human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-8

 
 神の存在は任意である。誰のためにいるわけでもない、我々に関与しない存在として、神はある。信仰して跪くのも、邪教と罵るのも、我々の都合に過ぎない。祈りは浸透し、呪いは顕現する。形のない思念は、神を透明にする。
 かつ、触れれば反力で応え、凭れれば摩擦が支える。有るものは唯無く、在るものは唯泣く。どこまでも遠く、どこまでも近い者として、無関係に等価的に、我々と神はある。

「お告げにも間違いはあるものぞ」
「え、そうなんですか?」
シンタックス・エラー」
「……」
「耳が遠いのか? 傍におらぬのか?」
「いえ、しかと聴こえております。そしてお側に」
「わしはうどん派だがな」
「……僭越ながら、私は蕎麦の方が好みですね。色がついている方がお得な気がして。いや、変な話ですが」
「そんなこと聞いとらん」
「失礼しました。それで、お伺いしたい話というのが…」
「分かっておる。今カミさんに聞いておるところじゃ」
「はい」
「んーとな、ふん、ふん、ふうむ。……いかんのう。今晩は蕎麦だそうじゃ。うどんが良いと常日頃から言うておるに。お主がいらんことを言うたせいじゃ」
「は、申し訳ありません…? あの、バジル爺の夕食のことではなくて、ご神託の行方の話なのですが」
「ほ? おお、そうじゃった。うん、な? 分かっておろうが、冗談じゃて。古くなると雑音が増えてのう、意識が制御を離れて混雑するんじゃ。まあ、並行処理といえば聞こえはいいが、お主の方は拗ねて黙り込んでしまうからのう。つまり、ああ、閉口処理で対抗ということじゃな。ふぉっ、ふぉっ」
「…いや、相変わらずお見事な舌鋒です」
「おべっかはよろしい。口の端が曲がっておる。そんな、この世の終わりのような顔をせんでも、絶望の対象はそのへんにいくらでも転がっておるわい。ジジェクもそう言うておる。さて、では本題に入るとするかな」
「よろしくお願いします」
「『我ら香辛属の未来について』。ふうむ、フェンネル坊はどうして、こう、頭が堅いんかのう、もっと軟派な発想をもたんと、船も沈んでしまうぞな。まあの、水没するまでもなくお主は湿気とるからのう。まあま、そりゃよいわ。…ん、むう、むん。…つう、つう、とんとんとん」
「…?」
「ん、出た出た。出ましたぞい。『属の未来は明るい、これは運命により定まっている。ただし明るさの測定は理想暗室にて照度計PW-05Sを使用のこと』。うむ、宜しく御身に然と刻まんことを」
「……。ええと、託言について、爺に一つ質問してよろしいですか?」
「どうぞん」
「は。その、照度計はまあいいとして、我々は何を測定すればいいのでしょう?」
「わしの解釈を聞いておるのだな。ふむ、言葉通りなら『属の未来』じゃが、そんなもん暗室には持ち込めん。つまり、比喩ととるか、冬ととらねばならんのう」
「比喩と、えっと、冬ですか?」
「そうじゃ。冬は厳戒の季、限界の機。香は沈、色は闇。空間が澄み通り、光を見るには絶好の期である。火を灯さず秘を友とし、香色の自ずから出づるを待つべし」
「はあ。それで、ついでに照度計とは…」
「ついではなしじゃ」
「え?」
「嫁いでからの話じゃ」
「…え?」
「ナンパでもせいと言うておる」
「……」
「ほっほ。閉口、閉口と」

 我々は、過去と未来を所有する。かつて曖昧で間欠であったバーチャルな手段が、次第に緻密で広範囲となり、バーチャルがリアリティを帯びるに至った。現在が、過去と未来の横溢に埋没する仕儀となった。だが、手段の発達は本質には及ばない。我々が所有できるのは、形のあるものだけであり、そしてこれも幻想である、つまり、所有の概念には形がない。バーチャルの精緻化が糊塗するのはリアルではなく、バーチャル自身すなわちバーチャリティである。
 神に形はない、ゆえに神はあらゆる質を帯びる。バーチャリアリティの隙間から窺う神の目は透き通り、何も映さない。神を覗き込まんとする我々の身振りは、永遠に空振りする運命にある。