human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-3

 
 色の混じらない虹がある。五つの各色ははっきりと濃く、境界も明確で、五つの独自の主張となる。相手に見せるのはそのうち1つだけだが、その相手はこのこと、つまり「今目にしているのは五つのうちの1つだけ」であることを知っている。ふつうは2つ、持てる者でも3つがいいところ。それが彼の色は五つ、しかも混じり気なく、衝突もなく共存している。統率する長もいない。いや、統率者がいないこその秩序か。相手は、つまり僕のことだが、この隠されて明らかな五色を前に、消耗する。その理由が知りたいと思った。

「やっ、フェンネル! ここで会ったが百年目」
「やあ、ウーシャンフェン。僕は君の仇か何かだったかな」
「相変わらずだなあ。変わってない。懐かしいなあ」
「君は今は何をしてるんだい?」
「ま、いろいろさ。いろんなものをくっつけたり、離したりしている。私はくっつけようとしか思ってないんだが、結果として離れることもある、って意味だ。後者はな」
「なるほど。よくわからないけど、入り組んだ関係が好きなところは変わってなさそうだね」
「そりゃ誤解だ。必要以上にリンクを形成するような真似はしない。一つひとつの対象にきちんと向き合って、真率かつ丁寧に関係を拵えていくのが私の身上だ」
「気持ちはわかるけど、その身上が結果として君の周りの関係性を複雑にしているんじゃないかな」
「そんなはずはない。心は込めれば通じる、香は醸せば伝わる。君にそう思われるということは、私の努力がまだまだ足りんのだろう」
 醸せば? 「そんなことはないよ。君は十分に努力しているし、十分すぎるほど真剣だ」
「そう言ってくれると嬉しいな。やっぱりフェンネルは昔のままだ。また会えることを楽しみにしてるよ」

 自覚が大事だという考えを呼び起こす。その横に、根本的に合わない相手がいるという考えを並べてみる。

 自覚の効果には限界があるのだ。自分の思考や行為と、その効果や結果を認識していることは、それだけで効果や結果を補正する機能をもつわけではない。自覚の空回りと言ってもいい。なぜそのようなことが起こるのか。「反省の普遍化によって、反省の素朴な効果が損なわれた」と最近どこかで聞いた。これと同じことかもしれない。本来は自分一人で、自分自身を外から見つめて静かに問い直す行為である自覚が、習慣化し、巷間で一般性を獲得した身振りになる、つまり誰もが同じように手軽にできるようになる自覚の常識化によって、その効果のうち個別具体的な側面が剥がれ落ちる。個性を一般化できるわけがないから、当然のこと。
 大上段に構えるようだが、僕の消耗の原因をここに見ることもできるかもしれない。抽象的かつ本質的な希望、その破砕、具体的にして象徴的な破砕。

 希望はまだある。抽象性をもって具体性と向き合うこと、普遍性を帯びたグラスルーツ。縁を棄てないこと、悪い流れからは徒手で漕ぎ出すこと、「身を任せる流れを選ぶ者」の矜持。彼とはまたどこかで会うことになるだろう。