human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ドーマルとルーマン、〈山〉の掟とアナロジーの集中力

 

 「おしまいには、とくに〈類推の山〉の掟のひとつを書きこんでみたいんだ。頂上にたどりつくためには、山小屋から山小屋へと登っていかなければならない。ところが山小屋をひとつはなれる前に、あとからやってきてそのはなれた場所に入る人たちを用意しておく義務があるんだ。そして、その用意がおわってからでないと、もっと上に登ってゆくことはできない。だから、僕らは新しい山小屋にむけて突きすすむ前に、もういちど下に降りて、僕らがはじめに得た知識を、別の探索者に教えておかなければならない……」

「後記」p.192
ドーマル『類推の山』

 
 × × ×
 

 定義。──登山とは、最大の慎重さをもって最大の危険に立ちむかいつつ、山を歩きまわる技術である。
 ここで技術と呼ぶのは、ある行動を通じてある知識を遂行すること

「覚書」p.200
引用太字部は本文傍点部

 私よりもずっと経験ゆたかな仲間が言う。「足が言うことを聞かなくなったら、頭で歩け」と。その通りだ。なるほど物の道理にかなってはいないが、よくあるように足をつかって考えるよりも、頭をつかって歩くほうがましではないか?

同上 p.205

 ちょっと滑ったり落ちたりしたときは、一瞬でも休んだりせず、むしろすぐ起きあがって歩行のリズムをとりもどせ。転落の状況は記憶によくとどめておくが、体にその記憶の反芻を許してはならない。

同上 p.205

 あてずっぽうに進むときは、もとにもどってこられるように、通る道になにか跡を残しておけ。石を重ねておいたり、棒で草をなぎたおしておく。けれども先へ進めない場合や危険なところに着いたら、きみの残した跡を追ってきた人を迷わせるかもしれないと考えるべし。(…)たとえそうするつもりはなくても、人はいつも足跡を残してしまうものだ。同胞の前できみの足跡に責任をもて。

同上 p.207

 
 × × ×
 

 頂上への道をしっかりと見つめつづけ、だが足もとを注視することも忘れるな。最後の一歩は最初の一歩に左右される。頂上が見えたからといって到着したつもりになるな。足もとに気をくばり、つぎの一歩をしっかりと支え、だが、もっとも高い目標から目をそらすな。最初の一歩は最後の一歩に左右される。

同上 p.206
引用太字部は本文傍点部

 それゆえ、意味は要素の非安定性に基礎づけられなければならない。べつの言い方をするならば、意味は、動態的システムの資産であるということである。こうした基礎的な前提条件は、現実性の非安定性と呼ぶことができるもののなかに再現される。この現実性における意味ある経験の焦点というものは、それがあるところの場所にはとどまれず、移動しなければならない。意味の構造は、この問題に関わる現実性と潜在的可能性との差異にもとづいている。この二つの部分からなる構造の機能は、確定的ではあるが非安定的な現実性と、非確定的ではあるが安定的な潜在可能性という交互に生起する集中力を組織することとなる。事実、われわれは世界に対して、非安定性か非確定性をもって、接しなければならない。つまり、安定的な確定性をもつことはできないのだ。しかしながら、非安定的な確定性と安定的な非確定性という正反対の問題を関連づけることによって、状況を展開させることができる。この関連は、意味として生じ、好結果の意味のヴァリエーションと文化的淘汰によって進化するのである。意味のこの進化は、複雑性の増大に帰着するように思われる

「第二章 複雑性と意味」p.46-47
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

ドーマル、多和田葉子、橋本治と「メタファーの力」

 
ルネ・ドーマル『類推の山』を、その本編を読み終えました。

未完の遺稿というのが惜しいです。
何も知らずに、それからまだまだ続くはずの「……」で章が終えられた次の白紙のページに出会って、呆然となりました。
そして、
ただ、それはもう、そういうものなのだと。

ドーマルは詩人なのだそうです。
 
 × × ×
 
今の時期、新聞記事などを見ていても、心にいちばん響く言葉は、
詩人や文学者の言葉であることが多い。

それは彼らが、ふつうの人たちがこれまで考えてこなかったことをずっと考え続けてきた人々であり、
そして「ほんとうに必要なものをあらためて選び直す」絶妙のタイミングであるこの時期に、
彼らがその身を通じて考え続けてきたことが、
ようやく僕たちにも身に染みるようになった、
からなのだと思っています。


何日か前の毎日新聞の寄稿記事で、
ドイツ在住の作家である多和田葉子という人の文章が載っていました。
…記事の写真を撮っていたつもりが無かったので記憶で書きますが、

「メタファーとしてとらえればコロナウィルスは尊敬すべき存在である」

と。そしてそのこころは、
自らの性質を変えて(つまり変異種となって)、
宿主をとっかえひっかえして生き延びるウィルスは、
それほどまでに「したたか」であると。


いや、コロナウィルスを尊敬すべきだとか、コロナ禍はやれ好機である天罰であるとか、そういう言い方を不謹慎と告発することは簡単で、その告発が自分のためではなくコロナに苦しむ人々のためであるという使命感に酔う選択肢もありふれていて、それでとばっちりの炎上という迷惑を被る少数の人もいれば溜飲が下がって日常をなんとか生き延びる活力を得る多数の人もいる。

それはなぜか、なぜそんなことになっているのか、
その理由を問うことには、
いや、問題提起そのものはいつだって重要であるはずなのに、
ここではもはや意味をなさなくなってしまったその理由とは、
「ただそうなってしまっている」という、ただそれだけのこと。

通常言われる「生産性」と、
僕が重要だと思う「意味の生産性」はたぶん別物で、
その後者の観点からすると、
「ただそうなってしまっている」その場から抜け出るほかは、
そのことになんの意味もない。

”制度の中にいるもの”とは、すべてが”その制度”を作り上げた権力によって成立させられているものである。だからして、”そういう置かれ方をしてしまった自分”を自分に許してしまったものには、一切権力に対して文句を言う筋合いも権利なんかもない、ということである。たとえそれが”名もない庶民”であろうと”豪壮な邸宅に蠢く陰の黒幕”であろうとも。(…)権力によって成立させられた制度の中にいる人間達は、結局のところ、その制度が壊れないような、安全な文句ばっかり言っている。自己嫌悪で口がきけなくなるまで──。ここら辺は、親の悪口ばっかり言っている子供、夫の悪口ばっかり言っている専業主婦とおんなじである。

「その後の江戸──または、石川淳のいる制度」p.418-419
橋本治『江戸にフランス革命を!』青土社、1989


話を戻しますが、
詩人や文学者という人々は「メタファー」の力をものすごく認めていて、
それは「自分が変われば世界が変わる」というコペルニクス的転回の原動力であり、
それだからこそふつうの人々がふっと聞き流してしまうような一言に全身全霊をもって挑む気概を持てるのですが、

 多和田氏がコロナウィルスを「したたか」だと言った、
 でもそれは実は、
 「人間はそんなウィルスを尊敬さえできるほど”したたか”である」
 ということも言っている。

 というより、
 人間もそれほど「したたか」であると信じている、
 と言っている。

そういう風にメッセージを受け取った時、
日常生活で増えた些細な不都合に戸惑う思考の表面、
とは別のところから、
よくわからないが何やら力が湧いてくる。

「それ」にとりすがって、ご利益があるわけでもなく、
「それ」をそのまま実生活に応用できるかといえばそうでもない。

でも、ふっと心が、底のほうからふわっと軽くなる。

「ある言葉」と、
その言葉を身に受け入れ染み込ませた、
「ある知性」によって。

それが、メタファーの力
 
 × × ×
 

 ルネ・ドーマルは生涯のおわりに、まだその探究ははじめたばかりだったけれども、高く鳴りひびく音とうつろな音とをすでに聞きわけていた。その区別をさらによくわきまえて、たとえ中断されていようと、いや何よりも中断されているからこそ、その道の何たるかを知ることができたらいいのだが。
 もっともその道の標石は、簡明で正確なかたちですでに与えられている。私あての最後の手紙のなかの一通に、つぎのような言葉で表されているのだ──

「いまここで私とともに励んでいる人たちに理解してもらいたいことをこんなふうに要約した。
 
 ──私は死んでいる、なぜなら欲望がないから、
 私は欲望がない、なぜなら所有していると信じるから、
 私は所有していると信じる、なぜなら与えようとしないから。
 
 与えようとすると、何ももっていないことがわかる、
 何ももっていないことがわかると、手に入れようとする、
 手に入れようとすると、自分が何ものでもないことがわかる、
 何ものでもないことがわかると、何かになろうと欲する、
 何かになろうと欲すると、見えてくる。」


「後記」(ヴェラ・ドーマル)p.193-195
ドーマル『類推の山』巌谷國士訳、白水社、1978
引用下線部は本文傍点部

本のタイトルが示す通り、
冒険小説であるこの本にはメタファーが溢れています。

語り手とその師は現実にメタファーを看取し、
メタファーが新たな現実を拓く。
後者の「メタファーが現実に作用する」という点は、
僕らの日常で実感しにくいものです。

メタファーがいいスパイスになって魅力を放つ小説は数多ありますが、メタファーそのもの、その作用が物語の肝であり、冒険の進行の鍵を握る、というメカニズム(物語の原動力)は、展開に荒唐無稽な面があっても気にならない、すなわち表面的なリアリティを圧倒するほどのパワフルさがあります。

 それはまた、かつて初代[歌川]豊国に於いて、現実には”一人”しか存在しない女性像が”女方”という型枠を使って”それぞれに違う個性をもった女性像”を生み出したことに等しい。[歌川]国芳に於ける”大星由良之助”は、豊国に於ける”女方”という既定の対象に等しい。論ずべき実在の人物がいなければ、論ずる架空の人物を実在させる。論ずべき実在の人物がいないというような時代もあったのだ、女性が”理想の女性”というフィクションの中にしか存在しなかった時代があったように。リアリティーというのは、だから、”実在させてしまえる技術”のことを言う。

「安治と国芳──最初の詩人と最後の職人」p.406-407
同上

 
ここで再び、
メタファーの力とは何か。

それは「言葉が持つ力」ではあるが、
「言葉だけが持つ力」ではありません。
あるポテンシャルを秘めて目の前に差し出された言葉、
その言葉に実質を与える「受け手その人の力」も含まれます。

だから例えば、作家の提示したメタファーは、こうも言える。

その作家とある読者とのコミュニケーション(の成立)であり、また、
その作家とある読者とのコミュニケーション(のすれ違い)でもある。

メタファーを最終出力として、自分の言葉として差し出す表現者は、
その受け手の解釈の自由を尊重し、そして解釈の飛翔を信頼している。

だから、
きっとそのコミュニケーションが「成立」したか「すれ違った」か、
そんなことはどうでもよく、
ただコミュニケーションが「発生」したことを無上の喜びとする。


僕は一時期、「言論の尽くされたネット上のクラウドストレージ」というイメージを抱いていました。

 自分がなにか「新しい」と思ったことなど、
 どうせ誰かが既にどこかで言っている。
 検索して出てくるのと同じ言葉を、
 自分があらためて書き加える意味などない。

その頃はウェブ上に玉石混淆で無造作に増殖する情報に対して、
「人類知の蓄積」といった過剰に神格化した見方をしていたのでした。
大学生の時分だったかもしれません。

そして、その見方は本格的に読書に没頭するようになって、解消されました。

情報化された言葉は、情報としての力しか持たない。
その力は不変性にあり、別の見方をすればそれは「死んでいる」。
「死んだ言葉」が実際的な効力を持つ社会(現代)は存在するが、それは普遍ではない。

言葉には「生きた言葉」もあり、言葉は人のなかではじめて「生きる」。
「生きた言葉」が社会活動を担っていた社会はあったし、それは歴史に終わるものではない。
 
 × × ×
 
人と直接会うことにネガティブな印象が生まれた事態、

その機会を「直接会わないでも言葉を交わせる仕組みの構築」にだけ向けるのではなく、
「過去に受け取った言葉」と「いま身の回りにある言葉」を内にじっと馴染ませる時間に充てる、
道具としてではなく、効率や生産性とも無関係に、
自分を見つめ、また自分の思考や価値観の変化を導く、

そのように言葉と触れ合うきっかけとすることができれば、
世界はコロナ前より、静かに落ち着いた姿勢で、
地に足を着け直すことができるでしょう。
 
 × × ×

類推の山 (河出文庫)

類推の山 (河出文庫)

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

  • 作者:治, 橋本
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本

ゆくとしくるとし '20→'21 3 「図書館をつくろう」

 
正月は毎年テレビばかり見ていて、目が痛いです。
ただ普段全く見ないので発見はいろいろあります。

NHKの「100分de名著」だったか、
萩尾望都の特集を見ました。
銀の三角』と『11人いる!』は何度も読んでいて、
でも『ポーの一族』はちらりと読んでよくわからないまま放り出していました。
番組を見て、『バルバラ異界』を読んでみたくなりました。
(シュールコメディだという『イグアナの娘』は「イパネマの娘」のシャレですね)
その出演者の対談とインタビューで、著作者の肉声などを初めて知りました。
斎藤環夢枕獏は顔も初めて見ました。
斎藤氏は中沢新一に似てるな…と「誰に似てるか」という発想しか浮かびませんが。
ヤマザキマリは写真でしか知らなかったんですが、予想外に声がハスキーですね。

 × × ×

書き始めたところで「相棒」の再放送が始まりました。
昨日から全部見てるんで、これも見ちゃいます。

15:37

 × × ×

「天気の子」見ました。
青春ですね。

去年一年はどうだったか?
それは、しようと思えば一文で表現できます。

 ひたすら登り、ひたすら読む。

それだけ。

 × × ×

来年の抱負を言う前に、少し言い訳。

今年の暮れに、登っていて強傾斜で背中から落下して首を痛めました。
油断が3つくらい重なった末の事故で、同じ過ちはもう繰り返しません。
一本歯遍路でさんざん身に染みていたことだったんですが、

 身体性をフル稼働させるには考え事をしてはいけない。

それだけ。


一週間で治るかと思って医者にもかからなかったんですが、
二週間でなんとなく緩和したと思って登りに行ったら、
それから回復が止まり、なんとなく倦怠感が出るようになりました。

もっと軽い打ち身くらいに思っていたんですが、
頭を打った時の衝撃を正直に思い返すと、むち打ちだったようです。
過去に家族が交通事故で同じ症状によって身体不自由になったので、
そこから目を背けていたんですが、たぶんそれもここまで。

症状と治療法を調べて、
一度整形外科に行って診断してもらいつつ、
効くらしい漢方(桂枝茯苓丸)もあるので試してみます。
治さないと、次が始まらない。


今回の事故で身に染みたんですが、
身体主軸で生活をしていると、
その身体が不調を来すとその生活がガタガタになります。
身体の周波数に思考を同調させていると、
身体の波の乱調によって思考も不安定になる。

だからこれは代償でもある。
細かい事情に振り回されずに充実感が得られる状態があるのだとすれば、
その状態は前提が崩れれば、細かい事情では覆せない常時の低調に陥る。
脳化社会ではリスキーな(リスクヘッジの効かない)姿勢かもしれない。

まずは治す、まずはそこから。

 × × ×

上記の通りで、今は登りたいという気が全然起きない。
登らない期間が延びればそれだけ指も身体も弱くなりますが、それは仕方がない。
治ればまた以前のように「登らずにはいられない感覚」が戻ってくるかも分からない。
そんな状態で考えることではないかもしれませんが…

夢があります。

「実現にはほど遠い希望」という意味ではありません。

「やりたいことをやる」というよりは、
「やりたくないことをやらない」を重視し、
また、内容(結果)よりも状態(過程)を重視するという、
自分の生活思想に合致する生計を立てる方法、
その第一候補、という意味です。

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「私設図書館つきのボルダリングジム経営」、
店名は「晴登雨読」
略称BBCBouldering, Book and Coffee)。
以下はそのおおまかな方針。

図書館については、
ジムと共通の会員カード作成料を除けば無料で利用できます。
貸出資料は一人最大3冊、貸出期間は最大4週間で延長なし。
読書相談や選書など、本に関する相談はなんでもOK。
ただし読書感想文の代筆はしません(図書の推薦ならします)。
閲覧エリアは飲食持ち込み可、店内注文はコーヒーのみ。
コーヒーはブラックと週替わりのスパイスフレーバー数種。
(人を雇う余裕と需要如何によってこの点、充実の可能性あり)

ジムエリアについては、
初~中級者向けのレベルを中心とした課題(自分一人でセットするなら)。
「武道的ボルダリング」の実践となるような、全身・体幹系、バランス系を重視。
ラインセットではなく、長物を含めた課題数とバリエーションを優先させたセット。
そしてトレーニングをせずに、普段から登るだけで上のレベルを目指せる課題。
そしてそして、普段登っていれば、普段の生活の身体作法が変わっていく課題。

内装は建屋によりますが、
入り口近くor/and吹き抜けの2階に書架と閲覧&飲食テーブルを置いて、
ジムエリアの壁はスラブ(←必須!)も含めてひとつながりが理想です。

いちばん重要なのは立地で、
もちろん当てはまったくありませんが、
おおざっぱに言うとジムが乱立する都心部以外のどこか。
需要さえあれば、人の少ない地方であるほど個人的にはありがたい。
また読書や本に理解のある自治体だと、地域となにか協力ができるかもしれません。

イチから、たとえば土地の購入から始められるほど資金はないので、
元工場だとか、既存の建物を改装して利用するのが現実的だとは思います。
なんとなく、いやこれは非現実な妄想ですが、
瓦屋根に漆喰、そして線香の香りが漂う寺社ライクな建物が好みだったりします。
書架の本の活用方法次第ですが、寺子屋的な活動ができればやってみたい。

BBCのテーマも大切なことで、
本とクライミング有機的にリンクすることをちゃんと言葉にしておきたいんですが、
これはまた時を改めることにします。

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

じっさいのところ、僕のボルダリングの実力としては、
中級と上級のあいだ(の中級に近い方)くらいで、
大阪のジムのレベルでいえば3級がちょうどよいくらい。
なので、たとえばスラブや垂壁なら1級課題は作れてもそれ以外では無理。
そして指が強くないのでその課題の傾向もずいぶん偏ったものになる。
さらに今回のケガでブランクが延びるとそれだけまた弱くなっていく…

と、言い訳はいくらでもいえるんですが、
まあ大事なのは実力よりも意気込みの方であって、
ジムをいざ作るとなって、
そこに強い人が来るのであればゲストセッターを呼べばいいだけのこと。


実は去年の暮れから「立地探し」をちょくちょく始めてはいて、
熊野古道の旅もそのきっかけ作りで、そういう目で和歌山の新宮市街を散策しました)
自分でいい街を見つければそこで伝手を探すし、
あるいはどこかから話が舞い込んできたらまずは話を聞くつもりです。

とにかく縁は大事に、
志はしっかり奥に秘めて、
そして焦らずゆっくりと。

 × × ×

僕にできることは、まだあるかい?」

あるさ。
「まだ」なんて言わず、いつだってあるさ。

25:27

ゆくとしくるとし '20→'21 2

 
今年ははちまんさんへ登ってきました。

去年は面倒くさがって行かなかった気がするんですが、
それまで毎年行っていた元日の初詣を再開したという感じです。

年の変わり目に間に合わせる気もなく、
新年10分前に家を出たので道中で新年を迎えました。
近くのお寺なのか、付近の家のテレビの音なのか、
除夜の鐘らしき音を聞いた気がします。


本宮までの50分の道中、山道に入るまでは見かけた人は一組、
電灯なしで月明りと共に歩む山道では三組の人とすれ違い、
それぞれこちらから声をかけ、挨拶を交わしました。

何年か前は、挨拶をする雰囲気かどうかをすれ違う間際に察知する、
という器用な(というか神経過敏ですが)ことをしようとしていましたが、
雰囲気はもともとあるだけでなく当事者がつくりだすものでもあるわけで、
これまではその当たり前にあるはずの当事者意識が欠けていたようで、
というか今日はそんな面倒なことを考える発想もなく、
素直にこちらから(多生の縁の)雰囲気づくりをつくる姿勢になっていました。

それはたぶん、歩くことを身体が楽しんでいたからだと思います。


思えば去年の一年は自分の身体に正直になる生活を心がけていました。
頭が身体に従属するようになれば、頭は余計なことを考えなくなる。
それは日常的に歩く時間が多い生活の中で体得した感覚でした。

身体感覚が目覚めれば、すなわち身体が開放されていれば、
視界に入ってくる景色やものの見え方は変わってくるし、
その視覚に対して反応する脳の活動も意識的なものとは変わってきます。
そのなにが変わるかというのは、
考え事をしながら、たとえば俯きながら歩く時と、
歩くことに集中して、空を見上げながら歩く時とで、
ふと目に入ってくる(同じ)ものに対する見え方や考え方を比べればわかります。
身体感覚の云々は、当然ですが体得するのが唯一のアプローチ方法です。


今日は月が明るくて、歩きながら空ばかり見ていました。
ほんとうに、前を見るのは注意確認だけで、ほとんど見上げながら歩いていました。

加藤幸子の『ジーンとともに』という短編集は、鳥が主人公の短編がいくつかあります。
小説の中なので、彼らはもちろん言葉をしゃべるわけですが、
ある短編でその鳥たちは太陽を「光る輪」と言い、月を「死んだ光る輪」と呼ぶ。
もちろん月は太陽の明るさに比べれば死んでいるも同然の暗さなわけですが、
そうはいっても月明りだけで山道を歩けるほどのこの明るさを「死」と呼べるものか、
などと考えていました。
たぶんその鳥たちは基本的に夜はほとんど活動をしなくて、
たまたまアクシデントに遭遇するなりして夜に空を飛ぶことがあって、
あまりの暗さにそういう印象を持ったのかもしれない、などと。


そういえば、家を出る時にメガネは(ケースなしで胸に入れて)持って出たんですが、
財布を忘れました。
途中のコンビニや自販機で何か買う気は全くないのですが、
賽銭を納める気も同様に全くないことを、
意識したことはなかったんですが今回の忘却において改めて意識させられて、
うーんこれは初詣なのだろうか、
と思ってもよかったんですが、
まあそんなことは今書いただけで、考えはしませんでした。

ネットおみくじだとか、正月を外しての分散初詣だとか、
密を避けるための「なんでもあり」がもはや伝統そっちのけレベルで、
何を初詣と考えるかは個人の自由だ、などとテレビで専門家が言う始末で、
まあそれは別にどうでもよくて、
というのもこんなことになる何年も前から、
僕は「個人の自由」で無賽銭初詣になっていました。


本殿の人出は例年より少ない気もしましたが時間帯の違いかもしれず、
若者が多いような気もしましたが気のせいかもしれません。
ただ、高校生以下の若い人は家族連れでなければほぼ集団で来ていたのと、
その集団は「自分が集団の一員であること」に一生懸命で、
周囲への注意力が散漫になっているという印象を受けました。

それが不真面目だとか社会性に欠けると言いたいわけではありません。

彼らがその集団から外れた一瞬に見せる純朴さ、素朴さを垣間見る瞬間があって、
彼らは「一生懸命に周囲への感度を落としている」のではないかと思いました。

鈍感になることに集中するという、
矛盾なのか徒労なのか、何かやるせなさを感じてしまう努力なのですが、
それが彼らの日常生活の必要から出た生存戦略であるという点で、
複雑な時代になったものだと感じます。
(この機制については内田樹の『下流志向』に詳しい)


いや、そんなことを歩いている間は全く考えておらず、
頭からっぽで月を見、山道の闇を見、
国宝だという本殿の建屋を見、本殿裏で根を砂利地に這わせた古松の幹を見、
無心に薪をくべる焚火番のおじいさんの横顔を横目で見、
そうしてあたりでいちばんの生命力を放ち続ける焚火の中心部、赤々とした熾火を見、
火の粉の匂いをマスクを付けたり外したりを繰り返しながら嗅ぎ、
そうして焚火のそばにいながら例年していたような考え事はまったく起こらず、
わずかにジャック・ロンドンの『火を熾す』(まだ読んでいない)を連想しただけで、
この熾火が未来のなにかにつながる可能性だけをその場で感じ取っていました。

そんな2020年の終わりと、
そして2021年の始まりと。

 × × ×

みなさま、よいお年を。

そして、あけましておめでとうございます。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

chee-choff

ゆくとしくるとし '20→'21 1

 
一年を振り返るというとき、
今年は社会的にはコロナ問題で埋め尽くされていましたが、
僕自身はその影響を直接受けたというよりは、
そのニュースに触れて考えさせられることがとても多かった。
だから、書くならそういう話になる。

というより、今年書いてきたブログをタイトルだけ見返してみましたが、
基本的に自分の頭の中のことが書かれている。
なので、書くならそういう話になる、
か、もしくは「なぜそういう話になるか」という話になる。


僕が書く文章の宛先についてですが、
僕は具体的な名前を持った人へ向けて書いているわけではない。

「香辛寮の人々」という会話調の文章を書いた中のいくつかは、
その時深くコミュニケーションをとって何がしかの感慨を得たその人、
を会話の登場人物に想定することが同時に僕の文章の想定読者にもなって、
そういう文章はやけに具体的だったりメッセージを帯びていたりしました。

でも基本は想定読者はいません。
前はそれを「未来の自分が想定読者」と言ったりしていましたが、
今あらためて考えてみると、それもまた違う。

この文書をコミュニケーションととらえるなら、それは投げっぱなしのボールです。
ただ、相手キャッチャーのいない投手は、投げる一球に神経を張り詰め、
自分の投げた球筋から何かを得ようと必死に目を凝らしている。
次の一球は今のそれとは違うものになるはずだ、いや、なるべきだと思って。


なので、「この文章の宛先として自分は含まれているのか?」という判断を、
読者ご自身にしてもらうことになります。
それが不親切であると言われて別に否定はしませんが、
書き手の親切の有無とは別の問題として、
そもそも読み手としての意思の中にその判断が当然に含まれているはずです。

文章を読むとはそのように、目の前の言葉に対して自分の身体を曝露するものだと。
そうでないと、読むことで自分を変えることなどできないのだから。

 × × ×

前に鈴木大拙の『日本霊性論』を読んでいる時に、
現代日本平安時代の再来ではないかという想像を膨らませていたんですが、
この年の暮れから読み始めた橋本治の『江戸にフランス革命を!』の影響で今度は、
日本どころか世界中が「江戸化」しているという妄想を現在抱いています。

アレクサンドル・コジェーヴという人が「世界の日本化」を言った時に、
その日本とは平安時代の貴族文化を源流に見た形式至上主義を指していましたが、
こんどの「世界の江戸化」はそれとはまた違う…いや、根っこは一緒かもしれません。
詳しくはハシモト氏のその本を引用しながら書きたいんですがざっくり書くと、


江戸時代に平和と停滞が三百年の長期にわたってあったわけですが、
それは変化がないという意味ですが、つまり時間軸における「未来」がない。

で、「未来」が存在しない江戸町人の生活を象徴する歌舞伎の論理によると、
「未来」のない時間軸においては「過去」と「現在」がカオスに入り混じる。
そのカオス時間におけるリアリティは「過去」と「現在」の混濁そのものにあり、
その混濁は日常と非日常の境界を無効化してその両者の行き来も縦横無尽になる。

歌舞伎の論理とは「無意味の論理」ということらしいのですが、
上記のような「無意味の論理」を娯楽として当然に受け入れる江戸町人というのは、
そもそも彼らの生活における時間軸がそのようなものであるからであると。

で、「無意味の論理」というのは「意味を無効化する論理」でもあって、
"既定"の未来に向けて過去も現在も捏造してしまう時間感覚というのが、
未来の未知性を否定する面でまさに「未来」のない時間軸とイコールであって、

つまり極私的ネオリベラリズムの発現形態であるポストトゥルースを思想と呼ぶならば、
それがそのまま日本の江戸時代の歌舞伎論理に通じてしまう。


…と思って『江戸にフランス革命を!』を読むと本当に発見だらけで面白いですよ。

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

  • 作者:治, 橋本
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本

 × × ×

いや、上の話を、どこかでコロナの話とつなげようとは思っていたのです。
今日、というかさっきの24時までNHKでやっていたコロナ特番、
世界中でコロナ禍を記録するために自撮りした映像の総集編、
を食い入るように見ていました。
それについて思うところが、なかったわけではないのですが…

明日続きを書く時に、その気になればその話をしましょう。

「権力を取らずに世界を変える」個人編

 
下記引用の太字と傍線の意味は、文脈上の種類の違いです。

 何十年もまえから、科学的研究は、もはや疑いのない正説という指針のもとに行われることはなくなった──とりわけ、認識理論および科学理論においてそうであった。一般に受け入れられた方策は、「プラグマティズム」である。すなわち、真理および知識の増大に関する唯一の基準は、結果だというのである。これは、あきらかに理論における循環性の拒否と、その実際上の容認にもとづく自己 - 言及的循環的論証である循環性を回避しようとすることが、ますます見込みのない立場をとることとなる。つまり、パラドクスである。それは、有罪を宣告された解決方法が、いまにも容認された理論になるという、パラドクスそのものを示しているように思える。

『自己言及性について』p.30

 
引用中の「プラグマティズム」は、すぐあとに説明がある通りの意味で、僕は狭義のそれと考えています。

僕がブログで書く「プラグマティズム」は、その都度というわけではないが新しい意味を見出すというか意味をどんどん広げたい意図があります。
結果主義、また実用主義と言い直される時の「結果」や「実用」とは、時代によって、文脈によって、また個人個人によってその意味するところが変わるものであるだろう、と。

狭義のそれは、「結果」とは誰も疑いのないもの、価値のはっきりした共通認識であって、その認識によって我々(活動する社会集団)は同じ目的(社会の発展、科学の進歩等々を共有でき、その目的に邁進できる、という効果があります。

現代社会でいえば、その「結果」の主要例はお金ですね。
その推進力に頼りきりで、価値観に対する反省(つまり「自己言及」)をしなかった、少なくとも重要視しなかったプロセスの進行が、価値観の多様性の喪失、そして統一(「拝金主義」)である。

この状態を、さらなる飛躍の真っ最中ととらえるか、社会の停滞期ととらえるか、価値観として両方があり得ますが、社会の趨勢が前者に傾いていることは明らかで、それは自己言及性の欠如が続いているということであり、「自己言及性の欠如」がポジティブフィードバックとして現状追認の推進力になっているという水準でみればこれは「自己言及システム」の駆動そのものである(ややこしいですね)。


引用部に話を戻すと、

「自己言及(性)」と「循環(性)」の違いにはあまり敏感でなくてよい気がしますが(たぶん同じ現象を各々別の視点からみた結果の表現の差だと思います)、狭義のプラグマティズムに対するルーマンの表現に「なるほどなあ」と思って、その感動から何か書いてみようと思ったのでした。
その部分を再掲します。

これは、あきらかに理論における循環性の拒否と、その実際上の容認にもとづく自己 - 言及的循環的論証である。

前者の「理論における循環性の拒否」とは、「結果とはなにか?」「実用とはなにか?」という、目的の価値そのものへの問いを封印(禁止)する、その問い自体は無価値であるとする、ということです。

いっぽう、後者の「自己 - 言及的循環的論証」は何を意味するのか。
こちらは解釈が入るというか、前者よりも理解のための補助線が多くなるんですが、一言でいいかえるとトートロジー(同語反復)のことだと思います。

「なんでお金が大事かって? んなもん、お金が大事だからに決まってんだろ」

という、問いと答えが互いの尻尾に噛み付いて身動きができなくなったような意味をなさない言葉なんですが、生活の実際の場面で、たとえば素朴に発した子どもの疑問に親がこのように真顔で答えれば、それなりの効果を発揮して子どもは黙り込むわけです。
この例は興味深いですがこれ以上掘り下げません(言葉と身体、といったテーマになると思います)。

面白いと思ったのは、この同語反復も、自己言及の一つの形式としてそれに含まれるという認識です。
その認識がさらに呼び込むのは、
狭義のプラグマティズムが、思想としての実効性確保のための、ルーマンのいう「循環性の拒否」を機能として取り込みながら、しかしよく見るとそれは循環性の位相(フェーズ)を変えたにすぎない、という気付きです。

つまり、システムは自己言及性から逃れることができない。


自己言及性は、オートポイエーシス・システムの生命力である。
システム内にコミュニケーションを生み出し、そのコミュニケーションは外部環境と相互作用することでシステム自身が維持され更新していく、そのために欠かせない機能として自己言及性は位置付けられる。
しかし、自己言及にはいくつかの形式があり、その中には生命力を賦活しないものも含まれる。
自己言及の擬制でしかなく実効的な機能を持たない形式の一つ、それが同語反復である。
(上の例では同語反復の実効性に触れていますが、それはそこに「身体」があるからです)

いや、今書いたことをルーマンが言ったわけではなく、また引用にある、循環性を回避する姿勢がもたらす「ますます見込みのない立場」が意味するところもはっきりとは想像できません。
言葉だけでいえば「システムが自己廃棄へ向かうこと」なのでしょうけれど。


で、この「ますます見込みのない立場」を脱する方法について、引用部のすぐ後から章末まで書かれています。
その内容のところどころにやはり面白いことが書いてあって、しかしこれまでの文脈とつながるかどうか怪しいんですが、ちょっと続けてみます。

 この曖昧な状況をうまく処理するひとつの方法は、つぎの〔科学〕革命を生き抜く能力があるかどうかという視点から、もろもろの方法論を吟味することである。機能的分析は、そのひとつといえる。(…)機能的分析は、構成的なパラドクスを「解決された問題」として(それは問題であり、また問題でない)再定式化し、問題解決の比較へと向かうのである。

同上 p.30

次の科学革命を生き抜く能力、というすごいことを言っています(角括弧はたぶん翻訳者註)。

科学革命、それを価値観の大転換だと考えると、その革命が起こる前から変化後の価値観などわかるはずはなく、しかし「そこをなんとかがんばる」のであって、続く引用部も表現自体がパラドックスなんですが(問題であり、問題でない?)、なんとなく言いたいことはわかります。

ある価値観を仮決めして問いを設定しその答えを出す、この答えは出発点が曖昧だと「解決された」なんて言えないわけですが、そういえば科学の発展の原理は仮説とその反証であるとポパー(だったかな?)が言うように科学的言説はすべて仮説であって、これがその一例になっているわけですが、パラドクスを見出しそれを解決したという擬制は、その前提である価値観(論理)をこれとは別の価値観(論理)と比較(「問題解決の比較」)することで「再定式化」される。

のちに覆される可能性を前提とした「解決」だから、「解決された問題」は、別の文脈との問題提起〜解決までのプロセス全体の比較(「問題解決の比較」)においては別途新たに問われるべき存在であり(「それは問題であり」)、しかしそこに至るまでの仮決めした文脈の内側においては暫定的ではあれ最終的に導出された成果として価値がある(「また問題でない」)……。


自己言及の論理が面倒なのは、端的にキリがないことで、ルーマンの本を読んでいると翻訳者が不親切だとか不徹底だとか思える箇所がいくつもあるんですが、自分でこのテーマについて文章を書いていると同情的になってきます。

自己言及の論理は、「バッサリ」言ってしまう、オッカムの剃刀でじょりじょり簡潔な表現に徹するとその真意(意味の厄介さ、複雑さ)が伝わらない。
だからといって、「ネチネチ」書きつらねる、思考のプロセスの全体(それに終わりがないことが面目躍如たるところなんですが)を余すところなく再現しようとすると、これまた伝わらない。
だから訳者はどこかで割り切って、前者を採用せざるを得ない。

後者のネチネチ式が伝わらない理由は、以前は読み手の理解力不足とか根気のなさとかが原因かなと、つまり読み手側に問題があると単純に思い込んでいましたが、いくつか前の記事で「システムの主観」という表現を見出してから、それだけではないなと思うようになりました。

自己言及のプロセスを要素部分に分解して手順を追う、どこまでも長いがそれをつなげて理解すればそれがプロセス全体の理解になる、こういう考え方は「生活論理」、日常的な言葉の使い方に基づいた価値観であって、それは科学の要素還元主義が行き着いた限界(袋小路)と似たものです。
言葉を尽くせばいずれは理解に至る、あるいは表現を研ぎ澄ませて絞り切れば理解できる、この両者はある同じ論理的価値尺度における両極の表現であって、これとは別の価値尺度による「理解」もある。

僕が「システムの主観」と言ったのは、そこにこのような意味を込めたのかもしれません。


えーと、話それほどズレてはいないんですが戻します。

自己言及の終わりのなさ、というテーマは、哲学的にも有名です。
 「私とは誰か?」
 「私とは誰か、と問う"私"とは誰か?」
という問いをいったん始めると、終わりが見えなくなる。
あるいは、ゲーデルの不確定性定理だったか、ある理論の根拠をその理論の内部で証明することはできない、というのもあります。

こういった、自己言及性のわりと日常的な側面からは、ポストモダン思想が連想されます。
あらゆる論理や価値には究極的な根拠はない、人間的営為の基盤は恣意性にある。
だから人間は浮き草のように漂うしかない。
いや、人間はだから完全に自由なのだ。

大雑把に書いてますが、まあいいとして、
最近読んでいる竹田青嗣の『人間性の未来』という本には、ポストモダンは批判理論としては正当だが解決案を生み出す推進力にはなっていない、それは哲学的にはイロニー(アイロニー)だ、と書かれています。
批判がメインになっている、という意味ではそうなのだと思います。
ただ、それは重要な気付きであって、もしポストモダンがそれを行動に活かせないのであれば、別の思想がその気付きを引き継いで新たな価値観の構築に向かわねばならない。

……あれ?
いや、ポストモダンがどこかでつながると思ったんですが、
ひとまずこれもおいときます。
もう少し戻る。


社会システム内に新たなコミュニケーションを生み出すような、
生命力の発露を伴う自己言及機能の賦活。
あるいは、そのような自己言及性の利用。

そのためのヒントが、上記引用のあと、章末に書かれています。

もろもろの普遍理論──論理学はそのひとつであろう──は、同タイプに属する他の諸対象とそれら自身を理解し、また比較するという重要な利点を示している。論理学の場合、多様に価値づけられる構造と相応する抽象化が要求されよう。古典的論理学は、自己言及を除去したのではなく、それを反省する余地がなかった。「(…)論理学は、反省に関する有用な理論となるために、自己自身に加えて他のサブシステムを取り込まなくてはならない。」こうした条件のもとでのみ、機能的分析は、普遍理論の自己開発のテクニックとして、有用なものとなる。

同上 p.31-32
「」内は著者によるGotthard Gunther,"Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations"からの引用

森博嗣の愛読者は「抽象(化)」という言葉にまずポジティブな印象を抱くものですが、それはさておき。
この引用部、とくに太字部を読んで、前から自分で思っていたことをある表現に落とし込むことができました。

 抽象化(とその対になる具体化)が、
 「他の諸対象」との橋渡しになる。

抽象化と具体化のセット(または往還)、これは連想と言ってもよいのですが、
正確には「ひとつの形式を前提として見た連想の機能」ですね。

引用の「抽象化」を含む一文が、僕にとっては内容(というかここから連想されるもの)が濃すぎて、今何を書こうか、いや何が書けるのかと呆然としているのですが……
「これだけが全てではない」という強い認識とともに、思いついたことを書くしかありませんね。


オートポイエティック・システムの一般理論、これがルーマンの本(の第一章)の主要テーマでした。
引用中の「普遍理論」はおそらくこれとイコールで、とすると論理学はそのシステムの一例である、と。

僕は「抽象化」という言葉からすぐに「連想」という言葉を引き出したわけですが、ここからの連想として、「脳と身体をもつ一人の人間の連想(思考)システム」もまた、オートポイエティック・システムとして捉えることができるだろうと。

すると、引用のその一文が、今の僕自身にとってまさに身近な(生活レベルの)テーマとして引き寄せられてきます。

さらに(というか別の)飛躍すれば、先の引用にあった「次の科学革命」、これは一人の人間の中で「起こりうる」ことでもあると。
(僕自身の認識でいえばそれは「もう起こっている」


まだまだ連想されることがあります。

見田宗介の『超高層のバベル』をたしか先月くらいに読み終えて、その後味は僕の中でまだ新鮮に残っています。

見田氏は誰かとの対談の中で(加藤典洋だった気がします)、
資本主義・消費至上主義社会に対して、
そうマイナスばかりあげつらうのでなくプラスの面もちゃんと見ようよ、
という文脈で、氏の過去の著作に対する解説として、
現状の価値観の維持推進の先にありうる充実した未来社会を描いていました。

たとえば、
消費の主要目的が生活のための物的必要性から離れてイメージになったこと、それは「環境資源の浪費を抑えながらの経済成長」が可能であることを意味する。
サービスや情報を元手にして経済活動が生まれるなら、経済成長の主力をそちらに担わせて、物的消費を必要最低限(たとえば身の丈)に減らすことも可能である。

現状はみなの「他者の欲望に対する欲望」、これが同じ対象に向かってパイの奪い合い、「ゼロサムゲーム」を呈しているが、社会が豊かになったこと、産業と科学技術が発達して生活水準が底上げされたことの意味を原理的にとらえれば、非物的消費の推進と多様化(ニッチの開拓、創出)によって現状の問題(環境問題、所得格差問題など)は解決できる。

また、現在の生活水準を維持するためだけの労働量を考えれば、週三日・一日5時間(?)(⇦時間の数字は記憶あいまい)の労働で賄える、というアンドレ・ゴルツの理論がある。

そんなことが書かれていたと思います。
産業構造の根本的な転換を要するという面で、社会レベルの実現性にはかなりの困難が伴います。
でも、これを読んだ時にも思ったことで今改めて思い出したことでもありますが、

この「未来社会の実現」は個人レベルでも可能なことなのです。


生活環境の要請、仕事の要請、習慣や常識の要請、企業広告の要請。
社会で生きるうえではさまざまな要請が否応なく個人に降りかかる。

それは紛れもない事実ですが、
その事実に対しては正確に認識をすべきです。

つまり「否応ない」のは「降りかかってくる」ことだけであって、
その要請にどの程度従うかには、「個人の裁量」が存在する。

その「個人の裁量」が、どれほどの(革命的な)力を持つのか、
上に並べたいくつもの要請のうちで、
その可能性について教えてくれるものは一つもありません。

そしてその可能性は、
ただ教えてもらうだけで感じることはできず、
きっかけとして与えられてからは、
自分自身で(あるいはその仲間とともに)形にしていくしかない。

そしてたとえば、
そのきっかけはここ(見田氏の構想)にあったのだ、
といったことなど。

 × × ×

3tana.thebase.in
3tana.thebase.in

ポスト・トゥルースの意味

 
ルーマンの文章はことさら、その文章だけ読んで何を言っているかがさっぱり分からない。
だからその文章に補助線をいくつもいくつも、たくさん足すことになる。
すると当然その理解は自分(の文脈)だけのものになるが、同時にもう一つ気付く。
補助線を描き入れて何らかの形を見出したルーマンの文章こそが、思考の補助線であったことを。

 × × ×

オートポイエティックな閉鎖性という考え方は、二分的選択が強制されるという機能の理解を可能にする。システムはそのオートポイエーシスを継続でき、また停止できる。システムの活動は、意識の状態の生産を、ただ終了するだけという選択肢とコミュケートすることを、継続できる^{*33}オートポイエーシスの観点では、第三の状態はない。これはパワフルな技術的単純化である。(…)社会システムができることは、ただコミュニケートするだけである。生命システムは、生存できるだけである。(…)オートポイエーシスを継続するかしないかということは、諸可能性の全体という内部的代理表象として役立つ。起こりうるすべてのことが、システムに対して、これら二つの状態の一方へと縮減される。世界は、それがなんであれ、この問題に対し無関心であろう。システムは、この選択をつくりだすことによって現れる。

社会のオートポイエーシスは、理解不足やあからさまな拒否反応にもかかわらず、その継続を保証する強力なメカニズムをつくりだしてきた。それは、相互行為上のコンテクストの変更や、再帰的コミュニケーションによって、継続する。コミュニケーションの過程は、コミュニケーションそれ自身へともどり、みずからの困難さをコミュニケートすることとなる。(…)このテクニックを用いるシステムは、みずからのオートポイエーシスを終了させることはなく、また終わりがくることもない。

*33 : それゆえ、この理論[=オートポイエティック・システムの一般理論:引用者註]の「最終目標」は、完全な状態という意味での「目的(テロス)」ではなく、まさに逆である。すなわち、再生産されゆく不完全で非蓋然的な状態によって回避されなければならないゼロ状態である。もっとも基本的な方法において、この理論は、反 - アリストテレス的傾向を有している。

「第一章 社会システムのオートポイエーシス」p.26-28,37-38
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』

まず自分の読み込みの話ですが、

註33について、文章をそのまま読んでよくわからなかったので(註のついた一文のもってまわった言い方を僕は「システム主観」と呼びたい)、ここにある「最終目標」とは、文末を少し言い換えて”ゼロ状態を回避すること"だと理解しました。
そして「アリストテレス的傾向」とは、たとえばイデア的観念論、本質のイデア化、のようなことだと思います。
イデアが理想だとして論理が終わると、コミュニケーションも終わってしまうので。

また、これはただ連想だけを放り出すんですが、「パワフルな技術的単純化」について、たとえばウィトゲンシュタインの「語りえぬことについては沈黙せねばならない」という言葉がそれなのかな、と。
それは意味のオートポイエーシス・システムにおける閉鎖性の機能を表す言葉である、と。
オートポイエーシス・システムの構成要素が開放性と閉鎖性をもつことが、そのシステムの維持の前提だということです)
では開放性の方はなにかといえば、たとえば詩の活動や、辞書の改訂など。

あともう一つ、「再帰的コミュニケーション」、「みずからの困難さをコミュニケートすること」、これらは僕らの身近なコミュニケーションの例でいえば、メッセージに対するメタ・メッセージに注力することですね。

 × × ×

ここからは、記事タイトルに寄せての自分の連想と思考が主体の話です。


オートポイエティック・システムというのはあくまで一つの見方、観察方法なのですが(以下、システムと呼びます)、

いちどシステムとして生まれたものは、機能を持ち、システム維持という目的を持つ。
システムは維持するか廃棄するか、のどちらかの選択を常に行っており、その中間はない。
己を廃棄するという選択をし続けることも可能であるが、そういう事態を回避するための高度な機能も有している。
システムの(構成)要素の選択(たぶんルーマンが「出来事」と呼ぶもの)が、システムの維持か廃棄のいずれに寄与するかは、自己維持というシステムの目的とは関係がない。

いや、「関係がない」というか、システムの要素とは社会システムであれば僕らのことですが、僕らはシステムの維持(人類の滅亡を避けるとか、SDGsとか)にもちろん関心はあり、その関心に沿った活動がシステム維持に寄与することもあるわけですが、システム理解のためにはまず「それはまた別の問題である」と考える。

ルーマンはシステムの機能である自己言及性について、その構造レベルの自己言及性と、内部要素における自己言及性を分けて考えろというのですが、僕らのこの関心や活動とは、後者を指すのかもしれません。


それで本題ですが、

アメリカのトランプがその流れを決定づけたといわれるポスト・トゥルース社会、「真実のあと」、たとえばそこでは事件や現象、その歴史的事実や科学的正当性の「それそのものの力」が減殺されている。
事実や正当性の内容よりも、それを誰が言ったか、どう伝わったか、といった形式に重きが置かれる。
「誰が言ったか」、その回答として重きがおかれるのは、二極化が進むといわれる格差社会における上位の人々です。

別の側面からすればそれは論理の軽視、反知性主義のあらわれでもある。
そして言説のすり合わせ、論理の吟味、それらの機会が失われることは、ある面におけるコミュニケーションの減少である。
というのは、そこでは「再帰的コミュニケーション」がはたらかないから。

前にルーマンの「情報」「伝達」「理解」という三要素を取り上げました。
システム内のコミュニケーションの継続のために、これらは適切に相互作用をし、また継続のために適宜重み付けがなされる。
この要素を身近に引き寄せて使いますが、今の社会状況は、「伝達」のみがクローズアップされ、残りの2つが置き去りにされているように見える。
「伝達」だけでは、新しいものを何も生み出さない。
システム内のコミュニケーションは停滞する。

 × × ×

閑話休題

話が全然まとまりませんが、結論らしきものへ向かいます。

システムの作動という観点でみると、現代社会の極端にみえる動きは、どれもシステムのもつ(自己維持の、あるいは自己廃棄の)機能によるまっとうなふるまいであるかもしれない……という印象をルーマンの本を読みながら持ちました。

事態を説明できることと、その解決に一歩を進めることの間には、千里の径庭がある。

そりゃそうなんですが、

システムを維持しようとするつもりがその廃棄に向かっているのだとして、
自覚というのは自分(あるいは社会)の行動の意味の理解のことですが、
その自覚によって進む道を修正する入り口に立てるのがまず一つ、
それは修正する気があるならという前提ですが、
もう一つはそれほど違和感なく現状維持に邁進できるようになること、
これはつまり「自分たちは破滅に向かっているけどまあいいや」という開き直り。


何をどうしたいのであれ、
やりたいと思う内容とその行動がズレたままそれを放っておくと、
現状は悪化しかしないし、
その悪化への対処が「現状と論理にどんどん鈍感になること」しかなくなります。
自分が望んでいる状態があって、
そこに至ったのに喜べないというのも悲しいことです。


自分は自分で、正しいと思うこと、世の中のためになると思うことを、
しようと思うのであれば、する。
そのうえで、でも周りの人々がそうしない、
また社会が自分(のような心持ちの人)を評価しない、
という嘆きが自分のしたい行動に水を差すようなことがあるならば、
わだかまりなく信念を行動に移すための、
その「わだかまりをほどくための理解」には、
プラグマティックな価値があります。

グラスルーツの活動には行動だけでなく思考も必要だというのは、
こういう理路によります(いきなり話飛んでますが)。


…タイトルに触れていないような。
付言します。

端的にいえば、
ポスト・トゥルースは、
意味の創造という側面のコミュニケーションの減少を招く。

別の言い方をすれば、
他者とのコミュニケーションにおいて、意味の創造が減少する。
物語や論理の捏造は、それを押し通すためのコミュニケーションに利用されるだけで、そのコミュニケーションが再帰的にはたらいて意味を創造することはない

ではこの流れ自体は社会システムの廃棄に向かうものなのか?
それはわかりません。
一面だけを取り出して総論の方向付けはできない。

でも、仮にそういう向きの流れがあるとして、
自分はそれに棹さすのは御免だと思うならば、
自分の地道な生活において言葉に対する姿勢もおのずと決まります。
 

重力距離の縮尺

「ピー、フィー」
 女は窓辺に駆け寄って、身をねじって探した。鷹の姿はどこにも認められなかった。しかし窓の外には思いがけない光景がくり広げられていた。向いの箱形のビルは黒々とそそりたつ岸壁に変わっていた。その隣りの白タイルの建物は山腹に横たう雪渓で、眼下の青葉を茂らせたニセアカシアの並木は、細長い森であった。女は森からたちのぼる甘い濃い香りを嗅いだ。山あいの村に、養蜂業者たちがトラックで運んでくる巣箱の周辺に漂う香りと同じだった。見慣れているはずの建物や街路に、いったい何が起こったのであろう。気温はさがっていないのに、女は急に肌寒さを感じた。自分が仕事をしているこの街は、たしかに都会の中心にあって、近代技術の粋をこらして造られている。でも実際は、はるか離れたあの山あいの村の模倣にすぎなかったのかもしれない。なぜならば高層ビルの山々と街路の谷間を見紛うことなく、断崖に巣くう土鳩をえじきにするために、鷹はこの都会にやってきたのである。女は両手で顔をおおった。あたしの目が鷹の目になってしまう……。

「主人公のいない場所 鷹の目」p.40-41
ジーンとともに』


人類は地球の陸地表面その一部に薄膜をめぐらせた。
道路も家も高層ビルでさえもほんの薄い膜の縮尺だ。
大地自然はその下とてつもない深さで蠢き活動する。
薄膜は破損しまた透けて見えるのは悠然とした大地。

自然は人の意識に関わりなく人の前に突然姿を顕す。
驚く人は自らが自然の一部であることを忘れている。
それから人は怯えうろたえはたと気付いて我に返る。
ちっぽけな自分は自然と一体であり全体でもあると。
 
安心するのも時にわからなくなるのもそのせいだと。
 
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こころのこどもとともに

 彼女はガールが運んできたミルクを飲もうと、つぼを傾けた。そのとき思いもかけず、つぼから流れでた液体が、紫の細長い滝のように見えてはっとした。それはすぐに影の悪戯、つぼの真上に干してあったスカーフの色が映っているのだとわかったが、つぼの注ぎ口からグラスへとつながった紫の帯は、生れて初めて出会う景色であり、感動せずにはいられなかった。こういうことが長い生涯のあいだに実にしばしば起こり、そのたびに彼女は新しい経験を積む子どものように歓喜に浸るのであった。

「主人公のいない場所 赤い山」p.23
加藤幸子ジーンとともに』新潮社

 
それが「初めて」のことならなんでも体験する。
目の前のことに「初めて」を見つけられるなら。
繰り返したはずのなにかを忘れていたとしても。
「初めて」の体験の中には必ず発見があるから。

行動の選択理由がおなじく様子見の理由にもなる。
直感は当てにすべき時と当てにならない時がある。
その当てにならない直感に気付く直感もまたある。
直感を助ける理性には大雑把な運用が求められる。

直感は変化に向かい、理性はその変化を許容する。
 
www.youtube.com

システムの主観、遺伝子の語り

なにかが述べられなければならない。つまり、他者が存在すれば、すくなくとも善良で平和的な(あるいは邪悪で攻撃的な)意図が示されなければならないのである。

「第一章 社会システムのオートポイエーシス」p.14
ニクラス・ルーマン『自己言及性について』土方透+大澤善信訳、国文社、1996

 
「着実な隔日本」として、つまり長期にわたる、ちょっとでもいいから数日に一度は読み進める本として先日シュッツの『生活世界の構造』を読了した、と書きました。
これの前はアイン・ランドの『水源』で(半年くらい読んでた)、その前は忘れてしまいましたが、最近は「重め」を選ぶ傾向があり、では次はと一昨日手に取ったのがルーマンの本でした。

これもまた厄介そうで、長期のお付き合い必至ですが、テーマは興味があるので腰を据えて対峙するとします。
 

 社会システムは、オートポイエティックな再生産の特別の様式としてコミュニケーションを用いる。(…)コミュニケーションは、「生命体」に関する単位ではなく、「意識」でもなく、また「行為」でもない。このコミュニケーションの統一は、三つの選択、すなわち情報、伝達、そして理解(誤解を含む)の総合(ジンテーゼ)を要求する。(…)情報、伝達そして理解、それらはシステムの──システムにとって独立して存在することのできない──局面であり、それらは、コミュニケーションの過程の範囲内で、同時に造られる。

同上 p.11

 
ここを読むだけで、ルーマンのいう「コミュニケーション」が、僕らが日常的に人と交わすそれとは別の水準のものを指していることがわかります。

でももちろん、違うというだけで、関係がないわけではない。
その関係は目に見えず、幾重ものバッファを介して茫漠としている。
 

G・ギュンターによって提唱された術語を使えば、コミュニケーションの過程は、あるがままのものがあるといった意味での単純な自己自身に対する言及(auto-referential)ではないということができよう。それは自己自身の構造によって、他者言及性と自己言及性との分離、また再結合を強いられるのである。それ自身に言及することで、過程は情報と伝達を区別しなければならず、また区別のどちら側がさらなるコミュニケーションの基礎として供されると考えられるか、示されなければならない。

同上 p.12

 
文章に用いられる用語はそれほど専門的ではないが、日常語のようなそれらの意味が日常的な文脈から離れて使われているため、時間を要さない一読は可能であるものの、まず理解には届かないし、前後の文章の対応関係がちぐはぐになるため、その都度立ち止まってゆっくり考えるか、用語の定義的な文章に戻って照合する作業が求められる。

でもたぶんそれは、この本の読み始めに最も苦労させられる点でありながら、あるポイントを過ぎればルーマンの用語感覚に慣れて、一文ごとに考えさせられはするものの(それは僕自身はむしろ歓迎するが)、ページを行きつ戻りつする回数は減るのではないかという気もする。
 
まだ読み始めたばかりで言うのも何だけれど、ルーマンの文章は衒学的ではないし、支離滅裂でもない。
扱うテーマが日常言語から遠いこと、そしてルーマン自身がその「遠く離れたところの言葉」を我がものとして操れることが、そう思わせるにすぎない。


「システム」については、このブログの主要な関心ごとであって、言葉の定義も使い方もふらふら揺れながらであれ、何度も書いてきました。
それは僕自身が「システム」を理解するためですが、その目的のために、僕が書いてきた言葉は日常言語の論理が使われています。

ルーマンの文章はしかし、そういう頭の使い方で近づけるものではない。

だから、単純に文章の論理を理解するのとは異なる水準の手間がかかるのですが、そしてその作業を始めたばかりではあるのですが、この本は自分にとって重要だということは、既にわかっているような気がします。

 × × ×

システムは人が構築したもので、人が維持するものです。

単純なものから始まり、どんどん複雑にしていき、ひとりの人間ではその全てを把握できない規模にまで大きくしてきたのも、人です。
だから、人がシステムを理解できないはずはないし、扱えないはずもありません。

量が質に転化すること、構成が単純な部分の組み合わせが予測不能な「複雑系」を生み出すこと。
そういうことは事実としてある。
専門分化の長く続いた科学の発展が、分析の深まりを統合に生かすことを可能にしたとき、その事実に科学が追いつくための一歩を踏み出しました。

しかし、「発明は必要の母」となった現代では、工学は理学に先行し、産業は工学に先行する、つまり「実用」が理念に先行する。
科学の分析力の向上は、科学が扱う分野をさらに広げ、また従来は手を出せなかったその分野を科学的価値観に染め上げることもする。

「わかるとはわからないことが増えることである」、学問の基本姿勢は学問の現場では建前として生きながら、その実際(政治・社会・生活)的な利用においては「わかるとはわからないことをゼロにしていくことである」というモットーに成り替わる。
僕はプラグマティズムを「あらゆる主体の生きる方針」と理解していますが、そう考えたとき、「実用」とは何か、それはそれを問う主体の価値観によって様々に異なる、ということになる。
 
…散漫な話を戻します。

システムをつくる人、維持する人、集団の統治に利用する人、構成要素としてその中にいる人。
今並べたこれらの人のなかで、「システムの主観」にいちばん近いのは、最初の人です。

「システムの主観」とはなにか。
それは、システムが人の言葉を借りた時に、システム自身について語られるものです。

それはシステムの自己観察、作動についての語りかもしれない。
でも、一人の人間の主観ではない。

上で「複雑系」の話をしました。
人が作り上げたものだが、複雑化によって、独自の言語で語らねば理解できなくなったもの。
システムはおそらくそのようなものの一つです。
というより、いくつもあるそのようなものの上位概念をそう呼んでいる。

だから、システムの設計者が「システムの主観」を理解しているとは限らないし、おそらくはしていない。
母親が我が子の思考回路を理解することはないことを思えば、当たり前のことではあります。
 
システム運用者は、その全容把握を曖昧にしながらもなんとかやりくりをしています。
極端にいえば、出たとこ勝負、あるいは自転車操業、的な側面もある。

致命的なリスクへの対策は準備しておきながら、個々の障害はそれが発生してからデバッグにかかる対処療法。
これ自体は人間の生活的ふるまいとして普遍性があるといえます。
知識がどれだけ増えても、即時的な活動はルーティンや慣用知がメインとなるし、わからないことに対しては姿勢で備えるしかない。

システムの複雑化は、「致命的なリスク」の重篤化と、その予測不可能性をもたらしました。
それによって、システムの運用には、際限のない精緻化要求と、埋めようのない不安が伴う。


……ここまでのシステムに関する記述は、すべて日常言語によるものです。
つまり、システムに当事者として組み込まれた人間の価値観が表れたもの。

そして「システムの主観」は、これらとは異なる論理と価値観をもっています。
 
だから、「システムの主観」を人間が、たとえばシステム運用者が理解したからといって、その運用技術が向上するとか、リスク管理がより適切になる、といったことはない。
でも、もっと大事なことがわかるようになる。

 「僕たちはなにをつくりあげたのか」

母子のたとえをもう一度使えば、それは「親は我が子のことなんて理解できないのだ」という涼しい達観と似ているかもしれません。
その達観は冷静な知性の活動を呼び込み、今考えるべきことに対峙する勇気と必然をもたらします。

 「AIが人の仕事を奪うようになる」という。
 ではそのAIとは何か?
 AIが姿形不明の影でなくなれば、
 それが奪うといわれる仕事の意味もわかる。
 AIが労働をして給料をもらうのだろうか?
 いや、そうではない。
 そもそも労働とその対価とは何であったのか?
 それは歴史上ずっと変わらないものなのか?
 それとも、今ここで大きく変わろうとしているのか?

バタフライ効果」という言葉があります。
南アフリカの一匹の蝶の舞いが、アメリカ大陸に大型ハリケーンをもたらす。
この表現は卓抜ではあれ、何かについて理解をもたらすわけでもないし、不安を解消してくれるわけでもない。
どちらかといえば、「理解なんてできないよね」「不安は抱えてかなくちゃしょうがないよね」という諦念の表現です。

それを一種の「知性の居着き」の状態ととらえるならば。

それとは別の道があり、
ここにその一つが示されている、
ではちょっと、その道を歩き始めてみようか。

そう思ってルーマンの本を読み進めてみることにします。


(引用の内容に触れるの忘れてました…

ので、少しだけ触れておきます。
「システムの主観」の言葉が僕らに与えてくれる認識は、
「ぼくらはシステムを通じてなにをしているのか」です。

システムの運用事情とは別に、
ぼくらは日常生活の必要に引きつけてシステムを利用します。
けれど時々、自分がシステムに利用されている気分になる。
それは、どちらとも考えられる気持ちの問題かもしれない。

でも、もしかすると、両者の認識には境界があるかもしれない。
その境界を明らかにしてくれる論理が存在するのかもしれない。

たとえば引用後者の下線部、
「過程は情報と伝達を区別(しなければ…)」というその、

情報と伝達を区別しているのは誰か?
情報と伝達は同じ主体が担っているのか?
その区別の評価(「区別のどちら側がさらなるコミュニケーションの基礎として供されると考えられるか」)をしているのは誰か?
評価主体は情報と伝達を担う主体と同一であるべきか?
あるいはその各々が異なる主体となることで、どのような事態が生じているのか?

生活感覚から離れて設計されたシステムを利用するのが生活の場であっても、そのシステムの理解を生活言語のみで行ってスムーズに事が済むとは限らない、そこで生まれる違和感が必然のそれとは限らない。

それを試し、確かめる機会を、生活の場に設けることは可能です。)
 
 × × ×
 

「殻を破りなさい」と。その声に従ってはならない理由は何一つなかったので、私はふにゃふにゃの首を懸命にたて直し、そこだけは幾らか固まっていたくちばしでやみくもに部屋の壁をたたき始めた。
(…)
 とうとう殻に細い割れ目が走った。私はそこにくちばしを入れて、ぐりぐりとこじ開けた。ぐしゃりと音がして、私の頭は卵の外に出ていた。初めて対面する楕円形ではない世界に、体内時計の針が時を刻みはじめたのはその瞬間からだった。どうして、と問われても答につまる。私は生まれつき時計をもっていたのだし、そのとき動くように予じめ決められていたのだ。
 ふたたびあの声が聞こえた。
「時間は容赦なく進みます。一刻も早く”地上”に出ましょう。今はそれがいちばん大切なこと。もうむだなことをする余裕はないのです」
 声の響きはやわらかく優しかったが、同時に疑問を放ったり、抗ったりすることができない力強さがあった。私は素直に声の指図に従った。

ジーンとともに」(加藤幸子ジーンとともに』新潮社、1999)

 
ルーマンのことを書こうと思って、「システムの主観」という言葉を思いついたときに、同時に読んでいるこの本のことを連想しました。
(この本を読むきっかけは梨木香歩の『ぐるりのこと』に書いてあったからです)

そして、短編タイトルの「ジーン」について、これは登場主体の鳥の名前だろうという先入観から読み始めていたのですが(ちょっと前に読んでいたオノ・ナツメの『ACCA 13区監察課』の主人公の名前がオータス・ジーンだったというのもある)、この認識は短編を数ページ読むうちに修正されました。

それはさておき、
いや、この本を子ども(たち、図書館なら)に読み聞かせなんかしたら面白いだろうと思うんですが、
それもさておき。


「感情移入」というのは人に限りませんが感情をもつと想定される生物に気持ちとしてなりきろうとすることで、いや生物に限らずヤオヨロズ・イマジネーションで何でもかんでも憑依して表現することを「擬人化」といいます。

僕の頭の中でつながった上記の二冊は、安直にも「システムの擬人化」と「遺伝子の擬人化」として括ることは可能なんですが、いや、それは違う。
両者とも、そう言い表されるような姿勢から程遠いところにいます。
その説明はとても難しいのですが…


今思ったのは、"彼ら"が自らの言葉をもって語ることについて、
「人間っぽさ」よりも「人間でないっぽさ」に注目したい
そこに驚きたい、という思いがあります。
だから、人の言葉を借りているとはいえ、
彼らは感情を持たず、人から遠く隔たるように感じられる、
でもそれを人は言葉を通じて感じることができる。

 「人間っぽさ」とはそれだけ相対的であり、もっと言えば「狭い」。

そしてそれが同時に意味するところは、

 「人間っぽさ」の範囲は可動であり、「広がる」余地がある。


「人間以外」を人に近づけるのではなくて、
「人間以外」をそのままに、人がそちらに近づいていく。
そうして人が「人間以外」のほうへ拡張していく。

言葉にはそういう力があり、
それは主に文学の力だと思っていたのですが、
ルーマン加藤幸子氏の出会いをここに見て、
学問にもそういう力があると改めて思いました。
 
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 × × ×

ジーンとともに

ジーンとともに

ぐるりのこと(新潮文庫)

ぐるりのこと(新潮文庫)