human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

対話と株式会社性、誠実な近視眼と形式に対する食傷

 
党派性を超えて政治を語ること。
 
政治とは利害調整のことだが、党派が対立するのは、
こちらとあちらの利害が異なるからである。

互いに利益となる政策なら反対意見は出ないし、
互いに損害を生む事業は誰もやろうとは言わない。
一方の利益が他方の損害を招く場合、また双方の利益に多寡の差がある場合に、
意見や立場の対立が先鋭化する。

とは言え、実際よくあるのに議論に乗らないのは、
各党派が暗黙の了解とする利害の基準が、党派間で異なることである。

議論をして、論理がかみ合わず、相手を説得して理解に導くのではなく、
自説を曲げずいかに対立意見をねじ伏せるかに汲々とする、
そのような泥仕合ディベートが後を絶たないのは、
利害の基準のすり合わせをしないからである。

相手に歩み寄ることは弱腰で、つけ込まれるだけだ、と思っているからである。


議論をして、自分の意見が変わることは、悪いことではない。

誰かの意志や希望を背負った立場が、対立相手の価値観を汲み取り、
その結果として変化したとしても、それはその誰かに対する背信にはならない。

委任を受けた政治主体が果たすべきは、委任された内容を押し通すことではなく、
政治の場における議論で委任内容が変化した際に、
その変化した内実を持ち帰って委任主体に報告する、あるいは議論することだ。

(大切なことだが、株式会社はこのようなことをする必然がない)

議論や対話における意見、その姿勢の変化を否定すれば、
もはやそれは議論や対話ではなく、
なにか別の行為(ディベートゲーム)になっている。

 × × ×

常識や通念というレベルにおける価値観が、凝り固まっている。
不変であり、万人が是とする価値、画一的なそれを皆が求めている。
実際は違うのに、皆が同じものを求めているという物語を、皆が信じている。
信じている、という情報が、世間に大量に流布されている。

というより、
情報の個々の中身ではなく形式の統一性が、その物語の基盤になっている。

誰もが同じ口吻で、多様性の大切さを説くように。
誰もが同じ経路で、オーダーメイドの商品や唯一無二の経験を買うように。

形式に対する食傷感覚は、この先を生き抜くうえで重要となるかもしれない


日々の生活とは、卑近なものである。
目の前のことを遅滞なくこなすこと、この誠実さは、近視眼を免れない。

しかし、身の回りの既成事実は歴史をもつ、自分自身が歴史をもつように。
歴史とは時間であり、現在は過去の出力であると同時に未来への入力である。

科学技術や法制度、生活インフラを含む便利さは、過去の集積の賜物である。
生活の利便性が高度化するほど、その裏に潜む時間の堆積は膨大となる。

そして、日常生活が便利になればなるほど、
近視眼的生活時間と、生活を支える歴史時間の乖離が激しくなる。

その乖離は、そして必然的な乖離への無感覚は、近視眼の亢進を招く。
不安の種であるそれを直視しないことで、人は近視眼的安心を得るからである。

現代の消費社会には、このようなポジティブフィードバックが作用し続けている。


脳と身体がバランスを保つように、
崩れ続けるこのバランスも、遠からず揺り戻しが来る。

…いや、脳と身体は集団(大衆社会)のメタファーには使えない。
脳化社会における集団(ごく広い意味の党派集団)は、身体を持たない。

バランスを保つには、一人ひとりが個人であり続けるしかない。
この重要性は決して、氾濫する情報の波に乗って来ることはない。

 × × ×

 

ハイエクを読んで:被害者先取、他律主義、そして自暴自棄

 まさしく、ほとんどすべての人が望んでいるからこそ、われわれは社会主義への道を進んでいるのである。その歩みを不可避なものとするような明白な現実があるのでは決してない。「計画は不可避である」と主張されている問題に関しては、あとでぜひとも論じなければならない。とすると、最も大きな問題は、この歩みはいったいどこへわれわれを導くのか、ということである。もし固い信念をもってこの歩みに抗いがたい勢いを与えている人々が、今わずかの人々のみが理解していることを本当に知り始めた時、彼らが恐怖のあまり後ずさりし、半世紀にわたって多くの善意の人々が追求しようとしてきたことを放棄するというようなことが、ありえないと誰が言えよう。問題は、われわれ同時代人が広く信じていることがどのような結果をもたらすか、ということである以上、それは決してなんらかの党派の問題ではなく、われわれすべてにとっての問題なのであり、最も重大な意義を有するものなのだ。われわれすべてが、高い理想に向かって未来を意図的に形作っていこうと努力しているのに、その努力が、はからずも求めようとしたこととまったく逆のことを生み出すことになるとしたら、それは何にもまして大きな悲劇ではないだろうか。

「序論」p.376
F.A.ハイエク『隷属への道』西山千明訳、春秋社、1994
(原著の出版は1944年)

ハイエクの『隷属への道』を読了しました。
読み始めたのはこれも数ヶ月以上前で、そのきっかけを忘れてしまいましたが、読んでいる期間中に、他の様々な本や新聞記事でハイエクの名を目にしました。

本書は世界中の人々に影響を与えた「古典的名著」とされています。

第二次世界大戦の後半、本書が実際に書かれたのは1943年ですが、イギリスに住むハイエクは、イギリスが敵国であるドイツ帝国の価値観と似通ってきていることに危機感を抱いたのが執筆動機だといいます。
かつて出身地のオーストリアに住んでいたハイエクはドイツの政治文化に詳しくなり、ドイツが社会主義に傾倒していく様を現地で肌に感じた経験から、のちイギリスに拠点を移した時に、同じ社会主義的価値観の台頭が20年遅れでイギリスにも訪れていることに敏感にならずにはいられなかった。
この異国の地におけるデジャブ体験が、ハイエクの明敏な知性の起爆剤となり、もとは専門が経済学だったハイエクが、「政治的提言の書」と自認する本書に取り組むことになりました。


本書の内容には触れません。
現代の日本人にも読む価値がある、とだけ書いておきます。

今の日本が民主主義の危機だとか、独裁国家に近づいているとか、言われています。
そのことにイエスと言う人も、ノーと言う人もいて、それぞれに論拠を持っている。
どちらであれ、重要なのは、その認識によって僕らが何を得るか、でしょう。

日本政治の現状分析の中には、
当然「日本がどこへ行こうとしているか」という視点も含まれる。
進路に危機があるのなら、
いわば羊の集団が崖へ突っ走っている状況なら、方向転換しないとまずい。
そう言われればそうかと思い、
しかし現状に自覚を持った羊が、それでも歩みを止めないこともある。
危機意識が行動に結びつかないのなら、
危機感を煽る言論は、内容がどれほど切実であれ効果がない。

その場合、問いの次数を繰り上げる必要があります。

 僕らにとって「危険」とはなにか、
 それがもたらすものを僕らはどう思っているのか。
 僕らは本当は何を望んでいるのか、
 僕らを駆動する主観的合理性は僕らをどこへ連れて行くのか。

 × × ×

そう、最初は主観的合理性の話を書こうと思っていたのでした。

タイトルの「被害者先取」について、
こういう用語があるか知りませんが、内田樹氏が著書で使っています。

かつて「訴訟大国アメリカ」という言い方がされていましたが、今では日本も含め先進国みながそうなっているのでしょう(今日の新聞に、ロール式網戸を調節する紐に首が絡まって死亡した幼児の親がメーカーとリノベーション施工会社を提訴したという記事がありました)。

各種クレーマー、モンスターペアレントはじめ、近年用語登録されたこれらの人種はすべて、自分が被害者であることを主張し、相手に受認させることで自己利益を引き出します。

PC(ポリティカリーコレクト)運動も同じ流れにあり、これは(それが全てではないと思いますが)社会的影響力を持つ個人の主張の一部を取り出して文脈を無視して曲解し、精神的苦痛や名誉毀損などを受けた被害者を創造してその個人を攻撃する手法として利用されています。

内田樹氏は『街場のメディア論』で、メディアが扱う様々な事件に「組織 対 個人」の構図がある場合にはケースバイケースの正当性がどちらにあるかを突き詰めずに個人に味方をする報道を続けてきたことで、この「被害者先取」の価値観が世間に膾炙したと論じています。


話はハイエクの本にいったん戻りますが、
『隷属への道』を読了した(つい数時間前ですが)時にまず思ったのが、「ハイエクは知性を信頼している」ということで、それは本記事の上部でも書いたとおり、大戦中の英国人が自分では意識せずにどのように危険な価値観に染まりつつあるかを論じ、彼らに自覚を促し、かつて世界中の模範となった(らしい)19世紀大英帝国の思想の復権を願っていたからです。

自分が望んでいることが起き、事が進んだあとにもたらされた事態が、自分が望んだものであるとは限らない。
それは、本来的に限界のある人間の将来に対する読みの甘さもあり、それ以前に「自分の望み」が端的に間違っている、現状をあまり把握できていないが周りがそういうからというのでそれに合わせて自分も同じことを望んでいるのだと思い込ませている、こともある。
これらのいずれに対しても、本人の知性が正常であれば、現状の理解と正確な「自分の望み」の自覚を促すことで、危機に突き進む現状を改善できる。
そう考えて、人々に自覚のツールを提供しようという意志のことを僕は「知性への信頼」と呼んでいます。


それで、次に「主観的合理性」のことですが、
個人においては誰であっても、その行動や思考には合理性が伴っています。

これは意識するにしろしないにしろそうであって、言い方を変えれば、自分のあらゆる行動や思考について、事後的に何らかの説明がつく
そしてこのことをまた見方を変えて捉えれば、人は、客観的に間違っていたり効果がなかったり不利益でしかないようなことに対しても、正しいとか価値があると考えることができる
主観的合理性は、個人の数と同じだけ多様に存在する「個人が考える正義」と同じ効果をその人にもたらす。

だから、主観的合理性は、他人の思考を取り入れたり知らなかった事実や知識を知ることで、その「理のシステム」を変容させていきます

内田樹氏のブログや著書で展開されている評論の、読み手へのメッセージという意味での立場は一貫していて、それは評論で取り上げている人物(や組織)の主観的合理性を分析するというものです。
その人物が反社会的な言論を振りまいていたり、国民を舐めてかかる政治家であったとしても、その反社会性や不誠実を指摘するだけではなく、なぜ彼らはそう振る舞うのか、それが彼らにどのような利益(満足)をもたらすのか、あるいは彼らがどのような価値観(やトラウマ)に縛られているのか等々、そういった彼ら自身の主観的な視点や思考に対する考察を欠かさず加えます(むしろこちらが本論ですらある)。

そして、この主観的合理性の分析もまた、知性への信頼を示す一つのアウトプットです。

語るに落ちるというのか、聞くに値しないことは実際たくさんありますが、誰が聞いても無価値だと思える言葉を(たとえばネット上で)垂れ流し続ける人がいるとして、彼自身が自分の言葉を無価値だと思っているとは限らないし、もしそう思っていたとしても、その言葉を発信する何らかの価値を彼が信じている可能性だってある。
そう考えると、最近河合隼雄氏の本をいくつか読んだせいか、この姿勢は精神分析家のものでもあると気付きます。

論理には客観性がある、言葉には(いちおう)辞書的な意味がある、法律にせよ常識にせよ明示的あるいは暗黙の社会的なルールがある、人はそれらを他人と共有し、共通の価値を認めることで社会性を備え、共同体を維持することができる。
ただ、個人が発する言葉はその個人が生まれ育ち過ごした環境で獲得してきたものであり、言葉の奥にあるニュアンスやイメージはそれこそ千差万別であり、その差が意思疎通に不都合をもたらすと同時に、その差こそが個人の個性の証でもある。
他人と「同じ」である、「同じ」を目指すことは、社会性の獲得であると同時に、個性の毀損でもある。

社会性と個性は二律背反的な関係で(社会と個人というのがまずそうです)、どちらか一方だけというわけにはいかず、互いにバランスを取る、いや常に揺れ動く両者の重みのバランスを取り続けていくしかない。
主観的合理性の分析とは、社会性を前提としながらもこのバランスに配慮しています。

ここで比べるのもなんですが、対してポリティカリーコレクトという思想は(時に)個性への攻撃となります。
political(政治的)と言っているのだからPCは公共的な場を前提しており、言論の社会性を問うているのだから当然だと思われるかもしれませんが、それは言葉の定義だけのことで、PCが個人的な領域に踏み込むことが多々あるということです(ネット言論というのがそもそも個人と社会の境界を曖昧にしています)。

 × × ×

さて、まだ最初に書こうと思ったことにたどり着いていません。

本を読了した時に、書評ではなくとも何か書きたくなることがよくあります。
ハイエクの本を読み終えた時にも、そのような意識が生まれました。

それで、本書の最後にあった「序論」の内容が余韻として残っていて、
「主観的合理性」「知性への信頼」とともに、タイトルのキーワードが思い浮かびました。
これらを繋げるのが本記事の本論なのですが、体力が残っているかどうか……

 × × ×

「被害者先取」の話は先に書きました。
僕が興味を持ったのは、功利的戦略として有効だと思われているこの価値観がなにをもたらすか、具体的には、他のどのような価値観に結びつくか、です。
 
「悲観的な未来予測を繰り返す人間は、次第にその実現を望むようになる」

これは、実際に訪れて欲しくない未来ではあれ、その未来が現に到来すれば、自分の予測が正しかった、自分には先見の明があったからだということになるからです。
だから「悲観的な未来予測」という行為は、一種のアンビバレントを引き起こします。

アンビバレントという言葉はたしかグレゴリー・ベイトソンが、二律背反的な命令を親から受けた子供が陥る精神的錯乱について命名したものです(これは完全に受け売り)。
たとえば、おもちゃを投げる、手を叩く、といった行為に対して、ある時は褒められ、また別の時には叱られ、叩かれすらする。
その時の文脈を考える能力も、親が気分によって言動を激しく変えるという認識も持たない子供は、自分の行為がもたらす帰結を予想できず、正常な思考能力の発達が阻害される。
……ちゃうな、これはダブルバインド理論ですね。

まあ、単に用語の問題なので、さておきます。
 
言いたかったのは、短期的な意図や願望が、その継続によって引き寄せる長期的影響と一致するとは限らない(全く逆へ向かうこともある)、ということです。
『隷属の道』を読了して一息ついた時にふと、「被害者先取」という価値観にそのような匂いを一瞬、嗅ぎ取ったのでした(たぶん)。


事件や事故がおこらずとも、日常生活における何らかの不都合に対して、自分が被害者だという立場でいれば、彼自身は安心できる。
なんとなれば、その不都合の原因が彼自身にはないと思えるから。
自分の努力が足りない、不注意や怠慢がその不都合を引き起こしたのではない、それは普段から誠実かつ謙虚に生きている自分に外部から降りかかってきた厄災である。

そのような思考法を、彼の身の回りに起こる不都合のすべてに適用していくようになると、どうなるか。
自分の意思で何か事を起こした時に、それがよいことであれば自分の功績とし、それが悪いことに結びつけば人のせいにする。
自分の行動とそれがもたらす波及的結果との関係を、実際的な因果関係によってではなく、結果の良し悪しに応じて恣意的に取り結ぶようになる。
(知らない人の多い喩えですけど、『ACCA13区監察課』のシュヴァーン王子はこういう人間ですね)

…というのはさすがに非現実的ですね。
よほどの状況がないと人はそう盲目的になれるものではない。
というわけでもう少し現実的なパターンを考えます。
 
「被害者先取」という言い方はある矛盾を抱えています。

被害・加害の関係は、事件なり事故なりが起こらずには生じ得ません。
複数の個人の間で何らかの不都合が発生した際に、その不都合の因果関係をとらえて、初めて被害者と加害者が取り沙汰される。
どういうことか。

「被害者先取」戦略を我が物と心得る人間は、事件の発生を「待ち構える」姿勢に釘付けられる(武道用語では「居着く」)、ということです。
つまり、彼は自分から行動を起こさない、あるいは自分の行動を「自分が主体的に行ったものではない」と自認して憚らない。

この状態を、本来の意味とは違った使い方だとは思いますが、ここでは「他律主義」と呼んでおきます。
自分の(不都合な)現状は自分が作り出したものではない、周りのいろんなことに巻き込まれた結果である。
だから自分のせいではない、その責を自分が負う必要はない。
自分が抱く不満や不快を全て外部要因に帰する思考は、その本人に無自覚なことに、自分で自らの状況を律する能力がないことを証立てている。
ここにおいて「無自覚」がポイントです。

自分で自分を律する能力を発揮しない「他律主義」者。
彼は、単に能力を使わないのではない。
自分はその能力を持っているが、自分には手の届かない何らかの外からの力によって、その能力を封じられている。
誰かしらん「悪い奴ら」によって、自分の潜在能力が抑制され、うまく立ち回ることができない。
そう思っている。

その彼は「無自覚」のうちに何を望んでいるか。

彼は自分自身に、自律能力が「実際に」ないことを望んでいるのです。
その能力が誰かに邪魔されて抑制されているだけなら、いざ能力が発揮できた時に、自分の「被害者先取」戦略が崩れてしまう。
通常の思考なら、「悪い奴ら」の影響を取り除いて自分の力が発揮できるようになったと喜べるはずのところ、彼は自分の「正確な現状認識」である陰謀論(「悪い奴ら」は自分にはどうしようもないくらい権力を握っている、等)が正しくなかったことを認識することの恐れから、そう思えない。

そのような恐れを抱かせる危うさから解放されるのは、自分が本当に自律できない人間になる場合だけです。
こうなると、もう彼は自暴自棄の域に達していると言うほかありません。


自分は懸命に努力して誠実に生きているつもりだと思っている当人が、そのような自暴自棄に陥っているようなことがあるとすれば、ハイエクの言葉を借りて「それは何にもまして大きな悲劇」ではないでしょうか。

内田樹氏は『下流志向』で、教育を市場原理的価値観に委ねたことが、受験勉強に追われる中高生が「一生懸命に」怠惰になり仲間の足の引っ張り合いをする学習崩壊を招いたことについて、その理路を説いています。

繰り返しになりますが、大事なのはそれが真実かどうかではなく(仮説は真偽の問題とは別のレベルに属します)、その認識・自覚が当事者に何をもたらすか、そしてそれをツールとして僕たちに何ができるか、です。

 ここで、私はきわめて不愉快な真実を述べなければならない。その真実とは、実はわれわれは、ドイツがたどってきた全体主義に至る運命を再び繰り返すという危険に、すでにある程度陥っているのだということである。この危険は、確かにまだ差し迫ったものではない。また、この国の状況は、ここ数年ドイツで見られたものとはかなり異なっているために、われわれがドイツと同じ方向へ進んでいるとはにわかに信じがたいかもしれない。だが、ドイツのようになるにはまだ長い道程があるにしても、この道は、進めば進むほど後戻りが難しくなるのである。人間は、長い視点で見れば自らの歴史の造り主であるとしても、短い視点で見れば、自らが作り出した考えの虜となっている。それゆえ、われわれが危機を回避できるためには、まだ間に合ううちにその危険に気づく以外手立てはない

「序論」p.372


 × × ×

隷属への道

隷属への道

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2010/08/17
  • メディア: 新書

日常生活の抽象とその豊穣

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ)を読んでいます。
隔日数ページずつで、現在500ページ少しまで進んだので、たぶん半年近く読み続けています。

「ふつうの人々」にとって、最も身近な「生活世界」。

営み、送り、過ぎ去ることが当たり前過ぎて、またプラグマティックな問題への直面と解決の連続がそれそのものである「生活」に対して、僕ら「ふつうの人々」は考察を深めることはありません。

それは当面の問題を差し置いて概念を弄ぶ逃避である、生活の糧にもならない時間の無駄、手間の浪費である等々、「考えない理由」はいくらでも見つかるでしょう。

理由があるなら考える、得だと思えば考える?

「生活世界」そのものへの考察は、そのようなプラグマティックな価値観をいちど「括弧に入れる」、脇に置いたところからしか始まりません。


書評ではなくて、感想でもなくて、

日々印象的な一節やフレーズに立ち止まり、黙考し、ページを戻り、栞を挟んで本を閉じる、半年も続ければ一連の行為自体はルーティン化したと思えなくもありませんが、
「細かいところをすっ飛ばしてスムーズにことを運ぶ」のがルーティンの機能であるとすれば、それは見かけだけのことです。


唐突に話は変わりますが、消費社会は消費者を匿名であるとみなします。

商品の購入者一人ひとりに個性を認めていたら、大量生産・大量消費は成立しません。
もちろん、消費者は個人ですから、その匿名化の波を受けながらも上手にいなして、人は自分なりの消費活動を通じて生活を営みます。
ただ、そのバランスをとるのは本人の役目であって、消費活動それ単体はあくまで匿名化を推奨しています。
書店に平積みされた本をポップを見て購入して読む行為であっても。


空気が水で満たされているという幻想を、これまで何度か抱いたことがあります。
ダム建設によって水没した山間の集落、かつての町並みはその形を留めながら水中に沈んでいる。
あるいは、地球温暖化で海水位が上昇することによって、海辺の街が無人の海中の街跡となる、そんなSFマンガ(たとえば大石まさる)を読んだ影響もあります。

消費活動が、水で満たされた世界をどんどん浮き上がっていく行為だとすれば、
本書を読むことはその逆、ひとりでどんどん海深く沈んでいく行為だと思える。


その連想ですが、
「氷山の一角」
という言葉がありますね。

プラグマティックな必要性に追われる日常生活は、地上から見える氷山にあれこれ取り組む活動である。
削って彫刻をつくったり、溶けてきて危険だと思ったり。
生活に追われるだけでは、あるいは一休みと立ち止まるだけでは、氷山の全貌は未知のままで、いや「全貌が未知」であることにすら意識は及ばない。

水温は低く、視界は狭く、また孤独を催すほど静謐ではあるが、氷山のすぐそばから海に飛び込み、深く深く潜っていく。
すると、海はどこまでも深く、氷山の隠れた土台はどこまでも大きいことに直面する。
そこに、果てはないように思われる。


宇宙の果てに辿り着けないこと、その事実に壮大なスケールを感じるとしましょう。
その感性があれば、「日常生活」の果てに畏怖を抱くこともできるでしょう。

灯台もと暗し」
宇宙を夢見る人間も、海辺を照らす灯台を造る人間も、
その「もと」は暗く、
連想によって、我々は宇宙でもあり、灯台でもあると気づく。

知性は無知を拓き、無知が知性を賦活する。


深く潜ると、見えてくるものがある。
そのための肺活量は、実際に潜ってつけるしかない。
 

香辛寮の人々 2-9 Can one speak about unspeakable? (5)

 フェンネルは向かいの椅子に向かって話しかける。
 
「すべての言葉は沈黙に通ずる」
 テーブルには彼以外だれも座っていない。
「言葉というか、会話だけども。二人で延々と続けていれば、いずれお互いに言うことがなくなる」
 もちろん空間は返事をしない。
「言葉はそもそも、会話のためのものなのだから」
 しかしフェンネルは、椅子の上部の空間に何かを感じとっている。
 空間は何かで満たされている。

 
「会話は目的があって始まる場合もあるし、ふとしたきっかけで始まることもある。けれどいったんそれが始まれば、お互いが意思をもってそれを続けようとする。その意思が、最初にはなかった目的を生む」
 フェンネルは考えている。
 自分は椅子の上の空間を占拠しているが、
 同時にここには、空間の欠如がある。

「その意味で、会話は創造的行為であるといえる」
 僕がいるせいで本来あるはずの空間が、その存在を否定されている。
 あるいは、ある〝べき〟はずの空間が。

 
「これまで現実に存在しなかったものを新たに生み出す。形があるわけでなく、発したそばからすぐに消えていくものであれ、彼らを含めこれまで誰も、見たことも聞いたこともないそれが、彼らのあいだでどんどん勢いを得ていく。その勢いは、彼らの意思に関わりなく、独自の生命力をもっているようでもある」
 形の現実的存在は、空間の否定をともなう。
 では、空間の肯定は形の不在なのか?
 当然そう。対偶だ。

「しかし会話は時を経て、その勢いを少しずつ失っていく。また、唐突にこと切れる。二人の協力によって創造されたそれは、遠からず死を迎える。小さな死。ほとんどの場合彼らは、その一時的な死を喜びをもって迎える」
 ではそれは〝そこには何かがある〟ということではないのか?
 
「会話の死によって、そこに沈黙が訪れる。沈黙はまた、新たな会話の開始によって破られるかもしれない。会話と沈黙は互いが勝手に相手を生み出す、永遠機関のようなものかもしれない。けれども永遠は現実にはない。最終の会話は最終の沈黙に呑み込まれる。最後に残るのは沈黙だ」
 空間の肯定……。
「彼らは沈黙を遺した。彼らの存在を証しするものは、彼らが存在する間だけ空間を漂い、彼らが消えていくとともに、その証も霧消した。沈黙は彼らの存在の証ではない。では彼らは何も残さなかったのか?」
 あるべき状態として自分が認める何かが、そこにはある。
 そこに何もないのだとしても。

「……君はずっとそこにいた。そしていない。これからも、ずっと」
 
 フェンネルはコーヒーを淹れるために立ち上がる。
 

小川洋子とイチローと「善意解釈の原理」

 自由市場におけるある種のウソは、人々に犯人をまるで透明人間のように扱わせる。問題はウソそのものにあるわけではない。システムに最低限の信頼が必要なのだ。古代の環境では、ウソの中傷を広めた者は生き残れなかった。
 善意解釈の原理は、相手の発言をあたかも自分の発した言葉であるかのように理解すべきだと説く(訳注2)。善意解釈の原理や、この原理に背くことへの嫌悪感は、リンディ対応だ。たとえば、旧約聖書イザヤ書」29章21節に、「彼らは言葉によって人を罪に定め、町の門でいさめる者をわなにおとしいれ、むなしい言葉をかまえて正しい者をしりぞける」とある。いつの世も、悪者は人を罠にかけるのだ。ウソの中傷は、バビロニアではすでに重罪だった。ウソの告発をした者は、まるで本人がその罪を犯したかのように罰せられた。

訳注2│善意解釈の原理は、思いやりの原理、寛容の原理などともいう。議論をする際、相手の発言をできるだけ筋の通った方法で解釈するべきであるという哲学や修辞学の原理

「第12章│事実は正しいが、ニュースはフェイク」p.316-317
ナシーム・ニコラス・タレブ『身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質』ダイヤモンド社,2019


「リンディ対応」とは本書の造語で、歴史という長い時間を耐えて生き残った思想や方法に対してそう呼んでいます。

タレブのこの本は非常に面白くて、日常的に積ん読が多いのでさくっと読了しようと読み始めたのですが、身に染みる分析、警句、逸話がとても多くて、一息で読み終えるのは勿体ないと思い(まあ実際はスタミナの問題ですが)、集中的に読みつつも一日数章ずつ進めています。
 
一時は10冊以上になっていた併読書を最近いちど整理して、併読といいながら手に取る頻度の低い本を本棚に収納したのですが、そうするとサイドテーブルに積み残された併読書の中にまた手に取る頻度の低い本が出てきて、「アリの巣における働きアリ比一定の法則」のようでもありますが、そのように"働きアリだったのに怠けアリになった"一冊である小川洋子氏の短編集を今日久しぶりに続きを読み始めた時に、ふとタレブの「善意解釈の原理」を思い出しました。
 
なぜだろう…と考えるに、小川洋子氏の小説では、心を込められた登場人物(つまり通りすがりでない)はみな「善意解釈の原理」に基づいて生活しているからではないか、とまず思いつきました。
タレブの本の中の説明では「善意解釈の原理」は議論における発言という枠がありますが、もっと広くとらえて相手の行動や態度、つまり他者の自分に対するコミュニケーション要素のすべてを想定対象に含めるとします。

ただ、一般的に小説の内容には不可欠とさえいえる心理描写には、主人公(描写主体)が誰か他人の発言や行動について想像することも当然含まれていて、また推理小説はそういった想像に筋が通ってこそ物語が成立するものでもあり、別に小川洋子氏の小説に特有でもないような…とも考えられる。

それでたとえば森博嗣氏が講談社タイガで発行を続けている(いつの間にか10冊超えてますね)Wシリーズを思い浮かべ、いつも傍にいて一緒に騒動に巻き込まれる秘書氏や自分の命を狙う組織も含めて他者の主観的合理性を問い続けるその根底には「知性への信頼」があるという主人公の元大学教授ハギリ氏などもやはり「善意解釈の原理」にしたがって行動しているのではないか。

と、こうして具体例を出すと違いがはっきりしてくるのが面白いのですが、今読んでいる小川洋子氏の短編集(じゃないな、日記帳の長編小説ですね)は『原稿零枚日記』で、つまりその主人公小説家女史(作中に名前出てたかな…仮にオガワ氏としておきましょう)とハギリ氏の「善意解釈の原理」運用における違いを考えてみるということです。


ぱっと思いつくのは、「見限り」の有無です。
 
ハギリ氏は想定する相手の思考力をまず高めに(自分以上に)見積もります。
Wシリーズには人格を備えたスーパーコンピュータが何人(何体?)も出てきて、ハギリ氏は彼らと「友人」になったりもするのですが、計算能力からすれば人知を遥かに超える彼らの合理性を分析するなら「高め」を見積もらざるを得ません。
けれど、自分には思いつかないようなことを相手は考えるはずだ、という想定と同時に、人工知能だからこそ思いつけない人間的な発想もある、という冷静な分析もする。

つまり、他者の主観的合理性を問う際に、「他者自身の主観の質」の分析を忘れないということです。

その分析からは、ハギリ氏自身の主観性は(もちろんゼロにはできないので)可能な限り除去される、またはその主観性を対象化して分析に繰り込まれる。
事件や状況の推移を慎重に見定め、事件関係者(自分を含む)のそれぞれの合理性を計算するなかで、状況を構成する一部の領域に偶然や非合理を想定すれば全体の筋が通るという結論が導ければ、ある相手の知性を「見限る」。
それは言い方を変えれば、完全な知性は存在しないという認識でもあります。
 

一方のオガワ氏は、日々の生活において、一人でいる時は小説的妄想を自由に膨らませる心の余裕があるが、他人に相対したり、他人と行動を共にする時はいつもオロオロしている。
喋るのは相手ばかりで自分はひたすら口をつぐみ、また必然といっていいほど行動の機先を相手にとられ、その行く末を、飼育されたウサギのようにじっと身を縮めて心細げに見守る。
それでも頭の中はやはり作家的想像に溢れており、他人を前にしての自分の発言や行動が皆無であることと釣り合うかのようである。

もちろんオガワ氏は問われれば答える、会話が始まれば継続の意思を応答によって伝えるが、機先を制される完璧な実例のように、主導権は相手が掌握し、話の展開をハンドリングする主体性は皆無である。
また一人で行動する時はあらかじめの入念な準備を怠りなく、可能な限りの場面想定をリストアップし、いざ実行となれば人目につかぬよう細心の注意を払うが、何かの偶然で誰かと相対すれば体は硬直、顔は赤面、口に出さずとも平身低頭の平謝り的文句が脳内をドーパミンのごとく駆け巡る。

……話を戻しますが、そんなオガワ氏の頭の中における他者は、等身大の域を出ていない。
一緒にいる相手についてのいろいろな想定をするが、それらは相手自身の意図に関係がなく(関係付けようというオガワ氏の意思がなく)、時には当たるが大体は見当はずれで、想定外の相手の反応にオガワ氏は面食らい、またオロオロする。

「等身大の域を出ない」
「関連付ける意思がない」
と言ったのは道理で、言ってしまえばオガワ氏は小説執筆以外のあらゆる生活場面において小説家だからです。

「相手の言葉をあたかも自分の発した言葉であるかのように理解する」、そしてその「自分」はひたすら等身大の自分である。
タレブ氏の引用箇所の記述からすれば、オガワ氏は忠実なる「善意解釈の原理」の実行者といえます。

そこには、相手の知性の不調(つまり「バカ想定」)や不注意、慢心といった「見限り」がない。


ここまで書いてみて、二人の違いとして最初に挙げた「見限り」よりも適切なキーワードがあると気づきました。
そのキーワードとはたぶん「等身大」、身の丈ということです。
そしてそれは、僕が小川洋子氏の小説を読んで心が柔らかくなる理由でもあります。


話は変わりますが、
ディベートという文化、また言論の守護神(なんて言い方あるか知りませんが)としての…大仰ですね、もっと狭めて、政治家の失言を取り締まる現今のジャーナリズム、これらは「善意解釈の原理」とは真逆の思想を持っています。

なんとかの穴をつつくように、論理のアラを探し、また長い発言の一部を切り取ったり他と都合よくつなぎ合わせて発言者の意図と似ても似つかない「趣旨」を生み出す。
ツイッターの炎上案件も同じ思想ですが、こちらはシステムとして、その思想を貫くには好都合にできています(正確な論理を展開するには一文が短いこと、切り貼りしやすいハイパーリンク構造など)。
 
今思いつく限りは、ということですが、
マスコミの被害者先取姿勢が個人主義的価値観として定着したことと、ツイッターSNSなどネットコミュニケーションツールの普及によって、「善意解釈の原理」は損である、相手に無防備を晒すようなものだ、といったマイナスの価値観で捉えられるようになったと思います。
けれどこの原理は、タレブ氏が「リンディ対応」だと言っている通り、人類の長い歴史の風雪に耐えて引き継がれてきたものです。
この原理に従うことが人間的なふるまいである、という直感を持つ人にとって、その歴史は後ろ盾となります。
 
 × × ×
 
前半を書き過ぎてイチローの話を続ける余力がほとんどありませんが、頑張ります。

イチロー 野球っていうのは、一点を守って、一点を取りにいくスポーツです。
 打っても点が取れるとは限らない。いつもいいプレイで点を防げるとは限らない。そう考えると、アタマの中で、いろんな可能性を巡らせるんですよね。
 起こり得るプレイではないかもしれないことまで、考えるんですよ……。
(…)
 ぼくがやってみたいプレイは……ランナーが二塁にいます。ライト前に飛んできました[イチローはもちろんライト守備]。ホームはもう間に合わないし、投げてもアウトにできない。(…)返球のときに、ボールの角度が高いと、[ヒットを打った走者は]ホームまでダイレクトに投げたと思うわけですよね。そうすると、一塁にいる走者は二塁に行こうとするわけです。そこでもし、上空にカーブを投げていたら、途中で落ちてくるんです。そうすると、二塁でアウトにできるわけで……。
糸井 (笑)おもしろい。(…)遠投のカーブですね?
イチロー そうです。カーブですから、コントロールもそんなにむずかしくはない。十分にできるプレイだと思うんです。

「六回裏 変わらないのはおかしい」p.103-105
「キャッチボール」製作委員会『イチロー糸井重里が聞く』朝日文庫,2019

 
引用書はイチローファンの前で糸井重里がインタビュー形式でした対談を収録したものです。
この本もちょうど併読中なのですが、上述の「善意解釈の原理」と小川洋子氏の小説がリンクした時に、なぜかこの一節が連想されました。
もうあまり論理を展開する元気がないのでざっくり書きますが、

小川洋子氏(いや、どちらかといえばオガワ氏)とイチローは同じだ、と思った
 
インタビューの中でイチローは、アメリカ人(大リーガー)は野球のこととなるとすごく考えるしプライドに拘らず貪欲なんだ、と言っていますが、イチロー氏は抜粋のように、起こり得ないプレイも含めて数限りない想定を頭に展開させてグラウンドに立つわけですが、一緒にプレイするチームメイトや相手プレーヤも自分と同じくらい考えているとも思い、だからこそ自分自身の無数の想定が無意味ではないと思っている。

イチロー氏の中では他のプレーヤも、
自分自身も、
プレイに関して妥協しない、
「見限り」がない。


だから、といえばかなり飛躍ですが、
イチロー氏のプレイを見て元気をもらえる、生命力を賦活されるという人ならきっと、
上に書いた、「善意解釈の原理」に従うことが人間的なふるまいであることについて、
同意してもらえるのではないか、と思います。
 
 × × ×

原稿零枚日記 (集英社文庫)

原稿零枚日記 (集英社文庫)

<AR-F05> たとえばそれは杉田水脈氏を「生む機械」

 
 人が他人のために生きるのは、彼への関心がそこに伴うから。
 どんな無意味な作業にも意味が見いだせるのも、そのためだ。
 けれど、社会共生システムの高度化が「無関心」に仕事を割り当てると話は変わる。
 無関心の強制が、人に意味の境界を既成とみなし、無意味を無下に切り捨てさせる。
 

 ロークが会った建築家たちは、それぞれに違っていた。机をはさんで、親切そうにぼんやりとロークを見つめる建築家もいた。実に心打たれるものだ、建築家になろうとするロークの野心は心を打つし、あっぱれではあるが、若者の妄想として魅力的ながら悲しいものだと、言わんばかりの態度である。中には、口角を上げて薄笑いしながらロークに対し、彼がいるのを楽しんでいるかのような建築家もいた。なぜならば、職を求める若者を前にふんぞりかえっていることは、彼らが達成した地位を、彼らに大いに喜ばしく意識させたからである。(…)
 それは悪意ではなかった。それはロークの長所に対して下された判断でもなかった。ロークに価値がないと、彼らが考えていたわけでもなかった。ロークがいいかどうかなど、彼らには単にどうでもよかったのだ。時々、ロークは彼が描いた図面を見せるように言われることもあった。自分の手の筋肉に羞恥心から来る収縮を感じながら、彼は自分の図面を机の上に広げた。それは、衣服を剥ぎ取られるようなものだった。肉体がさらされるから恥ずかしいのではない。無関心な目にさらされるから恥ずかしいのだ。

アイン・ランド Ayn Rand『水源 The Fountainhead』藤森かよこ訳、ビジネス社、2004 p.126

20日目:青龍寺の先達と「なずな」のおかみさん 2017.3.20

<20日目> (36)青龍寺 → 宿(なずな) 16.6km

(1)マメができた
(36)に着いた時に左足の親指内側の鼻緒とこすれるところにマメができていることに気付く。
パッと見で澪えないので出現過程を見落としたか。
鼻緒がきつく指を使えていなかったのでこすれてできた。
2足目がきた時にワッシャでカスタマイズしていればよかったがもう遅い。
3足目はそうするとして、今はこの状態ではきやすいように工夫するしかない。
→宿で手で[鼻緒を]のばした。

要するに、靴擦れですね。
 

青龍寺で先達っぽいおじいさんにマメのケア法を教えてもらう。
痛かったら針でつぶして皮は残してぬり薬をぬっておけばよいと。
靴で誰もが経験していること。
ここからが一つの正念場。

このおじいさんと会った時の情景は覚えています。

青龍寺の参道の途中で、階段を上る手前にちょっとした茶店とベンチがある砂利のところ。
そのベンチに座ってゲタからサンダルに履き替えようという時にマメを発見して、顰め面をしていたところに、そのおじいさんが声をかけてくれたのでした。

マメの痛みは全く覚えていませんが、当時は苦心惨憺だったのでしょう。
 

(2)ゲタの歯の減り
一足目より早い気がする。
鼻緒のせいかも。
3足目は最初からワッシャを使おう。

でも鼻緒にワッシャを噛ませると切れやすいというジレンマ。
たしか使わなかったんじゃなかったかな…いずれわかることですが。
 

(3)宿にて
同宿は1人で、今回別格のみという4回目のおばあさん。
食道切除して食が細い。
夕食はおかずの量がすごくて、いつものようにご飯4杯食べたうえおばあさんから天ぷらを丸ごともらって大変なことに
食後何もできず動けず、ハこうと思ったが遅く、お湯を飲んでじっとするのみ。
というか寝るしかなかった。
寝たらなんとか腹はおさまったが…(今は朝)、体の回復力に感服。

所感:
「体良ければすべて良し」
食べ過ぎは身に染みたが立ち直ってみると何もなかったかのよう。
今日もただ歩こう。

この日に泊まった宿は、道中で「ごはんがおいしい」という評判を聞いていて楽しみにしていました。

たしか、天ぷらに刺身に、おかずもたくさんあって、いつもはおかずの少なさに(一緒に口に入れる白飯をたくさん食べるために)どうちまちまと食べるかを悩んでいたのが、この日は豪快に食べまくりました。
それが、その多いおかずのいちばん油っぽい天ぷらを丸ごと同宿のおばあさんから譲り受けて、厚意をムダにできず、膳の食べ残しも性分が許さず、胃拡張だからと無理やり食べて、食後部屋に戻った時は本当に、一歩も動けずろくに体勢も変えられない状況に陥りました。
旅テンションというのは恐ろしいものですね。
 
「なずな」のおかみさんは思想のしっかりした人で、宿の人に説教されたのはこの日が初めてでした。
というのも、お風呂の時間を聞かれた時に「2回入れますか?」と質問したら、「遍路さんがそんな贅沢したらいかん!」と猛烈に怒られたのでした。
修行の身とはいえお客様気分でいたのは確かで、唐突な怒りにはかなり驚きましたが、言われてみればそうだなあと少し反省しました。

お寺の宿坊やホテルでは、大浴場を使える時間が決まっていて、その時間内であれば何度入っても何の問題もありません。
けれど、個人経営の遍路宿(規模はいろいろで、個人宅の建屋を改装したところもある)では、お風呂は浴場ではなくふつうのお風呂で、夕方から夜中までいつでもOKというわけにはいかない。
結局は経営者の手間の問題だろう、という反抗心もちらりと浮かびはしましたが、「遍路行は何事も縁である」という道理に従えば、悪態をつくよりはしんみりと反省して、それでいてお風呂入り放題の宿に出会えれば(「温泉」が売りの宿坊もけっこうあるのです)シンプルに喜ぶ、のがいいのでしょう。

じっさい、歩き遍路の二大幸福は食事とお風呂なのだから、幸福を味わうべき場面でそれを味わえないのは不幸というものです。
そして、その幸福も縁、その不幸も縁、と。
 
食べ過ぎについては…
なんでしょうね、なにかこう、極端な要素が影響しているような気がしますが、
いずれ考えるとしましょう。
 

19日目:長閑で平凡な日 2017.3.19

<19日目> (33)雪蹊寺〜(35)清瀧寺(BI[ビジネスイン]とさ) 22.1km

(1)ゲタの具合
歯が両足とも右側が大きくすり減る。
左足で顕著。
右足は意識すれば平らになる傾向。
前の[=一足目の]一本歯だと真逆(両足とも左側)だったハズだが…
体が傾いてる?
ずっと意識し続けるのは疲れるが、明日から3日間はキョリが短いので歩き方の調整をしよう。
歯が傾くと、そのままだんだん傾斜がきつくなる気がするので。
歯裏まっすぐを維持し続ければ歯の減りは一番少なくできるハズ。

相変わらず関心の高いゲタ問題。
 
道中歩き遍路さんからも靴裏のすり減りについて同じような話を聞いたことがあります。

道路は平坦に見えて実際は微妙に湾曲していて、極端に言えばカマボコ型をしている。
つまり、道路の左端は左側に傾き、道路の右端は右側に傾いている。
歩行者はだいたい(というかほとんど)、道路の進行方向に対して左側を歩くので、靴裏は右側の方が大きくすり減っていく。

というのが一般論なのですが、「徳島と高知では靴のすり減り方が違う」という意見も。
では僕自身が一足目と二足目で歯のすり減り方が変わったのは、道路整備する県ごとの事情の違いなのか?
あるいは、一足目のすり減りを修正しようという意識のフィードバックが強すぎた結果か?

どうなんでしょうね。
…どうだったかな。
日記の後半で何がしかの結論が出てくるかもしれません。
 

(2)鼻緒と足の具合
昨日2回こけてのびてない方のゲタがきつい。
ずっと履いていると足指裏の感覚がなくなってくるので時々左右を入れかえて履く必要があるが、歯の傾きとの兼ね合いが難しい。
あと足の甲の痛みも続いている。
マッサージをしっかりやるのと、後休憩をこまめにとって締め続けを防ぐのがよいかも。

苦労してますね。

ただ、靴歩きの歩き遍路にも靴擦れのつらさがあります。
出発前にウォーキングで慣らして大丈夫でも、いざ遍路が始まると一日中徒歩が延々と続くわけで、その次元の違いを初体験の人はみんな思い知らされます。
あまりに足が痛くて別の靴を買ったとか、宿に連泊することにしたとか、そういった話は何度も耳にしました。

僕自身は、歩けないほど足が痛んだことはなかったように記憶していますが、まあ麻痺してたのかもしれないし、テンションが上がっててものともしない心境だったのかもしれない(同じか)。

あ、でもずっとゲタを履き続けて、足の指は変形しましたね。
人差し指の甲の、鼻緒とこすれる部分が異常に膨らんでいました。
痛みはなく、腫れたというより「そこの肉が分厚くなった」感じ、でもタコのようにカサカサしているわけでもなく、むしろ骨が出っ張ったような滑らかさがありました。
その膨らみは形状的に、鼻緒の把持力向上に貢献していたと思います。

後天的獲得形質というやつですね(違う)。
 

(3)フェリーを逃す
8:10の便に2分足りず、船がちょうど出て行くのを見送る形となった。
待合所で朝寝していたら今日の算段を立てる間もなく次の便が来た。
波の音と鳥のさえずりに紛れてまどろむ
なかなかよい。

長閑なひととき。
 

(4)自転車遍路のおじいさん
清瀧寺[に至る急な山道]に上る途中でチャリを置いて登り始めたおじいさんと同道。
イカンバンヘルニアで長くは歩けないらしい(2kmまで)。
でも前かがみなら平気。
70歳超だというから、元気なことで。

所感:
出来事としては平凡な一日だった。
明日からは調整日ということで、身体の調子をじっくり見よう。

このおじいさんは参拝後の下りはヒッチハイクをして下りていました。
その駐車場でのやりとりをちらりと見た記憶があります。
 

18日目:二種類の素朴、必然性の伝播、遍路トイレ事情 2017.3.18

<18日目>
(30)善楽寺 〜 (32)禅師峰寺 → 宿(えび庄)
22.5km(+サンダル2km)

(1)初のサンダル[=スポーツサンダル]スタート

身体がぎこちない、フワフワした感じだった。
[サンダルから]ゲタにはきかえるとシャキっとしたような。
出発前の夕方のゲタ歩きのような「ゲタからはきかえると体スイスイ」とは逆になった
身体がゲタ歩きモードに定着したか。
もしかして夜あまり寝れなかったのもこれと関係が…?

下線部は今自分が読んでも意味不明ですが、だいたい以下の内容です。
 
普段の靴歩きに慣れていると、天狗下駄はどうしても歩きづらい。
だから下駄から靴に履き替えた直後は、先の身体運用の不自然さから解放されて軽快に動ける。
それが、旅を始めて(つまり下駄を一日中履き続けて)18日目のこの日に感じたのは、その一般的な感覚とは逆に、歩きやすいはずのスポーツサンダルから一本歯に履き替えると身体が「シャキッとした」、身体性の賦活をまざまざと感じたようだった、ということ。

武道には「身体の動きに制限をかけることで自由を獲得する」という稽古思想がある。
ここでいう自由とは、「身体運用の自由度」を意味します。
身体の特定部分の動きを制限する(例えば、歩く時に腕を振らない)ことで、通常の生活動作では用いられない身体部分(たとえば体幹)を動員し、活性化する。

一本歯歩行はこの意味で、普段使わない身体のいろんな部分を活性化させるのでしょう。
そうして身体全体が動作に動員されていることが、身体にとって快感である。

という論理に力を与えてくれたのがこの経験だったように思います。
 

(2)昨日の話
そういえば(28)に着いた時に坂を登る途中ですれ違った団体歩き遍路の先頭の先達さんに「しっかり修行してはるなあ」と言われた。
通じる人には通じるのだ。

日記には参拝したお寺の記述がほとんどありませんが、このようなお寺での出来事を振り返ると、その場所の情景が浮かんできます。
ただ、それを説明する語力が自分にはありませんが…
風景描写に興味がないわけではなく、小説ではそういう場面を読み込んで頭の中に詳細な絵を思い浮かべるのですが、自分が風景について書くことがほとんどなく、その能力も信じていません。

なぜでしょうね…昔は「自分は理系だから」とか思っていた気もしますが、それは全然関係ないし、今は自分のことを文系(換言すると「右脳優位」)だと思っています。
…ん、もしかしてこれか?

まあ、今ここで考えることでもありませんね。
 

(3)竹林寺にて
中国人観光客の団体に写真をとられる。
座って[休んで]いたところを囲まれ「ゲタはいて」と。
太い神経。

こういうことは道中よくありました。

だいたいは集団でいて、加えて観光目的でいる集団ほど傍若無人である。
自分を客だと思い込めば、自分の周りのものは全て自分に奉仕するためにある、となる。
消費主義の極致にある感覚ですが、悪ではなくて素朴なだけですね。
 
僕は無垢とか素朴という性質が好きなのですが、ではどんな場面でもそうかと言われると、当然そんなことはない。
「システムに毒される」という言い方でもいいのですが、人がある価値観や状況に覆われると、その価値観や状況に無意識に従った結果の振る舞いが無垢や素朴として現れるわけですが、これに対しては、今ここで書いているような思考を経ることでようやく彼の無垢・素朴を「そういうものだ」として受け入れられるものの、その場での直感としてはまず不快になるわけです。

ではその直感は何に基づくのかと言われれば、人間性とか道徳という話に…
少し違うな、「相手が自分を一人の人間として見ているか」ですね。
あるいは、目の前の人間(僕のこと)に対する判断基準を集団(あるいはシステム)に委ねていないか、という。

そうすればもちろん楽だから、そうする人がほとんどですが、それによって何が失われるかというと、「今自分がいる、その場に感じる必然性」です。
場の必然性が薄れると、同時に、その場にいるその人自身がそこにいる必然性も薄れる。
「必然性」は(裏返して言えば「偶然性」は)、そのようにして連なっています。

よく混同しがちですが、これは因果関係とは別の問題です。
 

(4)またコケる
竹林寺の下の歩き遍路道が岩だらけで、[迂回できる舗装道があったが]サボらずに端[←岩同士の隙間]を狙いつつもまともに下りたが(そういえばヒザの調子は鶴林寺太龍寺で痛めてからしばらくの頃よりは回復した。ちびりゲタのせいも多少あったのだろう)、岩の隙間を伝う間に[花粉症用の]目薬をさしてないことを思い出し、あーと思う間に右足を踏み外した。
目では着地先をちゃんと見ていてこうなる。
再度思うが、わかりやすくてよい

日記に何度か出てきますが、個人的にこの手の逸話がいちばん好きです。
というのも、一本歯歩行が無意識のうちに敢行されていることを如実に示すエピソードだからです。
 
岩を踏むと朴の歯が滑って危険なので、岩と岩の間のわずかな土の部分を狙って、一歩一ごとに「狙い踏み」をします。
が、それを一歩一歩、細心の注意を払って慎重にやろうとすると、歩くのがむちゃくちゃ遅くなる。
加えて、神経への負担も甚大である。

旅の序盤の自然道では、ある程度このような慎重さをもって歩いていましたが、どこかの段階で吹っ切れたのだと思います(第一の遍路転がし「燒山寺越え」の後の下りでハデにコケてからじゃないかな…)。
やけくそで始めた無謀さが、適度な(というか異常な)集中と無心の境地をもたらした。
 
旅の後半だったと思いますが、草がボーボーで岩がゴロゴロ転がってる下りの山道(下りは踏み込みに勢いがつくので本当に怖いのです)を軽快かつ豪快に歩いていて、水分補給か何かの理由で立ち止まってから、さあ出発だ、と一歩目を繰り出すために足元(の荒れ放題の地面)を冷静に眺めて、とてつもない恐怖と、無意識的身体運用の神懸かりな精緻さとを同時に感じたものでした。

冗談ではなく、命が懸かっていたからこそ、可能だった芸当なのでしょう。

昔の遍路では、旅のお供の金剛杖が、道中行き倒れた時の墓標代わりになったそうです。
…これ以上は言わないでおきましょう。
 

(5)トイレの有難み
できるとこでしておこうと改めて思う。
竹林寺で面倒がって行かなくてその後ずっとガマンしていた。
トンネル前の会社のトイレを見つけた時は「救世主!」と叫んだ(ウソ)。

実際に叫んではいませんが、叫びたくなったのは本当です。
ちょっと涙ぐんでいたかもしれない。
 
四国遍路の「お接待」の形はいろいろあって、道中でなにか(食べ物など)を頂くとか、休憩所を設ける(日中にボランティアの人が常駐しているところもあります)とか、その休憩所にはっさくが置いてあるとか、まあいろいろあるんですけど、この「トイレ」もその一つです。

人里まばらでトンネルがいくつか続く、普段歩きの歩行者があまりいないような車道の遍路道だったと思いますが、トタン屋根の2階建の事務所の一画に、「お遍路さんお使い下さい」といった看板が掲げられたトイレがありました。
もちろん社員用であって公衆トイレではなく、この近辺の遍路道にトイレがないことを知っている経営者が善意で歩き遍路に開放している、ということです。
 
歩き遍路のトイレ事情は本当に切実で、特に「ちょっとそのへんで」が気軽にはできない女性には深刻な問題です(いや、山道とかの場合ですよ)。
歩き遍路同士の会話では定番のテーマで、あとは類似のものとして「ウォシュレット問題」もあります。
明日泊まるあの宿にはあるか、いや実はないんだ、といった会話が食堂での夕食時に、お互い真剣な表情でもって交わされるわけです。

僕がその話題に混ざったことはありませんが。
 

(6)小学生たち
宿の手前の直線で下校する小学生4人組に囲まれる。
話をしながら下校につき合う。
「大人になったらゲタはいてやる!」と威勢の良い男の子。
これで修験道魂は引き継がれた、か?(ウソ)
一人が「はいてみたい!」と言い、足が小さいと答えると他の子一人が「私は?」と聞いてくる。
素朴さがいい。

港町のような、半島のような地域の一軒家がこまごまと並ぶ、こじんまりとした街の中で細いながらもすらっと延びる道だったのを覚えています。
 
ここの「素朴さ」のことですが、

「子どもには足が小さいからこのゲタは履けない」と一度聞けば、論理的な思考に従えば直接言われなくとも「自分にはムリだ」と周りの子どもは理解するわけです。
ところがそういう思考とは無縁で、「このゲタのおじさんが(私には)『いいよ』と言えば履けるんだ!」、あるいは「あいつにはムリと言ったけど私はまだ聞いてない」、それかまあ単純に奇妙な異邦人と喋ってみたいという好奇心の発露だったのかもしれません。

このちょっとしたやりとりに、人間味のようなもの(むしろ「動物的コミュニケーション」の方が正確か)を感じて、ほっこりしたのでしょう。

同じ日に、団体観光客にサル扱いされてもいるし(そこまでは思いませんでしたが)。
 

(7)宿にて
[この日の]同宿がオーストラリアの老人(歩き遍路4回目)とヨーロッパ(たぶん)の老夫婦(1回目は自転車?[←字が汚くて怪しい]で今回が2回目)、自分以外が外国人という初めての状況。
夕食に英語で会話したため落ち着かず(笑)。
老人は3回目の結婚が2周り年下(27才?[←己の英語力不足起因の疑問符。以下同])の日本人女性で、3年前?に肺ガン?で亡くなったそうな。彼女は日本、彼はタスマニアと別々に住んで、とても上手くいっていたそう。東京には沢山友人がいる。
[その老人とは](32)で会っていたが、下りで彼に抜かされた後彼はショップで買い物をしている間にこちらが先に[宿に]着いたようで、"Amazing speed!" とびっくりしていた。さいご(88)の山[←大窪寺に至る道]は急勾配で岩だらけだがゲタで大丈夫か?と心配された。…その時考えよう。

所感:
今日はいろいろあった。
さいごの「えび庄」が(電話で予約した時に若干心配だったが)いい宿でよかった。
おいしいご飯とおフロで文句なし!
新ゲタの調子もまずまず良いし(左足指が行程終了後はシビれ気味なのはやはり鼻緒の締め付けのせいだろう)、3日後の32km行程も不可能でないかも。

宿の主人が多少無愛想だった、のかな。
あまり覚えていませんが、主人との間の通訳を含めて、同宿の外国人とはいろいろ喋ったようです。
 
やはり遍路を歩く外国人は、日本と何がしかの縁をもっているのですね。

外国人から日本についての話を聞くと、最初は何か誇らしげな気分を味わうものですが(この時点ではまだ内向きな価値観が主となっている)、その経験を重ねるにつれていつの間にか、外から日本を眺める立ち位置にいる。
その経過はつまり、異文化を生活レベルで見聞するようになる、ということですね。

僕自身が外国に行くのは旅行ではなく滞在がいい、と思う理由はここにあります。
まだ日本を出たことはなくて、きっかけなしに行きたいわけではありませんが。
 

書評サイトのこと

https://www.honzuki.jp/user/homepage/no2314/index.html

 
自分が過去に書いたブログ記事を何かのきっかけでふと読み返した時に、
本について書いてある記事を書評サイトに投稿することが時々あります。

さっき、そのようにして投稿したのが97冊目でした。

データを見返せば、9年半ほどこの書評サイト「本が好き!」を利用しています。
それはいいのですが…

このサイトには、いくつかの記憶があります。

あるレビュアーの記事を読んだのがきっかけで、保坂和志という小説家を知りました。
この人の小説・エッセイに、僕自身の価値観・人生は少なからぬ影響を受けました。
また大学院時代に(研究から逃避的に)没頭して沈思黙考姿勢の礎となった橋本治について、
お互いに氏の著書の書評を読み合って氏の偉大さを確かめ合ったレビュアーもいました。

今はそのお二方とも、投稿を更新されていません(何の理由か、一人は退会)。
それもいいのですが…


ふと思いついて、今ある書評サイトについて調べてみました。
と言って、以下のサイトを見ただけですが…
quartier-litterature.com

この中で「シミルボン」というサイトがいいなと思いました。

たぶん「沁みる本」なのでしょうけど(変換して最初に出てきました)、
名前を見た瞬間に「クラムボン」を連想しました。
もちろん宮沢賢治ですが、
そうすると(?)こちらは「眩む本」になります。
本「に」なのか、本「で」なのか…、読書経験としては後者が順当ですね。

そんなこんなで、
まあいい機会なので、
「本が好き!」にあと3冊投稿して計100冊になったら、
クラムボン」に引っ越してみようかと思います。

あ、ちゃうわ、「シミルボン」ですね。


また、新たなレビュアー氏との出会いがあるといいですね。