human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

日常生活の抽象とその豊穣

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ)を読んでいます。
隔日数ページずつで、現在500ページ少しまで進んだので、たぶん半年近く読み続けています。

「ふつうの人々」にとって、最も身近な「生活世界」。

営み、送り、過ぎ去ることが当たり前過ぎて、またプラグマティックな問題への直面と解決の連続がそれそのものである「生活」に対して、僕ら「ふつうの人々」は考察を深めることはありません。

それは当面の問題を差し置いて概念を弄ぶ逃避である、生活の糧にもならない時間の無駄、手間の浪費である等々、「考えない理由」はいくらでも見つかるでしょう。

理由があるなら考える、得だと思えば考える?

「生活世界」そのものへの考察は、そのようなプラグマティックな価値観をいちど「括弧に入れる」、脇に置いたところからしか始まりません。


書評ではなくて、感想でもなくて、

日々印象的な一節やフレーズに立ち止まり、黙考し、ページを戻り、栞を挟んで本を閉じる、半年も続ければ一連の行為自体はルーティン化したと思えなくもありませんが、
「細かいところをすっ飛ばしてスムーズにことを運ぶ」のがルーティンの機能であるとすれば、それは見かけだけのことです。


唐突に話は変わりますが、消費社会は消費者を匿名であるとみなします。

商品の購入者一人ひとりに個性を認めていたら、大量生産・大量消費は成立しません。
もちろん、消費者は個人ですから、その匿名化の波を受けながらも上手にいなして、人は自分なりの消費活動を通じて生活を営みます。
ただ、そのバランスをとるのは本人の役目であって、消費活動それ単体はあくまで匿名化を推奨しています。
書店に平積みされた本をポップを見て購入して読む行為であっても。


空気が水で満たされているという幻想を、これまで何度か抱いたことがあります。
ダム建設によって水没した山間の集落、かつての町並みはその形を留めながら水中に沈んでいる。
あるいは、地球温暖化で海水位が上昇することによって、海辺の街が無人の海中の街跡となる、そんなSFマンガ(たとえば大石まさる)を読んだ影響もあります。

消費活動が、水で満たされた世界をどんどん浮き上がっていく行為だとすれば、
本書を読むことはその逆、ひとりでどんどん海深く沈んでいく行為だと思える。


その連想ですが、
「氷山の一角」
という言葉がありますね。

プラグマティックな必要性に追われる日常生活は、地上から見える氷山にあれこれ取り組む活動である。
削って彫刻をつくったり、溶けてきて危険だと思ったり。
生活に追われるだけでは、あるいは一休みと立ち止まるだけでは、氷山の全貌は未知のままで、いや「全貌が未知」であることにすら意識は及ばない。

水温は低く、視界は狭く、また孤独を催すほど静謐ではあるが、氷山のすぐそばから海に飛び込み、深く深く潜っていく。
すると、海はどこまでも深く、氷山の隠れた土台はどこまでも大きいことに直面する。
そこに、果てはないように思われる。


宇宙の果てに辿り着けないこと、その事実に壮大なスケールを感じるとしましょう。
その感性があれば、「日常生活」の果てに畏怖を抱くこともできるでしょう。

灯台もと暗し」
宇宙を夢見る人間も、海辺を照らす灯台を造る人間も、
その「もと」は暗く、
連想によって、我々は宇宙でもあり、灯台でもあると気づく。

知性は無知を拓き、無知が知性を賦活する。


深く潜ると、見えてくるものがある。
そのための肺活量は、実際に潜ってつけるしかない。