human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

石黒浩と森博嗣

『"糞袋"の内と外』(石黒浩)を読了しました。

序盤を読みながら、何度か『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(森博嗣)の内容を連想し、それもあって、この二人は似ているかもしれないと気付きました。
一度そう思い込むと不思議なもので、いろいろな符合を見つけることができます。
まず二つ上げれば、それは「研究者」であり「孤独」であること。
前者は「探求者」と言ってもいい、現在の森氏は完全に隠遁趣味人らしいので。

こんなに(と説明なしで使いますが、つまりただの感情的表現)似ているのに何が違うのかといえば、文章を書く姿勢、だと思います。

石黒教授は、思っていることを、そのままズバリと表現する。
以前の著書を読んだ時に僕は、その本のことを「生データの宝庫」と呼びました。
実験内容とその結果・考察が、純粋に科学的な目線で展開されている。
その考察のうちには教授自身の興味が多く混ざっているはずですが、その個人的趣向すら、客観性に通じている。
文学や詩の性質を全く備えていないはずなのに、その極端な直截性が「科学の彼岸」を垣間見せている。
こういった著書に関する印象は、今回の本も変わりません。

一方で森氏は、言語出力にさほど意味を追求していない。
いや、意味の厳密性を求めていないという意味で、その曖昧さ、ロバスト性が、言語表現の新たな地平の模索となっている。
例えば、多くのミステリィ著作には氏の自作の詩がついており、また何と言ったか、著作の各章冒頭にその一節を引用するための過去の名著が一冊ずつ選択されている。
詩は、リズムつまり韻や拍子を有し、使用された語のもとの意味と、そのリズムによって普段はありえない語同士の組み合わせによって新たに生じた意味とが未知の反応を起こす。
氏の著作と引用作品(の一節)との関係も然り、引用作品は過去の有名なミステリィアガサ・クリスティとか『盗まれた手紙』とか)の場合もあるが、『武士道』(これはVoid Shaperシリーズだったかな)とか『数学的経験』とか、流体力学の基本書とか、著作との関係性が必ずしも分かりやすい選択になっていないことも、詩的な感覚がはたらいているからだと思う。
(いや、「著作のモチーフとして引用作品を選ぶ」のは、わりと一般的なことかもしれない)

司書講座でよくつるんでいた友人が、森氏について「彼が真賀田四季以外のことを書く必要はない」と言っていたが(なんとも傲慢な友人である。ちなみに彼は絵描き、「画伯」である)、その気持ちは理解できるものの叶わない願望だと思うのは、たぶん「天才(性)を直截的に文章化しても理解できない」からだ。
凡人の理解を遠く離れた存在を天才と呼ぶなら、どう書こうが一緒だとも言えるが、理解云々とは別に、努力なり志向の先鋭化なりによって、天才の境地に至ることは可能かもしれない。
(小説中の話ですが、最近『四季 冬』を読み返して、犀川創平が四季と同じ思考回路を持っている(と四季が評価している)ことを知りました。CPUのクロック数を別にすれば犀川も「天才」で、しかし彼は一般人の社会に住んでいる。というこのことは希望であり、同じ希望は石黒教授の今回の本を読み終えて感じたものでもあります)
天才の定義自体に興味はありませんが、天才がそう遠いものでもないと思えることに意味があるので書きますが、天才を素質やら能力の卓越性と見るのではなく、指向性・志向性の問題として捉えることもできる、僕が「希望」というのはこの意味においてです

書きながらどんどん飛躍していきますが(というのも石黒教授の本を読んでいる間は天才のことなんて頭の隅にもなかったからです)、本書の内容を鑑みれば、天才性と人間性とはイコールである、と言うことすら可能になります。
もちろんこれを「自分は天才なのか」とも「自分は畜生以下か」とも解釈できる、これが矛盾であり、進化の可能性でもある。


 × × ×


以下、『"糞袋"の表と裏』からいくつか抜粋します。
それに合わせて、本記事冒頭で触れた森氏著書の連想した部分を引用しようと思ったんですが、具体的にその本を当たっているうちに、別の本もいくつか混ざっていることに気付きました。
とりあえず並べてみて、何か書ければコメントします。

 先の人間の定義の中で、人間は肉体的には定義できないことを議論した。肉体が機械に置き換わっても、人間は人間であり続けられる。そうであるなら、脳の活動を何らかの方法でコンピューター上で再現することができ、私の脳の活動と他人の脳の活動が、ネットワークを介して関わることができれば、そこには人間の社会が存在し、「私」とは何かを探し続ける人間が存在していくのかもしれない
 純粋精神的存在としての人間は、自分にとっては理想的な姿のようにも思える。日常の煩わしさや物理的な身体を持つことの煩わしさから開放され、人間として最も重要な「私」を考えることだけを純粋に遂行して永遠に生き続ける

第一章 私はだれ? p.67

 しかし一方では、彼女の大部分は暗闇の中に沈み、静座し、見るものもなく、聞こえるものもない。純粋均質な無の空間に浸された自分と、それ以外のすべての存在の相互連関について、既に構築された数々の構成則を修正、微調整する作業に没頭していた。すなわち、意志の存在とはネットワークの成長にのみ顕在化する、という単純な予想は、未だに覆されていない

 死者は泣かない。
 泣くのは生者だ。
 可哀想なのは、いつも、残された者たち。
 死んだ者は、自由を得たのか?
 生きているからこそ、考えることができる、という発想が既に不自由だ。それに気づかないのは、何故だろう? 誰も死んだことがないから、その自由を想像できないから、ただそれだけなのか?
 生命活動の束縛を断ち切ることは、充分に可能だ。
 理論的に、技術的に、可能なのだ。
 人間には、それができる。
 肉体が死んでも、生きることができるはず。
 それを受け入れることさえできれば。
 そのとき、初めて、人は真の自己を認識するだろう


森博嗣『四季 冬』

両者はほぼ同じことの言及、同じ状態への志向だといえます。
「身体の煩わしさ」については、四季は何度も言及しているし(犀川はそうでなかったかもしれません)、森氏自身もエッセイで触れていたような気がします。

 自己意識を作り出している物事の解釈は、本来周りから与えられたもので、今もなお、環境の影響を受けながら自己意識は作り上げられ、変化している。
 思うに、自己と環境の境界は曖昧で、自分を意識するときの注意は常に、自分と社会や自分と周りの者との違いに向けられている。人を見ながらあの人と僕はここが違うとか、あの人はあの食べ物が好きだけど、僕は好きじゃないというように、人を見ることで自分を発見し、それが自己認識につながっている。そういう意味では、自己認識という意味の意識は自分と他人、自分と自分でないものの境界に存在する

 第一章で、人間は感覚器の集まりでできた糞袋のようなものだという話をした。糞袋は世界の中に存在するのだが、その糞袋を裏返しにすると世界が自分の中に入ってくる。そのように考えると、世界の中に自分がいるか、自分の中に世界があるかは問題ではなく、世界と自分を分けるのが自分であるということに気付く。
 
第四章 つながりと社会 p.156, 158

「つまらないなんて言いだしたら、なにもかも全部つまらない。最初からずっとつまらないよ」
「そうでもない。面白いものもあった。沢山あったわ」
「今はそれがない?」
「たまたま今だけないのか、これからずっとないのか。私の周囲、外側の問題なのか。それとも私自身の、内側の問題なのか、まだ判別がつかないの」
そもそも、その両者は別のものなのかい?
外側と内側が?
「そう」
「さあ、どうかしら。確かに、それを明確に区別する一線は存在しない。私の外側にも、私は進出している
「内側にあっても、君がコントロールできない領域もある。それくらい、僕は知っているよ」
では、内側という概念を再構築しましょう。私がコントロールできる範囲を、私の内部と定義します


森博嗣『四季 冬』

後者の抜粋について、これは四季と其志雄の会話ですが、其志雄は四季が幼い時に「吸収」して内面化した人格なので、四季の内部ネットワーク上の会話です。
四季は天才で、ではこれは天才特有の現象かと小説を読んでいる間は思ってしまいますが、前者の石黒教授の言葉と合わせると、これは一般的な現象であって、一般的でないのは「それが言葉として明示されること」の方であったことがわかります。

 さらに、自由になるということは、都合の悪いこともいいことも全て受け入れて、その両方の根幹に横たわる、より深い問題に思いをはせる。つまり、より根本的な問題に興味を持つということであろう。
 より根本的な問題を考えるとき、自分に都合がいいとか悪いとかは関係なくなる。
 現実の世界に生きていると、日常の表層的な問題に一喜一憂することがある。それゆえ、不自由や不幸せを感じることが多い。しかし、その表層的な問題の根幹となる問題に興味を抱けば、表層的な不自由や不幸せに悩まされることはなくなる。
 例えば、人と口げんかをしたとしよう。口げんかの内容に振り回されるのではなく、なぜ口げんかをするのかとか、その口げんかの論理とは何かとか、人間にとって口げんかの意味とは何かという、より重要で深い問題に興味を持てば、口げんかの内容などどうでもよくなってしまう。
 すなわち、自由になるということはより深い問題を考え、考えることそのものに価値を見出すということだと思う。そうしてあらゆる可能性を受け止められる状況を作り、またさらに深い問題を考えていくことができるようになる

第六章 自由 p.189-190

 だが、さらに抽象すれば、結局はみんなが、自分の楽しさのために生きていることでは、まったく同じだといえる。たとえば、意見が対立して喧嘩をしている二人を観察しても、どちらも自分の利益を求めて譲らず、それが争いの元になっている。違っているから喧嘩になるのではなく、同じことを考えているから喧嘩になるのだ
 考えてみれば、人間と石はあまり対立しない。それは、人間と石がだいぶ違うものだからだ。人間と犬だって、滅多に喧嘩をしない。対立するのは、人間どうしなのだ。小さな子供と老人が言い争いをすることも稀である。似た者どうしが喧嘩をする。国どうしが対立するのも、お互いが、似たレベルで、同じように考えているからである。
 ふと、そんなふうに、物事を抽象すると、くすっと笑えないだろうか?


第4章 抽象的に生きる楽しさ p.152-153
森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

抽象的な問題とは、ある面においては深い、根本的な問題である。
前者の「より根本的な問題を考える」具体例(口げんかについて)の、後者はその具体的な解説の一例になっています。
石黒教授は「考えることの自由」について述べ、森氏はその横で実際に「自由に考えること」を見せてくれる。
引用を並べてみて、そういった、二人の教授(片方は「元」)による豪華なコラボ講義を想像することができます。

 理解するとはどういうことかと改めて考えると、新しく知り得た物事を、様々視点から説明できるということだろう。(…)しかし、新しく得たことが概念的なことであると、そう簡単に説明することができない。
 そうしたときに大切なのは、思い込むことである。例えば、「心」という概念は皆が持っている概念で、それがなにがしかの形で存在すると思い込んでいる。たとえ物理的な存在ではなくとも、それを生み出すメカニズムが、人間や人間社会にあると思いこんでいる。
 新しい概念は、いったんその存在を思い込むことで受け入れ、それからいろいろな角度から説明をつけるのがいい。受け入れなければ常にわからないという状態が続くだけで、理解を積み重ねることは難しい。
 そしていったん受け入れたなら、そのことに次々に疑いをかけてみる必要がある。自分の理解に疑いをかけながら、また別の視点から考え、基の理解を修正する。そういったことを何度も繰り返して概念は理解されるものだと思う

第七章 挑戦 p.221-222

 攻撃は最大の防御という言葉があるが、相手が防御しようと構えている場合には、そうそう簡単に有効な攻撃をすることはできない。むしろ相手が攻撃に転じるその一瞬に、隙が見出される。ボクシングでいうところのカウンタである。それは、エンジンのピストンのように、動きが反転するところで、一瞬静止することを想像すれば理屈は簡単だ、と彼は考えていた。この男は、こういった不思議な理屈を幾つも持っている。類似する現象を見つけ、それによって理屈を作る。信じることを、正しいことに塗り替える。それが彼の手法なのだ。

森博嗣四季 夏

後者は前にも一度抜粋しました。
「この男」とは、Vシリーズ(第一作は『黒猫のデルタ』)の語り手である保呂草潤平のことです。
これも、前者の論理に対して、後者が具体例となっています。
そしてこの連想によって連鎖的に発生したことは、保呂草は探偵・便利屋稼業を表向きに行う泥棒なのですが、彼にはクリエイタ気質があるということ。
情報を収集して分析したり、あっちのものをこっちに(時として違法に)移動させたりする人間が、何かを創り出している。
これは、ものづくりに携わる人間としても、読書を生活の一部とする人間としても、なかなか興味深いことです。