human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-7

 
 香を永遠に失った者は、月と縁が切れる。湖は止まり、波立たない理想鏡であるはずの水面に、何も映らない。
 色を吸収し尽くし返さない者を、風はすり抜ける。彼の周りで流れは淀み、その一点へ向けて、生死の定かでない薄まりは異世界への扉を思わせる。
 消失は、我々と、どのような関係にあるのか。

「絵はね、描くあいだの時間がねえ、不思議なんだよ」
「たとえば、どう不思議なのですか?」
「描こうとしてやると、何も出てこないんだ。んん、べつに何かは出てくるけれどさ、それはつまらないというかね、『ああ、いつもの時間だなあ』っていう印象」
「描くことに集中している時間の流れ方は、普段と違う、と?」
「そう言ったよ」
「すみません。こういった芸術に対する理解には疎くてですね」
「で? フェンネルくんには全く興味のないはずの僕に、なにが聞きたいわけ?」
「いえいえ、そんなことはありません。ローズマリー画伯の存在も、感性も、もちろん作品も、僕の関心を刺激して止まないことは確かです。ただ僕自身の日常からあまりに遠いところにおられるので、なかなか近づく機会に恵まれず、ついつい縁遠くなってしまうのです」
「同じこと、もっかい言わせる気?」
「……。ある友人が僕に手紙を送ってきまして、そこに『絵は香色を失った者に似ている』とあったのです。これは単純に、無機物に生の形象を定着させても有機物にはなり得ない、という形而下的事実の表現ではなく、もっと深い意味があるのではと考えたのですが、思考がこのスタート地点から進まなくて、どうしたものかと悩んでいるのです。それで、実際に絵をお描きになる画伯に、ぜひご意見を伺いたいと思ったのです」
「ふうん。君の友人が、なにを見てそんなことを言ったのか、気になるけれどねえ」
「たしか、水平線を境界にして赤と青が一面に塗られた巨大な絵だと言っていました」
「それを見て死を連想した、と。なるほどねえ。きっと彼は死と近しい仕事なり生活なりをしてるんだね」
「よくお分かりで。…それで、どう思われますか?」
「そうだな。僕らは皆、例外なく香をまとい、色を備えているだろう? それが僕らのいる世界で、だから香色を失った者は、僕らとは別の世界に属するはず。論理的にはそうで、しかし実際そう断言できないのは、その者は消化されていない、つまり香色の有無を除けば僕らと同じ存在だからだ。有機性は失われたが無機物とは言い切れず、僕らの世界の幽かな名残がある。僕らはその者を見て生を感じるのではなく、生を連想する。思い出す、と言ってもいいな」
「絵を見ても、それと同じ連想をする、と?」
「焦るな。絵を描いていて、時間が不思議な流れ方をすると言っただろう。絵に関わる行為はこれと同じ、つまり見ていても同じ。時間が止まるのではない、日常とはどこかしら異質に流れる。そう、たとえばな、動こうとする力と止まろうとする力が拮抗した状態を想像すればいい。物体は止まっている、しかしその静止は無負荷ではなく複負荷の相殺によって実現されている。彼は目を閉じて瞑想に耽っているように見える、しかし彼の内には衷心と憎悪が坩堝の中で煮え滾っている」
「おっしゃることはなんとなく分かります。が、しかし絵を見ている時の連想と、死を前にしての連想が、同じ質のものとは思えないのですが」
「死そのものは静謐だ。しかし死に対する者は静謐ではいられない。絵も同じだ」
「…それは、なぜでしょうか?」
「取り込まれるからだ。皆それを恐れる。静謐を望み、憧れはしても、いざ生身をその前に晒せば、生身が本能的に反抗し、それを恐怖として意識に上らせる。逆から言えば、日常にありふれているはずの死は見聞に過ぎず、静謐は完全に隠れ、デトキシフィケートされて恐怖は跡形もない。そうして平和を隙間なく築き上げていくほど、カタストロフは想定の外から突然やってくる」
「…なるほど。貴重なお話、ありがとうございました」
「ふん。ああそうだ、君のその友人に言っておくといい。赤と青を混ぜて紫になるのは、思い込みに過ぎんとな。色は勘違いの賜物だと」

 結局、我々はその目に映した対象に成り代わる存在なのだろう。意図に関わらず相手に乗り移り、性懲りもなくオートマティックにトレースする。とはいえ、意識は生の不可逆識閾下にあり、物理的発露なしに下剋上は成立しない。恐怖が意識を柔弱足らしめるとはいえ、入寂足るには至らない。
 きっと、その先がある。
 死を水面に映し、異世界から吹く風に晒されながら臨む静謐の、その先。