human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-9

 
 ローズマリー画伯の言葉を反芻する。「絵を描く間、時間が不思議な流れ方をする」。このことは「不思議でない時間」、すなわち通常の時間の流れ方をも示唆する。
 感じる者によって、そして同じ者でも状況によって、時は不規則に刻まれるだろう。すなわち、それが時間の主観的な側面である。
 その原理を知ることに意味はあるか。
 その知識は当該の時の流れに如何なる影響を及ぼすか。
 自己観測の、評価基準の変化による入れ子性との関係はあるか。
 時刻の前進性を不動のものとする定針器は、主観的な時間とは別物に見える。かの装置は理想か、標本か。あるいは永遠か、束縛か。


「もちろん、定針器は毎日見ますよ。講義は決まった時間に始まるし、遅れると先生に叱られますから」
「そうだろうね。時間割に従うためには、時間を無視するわけにはいかない。じゃあ、講義とかそういった、始まりや終わりの時を知る必要がない場合に、定針器を見ることはあるかい?」
「そりゃあ、まあ。言うまでもないと思いますけど、そんなことは生活の中でいくらでもあるんじゃないですか?」
「うん、それも違いない。我々が集団として関わり合うからには、必要の時刻は予め決定されている以上に、自分たちで決めていくものだからね」
「はあ。よくわかりませんけれど、つまりはどういうことですか?」
「すまないね。迷走した議論に付き合わせてしまって」
「いいえ。講義仲間とは他愛ないおしゃべりばかりしているので、フェンネルさんの話はとても新鮮です」
「ありがとう。ディルウィード君の思考に、なにか刺激になるものが提供できれば僕も嬉しいんだけど。えっと、それでね。ちょっと前から時間の主観性について気になることがあって、鮮度層を広げてインタビュをしているところなんだよ」
「では、私には若手としての意見を求められているのですね」
「そんなところだ」
「承知しました。なんでも聞いてください」

「聞けるところまでが長いかもしれないが…前段からいこう。時間の流れは通常、客観的には定針器が決めている。僕らが一緒に何かをする場合に、お互いに異なった流れ方をする時間を基準にしていたら、行動が合わせられないから」
「当たり前を言葉にすれば、そうなりますね」
「そう。で、定針器の刻む時とは別に、我々個々に異なる性質をもつ、主観的な時間がある。これは同じ自分でも時を感じる状況によって変わるから、ここではひとつの自然な状況、たとえば近くに誰もおらず、特定の作業に没頭していない場合を考えよう」
「はい。そうすると…一般的には新鮮な者ほど時の流れが遅い、と言われていますね」
「新鮮な者には先の時間が無限に思える。逆に言えば古びた者は、終末の予感とこれまでの生の蓄積が参照できる分だけ、時間を早く感じることになる」
「私もそれで納得できていますけれど、そうではないのですか?」
「筋が通っているし、僕も納得はできる。でも、常識とは…いや、常識も感覚的なものだからそう呼ぶのはいいんだけど、定理とか、法則とか、そういうかっちりした表現は合わないと思うんだ。あくまで、通りのよい一つの考え方に過ぎない」
「うーん、そう言われてみればそうかもしれません。では、今のフェンネルさんはどうお考えなのですか?」

「いや、それが、この通説とどう違うかというのが上手く言葉にできなくて、それで君と話しながら糸口を掴もうと思っているのだけれど…そうだね、さっき『生の蓄積』と一口に言ったけれど、これはどういうことかわかるかい?」
「はい。つまり、月を経ていろんな経験をすれば、その経験のそれぞれに伴う時の長さも知っているわけで、そういった蓄積を今の自分がざっと思い返せる短さ、瞬間性って言えるんですかね、その長短の対照で、今流れる時間のテンポが短く思える、つまり時の流れの早さを認識する。といった感じではないでしょうか」
「大体そんなところだね。そう、今君にそう言ってもらって、思ったんだけど、そういう経験を持つ古参であっても、彼の中で時間がゆっくり流れることは、あり得ないことではないだろう?」
「そうですね。主観的な時間なんだから、鮮度の常識を個性の強度が上回る場合もあると思いますが、でもそれはやはり、例外なんじゃないですか?」
「うん、そうかもしれない。バジル爺に僕はそういう印象を持つんだけれど、他に例が浮かばないという意味では、例外であり、特殊な状況かもしれない。でもね、通説やら常識にはちゃんとした説明を付けておいて、それに当てはまらない事象に対しては思考の筋道を立てずに例外の一言で片付けるのは、まっとうな知性の発動とは言えないと思うんだ」
「ああ、そうか。おっしゃる通りです、そのために今私たちが考えているんですものね。あいつとは相性が悪いだの、湿気た日は動きづらいだの、日常的なことばかり喋っていると、頭なまっちゃいますもんね」
「…まあ、頭の体操と思ってもらってもいい。やらなきゃいけない、というわけでもないし」
「そうなんですか? それにしてはフェンネルさん、眉間にシワなんか寄せて、真剣そのものですけど」
「これはデフォルトなんだ、気にしなくていい。湿気てるのも元々だ、難破したわけじゃない」
「…? そこまで言ってませんけど」

「話を戻そう。さっき例外と君が呼んだ状況に、僕らは説明を付けようとしているとしよう。主観的な時間とは感覚的なものだ、と言われている。感覚は、個々の異なる性質に基づいている。一方で、過去の経験と時の経過とが参照されている、という話をした。この2つは、主観的な時間の流れに対して、質の違う影響を与えているはずだ」
「質が違う…と言うと、感覚的なものと、理性的なもの、ということでしょうか」
「その通り。そしてこの「質の違い」に説明をつけてみよう。感覚的なものの方を主流、理性的なものの方を傍流とする。主流は、影響因子ではなく、被対象、つまり流れそのものであり、傍流はネガティブな影響因子である」
「ええと…」
「つまり、身体と脳の比喩だね。身体に意思はなく、評価もない。脳の駆動リソースである意思と、そのフィードバック機能を担う評価によって、時間の概念が発生し、意味づけられる。ネガティブと言ったのは多少の僻みが入っているけどね」
「うーんと、細かい所よくわかりませんけれど。簡単に言えば、理性が時間に色をつけている、とおっしゃるんですよね。感覚だけならそもそも、時間の流れに早いも遅いもない。…その、ネガティブと言われたのは、何かその、余計なことを考えなければ時間はゆっくり流れる、とおっしゃりたかったのではないですか?」
「ああ、そうかもしれないね。意識は常に自縄自縛だけれど、解けない縄こそが意識そのものであって、ぐるぐる巻きにしないとか、結び目はゆるくしておくとか、そういう工夫を感覚に対するポジティブな影響と考えた方が、うん、それこそ『結び目がゆるくなる』だろうね」
「なるほどお。バジルお爺さん、たしかにちょっと、呆けたところありますもんね」
「それ、爺に言っちゃだめだよ。僕の閉口処理がメモリ不足になっちゃうから」
「…なんの話ですか?」


 後悔先に立たず、という。行動する前に後悔はできない、という意味かと思うが、実は後悔とその対象となる行動との相関は希薄である。結局のところ、後悔を催させるのは、彼のトータルな現状であって、その対象は時の気分で恣意的に選択されるに過ぎない。これを「後悔後にも立たず」という。後悔ができるのは今だけであり、その今とは、自分が舵をとって洋上を滑り進む、航海真っ只中のことである。「後悔、海を渡る」なんてタイトルの映画があってもおかしくはない。それほどまでに全ては「現在進行系」なのである。
 時の流れに疑問をもつことは、生の意味を問うことに等しい。解を得られぬこと然り、中断できぬこと然り。定針器とは、鏡の別名であった。