピー、という言葉がふと浮かぶ。
 無秩序性のとめどなき拡大、というやつだ。
 この法則は、外部とのエネルギー交換が存在しない系の内部で成立する。
 今いるリビングがその理想的な系だとして……、
 僕とフェンネルのどちらが、より無秩序になっただろうか?
 いや、しかし秩序と静謐とが同じベクトルとも限らないな。
 意志のエネルギーは、あくまでメタファーに過ぎない。

 だが、メタファーによって、僕らはエネルギーを獲得するのだ。
 物理学にしてみれば僕らが住む世界はSFに思えることだろう。

* * *
 

香辛寮の人々 2-7 他責主義の底に潜むもの(承前)

cheechoff.hatenadiary.jp
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* * * 

 ヒハツ・コーヒーが入ったカップ2つを手にして、フェンネルがテーブルに戻ってくる。
「この胡椒自体に燻製のような香りがあってね、ドリップ前に粉に足すとコーヒーに深みが増すんだ」
「ふむ。君はどんどんスパイスに詳しくなっていくなあ」
「別に知識が増えてるわけではないけれど」
 そう言いながらフェンネルは嬉しそうだ。
「あれだろう、スーパーの調味料売り場に並んでる小瓶を片っ端から買っているんだろ?」
「そう言って間違いではないが、表現が過激だな。数年かけてコツコツ集めてきたのさ」
 セージはカップのコーヒーを口元にゆっくり持っていき、何度か息を吹いてからすする。
 うんうんと頷くが、感想は特に漏れない。
「今の君の流行りは何だい?」
「コーヒースパイスとして、かな? ヒハツの相性の良さを知ったのが最近で、それからは組み合わせを色々試している。例えばそうだな、五香粉、スターアニスキャラウェイ、セージ。ヒハツは裏方で香りを支えるイメージだから、そのペアには個性がくっきり前面に出てくるものを選ぶ」
「へえ。…これには何を入れたの?」
「ヒハツだけだよ」
「へえー。深い、のかな? 浅くはないかな、うん」
「君はコーヒーならなんでもいいんだろう」
 すまし顔のセージを真似て、興味のなさそうにフェンネルも言う。

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 コーヒー談義を諦めたのか、真剣な表情に戻ったフェンネルが口を開く。
「最近また新聞を読むようになったんだけど、時間もあるからじっくり読むんだよ。今のウィルス騒ぎで政治の酷さや醜さが露呈しているけれど、どうも何が問題かが分からなくてね」
「問題はいくらでもあるんじゃないのかい? 感染拡大への対応が遅すぎたとか、国民への経済保障の方針が決まらないとか、それなのに実用性の疑わしいマスクはさっさと配るとか…」
「うん。そういうのを挙げれば切りがないよね。で、切りもなく延々と報道されている。テーマにニュースバリューがあると開き直って、重要なことも瑣末なことも、ニュースの緊急性に選別もかけずに垂れ流している。そしてそれを聞く方も鬱々としながら、まあ仕方ない、こんな時だから当然こうなる、と受け入れている」
「そりゃまあ……仕方ない、としか言いようがないよね。僕らには」
「別に僕らが何かしなければいけない、とは思わない。その、感染拡大を止める適切な行動以外に、ということだけど。だからむしろ『何もしない』のがいいのかもしれない、『自粛の要請』なんていう論理の破綻した命令に従ってね。…いや、そうじゃないんだ。僕が考えているのは、今起こっていることに対してじゃなくて、その受け取り方の方なんだ」

 フェンネルを見るセージの目が大きくなる。
 口にせず、(来たぞ)と言うのは彼の目である。
 彼は抽象的な話に特にこだわりはないが、話が抽象的になると活き活きしてくるフェンネルを面白いと思う。

「受け取り方? どう行動するか、でもなくて、考え方の話かい?」
「そうだ。考え方、思想の話だ。だからこの思考を深めていったからといって生産性は全くない。でもむしろそれは求められていることかもしれない。つまりウィルスで経済活動が壊滅的に停滞している今こそが、生産性という価値観そのものを疑う岐路でありうるからだ」
「おいおいフェンネル、もう少し順序立てて話してくれよ。君の頭は理解しているのだろうけれど、その理解を言葉にしてもらわないと、こちらは君の論理についていけない」
「……いや、すまない。それは君の言う通りだし、君が間違っている所があるとすれば、それは君だけじゃなくて僕も理解していないことで、その点において僕は正しい」
「そこで自慢するのか? ああ、無知の知、とでも言いたいんだろう」
「鋭いな、セージ。君が話が逸れるのを喜んでくれる友人でよかったよ」
「喜んではいない。諦めているだけだ。君が逸れた道から戻って来れなくなることもね」
「すまない。……真面目さが必要なのはこういう時だな。いつも真面目なつもりなんだが、自分用と他人用で仕様が違うのが難儀だ。いや、君は何も悪くない」
 ぶつぶつ言いながら、フェンネルは渋い顔でコーヒーを一口飲む。
 眉間の皺によってコーヒーの苦味が増長されたという風情である。

「ニュースには良いニュースも悪いニュースもあるけれど、その2種類のニュースを念頭に置いた時に僕らが感じるのは、悪いニュースが圧倒的に多い、ということだろう」
「そうだな。毎日随所で起こる事件には気が塞ぐし、お祭り騒ぎのようなイベントのニュースには『もっと大事なことがあるだろう』と思ってしまう」
「ニュースの良し悪しにはもちろん個人の主観的判断が介在している。政府が国民に一律でいくら払うと決まって、ありがたいと喜ぶ人もいるし、金額が少ない、どうせ何ヶ月も先だろうと不満に思う人もいる。そういう個々の判断の違いはあるんだけど、一方でもっと大きな、一つひとつのニュースの内容とは別の次元における判断というのがあるんだ。たとえば、世の中が悪い方向に進んでいるという社会認識を持つ人がいくつかのニュースに触れた時、その中に肯定的な文脈のものが含まれていても、良いニュースの中から凶兆を嗅ぎ取ってしまう。彼にとっては、彼が目にし耳にするあらゆるニュースが悪いニュースとなる」
「まあ、そういう人もいるだろうね。悲観的というか、もう少し気楽に考えればいいのにと思いたくなるけれど」
「僕が問題にしたいのは、そういうネガティブな人が、なぜそんな考え方をするのかということなんだ」

「それこそ、その人個人の考え方の問題じゃないのかな」
「そう考えれば、それが結論で話が終わってしまう。…いや、話を続けたいからそう言っているわけじゃないんだが、これは実はとても大きな問題なんだ。社会問題にせよ、個人の生活上の支障にせよ、なにか不都合が起こった時、あるいは現にいま起きているという時、その不都合を個人の責任にする風潮がある。いつから始まったかは今はおいておくけれど、その風潮は、確かに、一つの思想であり考え方に基づいたものなんだ。…ああ、『自己責任』という言葉が妙な使われ方をして流行った時期があっただろう」
「紛争地域に個人の都合で行った民間人が、テロ組織に人質にとられたニュースがあったな。あれのことか」
「うん。あの時かもしれないし、あれは単に、僕らの社会にずっと通底していたその風潮がいっとき暴風域に発達したということかもしれない。とにかく、その…そうだな、名前をつけておこうか。自己責任主義、あるいは他責主義、といったところかな」
「え、その2つは同じなのかい」
「違うと思う。けれど、この2つが同じ文脈で使われること、2つ並べると違和感があるが別々に使われると同じ意味になってしまうこと、これもたぶん、今考えようとしている問題とつながっていると思う」

「厄介だな。いや、君がじゃなくてだよ…話が大きすぎて、話がちゃんと進んでいるのか脇道に逸れているのかがよく分からないという意味でね」
「確かに。これは僕以上に厄介だ」
 セージはスルーを決め込む。フェンネルのジョークに対する扱いは、それを発する時の彼の表情で判断できるのだ。
「まあ、結論が出るかどうかは大したことではなくて、問題意識を何かしらの形にできるところまでもっていければいいね」
「その通りだ」

 夜は長い。
 明けない夜はないが、待てども来ない朝もある。
 夜の底で二人が待つのは、朝ではない。

* * *
 

香辛寮の人々 2-6 (承前)

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* * *

 カップのコーヒーは空になっていたが、二人とも特に気にするふうでもない。
「君が居心地が悪いと感じたのは、会話はいちおう論理的に整合性がとれているというだけで、言葉のやりとり以外の面でコミュニケーションが成立していなかったからだ。君が彼といる時に気付けなかったメタ・メッセージの偏った読み落としは、彼にとっては合理的な判断だったはずだ。そしてそれが意味するところは、コミュニケーションの目的が君と彼とで違っていたということだよ」
「目的だって? そんなもの、普通に会話する時には想定しないんじゃないかな」
「その場合は『普通に会話する』ことが目的になる。純粋にコミュニケーションを楽しむ、とも言える」
「うーん。当人は意識していない目的、ということならそう言ってもいいのか」

「たとえば、販売員とか詐欺師とか、言葉を操って聞き手を特定の行動に導くのを仕事とする人々は、普通に会話しているだけのように相手に思わせながら、だんだんと話を自分の望む方向に誘導するだろう。政策を人々に納得させるために説得を試みる政治家も同じだ。必ずしも有権者の意向通りに政策が決定されるわけではないからね」
「彼がそういう類の人だというのかい?」
「いや、それは知らない。肩書きがどうこうではなく、性質として似た業種の人を例に挙げたまでさ。ともあれ、彼らは会話が自分の想定している筋道通りに進むことに神経を遣う。純粋なコミュニケーションを装うことと同時にね。どれだけスキルの高い人間でも、この二律背反的な2つの作業を矛盾なく完徹することはできない。だから彼らは自分の目的を達成するために、両立不可能な局面では前者を優先する。会話を楽しむだけだと思っていた相手が違和感を覚えるのはこの瞬間だ」

「なるほど。でも君の言うような洞察ができるのは、自然な会話の進行を自分で観察している人だけじゃないのか。そんなことをしている時点で、その人のコミュニケーションの目的が純粋かというのも疑わしいな」
「そうだなあ。判断が難しいところだけど、こういう考え方もできる。意識は必ず、自己言及的な一面を持っている。言葉の意味が確定していて、しかも他人とのあいだでその認識を共有できている、そういう前提で僕らは会話をするけれど、会話をしながら、一方では自分や相手が使った言葉の一つをとらえて『この言葉の意味は本当にこうだろうか?』と考えたりするだろう。実際に言葉の意味は、同じ文化圏にいても、使う時の文脈やニュアンスに応じて揺れ動くものだ。きっと、これと同じなんじゃないかな。『自然な会話ってなんだろう』と思いながら自然に会話する、という感じ」
「……ふむ。言われてみればそれは、現実にはありふれたことかもしれないね。無意識レベルでの符牒のような、『特定のこの人にとっての自然な言葉遣い』をお互いに形成したり、探り合ったりしながら会話をすることで、人間関係ができ上がっていくわけだから」

 セージは新たな発見に表情を明るくする。
 一方のフェンネルは伏し目がちに空のカップを見つめている。
 同じ地点を共有しようと彼に向き直ったセージは、置いてきぼりを食らった気持ちになる。

「コーヒー、もう一杯足そうか?」
 フェンネルの右手が、力なく中途半端に持ち上がる。返事をしようとして、その返事がなにかに中断された形だ。中空の手も、ばらばらに広がった五指も微動だにしない。
「いや……うん、そうなんだが、違うんだ。この頃よく新聞を読むんだけど……なに?」
 セージは口をへの字にして、目だけで笑っている。

「いいや、何も違わないよ。ちかごろの新聞がなんだって?」
 フェンネルは逆さ月になったセージの目を見る。視線の先の自分の右手を見る。
 試みに握りしめてみる。指がごわごわしていると感じる。

「もう一杯いれようか。今度は君、僕のを味わってみなよ。最近ペッパー・コーヒーが自分の流行りなんだ」
「なんだって? コーヒーに胡椒なんて、相性良いとは思えないけど」
「胡椒もスパイスの一種だからね、実は合うんだな。ふつうの胡椒は試してないけど、ロングペッパーってのがあってね。別の名をヒハツという」
「へえ。なんかそれ、シャーロック・ホームズの格闘技みたいだな」
「それはバリツ」

* * *
 

香辛寮の人々 2-5 「シンゾー・エクリチュール」

 
 フェンネルは共同の居間で新聞を読んでいる。両肘をテーブルにつけ、片手にコーヒー。居間には彼しかいない。
 業だな、と感じる。昨今のウィルス報道のことだ。
 報道はニュースをなんでもかんでも伝えるが、その姿勢はマスコミに必然の他力本願だ。その言葉を浴びるほど受け取れば、その人間が扱う言葉にも同じ傾向が現れる。「他人が自分のために何をしてくれるか」ばかり考える人間が増えれば、「他人のために何ができるか」を考えることがビジネスになる。そしてビジネスとして確立していく流れに沿うように、形式が内容を侵食していく。手段が目的にすり変わるのは、昔誰かが言った行雲流水のごとき自然現象にも思われてくる。
 玄関のドアが閉まる音がする。廊下を歩く足音に、誰が帰ってきたのかとフェンネルは思う。
 顔を上げると、居間の入り口にセージが立っている。

「おかえり」
「こんばんわ、フェンネル。今日は遅いね」
「こういう日もある。…何かあった?」
「わかるかい。ちょっとね、面白いことがあって」
 フェンネルが立ち上がろうとするのをセージが止める。
「いいよ、自分で淹れる。慣性さ」

 セージはフェンネルの向かいの椅子に座る。疲れているが元気そうな顔をしている。
 脳と身体の相反、という言葉がフェンネルの頭に浮かぶ。

「今日は人と会ってきたんだ。古い友人に『あなたのためになるからぜひ会ってみてほしい』と言われてね。街まで出て、カフェで話をした。夕食前に短く済ませるつもりが、気がついたらこんな時間だ。ふと外を見た時に暗くなっていてびっくりしたよ」
「それじゃあ夕食は抜いたの?」
「結果的にね。まあ、こういう日もある」
 セージは規則正しい生活を送っているが、神経質というわけではない。自分の規則から外れることに頓着がなく、むしろ楽しんでいるようにも見える。彼は「規則は時々破るために普段は守るんだ」と言ったことがある。
「空腹にコーヒーはこたえると思うけれど。冷蔵庫に何かなかったかな」
「いいんだ。疲れた体にはいい刺激になるさ」

 セージはため息をついてコーヒーをすする。フェンネルは俯いた彼の顔をじっと見ている。
 彼は顔を上げない。テーブルに広がった新聞の隅の記事を読んでいるように見える。

「どう言えばいいのかな。悪い人ではなかった。詳しい話は省くけれど、彼はいろんな分野の仕事に携わっているようで、僕の自己紹介を聞いたあとで、その僕のためになるようなことをいろいろ聞かせてくれた。その延長で、僕に新しく行動を起こすことも勧めてくれた。全体的になるほどと思ったんだが、どうも行動を起こす気にまではなれなくてね、彼にいい返事はできなかった。それでも彼は快く受け入れてくれたよ。最初から最後まで、こちらの目をしっかりと見て、真摯に受け応えしてくれたように思った。それでもなぜか、彼と分かれてから後味の悪さが残ってね。いや、後味というか、居心地の悪さみたいなものを会った最初から感じていたような気もするんだ。相手に全く非がないから、どうも理由は自分にありそうだ、でも何がそうさせるのかがよくわからない。……まあ、面白いと言うのは語弊があるか。見ての通り、どっと疲れる出来事だったのだけど、謎が生まれたという意味では興味深いとも言える」

「話の内容は面白かったの?」
「うん。自分が知らない分野のこと、関心はあるが掘り下げて調べたことはなかったこと、会話のなかで彼はそういった僕の関心を引き出してくれてね、上手に説明してくれたよ」
「それで……ただ熱心に話したから疲れたというだけではないように見えるけれど、どうしてだろう?」
「それなんだ。なんだかね、会話はちゃんと成立しているんだけど、手応えがないというか、ニュアンスが伝わっていないというか。いや、別にこちらに明確な意図があったわけじゃないから、ニュアンスもなにもないように思うんだけれど」
 フェンネルには"彼"の顔が、その表情がありありと思い浮かぶ。黒光りする乾いた瞳。流暢に踊る唇の頑なさ。
「そうだな。彼の話しぶりとか、聞き耳の立て方とかが、予定調和的だったということはない?」

「……?」
「具体的に言おうか。細かいところでは君の事情に合わせたことを喋っていながら、それが結局は彼が言いたいことに必然的につながっていく。彼が言いたいことは最初からあって、君の話がどうあれ、そこに結びつけられる。個別的な君の情報が、一つの結論を彩る装飾的な材料にしか用いられていない。そういう感じ」
「うーん、なるほど。言いたいことはわかるけど、相変わらず君の具体例は抽象的だな」
「君が彼との会合を抽象的にしか語らないから当然だよ」
「それはそうだ。しかし……うん、たしかに、僕の違和感は彼の話の内容ではなくて、態度にあったのかもしれない。僕の曖昧な話でよくわかったな。君にも何か経験があるのかい?」

「過去に君のいう彼と同じような人間に会ったことがあってね。僕は自分で考えるのが好きな人間だから、最初から違和感には気づいていた。コミュニケーション能力が高くて、予定調和的な展開を望んでいて、かつそれが自身の利益と結びついている人間には独特の雰囲気が宿るんだ。態度に揺らぎがない。真摯に聞く姿勢にブレがなさすぎてこちらを観察している印象を与える。予定調和を乱すこちらの反応を過小評価する、あるいは無視する。会話の逐一に敏感なはずが特定のメタ・メッセージには極めて鈍感になる」
「メタ・メッセージ?」
「コミュニケーションに関わる要素のうち、コミュニケーションの質や成立可否に関わる信号のことだ。会話の中の言葉や、しぐさや表情などがそれに含まれる」

「ふうむ。そこまで分析できているのか。君はその時、相当イヤな思いをしたんじゃないかな」
「その時はね。とはいえ、分析して昇華できれば、すべてはいい思い出だよ」
「ああ、君は好きだったね。『昇華班活動報告』ってタイトルで昔書いていたな。内容はどうあれ、文章にエネルギーが満ち溢れていて、読んでいるこちらまで元気になった」
「最近は昇華班の出動要請がめっきり減ってしまってね。この平和を喜べばいいのだろうけど、乗り越えるべき壁がないのが寂しい気もする」
「ふふ。どちらでもいいと思っているだろう」
「まあね」

* * *
 

香辛寮の人々 2-4 「アニス嬢によろしく」

 
階段を降りる足音が聞こえたあと、ディルウィードが居間に姿を見せる。
彼はソファでコーヒーを飲むフェンネルに目を留め、笑顔になる。

「こんにちは、フェンネルさん。いい香りがすると思ったら」
「やあ。君も飲むかい? さっき淹れたところだよ」
「ありがとうございます。実はちょっと期待していました」

奥のキッチンへ向かい、カップとソーサーをそれぞれ手にして戻ってくる。
テーブルにそれらをセットしてから、フェンネルの向かいに行儀よく座る。

「実はちょっと、フェンネルさんに相談がありまして」
「へえ、珍しいね。いつもは僕が聞いてもらってばかりだから。なんだろう」
「いえ、そんな、自分は…いや、まあいいか。ええと、同じ学科に気になる人がいまして」
ディルウィードは寮から近い大学に通っている。
「その、女性なんですけど、この間いっしょに散歩に出かけたんです」
「デートでかい? 古風だね。まあ、この辺りに遊ぶところがそれほどないのは確かだけれど」
彼はフェンネルを見ながら、うんうんと頷く。
「ああ、自分もそう思ったんですよ。年寄りくさいというか…あ、誘ったのは自分ですけど、彼女が提案したんですよ。『どこか行くなら近くを歩きましょうよ』って」
「…そりゃ素敵な彼女だね。僕と気が合いそうだ」
「あ、すみません、別にフェンネルさんが年寄りくさいと思ってるわけではなくて」
「いいんだ、間違ってはいない。それで、話の続きは」

こほん、と咳払いを一つして、彼は腕を組み、視線を上に向ける。
天井には反射を繰り返した午後の光が、濃淡を交えて斜めに差している。

「彼女とは同じ講義を取っていて、グループワークがあった時に何度か話したことがあったんですが、当然というか、いやどうかわかりませんが、その間の話題は講義のことばかりでした。だから自分は彼女自身については何も知らなかったんですが、ただ実用的な話を一緒にしているだけでも、どことなく魅力を感じたので、ある日講義が終わってから、思い切って話しかけてみたのです」
「それで、話がいい方向に弾んで、デートすることになったと」
「はい。で、この辺りは自然道の通った森や山があって、散歩には事欠かなくて…ということを彼女と歩いて初めて知ったんですが、それはさておき、いちおう望みがかなって、彼女とプライベートな話ができたわけです。だけど」
ディルウィードの俯いた顔は、ただ真剣なようにも、憂いを帯びたようにも見える。
「彼女のことをいろいろ聞けたのは良かったのです。自分のことも話したし、そうして彼女に自分を知ってもらえたことも良かった。一緒に歩いている間は楽しかったし『また会いましょうね』と言ってくれたんで、自分に対してわりと好印象を抱いてくれたのだと思います。ただ、どう言えばいいのか、うーん」

彼は目を閉じ眉間に力を入れて、うーんと唸る。
彼女と歩いた時間を思い起こしているのだろう。
ただ口元に、楽しい思い出の反芻に伴うはずの微笑は観察されない。

「その日待ち合わせ場所で顔を合わせた時と、じゃあねと別れた時とで、彼女が全く変わっていないという印象を受けたのです。なんか、つい最近の自分のことを分析するのも妙な気分ですが…彼女の趣味とか、好きな食べ物とか、そういうことを知って、なるほどなとか意外だとか思って、自分の彼女に対する印象が変わるのがふつうでしょう? もっと彼女のことを知りたくなったとか、なんか自分とは合わない人かもしれないなとか、いや評価という言い方は好きじゃないですが、彼女自身の情報が自分にある種の価値判断を起こさせて、見る目が更新される、変化を受けるはず。その「はず」が、全然そうではなかったことが、どうも腑に落ちないのです」
「ふうん。それは、君が彼女と一緒にいた時間という経験が、その時間それ自体は充実していたが、その経験は君と彼女の関係に何ら影響を与えていない、ということかな? 話を聞いていると、彼女の印象ばかりを意識しているようだけど、たぶん君は、その逆もそうだと思ってるんじゃないかな。つまり、デートの前後で、彼女の君に対する印象が全く変わらなかった、という印象を君は受けた」

彼はぎょっとして、見開いた目をフェンネルに合わせる。
「いや、そんなはずは…むむむ」
顔のパーツが統一を欠いたような、わりと穏当だが奇妙に見えるには違いない福笑いのような表情には、驚きと困惑と、一匙の悲哀が現れているようだ。

「…実のところ、そうなのかもしれません。思えば、大学の講義で最初に会話した時から、彼女は自分には親密に接してくれて、それは今も勘違いではないと思っていますが、でもその親密な感じは、最初からこの間のデートの後まで、一貫して揺るがない。いやでも、彼女は誰にでも愛想を振りまくような八方美人というわけでもないのです。やかましく絡んでくる男にはイヤな顔をするし、食堂でグループで食べている時なんかは、中立的というか、冷静というのか、感情を表に出さない落ち着いた表情をしているのです」
「よく観察してるね」
「た、たまたま目に入っただけです。そんなじっくり見つめるなんて失礼ですから。…それはいいとして、フェンネルさん。彼女の親密さは、何か意味があるのでしょうか? そこに…いや、期待しているわけではないですが、好意、みたいなものは含まれているのでしょうか」

彼の頬には、わずかに赤みが差している。
若いなとフェンネルは思う。
これは良い若さだ、とも思う。

「そうだね。僕にわかることは少ないけれど、言えることはある。その彼女のことだけれど…名前はなんていうの」
「あれ、忘れてましたね。すみません。アニスさんです」
「アニス嬢ね。いい名前だ。甘くて苦い」
「はい?」
「いや、聞き流してくれていい。そのアニス嬢のことだけど、僕とだいぶ違う人間ではあるが、性格の一部に共通点もあるらしい。君は僕を知っているから、この話は君にもわかりやすいだろうと思う」
「はい、お願いします」
「そうだな。一言でいえば、彼女は実験屋なんだ」
「ジッケンヤ?」
「一般的には研究者、かな」
「それはどういう…」
「つまり、君は研究されている。抽象的に言えば」
「?」

今度の福笑いは、目隠しを取って為されたらしい。
明確な困惑。

「解釈は君の自由だ。ただ、間違いのないように言っておくと、僕は君のことが好きだからね。君は人に誠実で、裏表がない。君といると僕は、前向きになれる」
「はあ、ありがとうございます…?」
「研究者だって誠実だし、裏表がない。ただ、その素直さが顕れる場面が、ふつうとちょっと違うというだけだ。アニス嬢と仲良くなれるといいね」
「ええと、それは応援してもらっているのでしょうか」

フェンネルは、満面の笑みを浮かべる。
笑顔の比重は、水より小さいのだ。

「アニス嬢によろしく」
 

香辛寮の人々 2-3 明けない夜に、空けないウィスキー

 
ティーチャーズを飲むのは今日が初めてだ。
スーパーに置いてあるものでは、シーヴァス・リーガルとジャック・ダニエルが好きだという記憶がある。
ただ、初めてウィスキーを手に取った大学生の頃に飲んだ安酒も、味は覚えている。
今好んで飲む気にはならないが、口にすれば、懐かしさが広がるだろう。


シングルモルトブレンドウィスキーの、どちらが好きということもない。
前者はクセが強く、後者はバランスがとれている。
だから好悪がはっきり分かれるのはシングルモルトの方だ。
一方のブレンドは、大体においてそつがなく、それを特徴がないとも言える。
優れたブレンドウィスキーは優れて上品だが、それを特徴がないとも言える。

シングルモルトで記憶にあるのはアイラウィスキーの、ボウモアラフロイグ
ボウモアは一口舐めるだけで、強い磯の香りが舌を突き抜ける。
初めて飲んだ時、それが磯の香りだと言葉になる前に、養生テープを連想した。
当時働いていた研究所で、やけに海苔くさい緑色の養生テープを使っていたからだ。
でも、養生テープから思い直し、磯を認めると、海辺の蒸留所に並ぶ樽が思い浮かんだ。

強い芳香は、瓶の封を開けると急速に薄れていった。


ラベルにクリームという言葉があって、なぜかバターフレーバーを期待した。
いや、期待ではなくただの連想で、その連想の面白さで買ったようなものだ。
ここ数年、自宅ではウィスキーではなくハーブリキュールを飲んでいた。
だから、初めてのティーチャーズは、数年ぶりのストレートウィスキーでもある。

最初の一口、スモーキーな香ばしさ。
悪くない。

 × × ×

「問題意識はあるんだよ」
 フェンネルは弁解するように言う。
「うん。でも、何が問題なのかが分からない、と?」
「そうだ。いや違う」
「どっちだ?」
「……」
 セージは腕を組み、俯いている。その目は閉じられている。
 フェンネルは猪口にウィスキーを注ぎ、ちびちびと飲む。猫がミルクを舐めるように。
 沈黙。

 フェンネルはセージを見るともなく視界に入れている。首を左右にひねって、音が鳴るのを確かめる。
 セージは目を開け、その動きを観察する。なぜか微笑む。苦笑いかもしれない。
「首が凝るような話だよな」
「いや、違うんだ。君の姿勢を見てると、首が固まってくる気がして」
 一度解けたセージの微笑が、倍加して戻ってくる。
「ああ、僕の代わりにストレッチしてくれたわけだ。あれだろ、君の好きな…」
ミラーニューロン
「そうそう」
 フェンネルは景気良く首を回す。セージにその音は聞こえない。

「それで……」
「うん。話はとても複雑なんだ」
 フェンネルは眉間に皺を寄せて考える。しかし、何かを待っているように動かない。
「言いたいことをすぐにパッと言えるような事柄ではないのだろう。とっつきやすい所から少しずつ言葉を積み上げていって、その過程のどこかで自分が問題にしていたことがポロっと現れる。それを君は…うん、期待しているわけでもなさそうだな」
 セージの目の前にもウィスキーが注がれているが、彼は一度も手にしていない。酒は思考を促進する道具にはならないと思っているのだろう。
「なんだかね、セージ。これまでずっといろんな本を読んできたけれど、どうもね、何かが変わってきたようなんだ。突然のことなのか、つまり何か節目があったのか、それかその変化がゆっくりと進行してきたのか、どちらかは分からない。いや分からないでもないんだが…それは今は問題じゃない。何が変わったか。本に対する態度か。いやむしろ逆なんだ。本は、読書は言葉のインプットだろう、その逆のアウトプット、僕が変化を自覚しているのはこちらの方だ」
「喋ったり、文章を書いたり、といったことが、昔と比べて変わった?」
「そうだ。なんというか…受け身になっている。いや、もともと僕は総じて受け身で、話すにしても書くにしても、きっかけなり、アプローチなりを経て始まるのが自然だと昔から思っているから、受け身であること自体が新しい事態ではない。その受け身であることの、度合い…じゃないな、質が変わったようだ」
「ほう。具体的には?」
「それがすぐ言えれば世話はないんだが」
「それはそうだな。まあ、ゆっくりやればいいさ」

 セージは目の前のグラスを手に取って、カラカラと氷を鳴らす。
「夜は長いんだ。なにせ、明けるまではずっと夜だ」
「なんだい、それは。なにかの謎かけ?」
 セージは顔をグラスに向けたまま、目だけでフェンネルを見つめる。
「君の夜、精神の夜。君は夜が好きなんだろう」
「昔は好きだった。学生の頃はね。外が暗くなると、さあこれで自由だ、なんでもできるぞと思ったものだ」
 フェンネルの中に、新たな問題意識が生まれる。唐突に。
「しかし今は……好きとか嫌いとかではなくなったな。うん、君の言う通りかもしれない。夜は、有無を言わさずここにある。対象化の範疇外のものとして。そうか、僕は今、夜なのか」
「それをメタファーでなくとらえることが大事かもしれない」
「?」
現実に夜と呼ばれているものがメタファーかもしれないということさ」
「わからないな、それでは」
「考えればいいさ」
 セージは真面目だ。何の意味もない言葉を並べて面白がるような男ではない。話が抽象的過ぎるのだろうか。
 あれ、そういえば元は何が問題だったか…。
 まあいいか。
「そうだな。明けない夜はないと言うが、はたして"本物の夜"が明けるのかどうか」
 それも、どちらでもいいことだ。

 猪口にもグラスにも、ウィスキーが残っていた。
 ストレートのまま、あるいは水割りになって。

Can one speak about unspeakable? (3)

(1)
(2)

 × × ×

「『沈黙に至る雄弁』というものを考えてみたのです」
「ふむ。つい最近どこかで聞いたような表現じゃの」
「……」
「……」

「言うことがなくなって黙り込む、ということかな? もうおしまい?」
「いえ、ちょっと一人でデジャビュに浸っておりました」
デジャビュとな。あれは面白い現象じゃ。実はあれの親戚でベジャドゥというのがあってな……」
「その話はまたの機会にお伺いします」
「なんじゃ、つまらん。では早う進めんか」
「はい」

「キーワードがもう一つありまして、こちらから本筋に合流できそうな予感がしますので回り道をご容赦願いますが、『手がかりとしての否定』と、そう呼んでおきます」
「ふむ、そう来たか。斬って捨てるための否定、ではないということだろう?」
「その通りです。あらかじめ確立させたい論理があって、その論理を補強するというか、研ぎ澄ませる、夾雑物の排除としての否定ではない。その逆、という言い方もおかしいかもしれませんが、『手がかりとしての否定』は、何かを生み出すための否定なのです。そして、先走って言いますと、その何かとは『言葉では表現できないもの』なのです」
「話はわかる。が、一度具体例に落とし込んでみてはどうかね」

「うーん。その、何か微妙なものを言葉で表したい時に、それそのものではないが近いものを取り上げて、『Aと似ているが違う』『実質的にBと同じだがニュアンスが違う』と言ったりします。それらの言明は、目的のものを直接明示できていませんが、AやBという具体的な類似物を通じて、おぼろげながらそのイメージを浮かび上がらせる効果があります」
「…それが具体例かね?」
「えーと、論理の抽象度を一つ下げた例、ですかね。よくわかりませんが、もう少し具体的に言いますと…そうですね、SF小説なんかではよくありそうですが、実際には存在しないものがたくさん登場しますでしょう? ものにせよ現象にせよ、色や形で、即物的な描写もされますが、動的なイメージ喚起のために、現実に起きて実際に人が体験できる現象が比喩で用いられることもあるでしょう。タイムマシンで過去に移動する時に、宇宙空間のような、あるいは周囲が水中のようにぐにゃぐにゃと歪んだ空間を通過する、とか」
「小説は存在しないものを言葉であらしめるツールじゃからな。元を言えば、言葉そのものがそういうものでもあるが」
「でも、ちょっと話が違うような…もっとシンプルに、例えば、ある色を表現したいとします。ユーラシアの高地、人里離れ、木々に埋もれた秘境的な池の色。青、水色、群青色、エメラルドグリーン…細かい分類があるとはいえ色の名称だけでは到底不足で、清々しく晴れ渡り、風もなく凪いだアドリア海の色、みたいな、天候条件付きの具体的な場所を挙げて、そのアドリア海の色と沖縄のサンゴ礁が広がる浅瀬の色を足して二で割ったような、といった想像上の色の混交まで行われる。色を混ぜるイメージは、絵の具の赤と青を混ぜれば紫、とかコーヒーに牛乳を入れたらミルクコーヒーとか、そういう現実の体験が元になっている」
「ふむ。先の例と、何が違うのかな」
「…難しいですね。同じような違うような」

「君が言いたいのは、というか、今目指している状態はこうではないかね。言葉で表せないことをどうにかして、それそのものではないがどこかしら関連があるものを『此れに非ず』という形で次々に連ねていき、その例示が尽きる地点、手がかりのストックが全て動員済みとなって沈黙してしまう」
「はい、目指しているというか、その状態に至る直前直後についてのイメージから、何かを導こうとしているのだと思います」
「ほう。それで」
「…話を戻していただいたのに、また逸れそうですが、少し抽象的な議論に戻ります。言葉は何かを表現するためのツールである、という前提に立つと、『これはAである』という言明は、言葉の存在目的に適っているといえます。ある一つの単語に対して、一つのものや現象が辞書的に対応した時、その単語を発したり思い浮かべるたびに、対応したものや現象が喚起されることになります。ところが、『これはAではない』という言明は、これに対応するものや現象が一に定まっていません。原理的にいえば、Aではないと言われれば、Aではないあらゆるものが想定されることになります。実際は、否定はされつつも想定の手がかりがAにあるために、その言明によって人がイメージするのは、何がしかAと関係があるものとなります。それで、ここからが本題ですが…」
「聞いとるよ」
「ええと、この『これはAではない』という否定的言明は、見方を変えれば、対応するものや現象を探している動的状態を指してもいます。対照的に、『これはAである』は、静的状態といえます。この肯定的言明は、意思伝達としては確実に行えるが、言明そのものが新しい何かを生み出すことはない。逆に、動的状態の意味は、リンクの一端が開かれた状態、結合手が余って活性状態にある原子のようなものです」
「何かと結びつくために、エネルギィを多めに抱えた不安定な、状態じゃな」

「……その不安定な状態こそが、言葉が生きている状態、ひいては人が生きている状態、なのではないでしょうか」
「こらこら、逃げちゃいかん」