human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Can one speak about unspeakable? (6)

 
沈黙を思う。


ひとりの沈黙。
共同的な沈黙。

ひとが誰かといる時、
その場に一緒にいることがコミュニケーションとなる。
何かを伝えあい、なにかが通じあう。
意図から外れて、意図をすり抜けて。
沈黙は二人のかたわらにつねにある。

雄弁の沈黙、無口の沈黙。
それは空白、余白とも呼ばれる。
余白のないコミュニケーションを想像してみればよい。
彼らは息つぎができず、息がつまり、息も絶えだえとなる。
沈黙は恐いか、しかし沈黙は空気だ。


空気の沈黙は内なる沈黙を囃したてるといわれる。
隙間があればそれを埋めようとする意思がはたらく。

だが隙間は埋めるべきものだろうか、
路肩ではアスファルトの継ぎ目に雑草が生える、
雑草の意思はその隙間を埋めることにはない、
隙間であろうがなかろうが彼らは所構わず繁茂する、
そこは空間であり空気のあるところすべてである。

彼らは沈黙しているだろうか、
彼らは沈黙なのだろうか。
草木とともにある人は彼らの声を聴く、
その声は沈黙の声か、沈黙を破る声か。
耳をすまさねば沈黙と関われないのだとすれば、
それはそのどちらだろうか。


鼓膜はつねに震えている、
空気はつねに振動し身体もつねに振動する。
耳が聞くのはすべての振動でありノイズであり、
沈黙が一切の音と無縁であるならば人の手には届かない。

しかし人は沈黙という言葉を生み出し感じるに至る、
その過程は絶対でなく相対というのでもなく、
たどり着けない星を仰ぎ見る彼方の理想というでもなく、
沈黙である者を見た誰かが、
自分との違いを明白に感じたからだ。

沈黙である彼と沈黙でない彼とがその場に居合わせたからだ。

沈黙はそこにある、ただ注意深くあらねば近づけない。
その近寄りがたさに驚いた彼がそう名付けたのだ。

繰り返すがそれは絶対でなく相対というのではない。

そして沈黙は普遍である、
感じる者が注意深くあれば沈黙はそこにある。
そして彼はそれに触れることはできない、
差し出す手をすり抜け近づく足音はそれをかき消す。


沈黙とともにあるとはそれを遠目にうかがうことである。
作業の手をおろし歩む足をとめ、それ以上近づかないことである。

では彼はその場でじっとしているしかないのか、
触れれば崩れる砂上の楼閣の前で呆然と佇むか、
進めば消える蜃気楼を座していつまでも拝むか。
それは博物学的対処である、
そして沈黙は保存も効かねば分類もままならぬ。

沈黙はなまものである。

その発祥が示すとおり、
沈黙とともにいる者から沈黙を感じることができる。
あるいはそれは伝播するのかもしれない、
もちろんニュートン力学には従わない、
測れば消えるそれは量子力学的ふるまいにも見える。

沈黙を統御できる法則が発見されるとしよう、
その法則はさっそく当のそれをすり抜ける、
沈黙を破るとはそういうことをいう。


沈黙はつねに人とともにある、
沈黙する人とともに。
それを語りつぐためにできることは、
彼じしんの内がわにしかない。
人がこの世からいなくなれば、
沈黙もまた消え去るのだから。
 

『生活世界の構造』読了

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ、トーマス・ルックマン)を本日読了しました。

長かった。
一年くらいかかったでしょうか。

監訳者あとがきを読んで、巻末の事項索引にまで線を引いて、そしてその流れで最初のページから(自分が線を引いた所だけ拾い読みのつもりで)読み始めてみると、線の引いていない最初の一文から内容が凝縮されている感じがして、この感覚が続けば(じっさいは続かないのですが)「読了直後の再読」であってもまた最後まで読めるのではないかと思いました。

ルックマン氏の筆による「序」に、このような一節があります。

日常生活の構造分析とは、永遠の哲学と歴史的な社会理論とが取り組むべき終わりのない課題である。

「序」p.023

終わりのない課題。
いつまでも関心を惹く、そして分析の深まりとともに関心も変わり続けていく。
それだけで日常生活ができるわけではないが、その在り方がまるで日常生活そのものであるような営み。

学者がこのテーマを扱う利点は、「それ(日常生活の構造分析)が日常生活になりうる(学者の仕事として業績になる)」というだけであって、体系化が未知の増殖に阻まれてその構築と崩壊を繰り返すようなこの分野の探求は、日常生活の主観的経験にどっぷり浸かって暮らす「素人」にこそ、その動機が内に息づいている。
 
この本は、経験として呑み込んでまた別のいろいろな本へ向かう「長い階段の一段」としてではなく、つねに座右にあり、いつも繰り返して読むわけではないが、必要があれば、日常生活から少し離れて腰を落ち着けてゆっくりページを開く「螺旋階段の支柱」として、そばに置いておいた方がいい気がします。

思想の根源、いつでも帰りを待ち受ける故郷、ではない。
そこに還れば安心する、場所や姿勢というわけではない。
思想に故郷はない。
けれど、思考は故郷のような、身が心地よく収まる場所を求める。
いわば思考の根源的な動機、未来の理想郷を目指す羅針盤として。

 × × ×

抽象的な思考の本領は、具体的な状況に適用(演繹)できる可能性の広さにあります。


刻々と事態が遷移し、
予想外の出来事が頻発するかのような、
新聞の第一面で大文字が毎日踊り続けるような、
感覚が麻痺して非日常を日常と錯覚してしまうような生活。
常識が変わり、
慣例が崩れ、
既知が定着しないまま無用の長物になる。
腰を落ち着けてなどいられない、
チャンスを逃してはならない、
バスに乗り遅れてはならない。
生活が懸かっている、
他人に構う余裕はない、
親切はリアリズムの餌食になる、
現実はお花畑ではない。

状況は変わり、人は適応する。
それが人間の性(さが)である、の一言で済む。
済ませられる話ではある。

それは日常の不可避性、シュッツは本書でそれを、
「大切なことを真っ先に」という原理、
と呼んでいる。

その人間の性は昔も今も変わらない。
変わったのは社会の方である。

社会は、集団を統治するシステムや集団を匿名化して利益を生み出すシステムは、システムの目的のために人間の性をうまく利用する。
システムに属する人々(その元はやはり一人の人間である)は、「大切なことを真っ先に」という人間の生活原理に基づいて、計画を練り、設計を重ね、「時間を先取りする」ためのシステムを構築する。
ありうべき未来を想定し、それを必然とするためのシステム。
それは未来を現在とみなす、時間の幅を極限まで短縮する「無時間化システム」でもある。
本来的には無理筋である、未来は時間が経たねばわからないのだから。
だがそれを実現する、そのために捨象されるのは人間の複雑さであり、そのために覆い隠されるのはシステムの複雑さである。

人はよりよき未来を目指し、それを確実にしようとし、それは確実にやってくると思い込むために、どんどん複雑なものを作り上げる一方で、自分自身は単純であると認識していく。

そのようにして、人もシステムも、人の手を離れていく。

 × × ×

話を本書のことに戻します。

「生活世界」は、人間の一人ひとり誰もが、等身大のそれとして営んでいます。
システムを設計する人だってそう。
でも、システムの運用(運動)自体は、「生活世界」を超えています。
個人を単純化し、匿名化し、指標化しないことには集団として扱えないから。

だから、社会システムが高度になるほど、システムそのものは人間から遠い存在になる。
そして、どんどん高度化するシステムは、人間の生活世界に影響を与えずにはいません。
発想の出どころ(システム設計者)は等身大でも、その価値観は等身大を遥かに超えたもの、そんなものが僕らの生活世界に直接介入し、成立させています。
 
それでも人間は、適応します。
今まで適応してきたし、現在もそうし続けています。
その「適応」は、人間の性に基づいて行われますが、果たしてこの「適応」は、人間がこれからどうなっていくことなのか。
人間の性自体が変化していくのか、人間の性に背いた「適応」が人間をだんだんと「人間ではない生物」へと向かわせるのか。

そんなことは単に言葉の問題だと思われるかもしれません。
それにもちろん、これほどのシステムの高度化は過去の歴史になく、経験知も直接その解答を教えてはくれません。

でも、状況が急速に変わりつつある現在でもわかることはある。

それは、「変わることで僕たちは何を失うか」です。


本書には、僕らの生活世界の成り立ちについて、事細かに書いてあります。
それは具体例を交えながらも抽象的で、その意味するところは、時代状況に捉われず普遍的な内容であるということ。
だから現代人の僕が読んでも意味は通じる。
そして、その抽象的な構造分析の記述の一端を読んで、現代に翻訳し直すことができる。
その翻訳によって、現代社会が、人間の「生活世界」のどの部分を強調し、また価値のないものとみなしているか、そういったことにも思考が及ぶ。

ここで大事なことは、それを読む僕自身が、「生活世界」のどの部分を価値があると思っているか、です。
僕が重要だと思い、大切にしたいと思っていることに対して、社会は特に意味があるとは思っておらず、そんなことやめちゃった方が効率がいいよ、てなことを言うようであれば、僕はそれを守るために社会(の価値観)からある一定の距離を置かなければなりません。


「生活世界」はどうあるべきか、社会はどうあるべきか、といったことは書いていません。
「生活世界」と社会はこのように関係している、という現象学的・社会学的な記述がある。
その「関係」は今の自分にとって、また現代社会において、どうなっているんだろう。
本書はこの関心を呼び覚まし、その思考を深めるツールとなり、そして自分なりの理想を描く羅針盤となってくれます。

司書ブログ更新

 
一年ぶりですが、個人事業HPのブログを更新したのでリンクしておきます。

選書したセットが自分の仕事の価値観に関わるものだったので、
これを機会にと考えてみました。

この089は相当に内容の濃い鎖書なので、引き出せるものはもっとあるはずです。

もとい、「三冊セットの魅力」を僕が完全に引き出し得たことなど一度もない、
ということが商品の価値を表している、という逆説的な話です。

bricolasile.mystrikingly.com

3tana.thebase.in

デジタル平安時代の崩壊とその先

日本の歴史を見ていると、外国でもそうかも知れないが、何か外来の事変に出くわすと、内に蔵せられて今まで気のつかなかったものが、忽然首を動かして事物の表面に揺ぎ出て来るのである。何か刺戟をもたぬと心の働きの鈍るのは、個人生活の場合は固よりそうであるが、集団生活でも実にかくの如きものがあるのである。鎌倉時代に、それまで長いあいだ外国との交通が途絶していたのが、また始められたという事実は、日本文化の発展史上決して見逃すべきでないと思う。平安時代が政治上に崩壊的気勢を示し、文化的に爛熟期をすぎて頽廃期に入ったとき何かの衝動が与えられないと、民族精神は萎靡[いび]不振、ついに取返しのつかぬほど腐敗するのであった。そこへ大地の声が、農民を背景とする武家階級から上がって来た。そこへ南宋を圧迫した勢で、日本の西辺を侵しきたらんとする蒙古民族の猛進が頻繁に伝わってくる。入宋の僧侶たちは新しき大陸の空気を呼吸して帰ってくる。今まで沈黙を守るよりほかなかった庶民階級の思想と感情が、武家文化──大地精神──を通じて開かれるようになる。何か日本民族霊性そのものの響がこの間に鳴りわたらなければならぬのである。果然、武家階級は禅道に入り、庶民階級は浄土思想を創案した。武家文化は更に公卿文化を統摂することによりて、禅精神をして日本人の生活および芸術の中へ深く浸透せしめていった。一方、浄土思想系は日本霊性の直接的顕現として大地に親しむものの中に結実した。

「第二篇 日本的霊性の顕現」p.78(鈴木大拙『日本の霊性岩波書店、青三二三-一、1972)
原書の出版は昭和19年12月

 
引用箇所を含む第二篇を読んでいて、現代日本平安時代に似ているという連想を持ちました。
年号の語感から、現代日本とは平成から令和*1のあいだのことです。
 

 平安時代は、なんと言っても女性文化時代である、(…)この時代は、奈良時代の豪壮雄大なるに対していかにも繊細優美であった。(…)佶屈聱牙[きつくつごうが]の漢文学に対抗して、「女[おみな]もじ」を考え出して、それを自由自在に駆使して、柔らかく細やかな感情を表現した平安朝時代の女性は実に偉かった。(…)
 
 仮名文字の発達がどのくらい日本思想の独自的展開に資することがあったかは、十分に認識する必要がある。(…)屈伸に自由でなく、連結に緊密を欠く漢文字では、思想の表現はおのずからそれに制せられる。みずから作った道具でみずからをくくることは、人間万事の所為の上に現れる。近代の思想も、自分で作り出した科学と技術と機械とで自由を失って、かえってみずからを破壊に導いているではないか。仮名文字がなかったら、日本は明治維新の大業を成しとげ得なかったと思う。外来の文字・思想・技術等は、いずれも仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性などによりて、国民精神発展の上に自由に取入れられたのである。この事実を考えてみると、我らは平安朝女性の創造的天才に対して、十二分の謝意と敬意とを表すべきである。

同上 p.79-80

 
平安文化、そして「仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性」から、つい橋本治の『桃尻語訳枕草子』を思い起こして読みたくなってきたのですが、それはさておき。

日本的霊性が伝来仏教の影響を経て開花したのは鎌倉時代であって、それ以前の平安時代ではない、という文脈で、平安時代の「よきところ」も上で引用したように述べられてはいるんですが、本筋はその「あしきところ」が次の時代の下地になったというところにあって、たとえばこのようなことが書かれています。
 

 女性文化の欠陥は、しかし、その長処そのものがそれなのである。和らぎはよいが、時には骨がなくてはならぬ。柔らかみはよいが、「女々しさ」はあまり歓迎できぬ。泣くもまた妙だが、いつでも「涙ぐましい」では埒があかない日本民族の感情的性格は、女性によりて十分に代表せられているが、我らの実際生活は感情だけではいけない、理知も入用だし、また霊性の動きもなくてはならぬ。女性は感覚性と感情性とに富んでいるが、論理と霊的直覚に欠けている。(…)女性文化は箱庭で出来る、温室性をもっている。平安朝時代は日本が箱庭式に生きていた時代である。日本民族の女性的性格の方面の発展するに最も好都合な条件を備えた時代である。風にも当らず雨にも濡れずに育つ苗はかよわい。頑強で根づよい大木は、どうしても暴風雨に曝されて、深く深く大地に根を張らなくてはならぬ。こんな強靭な根幹は、「物のあわれ」の世界では生長せぬ。

同上 p.80-81

 
女性の性質について云々されていますが、現代的に言い直せばこれは「女性性」ということでしょう。
生物学的性差としては男性か女性かのゼロイチではなく、グラデーションがあって、男性は「女性に比べて、女性性よりも男性性のほうが平均的に高く発現している」というのが実際のところです。
社会的性差つまりジェンダーの見直しは、この生物学的性差という科学的概念が近年より正確になってきたことに対応しています。
…いや、これも本論に関係のない話ですが。

引用の下線部などを読むと、夜のテレビドラマが恋愛ものばかりだとか(韓流ドラマもそうだし、「恋の落下傘」だったか、今は脱北ドラマが流行ってるそうですね)、「あつもり」「マイクラ」といったデジタル箱庭もののネットゲームが思い浮かびます。

…またまた話が逸れますが、アレクサンドル・コジェーヴという人が60年代初期に「ポスト歴史時代は西洋の日本化に帰着する」と言っていたそうですが、コロナ禍の巣ごもりツールとして世界的人気を博している「あつもり」のことを考えると、コジェーヴが当時語ったことを今また参照し直す価値があるかもしれません。
長いですが抜粋します。
 

「ポスト歴史の」日本の文明は、「アメリカ流の生き方」とは正反対の道を歩み始めた。おそらく、日本にはもはや「ヨーロッパ的」意味での、あるいはその語の「歴史的」意味での、宗教道徳政治もなかったであろう。しかし、純粋状態で育まれたスノビズムによって、「自然的」ないし「動物的」所与に対する否定的な規律が生み出され、これらの規律は、日本あるいは他の国で「歴史的」行動から生まれた規律、すなわち戦争と革命による闘争ないし強制労働から生まれた規律を、その効力においてはるかに凌駕するものであった。確かに、能楽、茶道、華道といった(どこにもそれに匹敵するもののない)日本特有のスノビズムの極意は、身分が高くて裕福な人達の占有物であったし、今なおそうである。しかし、経済的社会的不平等が存続しているにせよ、今日日本人はすべて例外なく、全く形式化された価値、すなわち「歴史的」意味での一切の「人間的」内容を完全に捨象した価値に応じて生きることができる。かくして、極言すればすべての日本人は、原則的に、純然たるスノビズムによって完全に「無償の」自殺を行うことができるのである(飛行機や魚雷が伝統的な侍の刀の代わりになりうる)。この自殺は、社会的政治的内容をもつ「歴史的」価値に応じて戦われる闘争に生命を賭すこととは何の関係もない。以上のことから、日本と西洋世界との間で最近始まった相互交流は、結局は日本人の再野蛮化にではなく、(ロシア人も含めた)西洋人の「日本化」に帰着するだろうと、信じることができると思われる。

ルイ・マラン「アレクサンドル・コジェーヴ「歴史の終焉」をめぐる二つの注記」p.241-242
(『TRAVERSES/6 世紀末の政治』今村仁司監修、リブロポート、1992)
太字は本文太字部、太斜字は本文傍点部

 
引用中の「日本特有のスノビズム」については、前にボルツの本(ここでもコジェーヴが取り上げられていました)について書いた記事↓も関連しています。
cheechoff.hatenadiary.jp
妙な字面ではありますが、僕自身が命名したこの「純粋暗箱形式主義」というのは、直上の引用でいえば、
 " 一切の「人間的」内容を完全に捨象した価値に応じて生きること "
と対応します。
これにちょっと言い足せば、「捨象したり利用したりがフレキシブルにできる」、いわば「"非原理"原理主義」という……
もはや非論理の世界観ですね。

今朝の毎日新聞書評欄に、紙面下の半分近くを使ってこのような広告が出ていましたが、こういう話が「本質」にもなり「流行」にもなる
西洋知識人が時に己の価値観を覆すほど心底驚く、これが「日本特有のスノビズム」の現れなのでしょう。

『日本人は論理的でなくていい』(山本尚)
Amazon(日本語11/26)
オール紀伊国屋書店(ノンフィクション11/16~11/22)
ベストセラー1位

日本人は論理的でなくていい

日本人は論理的でなくていい

 × × ×

えーと、話が逸れすぎですね、何の話だったか…。

鈴木大拙の本に触発されて、日本のこの先についてあれこれ想像していたのでした。

時代は常に最先端で、未来は五里霧中の暗中模索でありながら、「歴史は繰り返す」ともまた常に言われてきました。
先見の明のある人もない人も、未来を予言し、当たっても外れても人は大騒ぎしますが、もっと抽象的に考えて、予言の実際的効果は歴史にもあります
その妥当性を事後的に検証するのではなく、人々に(それが希望であれ絶望であれ)未来のイメージを描かせる物語としての効果。
論理学でいう「行為遂行命題」というやつです。


さて、
鈴木大拙の日本霊性論で展開されていた平安から鎌倉への時代変化を読んで、これを現代日本の「導きの糸」として見るとどうなるだろう、と思いました。
連想が導いたその文化的な類似性から、デジタル平安時代とも見なせる令和日本がどこへ行くのか、その手がかりが『日本的霊性』にある。
そういう姿勢で続きを読むと、まあ妙なバイアスがかかる一面もありますが、おそらく「とても身に沁みる思い」で読み進めることになるでしょう…というのは僕自身の話なのでさておき。

ひとつ「手がかり」のような部分を抜粋します。

 平安朝文化の崩壊は種々の原因によることであろう。が、真の原因は文化そのものを作っていた思想の中に行きづまりがあったからである。即ち公卿文化──女性文化・概念性の文化──は大地に根ざしていない、いわゆる霊性の上皮部に浮動しているものであるから、それだけではいつまでも自体を維持していくわけにはいかないのである。自分自身の力を自覚するにしても、ひとたびは崩壊の機会を経過しなければならぬのである。それには何かの条件で対外的なものにぶつからなくてはならぬ。鎌倉時代はちょうどそんな機会と条件とを与えてくれた。(…)果して然りとすると、平安末期の騒動、政治や経済上の不安、人心の攪乱[こうらん]、それに加えて国難到来の予期では、物の哀れを鑑賞してのみいられなくなった。国民は何か霊性の上に深き震動を感じ始めたに相違ない。固よりかくの如き根源的なものは、有意識的に感じられるものでない。人間はこんな場合では──ことにまだなんら深刻な宗教意識の覚醒を経験したことのない民族のあいだでは──只なんとなく一種焦燥の念に駆られるに過ぎないであろう。そうしてこの焦燥不安の心持ちは、ただ在来の表現方法でそのはけくちを見出したに過ぎなかったであろう。

同上 p.82-83

キーワードとしては「思想の行きづまり」「崩壊の機会」「対外的なものにぶつかる」、このあたりですが、僕はちょっと違うところを考えてみたいと思います。
それは、抜粋の中で太字部にした箇所ですが、「不安」と「焦燥」についてです。


現代は「不安の時代」と言われています。

能天気に過ぎた高度経済成長期から我に返った結果に過ぎないといえばそうで、プラスの見方をすれば「冷静の時代」(惜しいですね、「霊性の時代」ではない)とも言えますが、だとしても普段から気が晴れないのは居心地がよくない、だいいち景気が悪い、言葉通り消費経済が停滞しているじゃないか。
しかし、「不安」が何の原因であり、何の結果であるか、このことはじっくりというか、多方面に思いをめぐらして考えるべきだと思います。


不安のせいで経済が停滞している、そう思える一方で、不安こそが経済成長の原動力であるという一面もあります。
現状に満足し、安心し切っていたら、人は身の丈を超える消費に向かわないからです。

メディアに載り、同時にメディアを延命させてもいる広告は、受け手の嫉妬や羨望を煽りますが、それらの感情が広告上で肯定的に語られることもありますが(というかそれが方便ですからね)、実際のところそれらは「安心」からは程遠く、むしろ限りなく「不安」に近い感情です。

不安から抜け出したい、そう思ってお金を稼ぎ、情報を集めてよりよい消費活動に勤しむ、その消費活動自体が「不安を煽り合う競争」に過ぎないという達観に至った人は、競争の舞台から降りることになるでしょう。


あるいは、「不安」とは何なのか、またどういう状況から抜け出せば「安心」なのか、当たり前のようにこれらのことを使っているが僕たちはどこまで正確にこのことを知っているのか、そういう反省があってもいい。

「不安」は個人の感情であるという常識になっていますが、「不安」は伝播する、それも親しい人や家族の間だけでなく、すれ違う人やメディアを通じて社会的にも伝わっていく。
それは相互参照的ということで、また共同幻想としても現れる。

「周りの人間と同じことをする、同じ価値観でいる」「悪目立ちしない、出る杭にならない」ことに肯定的価値がおかれる文化において、個人の「不安」がどう作用するか。
こう書けばするひらめくと思いますが、「周りのみんなが不安なら自分は安心」という考え方が実際的な効果を持ち得る、ということです。
それを逆から「みんなと違って私だけ安心だとなんだか不安だ」と言ってもよい。

では、私たちが望む「安心」とは、いったい何だろう?
周りの人間なんてどうでもいいという個人主義を徹底してリアルでは鈍感を追求しながら、ネット上の情報の海にキャッチアップして共同幻想に浸る、現代世界の「リアリスト」にとっての「安心」とは?


さて、では「不安」に対して「焦燥」とは何なのか。
引用中での鈴木大拙の使い方を参考に、こう表現してみます。

「不安」:
 現状維持の心境。「このままがいい、なぜこのままではいけないのか」
「焦燥」:
 現状打破の心境。「このままではいけない、なぜかはわからないけど」

辞書を引けばまた違う意味が載っているかもしれませんが、僕が思ったのは、これらの2つの感情が「現状に対する違和感をもった時の心の遷移プロセス」であるということです。

上の引用で、キーワードとして「崩壊の機会」を抜き出しましたが、このデジタル平安時代の「崩壊」がどの段階に至ってそう言えるのかは知りませんが、「崩壊」と「焦燥」は機を一にして起こるだろう、とは言えるでしょう。

あわよくば、これも鈴木大拙の挙げた「自分自身の力の自覚」もまた同時に。


こんな考えを巡らせていると、時代変化に希望を感じることができます。
即物的に起こることは、恐らく楽しいことよりも苦しいことの方が多い。
それでも、抽象思考に価値を見出せるならば、
時代の変化はまず間違いなく、興味深いものになるでしょう。

 × × ×

冒頭の引用で太字部にした部分に触れる余裕がありませんでした。

岩永亮太郎の『パンプキン・シザーズ』をちびちびと何度も読み返しているのですが、おそらくここからの連想で、ふと「禅の精神」とは「日本的ノブレス・オブリージュ」と呼べるなにかではないのか、と思いつきました。
近いうちに掘り下げたいトピックとしてメモしておきます。

 × × ×

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

世紀末の政治 (TRAVERSES)

  • メディア: 単行本

*1:「令和」が漢字変換で出てこなかったんですが、つまり年号が令和になってから僕がこの語を打ったのは今日が初めてということを知りました。まあ、興味がなかったというだけの話ですが。

「不気味の山」とリアリティの解像度

 電子の仮想空間が誕生する以前から、人間は夢を見ていた。夢と現実を取り違えないでいられたのは、夢が現実に比べて圧倒的にデータ量が少なかったからだ。多くのメモリィを必要としない、解像度の低いものだった。合理的な秩序も、緻密なディテールも、そしてなにより再現性が不足していた。リアルは、相対的にそれらが完備した、ほぼ整った世界だっただけだ。この関係は、ヴァーチャルとリアルでは、既に逆転し始めているといっても良い。

森博嗣『神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned?』講談社タイガ、2019

山田 この頃のテレビドラマでは、お父さんお母さんというのは、ほとんどコメディ・リリーフみたいな役どころで、実態を描こうなんて気は作者にもさらさらない。
見田 バックグラウンドというか、舞台装置ですね。
(…)
山田 テレビの現実感に与える影響力は思っている以上に大きく、深刻なもので、作り手はかなり注意深くなければいけない時代になってきていると思いますね。昔は、あれはお話だよ、という認識が当然のごとくあったから別に問題はなかったんだけれども、だんだんそうじゃなくなってきて、テレビで人生を学ぶのですから、由々しきことですよね。それで結婚すると、相手には匂いもあれば、手触りもある。髭は痛いし、汚すし、これは非常に特殊な人じゃないか、と思ってしまう。そこで現実に気がつくというのなら、まだいいのですが、現実感のない自分のほうが正しいと思ってしまう(笑)。不思議な倒錯が起きてきている。
見田 オウム真理教ですね。

見田宗介×山田太一 母子関係と日本社会」p.172-173(『超高層のバベル 見田宗介対話集』見田宗介講談社選書メチエ、2019)
対談の初出は『大航海』第五号、一九九五年八月。

 
見田宗介の本を読むのはこの対談集が初めてですが、とても興味深いです。
多様な専門の対談相手に対して、相手の(というか対談として設定された)テーマに合わせながら、どれも社会学的見地から日本を深く分析していく論理に、読み手は思考を刺激されます。

直近二つの記事もそうですが、これもそのようにして触発されて書いています。



不気味の谷」は有名で、アンドロイド等の人間を模した人工物の洗練度と、その人工物に対する好感度のグラフを描いた時に現れる谷のことです。
ではタイトルの「不気味の山」とは何かですが、もちろんこれは「谷」に関連したものです。


一つ目の抜粋、これは22世紀を舞台にした森博嗣SF小説ですが、「解像度」とは、文字通りの意味では、テレビやスマホ等のディスプレイのスペックとして語られる、映像の精巧さのことです。
それがここでは、映像という視覚情報だけでなく、リアルを模擬するメカニズムの全体に対する「再現性」、感覚器でいえば五感を含むもの、そして生活・社会環境の役割性や時間感覚でいう秩序、そういったものの再現性能を指しています。

ヒューマノイド、作中でウォーカロンと呼ばれるものが生物学上(つまりもちろん見かけ上も)人間と同一になり、不老不死が達成されつつあり、VR技術も相当進歩した遠未来のことなので、「ヴァーチャルとリアルが逆転し始めている」と書かれているわけですが、この点を除けば、現実の現代社会に対する分析としても通用します。

このSF中にも書かれていることですが、ヴァーチャルとリアルを混同する要因として「解像度」が高くなってきたこととは別に、人間は生活環境の内実に関わらず「ルーティンに慣れる」、つまり繰り返しに対して惰性化するという性質があることも挙げられます。


二つ目の抜粋は、その「ルーティンに慣れる」ことの一例としてリンクしました。

核家族化、個室を与えられた子供、その子供部屋も含め家族に一人一台テレビがあること、そのようにして家族間のコミュニケーションの質が変わり衝突の少ないものになった、という脈絡において、テレビドラマが提示する家族像が「本来の家族というもの」であると信じ込んでしまう、これは子供に限らず、その親だって同じ認識になり得ます、その環境に呑まれつつ自分たちでその環境を作っているわけだから。

そして、密度の薄いというか、ほぼ定型だけで作られた家族像(ドラマでは「その定型からの外れ方」がまた定型になっている)を抱えた子供が成長して家庭をつくり、現実の家族生活とその家族像とのギャップに直面して、家族像が現実によって修正されるならまだよいが、(それに従って相手を選んだり子育ての方針をつくってきたかもしれない)強固な家族像が現実生活の方を否定してしまって、「リアルの方がリアリティがない!」という認識に至る場合、このことを山田氏が「不思議な倒錯」と表現し、オウム真理教に傾倒した若者のメンタリティに通じるものがあると見田氏は指摘しています。


さて、本記事のタイトルの話に入りますが、このことを思いついたのは、冒頭で抜粋した箇所の少し手前を読んでいた時でした。

見田 ぼくの業界の話をすると、八〇年代には疎外論批判」というのが流行ったんです。ゼミでレポーター[発表者]の学生が、たとえばなにか「本来の」あり方みたいなものを前提して、それが現在失われているという言い方をすると、「それは疎外論的な発想だ」という言い方でみんなにやっつけられる。そういうパターンが流行ったんです。
(…)
 例えば、一人の青年が「本来」というと、それに対してそれは「疎外論的発想」だとクールな人が批判する、というパターンがあった。それは、どっちが正しいといってもしようがないんじゃないかと思います。例えば、本来はあるはずだとどうしても思えることのリアリティがあるわけでしょう。(…)同時に「疎外論批判」をする人がなぜ批判するかというと、批判したいことのリアリティがあると思うんですね。どっかで回復不能な傷を負った姉がいるとすると、「本来」を信ずるナイーヴな弟の健康さに苛立ってくる。
(…)
 一方で夢のリアリティがある。他方で、なぜかやっつけたくなる、批判するリアリティがある。このリアリティの対峙する水準できちっと捉えないと、現在の日本のリアリティは捉えられないんじゃないか。

同上 p.166-167

 
見田氏の「リアリティの対峙する水準」を、内田樹氏の思考を借りて「主観的合理性の分析」と言い換えることもできると思います。

それはさておき、この抜粋にある「疎外論批判」という言葉を聞いたのが僕自身は始めてで「へえ」とまず思いました。
そして現代日本の言論状況、実質皆無の「言った(押し通した)もの勝ち」、論理の整合性に関係なく負けを認めた方が負けというチキンレース的似非ディベート、炎上工作と紙一重のネット民主主義(中国共産党人海戦術によるネット規制とどこか似ている)、などを思い浮かべ、そういうものがあるとして、疎外論批判」からここに至った脈絡を発想しました。

疎外論」が意味するものを詳しくは知りませんが(なにしろ今日初めて出会った言葉なので)、「疎外論批判」は、ウーマンリブフェミニズム思想)とかポストモダニズム相対主義と同じ思想の流れを汲んだものだと思っています。
既得権益を貪る人々を批判し、既成の価値観を打ち破る、という意志。
この意志は、それが芽生えてしばらくは、これまで不文律とされた既成観念をテーマに掲げて議論を進めることで正義や客観的(あるいは科学的)な価値を追求するものであったはずです。

そして、「疎外論批判」という一語で括られるように、だんだんと議論が定型化する。
それはまた、その意志や姿勢が定型化することでもある。

何事においてもそうですが、定型を獲得した行為は、効果だけが期待され、本来の意志や意味は空洞化します。
今の文脈でいえば、「疎外論批判」はそれが定型化するに至って、そのリアリティを失うことになった。

いや、見田氏の議論の中ではまだそこまで時計の針は進んでいなくて、本来性の追求と「疎外論批判」は議論として対立していたが、どちらが正しいかというよりも、お互いの立場がもっているリアリティに対する視点を持たないと現代社会のリアリティを掘り下げられない、と氏は言うわけです。


それで、僕はここで言及されている疎外論批判を展開する立場の人のリアリティ」という視点に、ある連想を刺激されたのです。

…ふう。
ここからやっと本題です。
 
 × × ×
 
最初のほうに「不気味の谷」について触れました。
擬似的なヒトの精巧さと、それに対して人が受ける好感度の相関性。

具体的には、ちゃちなロボットが人間らしくなっていくに連れて好感度は高まるわけですが、あるレベルまで人間に近くなると、急に好感度が落ちる。
人は「人間のようで人間でないもの」に対して過剰な反応を示す。
それは得体の知れなさにたいする恐怖かもしれません。
そして、そこからさらに人間に近くと、好感度はまた上昇する。
不気味の谷」を超える、つまり、そこに達したロボットを人は「自分たちの仲間だ」と思う。


さて、この話における好感度とは、主観的な人間の感覚です。
好感度について数値的な大小を厳密に比較することはできない。
だから、「不気味の谷」のグラフは定性評価ということになる(はず)。

ここで、冒頭でSFを抜粋した内容を思い起こしてもらうと、それは擬似リアルの解像度がヴァーチャルとリアルの逆転をもたらす、という話でした。

この「解像度」はメカニズムのスペックだと言いましたが、ふと「リアリティの解像度」という主観的な人間の感覚指標を設定できるのではないかと思いつきました。
これは上記の好感度の上位概念になりますが、つまり、人が自分の周囲環境に対して、それがどの程度複雑であればリアリティを感じるか、ということを示す指標となります。

そして、これが本記事のテーマで一番大事なところですが、
人が生来備える「繰り返しに対して惰性化する」性質によって、この「リアリティの解像度」は変化します。


さて、仮に「不気味の谷」のグラフに「リアリティの解像度」のグラフを合わせ込むと、どのような曲線が現れるか。

いや、何か妙なことを考えているなと思われそうですが、自分でも書きながら考えていて本当かなと思ったりもしていますが、アンドロイドに対する好感度だけを取り上げている時はおそらく「人間が感じるリアリティの感度」は一定であるという前提となっています。

食べ物の味で例えれば、料理が美味しいか不味いかをなるべく客観的に議論しようとする時に、素材の鮮度とか調理方法はとうぜん俎上に乗せるが、「料理を前にした人の空腹度」までも考慮するわけにはいかない。
なぜならそれは客観評価に馴染まない、主観的な感覚だからです。

今考えようとしていることは、空腹度から料理の味を評価するというのと、立場的には同じです。


話を戻して、
一言でいうならば、「リアリティの解像度」グラフは「不気味の谷」と逆相関になるのではないか。

人が「ヒトのまがいもの」、ヒトのようでヒトでないものに接すると不気味さを感じる、違和感をもち恐怖すら覚えるというとき、その人はリアルとバーチャルの境目を強烈に意識し、曖昧になったように思われるその境界を再設定せねば気が済まないという境地にある。
つまりこの時、その人の「リアリティの解像度」は急激な上昇を示している。
そして、「不気味の谷」を超えた精巧なアンドロイドに対しては安心してフレンドリーに接する、彼も自分と同じリアルに属するという評価を下す。

これらをまとめると、
ヒトを模した人工物に対する好感度の軌跡である「不気味の谷」に重なるのは、それと接している人の「リアリティの解像度」の軌跡である「不気味の山」とでも呼べるものである。

もちろんこれも定性的な比較であって、「谷」の深さと「山」の高さの大小比較に意味はありません。
 
 × × ×
 
長々と妙な論理を進めてきましたが、僕自身の動機はどこにあったか。
実はそれを言うのは簡単です。

現代社会で生活する僕らの「リアリティの解像度」はどんどん低下している。
これを由々しく言い換えると、
僕らの生活は「低解像度というリアリティ」に囚われている。
本来リアルでないものにリアリティを感じるというのは、要するにそういうことです。


解像度が人間の主観的感覚にもなるという発想を持った瞬間に持ったイメージがあります。

ムーアの法則というのがありますが、電子機器の集積化が進んでディスプレイはどんどん高精細になるわけです*1
ディスプレイが高精細になり、色再現性が増し、あるいは立体感さえ表現できるようになり、それに応じて視聴者はディスプレイに没入し、映像にリアリティをいや増して感じ、「映像の外」に対するリアリティが相対的に減じていく。
頭に浮かんだのは、ディスプレイの解像度と、人の主観である「リアリティの解像度」との逆相関を示す、反比例のグラフです。

それは、「毎晩がステーキと食後のチョコレートケーキ」というアメリカの富豪の悲哀(@河合隼雄)や、毎日がお祭り化して「ハレとケ」の境界を見失った都会人の平板な日常などを連想させます。


だからなんだということもなく、それが良いとも悪いとも思わない、
と上記SFの主人公グアトは考えていますが(森博嗣本人の考えはもちろん知りません)、
僕はそこまでフラットな考え方はできません。

…と書いていてちょうど今思いついたことですが、
冒頭に抜粋した本の別章、見田氏と小説家の黒井千次氏との対談の末尾を、わが意を得たりという思いで最後に引用しておきます。

黒井 フォークソングとか風俗的なものまで含めて、実質的には表現の手段は実に多様化している。ただ、そういうものが驚くほど急速にパターン化するんですよね。自己表現が自由であればあるほど、まったくパターン化しちゃって、あるところまで出していくと、そっから先出していく行き方というのが、みんな似てしまう。これは情報の量の多さとか、いろんなこともあるでしょうが、クリエリティヴなものが自分の表現として出ていかない。一人の絵を見ると面白いが、次のを見ると同じで、みんなこいつら同じかい、という感じなんだ。そのくせ衝動としては既成のものに飽き足らない感じがあって、いろいろ工夫してみる。工夫する内容は、自分の内側から込み上げてきたものじゃない。それで満足しているかというと、必ずしもそうではない。そういうことからいくと、自己表現の可能性と現実性のあいだにかなりギャップが大きくて、現実性のところで見るかぎりは、若者のもってるエネルギーがうまい具合に出ていっていない傾向が強いですね。
見田 そのフラストレーションは、自分でガーンとやって、壁にぶつかってフラストレーションが起こるのじゃなくて、何でも言えるけども、自分が言葉にしたり、絵にしたりした途端に、それがたちまち自分のものではない、みたいな苛立ちというのはかなりもっていますね。

見田宗介×黒井千次 日常の中の熱狂とニヒル」p.146-147
同上
対談の初出は『展望』一九七一年四月号。

 
ああ、上のほうで現代日本の言論状況に対して愚痴っぽく列挙しましたが、
この引用を読んで思いついたので、もう一つ追加しておきます。

"「やってる感」&「それっぽさ」至上主義"

情報過多は「定型過多」でもあって、目の前に広がるが身の丈で扱えず収拾のつかないそれに対する生活感覚的(つまりプラグマティックな)解決策がこの「それっぽさ至上主義」だと思うのですが、このことのしわ寄せ(見田・黒井両氏が語っているのがこの一例です)に自覚的であり続けようと思えば、「別の解決策」を模索した方がよいと個人的には思います。
 
 × × ×

 

*1:余談ですが、僕は昔半導体系の研究所で、高精細ディスプレイの不良解析として顕微鏡で画素の一つひとつを仔細に観察する仕事もしていたので、テレビを見ると、その奥の何百万とも知れぬ画素の存在をつい意識してしまいます。

先天性ニヒリズムの克服法

 
 スニーカー刑事は立ち回る。

 事件は人心の闇への招待状。
 参加は強制の呪われた祝宴。
 死の足跡をたどる即席の詩。
 生の所業は諸行無常への道。

 手応えはたしかに存在する。
 闇を照らせば有象が浮かぶ。
 光は見えぬ無象を消し去る。
 後先はなくただ存在がある。

 止むに止まれぬ犯罪の動機。
 社会に養われた狂気の必然。
 偶然の余地を蝕むシステム。
 動悸だけが謎に挑む覚醒剤

 この足を止められない恐怖。
 
 × × ×

太陽を曳く馬〈上〉

太陽を曳く馬〈上〉

  • 作者:高村 薫
  • 発売日: 2009/07/01
  • メディア: 単行本

対話と株式会社性、誠実な近視眼と形式に対する食傷

 
党派性を超えて政治を語ること。
 
政治とは利害調整のことだが、党派が対立するのは、
こちらとあちらの利害が異なるからである。

互いに利益となる政策なら反対意見は出ないし、
互いに損害を生む事業は誰もやろうとは言わない。
一方の利益が他方の損害を招く場合、また双方の利益に多寡の差がある場合に、
意見や立場の対立が先鋭化する。

とは言え、実際よくあるのに議論に乗らないのは、
各党派が暗黙の了解とする利害の基準が、党派間で異なることである。

議論をして、論理がかみ合わず、相手を説得して理解に導くのではなく、
自説を曲げずいかに対立意見をねじ伏せるかに汲々とする、
そのような泥仕合ディベートが後を絶たないのは、
利害の基準のすり合わせをしないからである。

相手に歩み寄ることは弱腰で、つけ込まれるだけだ、と思っているからである。


議論をして、自分の意見が変わることは、悪いことではない。

誰かの意志や希望を背負った立場が、対立相手の価値観を汲み取り、
その結果として変化したとしても、それはその誰かに対する背信にはならない。

委任を受けた政治主体が果たすべきは、委任された内容を押し通すことではなく、
政治の場における議論で委任内容が変化した際に、
その変化した内実を持ち帰って委任主体に報告する、あるいは議論することだ。

(大切なことだが、株式会社はこのようなことをする必然がない)

議論や対話における意見、その姿勢の変化を否定すれば、
もはやそれは議論や対話ではなく、
なにか別の行為(ディベートゲーム)になっている。

 × × ×

常識や通念というレベルにおける価値観が、凝り固まっている。
不変であり、万人が是とする価値、画一的なそれを皆が求めている。
実際は違うのに、皆が同じものを求めているという物語を、皆が信じている。
信じている、という情報が、世間に大量に流布されている。

というより、
情報の個々の中身ではなく形式の統一性が、その物語の基盤になっている。

誰もが同じ口吻で、多様性の大切さを説くように。
誰もが同じ経路で、オーダーメイドの商品や唯一無二の経験を買うように。

形式に対する食傷感覚は、この先を生き抜くうえで重要となるかもしれない


日々の生活とは、卑近なものである。
目の前のことを遅滞なくこなすこと、この誠実さは、近視眼を免れない。

しかし、身の回りの既成事実は歴史をもつ、自分自身が歴史をもつように。
歴史とは時間であり、現在は過去の出力であると同時に未来への入力である。

科学技術や法制度、生活インフラを含む便利さは、過去の集積の賜物である。
生活の利便性が高度化するほど、その裏に潜む時間の堆積は膨大となる。

そして、日常生活が便利になればなるほど、
近視眼的生活時間と、生活を支える歴史時間の乖離が激しくなる。

その乖離は、そして必然的な乖離への無感覚は、近視眼の亢進を招く。
不安の種であるそれを直視しないことで、人は近視眼的安心を得るからである。

現代の消費社会には、このようなポジティブフィードバックが作用し続けている。


脳と身体がバランスを保つように、
崩れ続けるこのバランスも、遠からず揺り戻しが来る。

…いや、脳と身体は集団(大衆社会)のメタファーには使えない。
脳化社会における集団(ごく広い意味の党派集団)は、身体を持たない。

バランスを保つには、一人ひとりが個人であり続けるしかない。
この重要性は決して、氾濫する情報の波に乗って来ることはない。

 × × ×

 

ハイエクを読んで:被害者先取、他律主義、そして自暴自棄

 まさしく、ほとんどすべての人が望んでいるからこそ、われわれは社会主義への道を進んでいるのである。その歩みを不可避なものとするような明白な現実があるのでは決してない。「計画は不可避である」と主張されている問題に関しては、あとでぜひとも論じなければならない。とすると、最も大きな問題は、この歩みはいったいどこへわれわれを導くのか、ということである。もし固い信念をもってこの歩みに抗いがたい勢いを与えている人々が、今わずかの人々のみが理解していることを本当に知り始めた時、彼らが恐怖のあまり後ずさりし、半世紀にわたって多くの善意の人々が追求しようとしてきたことを放棄するというようなことが、ありえないと誰が言えよう。問題は、われわれ同時代人が広く信じていることがどのような結果をもたらすか、ということである以上、それは決してなんらかの党派の問題ではなく、われわれすべてにとっての問題なのであり、最も重大な意義を有するものなのだ。われわれすべてが、高い理想に向かって未来を意図的に形作っていこうと努力しているのに、その努力が、はからずも求めようとしたこととまったく逆のことを生み出すことになるとしたら、それは何にもまして大きな悲劇ではないだろうか。

「序論」p.376
F.A.ハイエク『隷属への道』西山千明訳、春秋社、1994
(原著の出版は1944年)

ハイエクの『隷属への道』を読了しました。
読み始めたのはこれも数ヶ月以上前で、そのきっかけを忘れてしまいましたが、読んでいる期間中に、他の様々な本や新聞記事でハイエクの名を目にしました。

本書は世界中の人々に影響を与えた「古典的名著」とされています。

第二次世界大戦の後半、本書が実際に書かれたのは1943年ですが、イギリスに住むハイエクは、イギリスが敵国であるドイツ帝国の価値観と似通ってきていることに危機感を抱いたのが執筆動機だといいます。
かつて出身地のオーストリアに住んでいたハイエクはドイツの政治文化に詳しくなり、ドイツが社会主義に傾倒していく様を現地で肌に感じた経験から、のちイギリスに拠点を移した時に、同じ社会主義的価値観の台頭が20年遅れでイギリスにも訪れていることに敏感にならずにはいられなかった。
この異国の地におけるデジャブ体験が、ハイエクの明敏な知性の起爆剤となり、もとは専門が経済学だったハイエクが、「政治的提言の書」と自認する本書に取り組むことになりました。


本書の内容には触れません。
現代の日本人にも読む価値がある、とだけ書いておきます。

今の日本が民主主義の危機だとか、独裁国家に近づいているとか、言われています。
そのことにイエスと言う人も、ノーと言う人もいて、それぞれに論拠を持っている。
どちらであれ、重要なのは、その認識によって僕らが何を得るか、でしょう。

日本政治の現状分析の中には、
当然「日本がどこへ行こうとしているか」という視点も含まれる。
進路に危機があるのなら、
いわば羊の集団が崖へ突っ走っている状況なら、方向転換しないとまずい。
そう言われればそうかと思い、
しかし現状に自覚を持った羊が、それでも歩みを止めないこともある。
危機意識が行動に結びつかないのなら、
危機感を煽る言論は、内容がどれほど切実であれ効果がない。

その場合、問いの次数を繰り上げる必要があります。

 僕らにとって「危険」とはなにか、
 それがもたらすものを僕らはどう思っているのか。
 僕らは本当は何を望んでいるのか、
 僕らを駆動する主観的合理性は僕らをどこへ連れて行くのか。

 × × ×

そう、最初は主観的合理性の話を書こうと思っていたのでした。

タイトルの「被害者先取」について、
こういう用語があるか知りませんが、内田樹氏が著書で使っています。

かつて「訴訟大国アメリカ」という言い方がされていましたが、今では日本も含め先進国みながそうなっているのでしょう(今日の新聞に、ロール式網戸を調節する紐に首が絡まって死亡した幼児の親がメーカーとリノベーション施工会社を提訴したという記事がありました)。

各種クレーマー、モンスターペアレントはじめ、近年用語登録されたこれらの人種はすべて、自分が被害者であることを主張し、相手に受認させることで自己利益を引き出します。

PC(ポリティカリーコレクト)運動も同じ流れにあり、これは(それが全てではないと思いますが)社会的影響力を持つ個人の主張の一部を取り出して文脈を無視して曲解し、精神的苦痛や名誉毀損などを受けた被害者を創造してその個人を攻撃する手法として利用されています。

内田樹氏は『街場のメディア論』で、メディアが扱う様々な事件に「組織 対 個人」の構図がある場合にはケースバイケースの正当性がどちらにあるかを突き詰めずに個人に味方をする報道を続けてきたことで、この「被害者先取」の価値観が世間に膾炙したと論じています。


話はハイエクの本にいったん戻りますが、
『隷属への道』を読了した(つい数時間前ですが)時にまず思ったのが、「ハイエクは知性を信頼している」ということで、それは本記事の上部でも書いたとおり、大戦中の英国人が自分では意識せずにどのように危険な価値観に染まりつつあるかを論じ、彼らに自覚を促し、かつて世界中の模範となった(らしい)19世紀大英帝国の思想の復権を願っていたからです。

自分が望んでいることが起き、事が進んだあとにもたらされた事態が、自分が望んだものであるとは限らない。
それは、本来的に限界のある人間の将来に対する読みの甘さもあり、それ以前に「自分の望み」が端的に間違っている、現状をあまり把握できていないが周りがそういうからというのでそれに合わせて自分も同じことを望んでいるのだと思い込ませている、こともある。
これらのいずれに対しても、本人の知性が正常であれば、現状の理解と正確な「自分の望み」の自覚を促すことで、危機に突き進む現状を改善できる。
そう考えて、人々に自覚のツールを提供しようという意志のことを僕は「知性への信頼」と呼んでいます。


それで、次に「主観的合理性」のことですが、
個人においては誰であっても、その行動や思考には合理性が伴っています。

これは意識するにしろしないにしろそうであって、言い方を変えれば、自分のあらゆる行動や思考について、事後的に何らかの説明がつく
そしてこのことをまた見方を変えて捉えれば、人は、客観的に間違っていたり効果がなかったり不利益でしかないようなことに対しても、正しいとか価値があると考えることができる
主観的合理性は、個人の数と同じだけ多様に存在する「個人が考える正義」と同じ効果をその人にもたらす。

だから、主観的合理性は、他人の思考を取り入れたり知らなかった事実や知識を知ることで、その「理のシステム」を変容させていきます

内田樹氏のブログや著書で展開されている評論の、読み手へのメッセージという意味での立場は一貫していて、それは評論で取り上げている人物(や組織)の主観的合理性を分析するというものです。
その人物が反社会的な言論を振りまいていたり、国民を舐めてかかる政治家であったとしても、その反社会性や不誠実を指摘するだけではなく、なぜ彼らはそう振る舞うのか、それが彼らにどのような利益(満足)をもたらすのか、あるいは彼らがどのような価値観(やトラウマ)に縛られているのか等々、そういった彼ら自身の主観的な視点や思考に対する考察を欠かさず加えます(むしろこちらが本論ですらある)。

そして、この主観的合理性の分析もまた、知性への信頼を示す一つのアウトプットです。

語るに落ちるというのか、聞くに値しないことは実際たくさんありますが、誰が聞いても無価値だと思える言葉を(たとえばネット上で)垂れ流し続ける人がいるとして、彼自身が自分の言葉を無価値だと思っているとは限らないし、もしそう思っていたとしても、その言葉を発信する何らかの価値を彼が信じている可能性だってある。
そう考えると、最近河合隼雄氏の本をいくつか読んだせいか、この姿勢は精神分析家のものでもあると気付きます。

論理には客観性がある、言葉には(いちおう)辞書的な意味がある、法律にせよ常識にせよ明示的あるいは暗黙の社会的なルールがある、人はそれらを他人と共有し、共通の価値を認めることで社会性を備え、共同体を維持することができる。
ただ、個人が発する言葉はその個人が生まれ育ち過ごした環境で獲得してきたものであり、言葉の奥にあるニュアンスやイメージはそれこそ千差万別であり、その差が意思疎通に不都合をもたらすと同時に、その差こそが個人の個性の証でもある。
他人と「同じ」である、「同じ」を目指すことは、社会性の獲得であると同時に、個性の毀損でもある。

社会性と個性は二律背反的な関係で(社会と個人というのがまずそうです)、どちらか一方だけというわけにはいかず、互いにバランスを取る、いや常に揺れ動く両者の重みのバランスを取り続けていくしかない。
主観的合理性の分析とは、社会性を前提としながらもこのバランスに配慮しています。

ここで比べるのもなんですが、対してポリティカリーコレクトという思想は(時に)個性への攻撃となります。
political(政治的)と言っているのだからPCは公共的な場を前提しており、言論の社会性を問うているのだから当然だと思われるかもしれませんが、それは言葉の定義だけのことで、PCが個人的な領域に踏み込むことが多々あるということです(ネット言論というのがそもそも個人と社会の境界を曖昧にしています)。

 × × ×

さて、まだ最初に書こうと思ったことにたどり着いていません。

本を読了した時に、書評ではなくとも何か書きたくなることがよくあります。
ハイエクの本を読み終えた時にも、そのような意識が生まれました。

それで、本書の最後にあった「序論」の内容が余韻として残っていて、
「主観的合理性」「知性への信頼」とともに、タイトルのキーワードが思い浮かびました。
これらを繋げるのが本記事の本論なのですが、体力が残っているかどうか……

 × × ×

「被害者先取」の話は先に書きました。
僕が興味を持ったのは、功利的戦略として有効だと思われているこの価値観がなにをもたらすか、具体的には、他のどのような価値観に結びつくか、です。
 
「悲観的な未来予測を繰り返す人間は、次第にその実現を望むようになる」

これは、実際に訪れて欲しくない未来ではあれ、その未来が現に到来すれば、自分の予測が正しかった、自分には先見の明があったからだということになるからです。
だから「悲観的な未来予測」という行為は、一種のアンビバレントを引き起こします。

アンビバレントという言葉はたしかグレゴリー・ベイトソンが、二律背反的な命令を親から受けた子供が陥る精神的錯乱について命名したものです(これは完全に受け売り)。
たとえば、おもちゃを投げる、手を叩く、といった行為に対して、ある時は褒められ、また別の時には叱られ、叩かれすらする。
その時の文脈を考える能力も、親が気分によって言動を激しく変えるという認識も持たない子供は、自分の行為がもたらす帰結を予想できず、正常な思考能力の発達が阻害される。
……ちゃうな、これはダブルバインド理論ですね。

まあ、単に用語の問題なので、さておきます。
 
言いたかったのは、短期的な意図や願望が、その継続によって引き寄せる長期的影響と一致するとは限らない(全く逆へ向かうこともある)、ということです。
『隷属の道』を読了して一息ついた時にふと、「被害者先取」という価値観にそのような匂いを一瞬、嗅ぎ取ったのでした(たぶん)。


事件や事故がおこらずとも、日常生活における何らかの不都合に対して、自分が被害者だという立場でいれば、彼自身は安心できる。
なんとなれば、その不都合の原因が彼自身にはないと思えるから。
自分の努力が足りない、不注意や怠慢がその不都合を引き起こしたのではない、それは普段から誠実かつ謙虚に生きている自分に外部から降りかかってきた厄災である。

そのような思考法を、彼の身の回りに起こる不都合のすべてに適用していくようになると、どうなるか。
自分の意思で何か事を起こした時に、それがよいことであれば自分の功績とし、それが悪いことに結びつけば人のせいにする。
自分の行動とそれがもたらす波及的結果との関係を、実際的な因果関係によってではなく、結果の良し悪しに応じて恣意的に取り結ぶようになる。
(知らない人の多い喩えですけど、『ACCA13区監察課』のシュヴァーン王子はこういう人間ですね)

…というのはさすがに非現実的ですね。
よほどの状況がないと人はそう盲目的になれるものではない。
というわけでもう少し現実的なパターンを考えます。
 
「被害者先取」という言い方はある矛盾を抱えています。

被害・加害の関係は、事件なり事故なりが起こらずには生じ得ません。
複数の個人の間で何らかの不都合が発生した際に、その不都合の因果関係をとらえて、初めて被害者と加害者が取り沙汰される。
どういうことか。

「被害者先取」戦略を我が物と心得る人間は、事件の発生を「待ち構える」姿勢に釘付けられる(武道用語では「居着く」)、ということです。
つまり、彼は自分から行動を起こさない、あるいは自分の行動を「自分が主体的に行ったものではない」と自認して憚らない。

この状態を、本来の意味とは違った使い方だとは思いますが、ここでは「他律主義」と呼んでおきます。
自分の(不都合な)現状は自分が作り出したものではない、周りのいろんなことに巻き込まれた結果である。
だから自分のせいではない、その責を自分が負う必要はない。
自分が抱く不満や不快を全て外部要因に帰する思考は、その本人に無自覚なことに、自分で自らの状況を律する能力がないことを証立てている。
ここにおいて「無自覚」がポイントです。

自分で自分を律する能力を発揮しない「他律主義」者。
彼は、単に能力を使わないのではない。
自分はその能力を持っているが、自分には手の届かない何らかの外からの力によって、その能力を封じられている。
誰かしらん「悪い奴ら」によって、自分の潜在能力が抑制され、うまく立ち回ることができない。
そう思っている。

その彼は「無自覚」のうちに何を望んでいるか。

彼は自分自身に、自律能力が「実際に」ないことを望んでいるのです。
その能力が誰かに邪魔されて抑制されているだけなら、いざ能力が発揮できた時に、自分の「被害者先取」戦略が崩れてしまう。
通常の思考なら、「悪い奴ら」の影響を取り除いて自分の力が発揮できるようになったと喜べるはずのところ、彼は自分の「正確な現状認識」である陰謀論(「悪い奴ら」は自分にはどうしようもないくらい権力を握っている、等)が正しくなかったことを認識することの恐れから、そう思えない。

そのような恐れを抱かせる危うさから解放されるのは、自分が本当に自律できない人間になる場合だけです。
こうなると、もう彼は自暴自棄の域に達していると言うほかありません。


自分は懸命に努力して誠実に生きているつもりだと思っている当人が、そのような自暴自棄に陥っているようなことがあるとすれば、ハイエクの言葉を借りて「それは何にもまして大きな悲劇」ではないでしょうか。

内田樹氏は『下流志向』で、教育を市場原理的価値観に委ねたことが、受験勉強に追われる中高生が「一生懸命に」怠惰になり仲間の足の引っ張り合いをする学習崩壊を招いたことについて、その理路を説いています。

繰り返しになりますが、大事なのはそれが真実かどうかではなく(仮説は真偽の問題とは別のレベルに属します)、その認識・自覚が当事者に何をもたらすか、そしてそれをツールとして僕たちに何ができるか、です。

 ここで、私はきわめて不愉快な真実を述べなければならない。その真実とは、実はわれわれは、ドイツがたどってきた全体主義に至る運命を再び繰り返すという危険に、すでにある程度陥っているのだということである。この危険は、確かにまだ差し迫ったものではない。また、この国の状況は、ここ数年ドイツで見られたものとはかなり異なっているために、われわれがドイツと同じ方向へ進んでいるとはにわかに信じがたいかもしれない。だが、ドイツのようになるにはまだ長い道程があるにしても、この道は、進めば進むほど後戻りが難しくなるのである。人間は、長い視点で見れば自らの歴史の造り主であるとしても、短い視点で見れば、自らが作り出した考えの虜となっている。それゆえ、われわれが危機を回避できるためには、まだ間に合ううちにその危険に気づく以外手立てはない

「序論」p.372


 × × ×

隷属への道

隷属への道

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2010/08/17
  • メディア: 新書

日常生活の抽象とその豊穣

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ)を読んでいます。
隔日数ページずつで、現在500ページ少しまで進んだので、たぶん半年近く読み続けています。

「ふつうの人々」にとって、最も身近な「生活世界」。

営み、送り、過ぎ去ることが当たり前過ぎて、またプラグマティックな問題への直面と解決の連続がそれそのものである「生活」に対して、僕ら「ふつうの人々」は考察を深めることはありません。

それは当面の問題を差し置いて概念を弄ぶ逃避である、生活の糧にもならない時間の無駄、手間の浪費である等々、「考えない理由」はいくらでも見つかるでしょう。

理由があるなら考える、得だと思えば考える?

「生活世界」そのものへの考察は、そのようなプラグマティックな価値観をいちど「括弧に入れる」、脇に置いたところからしか始まりません。


書評ではなくて、感想でもなくて、

日々印象的な一節やフレーズに立ち止まり、黙考し、ページを戻り、栞を挟んで本を閉じる、半年も続ければ一連の行為自体はルーティン化したと思えなくもありませんが、
「細かいところをすっ飛ばしてスムーズにことを運ぶ」のがルーティンの機能であるとすれば、それは見かけだけのことです。


唐突に話は変わりますが、消費社会は消費者を匿名であるとみなします。

商品の購入者一人ひとりに個性を認めていたら、大量生産・大量消費は成立しません。
もちろん、消費者は個人ですから、その匿名化の波を受けながらも上手にいなして、人は自分なりの消費活動を通じて生活を営みます。
ただ、そのバランスをとるのは本人の役目であって、消費活動それ単体はあくまで匿名化を推奨しています。
書店に平積みされた本をポップを見て購入して読む行為であっても。


空気が水で満たされているという幻想を、これまで何度か抱いたことがあります。
ダム建設によって水没した山間の集落、かつての町並みはその形を留めながら水中に沈んでいる。
あるいは、地球温暖化で海水位が上昇することによって、海辺の街が無人の海中の街跡となる、そんなSFマンガ(たとえば大石まさる)を読んだ影響もあります。

消費活動が、水で満たされた世界をどんどん浮き上がっていく行為だとすれば、
本書を読むことはその逆、ひとりでどんどん海深く沈んでいく行為だと思える。


その連想ですが、
「氷山の一角」
という言葉がありますね。

プラグマティックな必要性に追われる日常生活は、地上から見える氷山にあれこれ取り組む活動である。
削って彫刻をつくったり、溶けてきて危険だと思ったり。
生活に追われるだけでは、あるいは一休みと立ち止まるだけでは、氷山の全貌は未知のままで、いや「全貌が未知」であることにすら意識は及ばない。

水温は低く、視界は狭く、また孤独を催すほど静謐ではあるが、氷山のすぐそばから海に飛び込み、深く深く潜っていく。
すると、海はどこまでも深く、氷山の隠れた土台はどこまでも大きいことに直面する。
そこに、果てはないように思われる。


宇宙の果てに辿り着けないこと、その事実に壮大なスケールを感じるとしましょう。
その感性があれば、「日常生活」の果てに畏怖を抱くこともできるでしょう。

灯台もと暗し」
宇宙を夢見る人間も、海辺を照らす灯台を造る人間も、
その「もと」は暗く、
連想によって、我々は宇宙でもあり、灯台でもあると気づく。

知性は無知を拓き、無知が知性を賦活する。


深く潜ると、見えてくるものがある。
そのための肺活量は、実際に潜ってつけるしかない。
 

香辛寮の人々 2-9 Can one speak about unspeakable? (5)

 フェンネルは向かいの椅子に向かって話しかける。
 
「すべての言葉は沈黙に通ずる」
 テーブルには彼以外だれも座っていない。
「言葉というか、会話だけども。二人で延々と続けていれば、いずれお互いに言うことがなくなる」
 もちろん空間は返事をしない。
「言葉はそもそも、会話のためのものなのだから」
 しかしフェンネルは、椅子の上部の空間に何かを感じとっている。
 空間は何かで満たされている。

 
「会話は目的があって始まる場合もあるし、ふとしたきっかけで始まることもある。けれどいったんそれが始まれば、お互いが意思をもってそれを続けようとする。その意思が、最初にはなかった目的を生む」
 フェンネルは考えている。
 自分は椅子の上の空間を占拠しているが、
 同時にここには、空間の欠如がある。

「その意味で、会話は創造的行為であるといえる」
 僕がいるせいで本来あるはずの空間が、その存在を否定されている。
 あるいは、ある〝べき〟はずの空間が。

 
「これまで現実に存在しなかったものを新たに生み出す。形があるわけでなく、発したそばからすぐに消えていくものであれ、彼らを含めこれまで誰も、見たことも聞いたこともないそれが、彼らのあいだでどんどん勢いを得ていく。その勢いは、彼らの意思に関わりなく、独自の生命力をもっているようでもある」
 形の現実的存在は、空間の否定をともなう。
 では、空間の肯定は形の不在なのか?
 当然そう。対偶だ。

「しかし会話は時を経て、その勢いを少しずつ失っていく。また、唐突にこと切れる。二人の協力によって創造されたそれは、遠からず死を迎える。小さな死。ほとんどの場合彼らは、その一時的な死を喜びをもって迎える」
 ではそれは〝そこには何かがある〟ということではないのか?
 
「会話の死によって、そこに沈黙が訪れる。沈黙はまた、新たな会話の開始によって破られるかもしれない。会話と沈黙は互いが勝手に相手を生み出す、永遠機関のようなものかもしれない。けれども永遠は現実にはない。最終の会話は最終の沈黙に呑み込まれる。最後に残るのは沈黙だ」
 空間の肯定……。
「彼らは沈黙を遺した。彼らの存在を証しするものは、彼らが存在する間だけ空間を漂い、彼らが消えていくとともに、その証も霧消した。沈黙は彼らの存在の証ではない。では彼らは何も残さなかったのか?」
 あるべき状態として自分が認める何かが、そこにはある。
 そこに何もないのだとしても。

「……君はずっとそこにいた。そしていない。これからも、ずっと」
 
 フェンネルはコーヒーを淹れるために立ち上がる。