human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-6

 
 文字のない本。ページを開けば広がるのは白紙ばかり、ではない。我々は紙の上のそれを、普通の本と同様に読むことができる。ただそれは、文字ではない。たとえば僕が、それを見る。読む。その本のあるページは、すると僕に問いかけてくる。僕はその本に対する応答を迫られる。それは解答ではない。もちろん反射でもなく、それらのあいだに位置する反応を促される。その応答がすなわち、次のページへ伸びる手の一連の動きである。我々はその本と対話をする。ただその本には、文字が書かれていない。

「きっと、文字通りの意味を持ってはいないのだろうね?」セージはいつも明晰だ。
「そうなんだ、たぶん。文字がなくとも絵はあるのだろう、とか、そういったシンプルなことでもないんだ」たぶん、と繰り返す言葉を飲み込む。
「ふむ。…どこか遠くの、いくつか境界を越えた先に『絵のない絵本』というものがあるそうだね。何か関係があるんじゃないのかな」
「ああ、それは僕も聞いたことがある。その話の中で、登場者は月に導かれて絵のない絵本を読むんだ。自分が描く絵のひとつひとつが物語を語る、そういう話だったと思う」
「主人公は絵かきで、彼が描く絵が集まって絵本になるのかい? それのどこが『絵のない絵本』なんだ? 月の存在も気になるけれど」
「いや、詳しくは知らない。ただ『絵のない絵本』は絵本ではなく小説なんだ。普通の絵本には少なくとも絵があるけれど、絵がなくたって十分に絵本として機能する、そういうことがあるとすれば、その本は小説であると同時に絵本でもある。誰かがそう言っていたのを聞いた覚えがある」
「そうだな。"そういうこと"は多分にありそうだ。絵と文字は全くの別物でもないからね。きっとその小説は、文字によって絵を描いているのだろう。そして月はその手助けをしているのだろうな。月は我々に限らず、あらゆる生命の意識下に神秘的な作用を施す存在だ」
「うん。そして絵と文字の重なりは、絵本と小説の重なりでもある」
「それで?」
「うん?」
「話を戻すけど、結局君の言う『文字のない本』とは結局何なんだ?」
「うーん。『絵のない絵本』のことを念頭におけば、”文字はないが普通の本と同様に本として機能する本”ということになるのだけれど」
「抽象的だね。なにか、言語の違いとか論理能力の差に左右されない、ある種の普遍性を備えた本ということかな? これも抽象的な言い方だが」
「そういう性質はエスペラントというらしいね。境界を跨いだ争いを根絶させる志向を持つようだけれど、跨いだことそれ自体を疑わない姿勢には問題があると思う。いや、そうではなくて…うん、そういうことでもないんだ」
「大体それ、どこで聞いたんだ? …フェンネルか?」
「うーん、鋭いね」

 我々は本を読む存在であり、本は我々に読まれる存在である。誰もがそう信じ、それを疑問に思うこともない。ただ、我々が鏡であることを思い起こせば、明朗活発な常識にも一抹の翳りが見える。

 鏡は非生命である。一方、生命を宿す鏡としての我々は、魔法を身に帯びる。世に言うマジックミラーだ。僕が明るく光を発せば、相手には僕が見える。僕が昏く静まり返れば、相手は僕を媒介して相手自身の姿を目にする。僕も相手も闇を抱えたまま向き合えば、雁首揃えて覗き込むは、果ての知れぬ深淵。
 本は生命である。つまり普通の本は、我々と同様に魔術的な鏡である。「文字のない本」は、そうではない。それはいわば、純粋な鏡である。我々は鏡と対話するようにそれと対話する。では我々は、「文字のない本」を読むことで自分自身と対話しているのだろうか? 否。

「それ」には、自分には見えない自分が書かれている。純粋に鏡的でありながら鏡ではない「それ」は、我々が纏う魔法を撥ね返し、魔法同士を干渉させる。これが、世に言うカオスだ。