human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Can one speak about unspeakable? (2)

 
(1)

 × × ×

「『沈黙に至る雄弁』というものを考えてみたのです」
「ほう。どこかで聞いたことのある表現だな。それは具体的には、どういうものかね?」

「前に話していたように、言葉がそこには存在していないはずの沈黙という状態を言葉で表現したい、いや、沈黙を言葉によって導きたいというか、両者を介在させたいというか。ええと、とにかく、情報という形で言葉が溢れかえっている現代において沈黙が存在感をもって現れるためには、言葉から逃げるのではなく、言葉と真正面から向き合う必要があると考えています」
「ふむ。君は身体性を賦活する筋道を念頭に置いているようだな。意識を持ち、言葉失くして生きられぬ人間は自然状態に戻れない。自意識の届かぬほど言葉に束縛された我々が動物のような自然な身体性を獲得するためには、何も考えずに無意識状態を目指すのではなく、意識の桎梏を解くための思考操作を通じて自然状態に漸近する。言葉が与える身体運用への影響を理解することが、そのスタートになるわけじゃな。おお、すると君は、沈黙を一種の動物的状態と考えているのかね?」
「……いえ、そのような発想は全く持っておらず…興味深いお考えです。あるいは、沈黙とは自然状態であるという結論が導かれるのかもしれませんが、とにかく今は私の考えを進めてみたいと思います」

「すまんの。ちと先走り過ぎたな。スタート前の脱線は、元の道に戻れる可能性を著しく損なうゆえ、注意せねばならん。もとい、わしは脱線してナンボと思うておるが」
「同感です。とはいえ、元の道が開拓すらされていない場合においては脱線という概念も成立しません。変化をもたらすために進むべきは獣道で、その自覚がある限り、私たちが日々歩む道はすべて獣道なのではないでしょうか」
「いらん所で調子を合わせんでよい。先へ進まんか」

「ああ、はい。何の話でしたか…そう、『沈黙に至る雄弁』でした。イリイチの過去の短文を集めた本を最近読みまして、その中に「沈黙の雄弁」というタイトルの一節がありました。プエルトリコから移民が大勢流入した時期のニューヨーク州で、彼が移民問題に取り組む聖職者の長として、宣教師たちと勉強会を開いた時の講演録だそうです。アメリカは移民の国であって、立国の初期からずっと、様々な国から人々が移民としてかの国で暮らすためにやってきたわけですが、国に定着して長い”旧移民”たるアメリカ人は、それぞれ文化も宗教も生活習慣も異なるはずの多様な”新移民”に対して、自分たちがかつて移民たちを受け入れた経験をもとにした強固な固定観念をもって接するのだそうです。その固定観念は、プエルトリコからの移民を実際とは全く異なる移民像に仕立ててしまう。移民は貧困街に集められがちなのですが、善意によって彼らを救おうとする政策や個々のアメリカ人の行動は、移民たちにとっては、自分たちを理解しない善意の押し売りに思えて、反発してしまう。宣教師としては、彼らを真に理解するためには、単にスペイン語を学んで彼らと会話ができるようになるだけではなく、文法的に整合な意思疎通を超える必要があり、その真の理解へ到達するためにはいくつか段階があるのですが、そのそれぞれが「沈黙の段階」であって、こちらは沈黙して相手の言葉を真摯に聴くという姿勢がベースにあるというのです」

「相手の言葉を聴くために沈黙する、か。現代ではネガティブに捉えられがちな姿勢じゃのう。それで、イリイチのいう「沈黙の段階」というのが面白そうだが、それは一体何かね?」
「うーん、どうも、とにかく相手の言葉をまずは聴くという実際的な姿勢の沈黙から始まって、最終的にはユダに裏切られたキリストの受難を思って祈るマリアの沈黙に到達する、という話で…つまりは行雲流水か、と私は思ってしまいましたが。うん、こんな説明じゃ訳がわかりませんね。ええと、私がこの本から示唆を受けましたのは、その「沈黙の段階」の説明の中で、キリスト教が絡んでくる段階以前の、沈黙の分類と例示の部分なのです」
「君はいつも本題にたどり着くまでが長いのう」
「自覚しております。それで、その肝心の説明部分は漠然としか…いや、正直ちゃんと覚えていないのですが…」
「かまわんよ。本の紹介が目的でないのなら、君とその本から生まれたことを言えばよい」

「沈黙というのは、言葉が口から出てくる前の状態なわけですが、沈黙の段階とは、その「口から出てくる前の言葉」が、どんどん自分の内側へ落ちていくことだというのです。例えば、目の前にいる人の話を聞いていて、最初はその話に対するアドバイスが頭に浮かんで、意見を聞かれたらこう答えよう、などと思っていたのが、話を聞き続けるうちに、その自分の思いが頭の奥底へ沈んでいって、何か返事をしようという気も消えて、黙って相手の目に魅入ってただ頷いている、というような」
「なるほど。相手が話しているのが、自分に意見を求めているからではなくて、ただ耳を傾けて話を聞いてほしいから、と聞き手がだんだん分かってきた、ということかな」
「ああ、それはすっきりした理解ですね」
「ん? 嫌味に聞こえるぞい、それ」
「いやー、そんなことはない…と思うんですが」
「で、そうではなくて?」

「そのー、話がまた脱線しそうなんですけど、以心伝心と言うでしょう。言わずして、自分の思いが相手に伝わる。長年連れ添った夫婦なら、身振り手振り、いや目線や佇まいだけでも相手の考えが手に取るように分かる。まあ、言葉が意思に従属するとは限りませんし、それは言葉以前も同じなわけで、ええとつまり、一方の言葉を介さない理解が誤解であっても他方がそれに合わせてしまえば、しかもそれが無意識なら以心伝心が成立したことになるわけで、フロイトが出てきてからコミュニケーション論は実に複雑になったわけですけど…ああこりゃダメな脱線だ。うーんと、以心伝心ってあるじゃないですか」
「魚心あれば水心、か」
「あ、その諺って、そういう意味なんですか? 僕はてっきりアニミズムのことかと」
「……」

「えーと。以心伝心という現象は、そのさっき触れた、「口から出る前の言葉」が内側に降り積もっていくということと、関係があると思うんです。熟年夫婦の例だと、なんだか言葉無用の以心伝心になっちゃうんですけど、それは現象の全容を表してはいない、いやむしろ悪例ですらある。その場で言わずに堪えた言葉、呑み込んだり、自分で噛み締めているうちに消化しちゃったり、虚空へそっと吐き出したり、そうして本来は誰かに伝えるために生まれた言葉が、目的を遂げずに失われる。でも、実はそうした言葉たちは完全に消えたわけではない。言葉が発される直前に込められたエネルギィが、その媒体から脱け出たというだけで残留している。どこに? もちろん、何かを言おうとした、その人の中に、です。それで、話たぶん戻るんですけど、沈黙して相手の話をただ聴くという場には、相手の言葉がもつエネルギィの移動だけでなく、その言葉が聴き手に届いた後に生まれるエネルギィも存在しているのです」

「うーむ。すると君は、本来の以心伝心という現象を成立させる入力エネルギィがそこにある、と言いたいのかね」
「えーっ、と…?」
「違うようだね。もっと話を戻そうかの。以心伝心、あるいは「口から出る前の言葉」かもしれんが、君のいうそれらが、「沈黙に至る雄弁」とどう関わるのかね? ふむ、「口から出る前の言葉」の集積が指しているのが「雄弁」ということかね?」
「……なるほど!」
「目が点になっとるぞ」

「目が、め…メガンテ!」
「ぎゃー、目が、めがあああ」
「先生、ノリノリですね。それ違うアニメですけど」
「……」

香辛寮の人々 2-2 「他愛のある人、自愛のない人」

 
 フェンネルは居間のソファで寛いで本を読んでいる。廊下がゆっくりと鳴る音が聞こえる。フェヌグリークが姿を見せる。
「ここにいたのね、フェンネル。ちょっといいかしら」
「どうぞ」フェンネルは顔を上げて、向かいのソファを手で示す。フェヌグリークは彼の顔をじっと見ながら、その返事を待たずに腰を下ろす。とても静かに。
「あなた、彼女の気持ちをもう少し考えて喋らないと駄目よ」
「彼女って?」
「シナモンよ。昨日の晩のこと。忘れたわけじゃないでしょう?」
 昨日は三人で、近所の居酒屋へ飲みに行った。恐らくフェヌグリークとシナモンはそう考えている。フェンネルは夕食を食べに行ったと思っている。酒を飲まなかったからだ。

「もちろん。それで、何の話?」
「ふん、やっぱり覚えてないじゃない。私だってね、あなたが馬鹿だと思ってないし、何度も同じことを繰り返したくないけれど、シナモンだけじゃなくて、あなたのためにもなると思って言ってるのよ」
「ああ。いや、分かってるよ。シナモンが一生懸命喋ってる話をちゃんと聴いているのなら、その話の中心に対してコメントしなければ自分の態度は伝わらない。君はそう言っていた」
「そう。彼女が自分の人生観について熱く語ってるんだから、君はその通りにやれてるよとか、自分のことをよく分析できるねとか、あなたならそういったまともな感想言えるでしょう? それなのに、妙に偏執的になったみたいに言葉の細部を突っついて、僕はパッチワークというよりは曼荼羅だななんて言い出して、それだけならまだしも、人を吊るして砂で絵を描くだの宗教的ではなくて諸行無常だなだの、もとの話題を完全に食って別の話にしちゃって、一体なんなの? 感想そっちのけで自分勝手に文脈無視した話始めて、しかもそこから表情までいきいきしちゃって。あなた、シナモンの顔なんて全然見てないでしょう?」
「いや、見てたよ。彼女に向かって喋ってるんだから、そりゃあ当然見るよね」
「あの子、変な顔してたわよね? え、一体何の話だろうって」
「まあね。僕だって、自分で話し始めてから、あれ何でこんな話してるんだろうって思ったくらいだから。で、君に聞いたよね? そもそも何の話してたっけって。君は会話にかけては非常に明晰だから、迷い込んだ話の筋をいつも的確に元通りにしてくれる」
「お褒めの言葉をありがとう。でもね、その言い方もどうかしてるわ。話の腰を折りたいように折って、その責任なんかこれっぽっちも感じてなくて、もう子供と一緒ね。あなたに悪気がないのは知ってるわ。それに無邪気に話ができること自体も、いいことではあるのよ。変に構えて、相手の機嫌を損ねないように上目遣いの応答ばかりするよりは。でもね」
「お互いに相手がいて会話してるんだから、最低限のキャッチボールは成立させておかないと礼儀に欠ける、だよね」
「そうよ。昨日も同じことを言った。あなたは、そんな当たり前なこと言われてもなあ、って顔で聞いてたわ」
「そんなことはないよ。常識の一部だと知ってはいるけれど、敢えてそれを言葉にするんだから、それだけ自分が非常識に見えるんだろうなって気付けたくらいだし。この歳になってそんな、相手を馬鹿にしてると思われかねない意見を言ってくれる人は他にいないからね、ありがたいと思っている」
「へえぇ、そんな顔にはとても見えなかったけれどね。まあいい…いや、よくないわ。だからね、何度も言うけど、そういう態度を取ることであなた、必要以上に他人に嫌われることになりかねないわよ。嫌われはしないまでも、あまり良い印象を持ってはくれない。人の出会いの第一印象のうち97%はね、知り合ってからの関係に後を引くものなのよ。いろんな人に好かれたいとは思わないって前に言ってたし、そう思うのはあなたの勝手だけれど、あなたが他人と一緒に仕事をしたりとか何やかやする時に、あなたの自分の見え方、他人が自分をどう見るかに対する無関心は、確実に仇になるわ。膨大な損失よ。しかも無意味な」
「その、97%というのはどこから」
「んなことどうでもいいの。今そういう話をしてるの。やっぱりあなた、人の話をまるで聞かないわね。右耳と左耳のあいだに、ちゃんと脳みそあるの?」
「あるといいね」
「……その冗談、まっったく面白くないわ」
「いや、別に冗談ではなく……まあいいや。えっと、そんなに興奮するような話ではないよ。僕のことを考えてくれるのはありがたいけども。で、そうだね、今言われてみると、僕はどうも話の筋よりも言葉の細部に囚われがちなようだね。普段あまり人と会話をしないし、本ばっかり読んでるし、その読書がまたメタファーとか文体を気にするような読み方をしているものだから、なんというか、癖になっちゃってるんだろうね。本を読む時の習慣が、人と会話している時にも顔を出す。言葉のやりとり、あるいは言葉の連なりを頭で追っていくという意味では、会話も読書も同じだからね。それに加えて、その癖を制御しないで自然に任せておくことで、自然な会話になるという思い込みもある。当然、会話のキャッチボールを成立させる方がコミュニケーションの基盤になるのだから、そちらを過度になおざりにしてはいけない、という認識だったんだけれどもね」
「どうやら、過度になおざりになっていたようね」
「そうらしいね」
「……まるで他人事のような言い草」
「うーん、そういう考え方は面白いかもしれないね。本を読む自分より、会話をする自分の方が他人である。いや、他人に近い、なのかな。いや、でもこれはある意味で当たっているな。コミュニケーションは自己の境界を曖昧にして別の個体と接する行為だけれど、本は頭の中だけなのに対して対面では五感もフル活用するから、多次元的に境界が薄くなるわけだ。ああ、感覚器毎に自己の境界があるという発想はなかなか斬新だな。一考の価値があるかもしれない」
「……」
「あ、ごめん。話が抽象的過ぎたかな? いや、ジョークです。冗句。ふふ…いや、ごめん」
 フェヌグリークは笑っていない。フェンネルは、それも仕方がないと考えている。ジョークの機能は笑いをもたらすことだけではないからだ。そしてこう思う。人が聞いて、哀しみの涙を流すジョークとはどのようなものだろうか、と。

「その、思うんだけどさ、君は職業柄かもしれないけれど、円滑な会話とか、効果的な意思伝達とか、そういったことを重く見すぎてるんじゃないかな?」
「重く見すぎる? 私は当たり前のことを言っているだけよ」
「うん、それは否定しないよ。ただ、思っていることを正確に伝えるとか、誤解を生まないようにするとか、要するにコミュニケーションの効率化を追求すると、どこかでそれが面白くなくなっちゃうんじゃないかと思うんだ」
「これはまた高度なことを仰るのね。相手のことは決して理解できない、コミュニケーションはすれ違うから面白い。わかってるわ、それくらい。人と話すのが仕事の核だもの。だけど、あなたの言うそれは、基本的な人間関係が構築されたあとに問題にすることよ。お互いのことをある程度知り合って、自分の意見をぶつけ合えるような信頼関係ができてから、やっと意識にのぼってくるようなトピックなの。つまりこういうわけね、あなたは初対面の人間に対して高度なコミュニケーションを要求する、そしてそれが自然であると言い張る。何考えてるのかしら。そんなの、子供に自転車を教えるのに、初日から補助輪を外して、サドルの上で逆立ちさせるようなもんだわ」
「そうだね。君の指摘はまったく正しい。僕はきっと他人からは、自分の娘を曲芸師に育てようとするスパルタンの父親のように見えるんだろう。自分はサラリーマンなのに。そんな狂った父親のいる家には、地域の回覧板さえ回ってこないかもしれない。でもね、どう表現すれば伝わるのか、考えてみないとわからないのだけど……例えば、こう言ってみようか。今君は高度な問題だと言ったけれど、基本レベルの問題があってそれをクリアすれば高度な問題を意識する、というような明確な分類は、本来すべきじゃないのではないかと思う。ハウツー本なんかに、コミュニケーション作法とか実用心理学みたいな名目で書いてありそうなことで、コミュニケーションの方法という視点で構造化すれば、たしかにそう表現できる。でもね、そうやってマニュアル化して、その通りにことが運び、期待通りの結果を得ることを良しとする。なんだかそれはコミュニケーションを、コンベアに機械部品を等間隔で並べるような単純労働と同じとみなす発想のような気がするんだ」
「ああ、わかったわ。フェンネル、あなたね、思考が抽象的なのよ。いや、そんなこと自覚しているわね、もっと言えば、あなたの思考は抽象的でしかない。あなたが一生懸命やってる分析は、現場に活かされてないのよ。実際のコミュニケーションの場から程遠いところで、一人で楽しく思考実験をやってるだけ」
「それが無駄だと?」
「勿体無いじゃないの。あなたが嫌われる理由なんて、そりゃないとは言わないけど、わざわざ進んで自分の他者評価を下げる意味なんてどこにもないわ。人は他人なしでは生きていけないって、あなたいつも言ってるじゃない。他人と上手く付き合える頭を持ってるのに、どうしてその頭をまっとうに活用しようとしないの?」
「研究活動は当たり外れがあるからね。投入した労力の数パーセントが芽を出せばいい方だし、そのなかで大きくなって実をつけるものが出てくれば、もう僥倖だといえる」
「コミュニケーションは研究ではないわ!」
「そう言い切れるものではないと僕は思うけどね。少なくともその評価に主観が立ち入る余地はある」
「人が生きていくうえで、いちばん根っこにあるものじゃないの。人が集まって社会をつくって、人と人が協力してあらゆるものを築き上げる。何をするにも、まず最初に気を遣わなきゃいけないところでしょう?」
「いや、君の考え方を否定しているわけじゃない。嫌味に聞こえるのを承知で言うけど、まず君は、まっとうで正しいことしか言っていない。少なくともこれまで、僕の耳が聞いた限りではね。そして、これは信じてもらうしかないけど、君の話はちゃんと聞いている。頭に入れて、想像して、理解している。だから、この2つを了解してもらったうえで、それでも君の気持ちが収まらないのだとしたら、もう理由はあと一つしか考えられない。聞いたら君は確実に怒るだろうから、ここでは言わないけれども」
「……言いなさいよ。そこまで言って、ただで済むと思ってるの?」
「え? いや、まだ言ってないのに、おかしくないかな? それ」
「知らないわ。あなたが何言っても、私怒るから。言わなくても怒る」
「うーん、未来は決定済みというわけだね。それが運命ならば、甘受するほかない。……どっちでも同じなら言わないに一票」
「言ったら満貫、言わなかったら跳満よ」
「なんと! では起死回生の、暗槓ツモ嶺上開花!」
「ロン、槍槓」
「ぎゃふん」
 

Can one speak about unspeakable? (1)

 
「沈黙について語る、にはどうすればいいか、考えているんです」
「それは、沈黙すればいいのではないかな? 文字通り」
「……そうですね」
「……」

「いえ、その、言葉にしたいのです」
「沈黙を言葉にする? 沈黙を破って?」
「矛盾して、聞こえますかね」
「いや、言わんとすることはなんとなくわかる。まず、君が語りたいのは『沈黙そのもの』ではないね?」
「そうです。沈黙が、それを聞く人に伝わるように、語りたいのです」
「それが伝わると、どうなるのかね?」
「……きっと、それを聞いた人も沈黙するのだと思います」
「それで?」
「それだけです」

「ふむ。極めてシンプルで、極めて漠然とした意思だね。君はそれが実現すると、嬉しいのかね?」
「きっと、そうだと思います」
「そうか。君には世の中が落ち着きなく喧騒にまみれて見える。欲望と行動が乖離して、ただ騒いでいるだけ、まるごと全てが無駄に思える」
「いえ、そんなことは」
「まあいい、程度の問題だろう。君は少しでも人々が冷静になればいいと願っている。ひいてはそれが自分の冷静をもたらす。まわりくどい考え方をするものだ」
「……」

「話を戻そうか。沈黙を語るには、もとい、沈黙を伝えるにはどうするか。王道は、言葉以外の手段で伝えることだ。姿勢。身ぶり。背中、といえば少し格好良いな。とにかく、沈黙が状態である以上、面と向かってのコミュニケーションがなければ相手は感じることができない」
「はい」
「ところが君は、沈黙という状態を言葉で伝えたいと言う。つまり、沈黙を思い起こさせるような言葉を語ることで、聞いた人自らの内側で沈黙が芽生える。そういう、これをコミュニケーションと呼ぶのかは分からないが、そうだな、状態の伝播を望んでいるわけだ」
「状態の伝播、ですか。なるほど、そうかもしれません」

「人が沈黙するのは、それぞれ理由がある。そして、したくてする行為、というよりは、せざるをえない状況に至ってさせられる、受動的な状態だといえる。つまり、理由は外からやってくるが、その種は内に秘められていたものだ」
「いや、積極的な沈黙もあるのではありませんか? 流れとして、いや状況と言ってもいいですが、自分が自然に行動を起こす場面、あるいは起こしている場面で、ふいにそれを中断したいという意思が生じた時、その意思の実行が沈黙という形態で現れる。放っておけば溢れてしまうものを押し止めるためには、積極的な介入が必要です」
「うむ、そういうこともあるだろうな。ともあれ、沈黙は何かしら複数の要素が反応した結果の産物だと言えるのではないかな」
「そうですね」
「この表現を使えば、君はその沈黙反応を不特定他者において起こしたい、あるいは、その反応を媒介するものを投じたい。言葉という手段を以て」
「その通りです」

「ふむ。どうも話している間、『沈黙』の指す意味がぐらついているように思えるが。具体的に言うならばそれは、沈思黙考ということかね?」
「ああ、そうかもしれません。言葉を失う、という状態があります。あれは、安易に軽薄なことを口にすると、今自分が遭遇している状況がなにか致命的に損なわれてしまうという恐れが、頭の中に渦巻く思念のアウトプットを堰き止めている状態です。頭が真っ白になっているという自覚を伴う場合が多いようですが、実際は思考が暴走していて頭の回転状態を把握できていないだけで、それは言い換えれば意識の中では言葉を押しのけて言葉以前が席巻しているのでしょう」
「うん? その、言葉を失った者は、沈思黙考という落ち着いた状態からはかけ離れているように思えるが」
「すみません。ええと、精神の安定度という面ではずいぶん異なった状態ではあるのですが、今思い付きましたのは、その、僕がイメージする沈黙というものが、論理的な思考を口にせずに頭の中で展開しているという整然としたものではなく、『言葉を失う』という状態とある面で共通するように、言葉以前のものが脳内で活発に活動していて、その尻尾を捕まえるというか、下手に口にしてうっすら掴めそうだった感覚を失わないように冷静に対処している。そうですね、小説の一言一句をイメージ化しながら読み進めている状態に似ているかもしれません」

「その比喩が適切なら、みながみな、小説を読めばいいことになるのではないかね?」
「ああ、そうかもしれませんね」
「……本当かね」
「うーん、もしそうなら、『沈黙について語る』が『みんなに本を読んでもらう』とイコールになる、ということですか? それは……あれ、意外とそういうことなのかなぁ」
「ふむ、イコールにしてしまうのはいかにも大雑把に過ぎるが、そういう一面がある、くらいには言えそうだな」
「そうですね。そして、僕はそういう風に限定して考えたくはないです。やはりもっと、抽象的な問題なのです」
「わかった。だが、抽象的な問題は抽象的な論理で扱わねば解決できぬわけでもないぞ。問題の要点を具体例に落とし込みながら、かつ要所で次元を上げて抽象的な思考に戻ってくる。その往復運動が大事なのだ」
「わかりました。肝に銘じます」

「その心臓への記銘はもちろん比喩だが、その銘が言葉以前であれば、言うことはないの」
「……難しいことをおっしゃいますね」
「なに、話は簡単だ。君の墓石に写実的な心臓の彫刻がしてあるさまを想像すればよい」
「想像しました」
「それでよい」
「……?」
「死人に口なし、心に朽ち無し」
「……」

 × × ×
 

香辛寮の人々 2-1 「脳の中の博物館」

 
 時が離散的に流れている。自分の周りを現れては消える事物が、移動ではなく、点滅しているようだ。日の光が、雨の細やかな粒が、チャンネルを切り替えるように明滅する。昼と夜の違いが、左右の違いでしかない。左右とはつまり、決まりごとのことだ。一方でなければ他方であるという、それらの対の名。
 抽象の思考が、抽象への志向へ進化しているのかもしれない。有機体の抽象志向、それは無機への還元と相似するだろうか。思考機械がある種の複雑化を極めると有機体へ近接するが、これも右と左の違いに過ぎないということか。左は右を目指し、右は左へ向かう。そうして何かが起きたようにも見えるし、何も起きていないようにも見える。

 二次元世界に生きるスクエア氏には、螺旋運動は回転運動として認識される。二次元世界をその外から眺めるスフィア嬢は、スクエア氏の動作や視点、思考も含めたあらゆる平板さを目下に、あたかも神のような心地に陥る。スクエア氏の視線の先を追うスフィア嬢の存在をスクエア氏は全く感知できない、全能感に満たされたスフィア嬢はそれを事実として疑わない。しかし二次元世界に神がいるなら、それは事実ではない。しかしスフィア嬢の神性は否定されない、神は時に間違いを犯すからだ。


「博物館というものに興味はあるかい?」
「えらく漠然とした聞き方だな。僕にとって興味のあるものがそこに展示されていれば、もちろんその博物館に興味があるといって間違いではない」
「いや、漠然としたまま考えてほしいんだが。つまり、何らかの方針に従って収集したものの展示を見ること、あるいは収集や展示をすることに対する興味なんだけど」
「ふむ。博物行為に対する関心、ということかな。考えてみると面白そうだね」

「博物館をやる側からすれば、一般的には訪れる者の興味をかきたてる構成を考えるだろう。来訪者がなければ、それは私的なディスプレイ趣味に過ぎない」
「そうだね。公共施設なら、運営方針もきちんとしたものになるだろうし、個人的な趣味から始まった収集が私設の博物館に発展するのだとしても、それは自分の情熱とか、展示テーマの知られざる奥深さなんかをアピールしたいと思うからだろうしね」
「ところが、誰も来るあてのない博物館の館長というのがいるんだ」
「どこに?」
「それは今はいいんだ。とにかくそういう孤独な館長の存在を僕は知っている」
「ああ、なるほど。自分の住処でぬくぬくとしながら警備員だと名乗る話と同じだろう」
「…そうだね、確かに、客観的にはその認識が成立するといえる」
「やけに素直だな、なにか悪いものでも食べたか。それで、君がその館長なのかな?」
「いや、そうではないんだが、僕の知るその館長に、僕は共感を持ちつつあるんだ」
「うーん、どうも話がわからないな。その孤立した博物館とは、一体どういうものなんだい?」

「そこには館長個人にまつわる品々が展示されている。個人的に意味のあるものも、意味のないものもある。もっと広く、一般性に照らして有用なものもあれば、全くゴミ同然のものもある。目にするだけで気分が悪くなり、真っ先に焼却炉に放り込んで炭化させたい衝動に駆られるものだってある。とにかくそれらは選り好みされることなく、あるリストに従って遺漏なく、システマチックに収集される。
 それらは日に連れて数を増やしていく。彼はその一つひとつを手に取り、ほこりを払い、から拭きをして、然るべき位置に並べる。スペースの心配は彼の関心を微塵も刺激しない。館内にいると奥が霞んで見え、あたかも博物館の壁が水平線に吸収されたかのように視線を遮るものがなく、白いシーツが被せられて上には何も乗っていない展示台は、墓碑銘の彫刻を行儀よく待ち続ける墓石のように、リノリウムの床に溶け込んで規則正しく整列している。
 展示された品々はもちろん同じ形を保ち続ける。時の経過に対してなんの反応もない。彼自身は年を取り、体は老いていき、また関心や思考の内容という意味での彼の精神も日々変化する。展示品たちはそんな彼自身の変化に頓着せず、薄暗い空間で日々ほこりをうっすらと被り続けるだけだ」

「それで、君は彼のどこに共感するというんだ?」
「彼にはどこか、時間を超越したところがあるんだ。僕らの寿命のスケールを遥かに超えた、途方もないものを見ているというか、それに取り込まれているというか。自分の博物行為になにか意味を求めているのではなく、自分が館長であることによってその途方もないものと繋がろうとしているように思える。意味を超えたものと繋がるためには、自分も意味を超えなくちゃいけないんだ」
「ふうむ。君はあれか、その謎めいた途方もなさに憧れていると言いたいのか?」
「そうかもしれない。いや、わからない。これはわかるような話じゃないんだ」

「おいおい、そんな話を僕にしていたのかい。いつものことだが、今日は特に横暴が過ぎるぜ」
「ごめん。どうも感覚が漠然とし過ぎていたから、とにかく言葉にしてみないといけないと思ったんだ」
「冗談だよ。もちろん、どんな話でも君がしたければいつでもすればいい。語りえないことは沈黙すべきではない。なにかが語りえないのならば、それを語りえない状況について、位相を繰り上げて語るべきだからね」
「その通りだ、僕もそう思うよ。言葉は本源的に有為であり、無為な言葉は存在しない。言葉を無為にするのはいつでも語り手か聞き手の怠慢だ」
「まあそうはいっても、実際には限度があるけれどな。で、わからないなりに喋ってみて、何かわかったかい?」

「うーん、えっとね、時間の流れ方について考えればいいのかな、って今思った」
「ほう。まず孤独な博物館の時間は止まっている、と考えるんだな」
「いや、多分そうじゃない。時間は相対的に流れる。博物館の時間は、外界とは異なる流れ方をしているだけなんだ」
「それは表現の問題に思えるけれど」
「そして、異なる時間の流れ方をする空間にまたがって存在する者は、複線的な時の経過を経験する」
「…どういうことだ?」
「そうか、それが物語の効果なんだ」
「ちょっと待て、一人で会話するなよ」

「では博物館とは一体何か。自分に関係するものが展示されているというのは…。それが自分の物語、自分が触れた物語だというなら、形を変えないのはなぜか。物語の進展に従って当然それは変化する。それが変化しないと言うのは…変化を待っている、待機状態のものが展示されている? いや、展示する意味が分からない。観客は自分自身で、自分に対して変化したいというアピールのためか。もしそうなら、変化したものは展示台から消滅する。消えてくれることを願うものたちを体よく並べるというのも妙だ。ひょっとして博物館というのは……」
「…まあ、なにかわかったのならいいけれども。少しは脈絡不明の迷走話に真面目に付き合うこっちの身にもなってほしいものだな。ぶつぶつ」

 ひょっとして博物館とは、思考の場に与えられた名の一つであるのかもしれない。自分だけの、他から隔絶された、静謐な空間。しかし、思考の俎上に置く対象は、その空間の外部のものだ。思考対象が行き来することで、その空気は純粋さを失う、不純物が混ざる。圧力の異なる空間が触れあえば、各々の気体は混合される、この比喩は物理現象以上にシビアだろう。
 管理人は精神のエントロピィに反抗すべく奮闘する。博物館に持ち込んだ展示物、すなわち思考対象の鮮度を維持しながら、思考空間である館内の静けさと落ち着きを保つ。日の目を見ない館長の業務は、まさに「雪かき仕事」だ。頭の中の小人の、誰にも知られず、頭の持ち主にさえ気付かれない、全く報われることのないシシュフォス的役務。
 ホムンクルスはいなかった。しかし我々の中に存在しないというだけで、その存在そのものを否定することはできない。白いカラスが世界中の陸地に存在しないことが証明されたその時、彼らは太平洋上を悠々と周遊しているかもしれないのだ。
 

ゆくとしくるとし '18→'19 4

今年の抱負の話をしましょう。


仕事用のHPの更新が滞っていますが、これは「とりあえず更新しておこう」というモチベーションが薄くなったからです。
必要ではない、と思うことは書かなくなった。

ですが、その更新が今月また復活すると思います。

機械設計の仕事と並行して、新しく本の仕事を始める予定です。
以前、自分の関心の中心と本とを絡めて仕事をしたいと思って、「ブックアソシエータ*1」という肩書を思いついて、その職業の人間がなすべき仕事について考えようとして、入り口に立ったことがありました(変な表現ですね)。
これはその時に書いた文章。
bricolasile.strikingly.com
それからひと月ほどして、ちょっとしたきっかけがあって(その節は、司書講座同期のM女史に感謝しています。始める前からなんですが)、始めてみようかなと思った仕事がちょうど、「ブックアソシエータ」としても適うものであった。

具体的なことは、やる前から考えるよりは、やらざるを得ない状況に追い込んでから頭を回転させた方が現実的に動ける気がするので、ここではまだ書きません。
ただ、「本にポテンシャルエネルギィという潜在価値をつける仕事」とだけ言っておきましょう。
どう展開するかは、実際のところ、やってみないとわかりません。

 × × ×

ちょっと違う話を書きます。

去年の後半から「香辛料の国」というタイトルで、いくつか、超短編のようなものを書きました。
その文章には「小説的思考」とタグを付けた通り、小説だとは思っていません。
日々の生活でなにか思いついたこと、考えたいこと、あるいは考えさせられる出来事が起こった時に、それを物語らしきものに託そうと思ったのです。
そして一人称の語りの間に会話を挟む形式にしたのは、「僕ではない誰か」の言葉を借りて思考を進めようと思ったからです。

折角なので、サブタイトルをつけて、ここで整理してみましょう。
(1-2がないのは、初稿時の出来が悪くて公開していないからです)

 香辛料の国 1-1 セージと「共存の不可能性」について
 香辛料の国 1-3 ウーシャンフェンと「反省の普遍化」について
 香辛料の国 1-4 ウーシャンフェンと「自由のための限定」について
 香辛料の国 1-5 シナモンと「一般化を目指す個性」について
 香辛料の国 1-6 セージと「文字のない本」について
 香辛料の国 1-7 ローズマリーと「絵画と死の静謐」について
 香辛料の国 1-8 バジルと「比喩の神託」について
 香辛料の国 1-9 ディルウィードと「時間の主観性」について

読めばわかりますが、全ての章に出てくるフェンネルが、まあ僕のようなものです。
そしてそれぞれのスパイスたちは、特定の性格を持つと想定されたり、あるいは現実の知人をモデルにしたりしています。

そうは言っても、後者は「あの人ならこう考えて、こういうことを言うだろうなあ」というシンプルな想像ではない。
なんというのか、そういう正統的な他者思考の想定だけでなく、「あの人がこういうことを考えたら面白いだろうなあ」「あの人がこう言ったら、僕はそれにどう答えるだろう」という、具体的な知人の印象の一部を借りてそれを起爆剤にしているようなところもある
だから、僕がその人(って、誰も名前を挙げてはいませんが)に対して持っているイメージが書かれているというよりは、僕とその人の関わりが、それこそコミュニケーションの履歴が、不規則に絡み合うアモルファスな結晶の現れがここに並んでいます。

そう考えてみると、この超短編集に書かれていることは、僕が書いたことながら、僕でもその人でもない謎の主体の思考が混ざっているようにも思われて、時間が経って読み返すたびに僕自身が新たな刺激を受ける構造になっている。
…かもしれない。


これ以外にも会話調の記事を書いてきたんですが、趣旨は上記と似たようなものです。
最近になるほど「香辛料の国」の更新が減ったのは、伊藤計劃のエッセイの中で「SFの必然がないのにSFの形式にする意味はない」みたいな話を読んで「ああ、たしかに必然はないなあ」と思ったからです。
別に、なくてもいいんですけどね、スパイス達を擬人化することで、新しく表現が生まれるという現象もあるので。

まあ、気が向けばまた、続きを書くかもしれません。
ストーリーが生まれる気配は、まだありませんが。


p.s.「誰も名前を挙げない」と言いながら、改めて自分の文章を読み返すとなかなか本当に面白かったので(つまり僕が書いたとは思えないという意味で、やはり「謎の主体」の存在を仮定したくなります)、一つだけ。1-7の登場者には「画伯」という敬称がついていますが、僕の知人に画伯は一人しかいません(きっぱり)。
 

*1:アソシエータは、もとの単語から別の意味を与えた造語です。associatorとは、連想=associationを司る人…とは言い過ぎで、深く精通してその可能性を誰よりも信じているが、無意識の領野とも重なり、個人差の極めて大きい現象を「操れる」などという傲慢な考え方は持っていない。「ゆくくる」の1つ前の記事で「意識の研究」の話を書いたかと思うんですが、僕が誰でもできると言ったのは「在野でやる」の意味で、つまりプラグマティックなそれです。現象の解明よりも、実際的な可能性の開花、効果の探求に重きをおく。…話が抽象的なのは、事を始めていないから仕方のないことで、話を戻せば「ブックアソシエータ」の訳語をとりあえず提出しようとしているのでした。司書はlibrarianで、「司る」と最初に書いてみたのはここからなんですが、そうではなくて…非修飾的な表現をすれば「本と本を、または本と人を連想でリンクさせる人」になります。これを、つまりどうなのか、それによって何が起こるのか、ということも含めた表現に発展させたいと思っているのですが、そうですね、これは今後の課題としましょう。

陸のない地球の話(序)

 
「陸のない地球の話をしよう」
「面白そうね。どんな話なのかしら?」
「僕らは海で生活をしている。海の中で、または海の上で。生活の具体的な描写は後々考えることにしよう」
「あら、私はそこが知りたいのだけれど。お父さんは船の上で釣りをして、今夜のおかずを仕留めるのね。『もうすぐ日が暮れちゃうわよ、まだ一匹も釣れてないじゃない』なんて言いながら、お母さんはゴロンと横になって本を読んでたりするの」
「のどかな家族だね。僕は親父の横でじっと水面を見つめる息子がいいな。いや、申し訳ないけれど、そういう現実に沿った話ではないんだ。科学的でないというのか、要するにファンタジーの一種だね」
「いいわよ。続きをどうぞ」

「陸がないってことは、宇宙から地球を眺めたら、青と白の2色の斑模様に見える。ふつう陸があると、海岸の形状やら山脈の高低があって、大気の循環はそういった地形のバリエーションによって生まれるらしいから、もしかしたら青一色かもしれない。海の深さが均一だと仮定すれば、海流も生まれないだろうし」
「なんか妙なところで具体的ね。SFの世界設定場面のようだわ」
「いや、これは余談だった。本筋じゃない。最初に地球と言ったからスケールが大きくなりすぎちゃったけど、考えてみたいのは、海にぽつんといる一人の人間についてなんだ」
「ふうん。じゃあ家族とか、生活とかはメインじゃないわけね。あなたの好きな、抽象的な話ってやつかしら」
「そうだ。現実にある海の性質をいくらか借りながら、想像してみたい内容のためにそこに非現実な性質を盛り込んで、そのような”海”にいる人間が何を感じるかを、考えてみたいんだ」
「あら、伊藤計劃の本にそんな感じのこと、書いてあったわよ。たしか、なんとかポーションって」
「エクストラポレーション、だね。SF的な命題を一つ立てて、そこから連鎖的にいくつかの命題を導いていく。SFがSFたりうるのは、そこで語られる物語が、その世界に不動のものとして擁立された命題と必然の関係にある場合だ、と彼は言っていた。つまり、現実にありふれた人間ドラマを未来世界で描いてもしょうがないということだね」
「でも、どんな世界でも恋愛とか友情のドラマがあって、それが私たち人間なのよ、ってことなんじゃない?」
「そう言って間違いではない。でもその価値観に従えば、SFの物語を、現実に軸足を固定したまま消費することになる。たとえば未来の車をパロディにした保険会社のCMを茶の間で眺めるようなもので、ただ通り過ぎていくだけ。彼が言いたいのは、ある命題を掲げたSFが、読者がその世界にのめり込むことで現実の価値観が揺さぶられるような、そういう骨太な物語をSFと呼びたいってことだと思う」
「それはわかったけど、なんか私、余計なこと言ったわね」
「いやいや、全然余計なことじゃないよ。だって…あ、話が逸れたってことね」
「そう」
「なんだっけな。ああ、海の話だった」

「まずね、人は海の中でも息ができるんだ」
「じゃあ溺れる心配はないのね」
「うん、でも顔を海から出した状態と、海中に潜っている状態は、同じではないんだ。疲れ具合も違う、安定感も違う、何より意識の状態が違う」
「あなたが問題にしたいのは、その意識の状態ってやつでしょ」
「その通り。ただひとっ飛びでそこまでは行けなくて、まずはいろいろ設定することがあるんだ。面倒だけど」
「そうねえ、面倒だわねえ」
「さっき横道に逸れた時に言った、SFの命題を導く過程にいると思えばいい。物語というよりは、その切れ端のような思考実験に過ぎないけれど」
「あなたも折れないわね。一度喋りだしたら止まらないんだから」
「君が嫌そうな顔してれば、すぐやめるつもりではあるんだけど」
「別に嫌じゃないわ。お店で落ち着いてコーヒーが飲めれば、それで私は幸せ」
「同感だね。願わくば、客の出入りが少ない、静かなカフェがいいけれど。あと、隠れ家みたいな雰囲気は好きだけど、窓から外が見えた方が開放感があっていいよね」
「文句が多いわね、同感なんて言っておきながら。だいたいあなたがこの店にしようって言ったんじゃない」
「ごめんごめん、言葉の綾だ。この店にもコーヒーにも、そして君にも不足はない。でも不足がないことは満足とイコールではない」
「…あら、なんで突然そんなこと言うのかしら。そういえばこの前『ケンカできる仲っていいよね、一度してみたいな』とか言ってたわね。そういうこと?」
「えっと、どうして君が怒っているのか、いまいち理解が追いつかないんだけど…いや嘘だ。そうじゃなくて、うーんと、人は常に向上心を抱いてこそ、前向きに生きていけるってことさ。君に満足していないと言ったのは、君じゃない人がいいのではなくて、君と一緒にこれからも変わっていきたい、という意味だ」

「…ふーん。いいけど、あなたいつも、一言多いわよね。説明が長くて、その中の余計な一言に弁解しなくちゃならなくて、その弁解にまた言い訳がくっついて、って。つくづく忙しい人ね」
「女性はお喋りが好きだよね。僕には論理も目的もなくてすぐ発散するタンジェントのような会話に思えるんだけど、実際のところ、会話の内容ではなくて、会話そのものが目的なんだよね。お喋りしていて幸せだというなら、会話は純粋な手段ってことになるけど、僕もそれに倣ってるつもりなんだけどなあ」
「言ってるそばからこれだわ。あのねえ、喋ってればなんでもいい、なんてわけないでしょ。気遣いって言葉、知らないの? あれだけ論理が科学がどうこう言いながら、肝心なところでどうしてこんな大雑把なのかしら。あなたね、ザルよ、ザル。網目はものすごく細かいのに、いちばん底に大きな穴がぽっかり開いてるんだわ」
「それを言うなら、割れ鍋じゃないかな。割れ鍋になんとかって。ええと、ああ、君がそのなんとかの方なんだけど、つまり相性いいんだよ、僕ら」
「知らないわよ、もう」
「まあまあ、機嫌直して。コーヒーのおかわりと、そうだね、ケーキ食べようか」
「あ、私チーズケーキがいいわ」
 

香辛料の国 1-9

 
 ローズマリー画伯の言葉を反芻する。「絵を描く間、時間が不思議な流れ方をする」。このことは「不思議でない時間」、すなわち通常の時間の流れ方をも示唆する。
 感じる者によって、そして同じ者でも状況によって、時は不規則に刻まれるだろう。すなわち、それが時間の主観的な側面である。
 その原理を知ることに意味はあるか。
 その知識は当該の時の流れに如何なる影響を及ぼすか。
 自己観測の、評価基準の変化による入れ子性との関係はあるか。
 時刻の前進性を不動のものとする定針器は、主観的な時間とは別物に見える。かの装置は理想か、標本か。あるいは永遠か、束縛か。


「もちろん、定針器は毎日見ますよ。講義は決まった時間に始まるし、遅れると先生に叱られますから」
「そうだろうね。時間割に従うためには、時間を無視するわけにはいかない。じゃあ、講義とかそういった、始まりや終わりの時を知る必要がない場合に、定針器を見ることはあるかい?」
「そりゃあ、まあ。言うまでもないと思いますけど、そんなことは生活の中でいくらでもあるんじゃないですか?」
「うん、それも違いない。我々が集団として関わり合うからには、必要の時刻は予め決定されている以上に、自分たちで決めていくものだからね」
「はあ。よくわかりませんけれど、つまりはどういうことですか?」
「すまないね。迷走した議論に付き合わせてしまって」
「いいえ。講義仲間とは他愛ないおしゃべりばかりしているので、フェンネルさんの話はとても新鮮です」
「ありがとう。ディルウィード君の思考に、なにか刺激になるものが提供できれば僕も嬉しいんだけど。えっと、それでね。ちょっと前から時間の主観性について気になることがあって、鮮度層を広げてインタビュをしているところなんだよ」
「では、私には若手としての意見を求められているのですね」
「そんなところだ」
「承知しました。なんでも聞いてください」

「聞けるところまでが長いかもしれないが…前段からいこう。時間の流れは通常、客観的には定針器が決めている。僕らが一緒に何かをする場合に、お互いに異なった流れ方をする時間を基準にしていたら、行動が合わせられないから」
「当たり前を言葉にすれば、そうなりますね」
「そう。で、定針器の刻む時とは別に、我々個々に異なる性質をもつ、主観的な時間がある。これは同じ自分でも時を感じる状況によって変わるから、ここではひとつの自然な状況、たとえば近くに誰もおらず、特定の作業に没頭していない場合を考えよう」
「はい。そうすると…一般的には新鮮な者ほど時の流れが遅い、と言われていますね」
「新鮮な者には先の時間が無限に思える。逆に言えば古びた者は、終末の予感とこれまでの生の蓄積が参照できる分だけ、時間を早く感じることになる」
「私もそれで納得できていますけれど、そうではないのですか?」
「筋が通っているし、僕も納得はできる。でも、常識とは…いや、常識も感覚的なものだからそう呼ぶのはいいんだけど、定理とか、法則とか、そういうかっちりした表現は合わないと思うんだ。あくまで、通りのよい一つの考え方に過ぎない」
「うーん、そう言われてみればそうかもしれません。では、今のフェンネルさんはどうお考えなのですか?」

「いや、それが、この通説とどう違うかというのが上手く言葉にできなくて、それで君と話しながら糸口を掴もうと思っているのだけれど…そうだね、さっき『生の蓄積』と一口に言ったけれど、これはどういうことかわかるかい?」
「はい。つまり、月を経ていろんな経験をすれば、その経験のそれぞれに伴う時の長さも知っているわけで、そういった蓄積を今の自分がざっと思い返せる短さ、瞬間性って言えるんですかね、その長短の対照で、今流れる時間のテンポが短く思える、つまり時の流れの早さを認識する。といった感じではないでしょうか」
「大体そんなところだね。そう、今君にそう言ってもらって、思ったんだけど、そういう経験を持つ古参であっても、彼の中で時間がゆっくり流れることは、あり得ないことではないだろう?」
「そうですね。主観的な時間なんだから、鮮度の常識を個性の強度が上回る場合もあると思いますが、でもそれはやはり、例外なんじゃないですか?」
「うん、そうかもしれない。バジル爺に僕はそういう印象を持つんだけれど、他に例が浮かばないという意味では、例外であり、特殊な状況かもしれない。でもね、通説やら常識にはちゃんとした説明を付けておいて、それに当てはまらない事象に対しては思考の筋道を立てずに例外の一言で片付けるのは、まっとうな知性の発動とは言えないと思うんだ」
「ああ、そうか。おっしゃる通りです、そのために今私たちが考えているんですものね。あいつとは相性が悪いだの、湿気た日は動きづらいだの、日常的なことばかり喋っていると、頭なまっちゃいますもんね」
「…まあ、頭の体操と思ってもらってもいい。やらなきゃいけない、というわけでもないし」
「そうなんですか? それにしてはフェンネルさん、眉間にシワなんか寄せて、真剣そのものですけど」
「これはデフォルトなんだ、気にしなくていい。湿気てるのも元々だ、難破したわけじゃない」
「…? そこまで言ってませんけど」

「話を戻そう。さっき例外と君が呼んだ状況に、僕らは説明を付けようとしているとしよう。主観的な時間とは感覚的なものだ、と言われている。感覚は、個々の異なる性質に基づいている。一方で、過去の経験と時の経過とが参照されている、という話をした。この2つは、主観的な時間の流れに対して、質の違う影響を与えているはずだ」
「質が違う…と言うと、感覚的なものと、理性的なもの、ということでしょうか」
「その通り。そしてこの「質の違い」に説明をつけてみよう。感覚的なものの方を主流、理性的なものの方を傍流とする。主流は、影響因子ではなく、被対象、つまり流れそのものであり、傍流はネガティブな影響因子である」
「ええと…」
「つまり、身体と脳の比喩だね。身体に意思はなく、評価もない。脳の駆動リソースである意思と、そのフィードバック機能を担う評価によって、時間の概念が発生し、意味づけられる。ネガティブと言ったのは多少の僻みが入っているけどね」
「うーんと、細かい所よくわかりませんけれど。簡単に言えば、理性が時間に色をつけている、とおっしゃるんですよね。感覚だけならそもそも、時間の流れに早いも遅いもない。…その、ネガティブと言われたのは、何かその、余計なことを考えなければ時間はゆっくり流れる、とおっしゃりたかったのではないですか?」
「ああ、そうかもしれないね。意識は常に自縄自縛だけれど、解けない縄こそが意識そのものであって、ぐるぐる巻きにしないとか、結び目はゆるくしておくとか、そういう工夫を感覚に対するポジティブな影響と考えた方が、うん、それこそ『結び目がゆるくなる』だろうね」
「なるほどお。バジルお爺さん、たしかにちょっと、呆けたところありますもんね」
「それ、爺に言っちゃだめだよ。僕の閉口処理がメモリ不足になっちゃうから」
「…なんの話ですか?」


 後悔先に立たず、という。行動する前に後悔はできない、という意味かと思うが、実は後悔とその対象となる行動との相関は希薄である。結局のところ、後悔を催させるのは、彼のトータルな現状であって、その対象は時の気分で恣意的に選択されるに過ぎない。これを「後悔後にも立たず」という。後悔ができるのは今だけであり、その今とは、自分が舵をとって洋上を滑り進む、航海真っ只中のことである。「後悔、海を渡る」なんてタイトルの映画があってもおかしくはない。それほどまでに全ては「現在進行系」なのである。
 時の流れに疑問をもつことは、生の意味を問うことに等しい。解を得られぬこと然り、中断できぬこと然り。定針器とは、鏡の別名であった。

香辛料の国 1-8

 
 神の存在は任意である。誰のためにいるわけでもない、我々に関与しない存在として、神はある。信仰して跪くのも、邪教と罵るのも、我々の都合に過ぎない。祈りは浸透し、呪いは顕現する。形のない思念は、神を透明にする。
 かつ、触れれば反力で応え、凭れれば摩擦が支える。有るものは唯無く、在るものは唯泣く。どこまでも遠く、どこまでも近い者として、無関係に等価的に、我々と神はある。

「お告げにも間違いはあるものぞ」
「え、そうなんですか?」
シンタックス・エラー」
「……」
「耳が遠いのか? 傍におらぬのか?」
「いえ、しかと聴こえております。そしてお側に」
「わしはうどん派だがな」
「……僭越ながら、私は蕎麦の方が好みですね。色がついている方がお得な気がして。いや、変な話ですが」
「そんなこと聞いとらん」
「失礼しました。それで、お伺いしたい話というのが…」
「分かっておる。今カミさんに聞いておるところじゃ」
「はい」
「んーとな、ふん、ふん、ふうむ。……いかんのう。今晩は蕎麦だそうじゃ。うどんが良いと常日頃から言うておるに。お主がいらんことを言うたせいじゃ」
「は、申し訳ありません…? あの、バジル爺の夕食のことではなくて、ご神託の行方の話なのですが」
「ほ? おお、そうじゃった。うん、な? 分かっておろうが、冗談じゃて。古くなると雑音が増えてのう、意識が制御を離れて混雑するんじゃ。まあ、並行処理といえば聞こえはいいが、お主の方は拗ねて黙り込んでしまうからのう。つまり、ああ、閉口処理で対抗ということじゃな。ふぉっ、ふぉっ」
「…いや、相変わらずお見事な舌鋒です」
「おべっかはよろしい。口の端が曲がっておる。そんな、この世の終わりのような顔をせんでも、絶望の対象はそのへんにいくらでも転がっておるわい。ジジェクもそう言うておる。さて、では本題に入るとするかな」
「よろしくお願いします」
「『我ら香辛属の未来について』。ふうむ、フェンネル坊はどうして、こう、頭が堅いんかのう、もっと軟派な発想をもたんと、船も沈んでしまうぞな。まあの、水没するまでもなくお主は湿気とるからのう。まあま、そりゃよいわ。…ん、むう、むん。…つう、つう、とんとんとん」
「…?」
「ん、出た出た。出ましたぞい。『属の未来は明るい、これは運命により定まっている。ただし明るさの測定は理想暗室にて照度計PW-05Sを使用のこと』。うむ、宜しく御身に然と刻まんことを」
「……。ええと、託言について、爺に一つ質問してよろしいですか?」
「どうぞん」
「は。その、照度計はまあいいとして、我々は何を測定すればいいのでしょう?」
「わしの解釈を聞いておるのだな。ふむ、言葉通りなら『属の未来』じゃが、そんなもん暗室には持ち込めん。つまり、比喩ととるか、冬ととらねばならんのう」
「比喩と、えっと、冬ですか?」
「そうじゃ。冬は厳戒の季、限界の機。香は沈、色は闇。空間が澄み通り、光を見るには絶好の期である。火を灯さず秘を友とし、香色の自ずから出づるを待つべし」
「はあ。それで、ついでに照度計とは…」
「ついではなしじゃ」
「え?」
「嫁いでからの話じゃ」
「…え?」
「ナンパでもせいと言うておる」
「……」
「ほっほ。閉口、閉口と」

 我々は、過去と未来を所有する。かつて曖昧で間欠であったバーチャルな手段が、次第に緻密で広範囲となり、バーチャルがリアリティを帯びるに至った。現在が、過去と未来の横溢に埋没する仕儀となった。だが、手段の発達は本質には及ばない。我々が所有できるのは、形のあるものだけであり、そしてこれも幻想である、つまり、所有の概念には形がない。バーチャルの精緻化が糊塗するのはリアルではなく、バーチャル自身すなわちバーチャリティである。
 神に形はない、ゆえに神はあらゆる質を帯びる。バーチャリアリティの隙間から窺う神の目は透き通り、何も映さない。神を覗き込まんとする我々の身振りは、永遠に空振りする運命にある。

香辛料の国 1-7

 
 香を永遠に失った者は、月と縁が切れる。湖は止まり、波立たない理想鏡であるはずの水面に、何も映らない。
 色を吸収し尽くし返さない者を、風はすり抜ける。彼の周りで流れは淀み、その一点へ向けて、生死の定かでない薄まりは異世界への扉を思わせる。
 消失は、我々と、どのような関係にあるのか。

「絵はね、描くあいだの時間がねえ、不思議なんだよ」
「たとえば、どう不思議なのですか?」
「描こうとしてやると、何も出てこないんだ。んん、べつに何かは出てくるけれどさ、それはつまらないというかね、『ああ、いつもの時間だなあ』っていう印象」
「描くことに集中している時間の流れ方は、普段と違う、と?」
「そう言ったよ」
「すみません。こういった芸術に対する理解には疎くてですね」
「で? フェンネルくんには全く興味のないはずの僕に、なにが聞きたいわけ?」
「いえいえ、そんなことはありません。ローズマリー画伯の存在も、感性も、もちろん作品も、僕の関心を刺激して止まないことは確かです。ただ僕自身の日常からあまりに遠いところにおられるので、なかなか近づく機会に恵まれず、ついつい縁遠くなってしまうのです」
「同じこと、もっかい言わせる気?」
「……。ある友人が僕に手紙を送ってきまして、そこに『絵は香色を失った者に似ている』とあったのです。これは単純に、無機物に生の形象を定着させても有機物にはなり得ない、という形而下的事実の表現ではなく、もっと深い意味があるのではと考えたのですが、思考がこのスタート地点から進まなくて、どうしたものかと悩んでいるのです。それで、実際に絵をお描きになる画伯に、ぜひご意見を伺いたいと思ったのです」
「ふうん。君の友人が、なにを見てそんなことを言ったのか、気になるけれどねえ」
「たしか、水平線を境界にして赤と青が一面に塗られた巨大な絵だと言っていました」
「それを見て死を連想した、と。なるほどねえ。きっと彼は死と近しい仕事なり生活なりをしてるんだね」
「よくお分かりで。…それで、どう思われますか?」
「そうだな。僕らは皆、例外なく香をまとい、色を備えているだろう? それが僕らのいる世界で、だから香色を失った者は、僕らとは別の世界に属するはず。論理的にはそうで、しかし実際そう断言できないのは、その者は消化されていない、つまり香色の有無を除けば僕らと同じ存在だからだ。有機性は失われたが無機物とは言い切れず、僕らの世界の幽かな名残がある。僕らはその者を見て生を感じるのではなく、生を連想する。思い出す、と言ってもいいな」
「絵を見ても、それと同じ連想をする、と?」
「焦るな。絵を描いていて、時間が不思議な流れ方をすると言っただろう。絵に関わる行為はこれと同じ、つまり見ていても同じ。時間が止まるのではない、日常とはどこかしら異質に流れる。そう、たとえばな、動こうとする力と止まろうとする力が拮抗した状態を想像すればいい。物体は止まっている、しかしその静止は無負荷ではなく複負荷の相殺によって実現されている。彼は目を閉じて瞑想に耽っているように見える、しかし彼の内には衷心と憎悪が坩堝の中で煮え滾っている」
「おっしゃることはなんとなく分かります。が、しかし絵を見ている時の連想と、死を前にしての連想が、同じ質のものとは思えないのですが」
「死そのものは静謐だ。しかし死に対する者は静謐ではいられない。絵も同じだ」
「…それは、なぜでしょうか?」
「取り込まれるからだ。皆それを恐れる。静謐を望み、憧れはしても、いざ生身をその前に晒せば、生身が本能的に反抗し、それを恐怖として意識に上らせる。逆から言えば、日常にありふれているはずの死は見聞に過ぎず、静謐は完全に隠れ、デトキシフィケートされて恐怖は跡形もない。そうして平和を隙間なく築き上げていくほど、カタストロフは想定の外から突然やってくる」
「…なるほど。貴重なお話、ありがとうございました」
「ふん。ああそうだ、君のその友人に言っておくといい。赤と青を混ぜて紫になるのは、思い込みに過ぎんとな。色は勘違いの賜物だと」

 結局、我々はその目に映した対象に成り代わる存在なのだろう。意図に関わらず相手に乗り移り、性懲りもなくオートマティックにトレースする。とはいえ、意識は生の不可逆識閾下にあり、物理的発露なしに下剋上は成立しない。恐怖が意識を柔弱足らしめるとはいえ、入寂足るには至らない。
 きっと、その先がある。
 死を水面に映し、異世界から吹く風に晒されながら臨む静謐の、その先。

香辛料の国 1-6

 
 文字のない本。ページを開けば広がるのは白紙ばかり、ではない。我々は紙の上のそれを、普通の本と同様に読むことができる。ただそれは、文字ではない。たとえば僕が、それを見る。読む。その本のあるページは、すると僕に問いかけてくる。僕はその本に対する応答を迫られる。それは解答ではない。もちろん反射でもなく、それらのあいだに位置する反応を促される。その応答がすなわち、次のページへ伸びる手の一連の動きである。我々はその本と対話をする。ただその本には、文字が書かれていない。

「きっと、文字通りの意味を持ってはいないのだろうね?」セージはいつも明晰だ。
「そうなんだ、たぶん。文字がなくとも絵はあるのだろう、とか、そういったシンプルなことでもないんだ」たぶん、と繰り返す言葉を飲み込む。
「ふむ。…どこか遠くの、いくつか境界を越えた先に『絵のない絵本』というものがあるそうだね。何か関係があるんじゃないのかな」
「ああ、それは僕も聞いたことがある。その話の中で、登場者は月に導かれて絵のない絵本を読むんだ。自分が描く絵のひとつひとつが物語を語る、そういう話だったと思う」
「主人公は絵かきで、彼が描く絵が集まって絵本になるのかい? それのどこが『絵のない絵本』なんだ? 月の存在も気になるけれど」
「いや、詳しくは知らない。ただ『絵のない絵本』は絵本ではなく小説なんだ。普通の絵本には少なくとも絵があるけれど、絵がなくたって十分に絵本として機能する、そういうことがあるとすれば、その本は小説であると同時に絵本でもある。誰かがそう言っていたのを聞いた覚えがある」
「そうだな。"そういうこと"は多分にありそうだ。絵と文字は全くの別物でもないからね。きっとその小説は、文字によって絵を描いているのだろう。そして月はその手助けをしているのだろうな。月は我々に限らず、あらゆる生命の意識下に神秘的な作用を施す存在だ」
「うん。そして絵と文字の重なりは、絵本と小説の重なりでもある」
「それで?」
「うん?」
「話を戻すけど、結局君の言う『文字のない本』とは結局何なんだ?」
「うーん。『絵のない絵本』のことを念頭におけば、”文字はないが普通の本と同様に本として機能する本”ということになるのだけれど」
「抽象的だね。なにか、言語の違いとか論理能力の差に左右されない、ある種の普遍性を備えた本ということかな? これも抽象的な言い方だが」
「そういう性質はエスペラントというらしいね。境界を跨いだ争いを根絶させる志向を持つようだけれど、跨いだことそれ自体を疑わない姿勢には問題があると思う。いや、そうではなくて…うん、そういうことでもないんだ」
「大体それ、どこで聞いたんだ? …フェンネルか?」
「うーん、鋭いね」

 我々は本を読む存在であり、本は我々に読まれる存在である。誰もがそう信じ、それを疑問に思うこともない。ただ、我々が鏡であることを思い起こせば、明朗活発な常識にも一抹の翳りが見える。

 鏡は非生命である。一方、生命を宿す鏡としての我々は、魔法を身に帯びる。世に言うマジックミラーだ。僕が明るく光を発せば、相手には僕が見える。僕が昏く静まり返れば、相手は僕を媒介して相手自身の姿を目にする。僕も相手も闇を抱えたまま向き合えば、雁首揃えて覗き込むは、果ての知れぬ深淵。
 本は生命である。つまり普通の本は、我々と同様に魔術的な鏡である。「文字のない本」は、そうではない。それはいわば、純粋な鏡である。我々は鏡と対話するようにそれと対話する。では我々は、「文字のない本」を読むことで自分自身と対話しているのだろうか? 否。

「それ」には、自分には見えない自分が書かれている。純粋に鏡的でありながら鏡ではない「それ」は、我々が纏う魔法を撥ね返し、魔法同士を干渉させる。これが、世に言うカオスだ。