human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

SIM、不戦派日記、徒党社会の多様性

脳内BGMという表現がごわごわしているので略語を考える。
Back Ground Musicの目的をそのまま持つが、性質をその略語に取り入れる。
たとえばSynaptic Imaginative Music、SIM。
実体すなわち波動性を有さず、頭中を走る電気信号によって奏でられる。
虚数は実数空間に存在しないが、仮想的な数として数学に大きな実りを与える。
実体を持たない数、Imaginary Number。

 × × ×

『戦中派不戦日記』(山田風太郎)を読み始める。
橋本治氏が時評でとりあげていた。文庫版の解説も氏による。

SIMは村松健「Blue」から"Komorebi"。
音数が少ないのでSIMとしての再生難度は高い。
無秩序の常で、他の曲が混ざってくるからだ。
SIMの無秩序はIではなくSに起因する。
Sの無秩序性はその大元の秩序性をカオス化する量的膨大性に起因する。
量が質に転化する一例。元は量だと言っても始まらない。
科学はそれを始めたのだが。

昭和20年1月分を読む。
B29の来襲時間が日課のように記される。そういう日常。
文語体のリズムがよく、ときどき一節を朗読する。

アダムとイブ、創世記の状景が挿入されている。
生む、産むことをもって生物の目的は達成される、が。
挿話の末尾に、一度全てゼロにすべし、とある。
戦中の、24歳にして老い医学生

 ○すべてを破壊すること、習慣、教育等有形無形のものを醸し出す幻の衣をいちどひっぺがして、「ほんとうのもの」を眺めること。
 何だかルソーみたいなれど、一ぺん全部洗い落したい。 p.36

 而してこのごろ他と情に於て交渉するが煩わしければ、ことさらにとぼけ、飄然とす。たいていのこと、見ざるまね、聞かざるまね、知らざるまねして通すに、習い性となり、偽次第に真となりて、ようやく老耄の気をおぼゆ。二十四歳にして耄碌せりといわば、人大いに笑うべし。 p.39

空に轟く航空機の音に、これまでにない空白を抱えて、耳を澄ます。

 × × ×

同じく『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)を読み始める。
SIMは村松健の"The Tennessee Waltz"。

「己の振る舞いが、他人がみな自分のように振る舞って支障のないものかどうか」
行動指針のひとつとして、利己主義を戒めるためのこの考え方を採っている。
世界への影響がその現状も含めて知りうる情報横溢時代には自己破綻を免れない思想。
読んでいて、日本の平和主義と、この考え方との関係に頭が混乱する。

 平和主義は多様性を認めるものである。
 憲法9条は平和主義には足りず、反軍国主義である。
 平和主義は武力を用いず、たとえば文化、教育、経済面で紛争を解決すべく介入する。
 反軍国主義は武力を用いない意思のみ掲げて、紛争解決への積極性を含まない。
加藤氏の主張を自分はそのように読んだ。
また別のところにはこうある。
 日本には徒党があって社会がない。
 ルソーのいう社会内社会の特殊意志のみがあり、一般意志がない。
自分の中で論理が錯綜している。
よじれて絡み合いダマになった思考をここでほどこうと試みてみる。


日本の平和主義は、それが徒党社会であることによって多様性を認めない。
成員のみなが「争いのない平和な社会を望む」と願う。
世界中の人々がそう願えば世界平和が実現すると思う。
おなじその成員は、そう願わないものを仲間とみなさない。消極的に排除する。
これはどういうことか。
一つ、日本の外にも平和は実現してほしいが、あくまで他人事である。
穿って考えれば、実現してほしいのは、それが情報として日本に入ってくるが由。

憲法9条が日本の徒党性を反映しているかは分からない。
それでも、今の日本が「憲法9条を世界遺産に」と思うのは筋違いだと感じる。
相手はきっと、世界中が日本人のように振る舞えば世界は平和だ、という押しつけと見る。


利己主義の戒めと多様性の容認は、どう関係するのか。
双方を十分には満たせない、トレードオフなのか。
スケールが大き過ぎて、同列に考えられるものかの判断がつかない。
日本人にとって、多様性という言葉から日本文化の外部を連想するのが難しい。
それだけ日常から遠いということ。情報としてはいくらでも入ってくるにしても。

上記「不戦派日記」の引用と共鳴した部分を引用しておく。
この引用文の全体は2009年に書かれたもの。

 いま、われわれは何をどのように考えるべきか。ここで冒頭の第一の問いに接続するのですが、非「文学」的に事柄に処し、また、根本的に、ゼロの地点から、物事を考え直す。そういうことだけが、いまある閉塞した状況から、われわれの思考と語り口を「再生」させると、僕は考えています。 p.x(はじめに)

政治的にはそう。
僕は個人レベルでは"「文学」的に事柄に処す"ことが大事に思う。
想像力の尊重という面で。
そしてこれは個人からしか始まらない。


タイトルをつけてから思う。
「徒党社会の多様性」の容認は現状、無関心によってしか実現されていない。
そこに徒党性を変える意志は微塵もない。
では積極的に多様性を認めるとはどうすることか。ことに日本において。
難しい。

ながら書き、< harmony / >、1Q84読中

「片手間に文章を書く技術」を身につけたいと思う。
時間が惜しいからではない。
書く時間によってほかの時間を分断させたくない時がある。
それでも書いておきたいことがある時がある。
日常的な思考の継続のバリエーションをいくつか想定してみる。
思うともなく、過ぎ去る時間とともに形をとるかとらないかという思考。
ふと意識に浮かび上がる時に「前の続き」だったり「展開」だったりする。
あるいは、経過点を一つひとつ確認して着実に前進していく思考。
足跡が消えてしまわないように、一歩を踏み固めながら前進していく。
足跡の間隔、向き、リズムが、「一歩その時」を物語る、その声を聞くために。
もしかしたら、同じと思っていた足跡の形も、一定ではないかもしれない。
どこかで靴を履き替えたのかもしれない。
ことによっては、同じ足跡は一つとしてないのかもしれない。
足跡はメタファーであり、ほんとうは目で見るものではないから。

もう一つ、「片手間」と書いた意味。
PCの、ネット空間の、引きずり込まれる力をすり抜けるために。
ただし、想像力の抑制、可能性の無視からではなく。
偶然を排さず、かつ必然を見失わず。

「走り書き」というほど慌てるわけではなく、しかし勢いはそのように。
ぽつぽつとやってくる客に料理を出すその合間に、立ったままカウンターで言葉を紡ぐ寡黙なウェイターのように。料理長は特に気に留めない。
仮に「ながら書き」と名付けておく。


 × × ×

昨日、紫波図書館で月例の貸出、5冊。
そのうち『ハーモニー』(伊藤計劃)を読み始め、高いシンクロを感じる。

「さっき見てたのは、本だったの……」
 わたしはびっくりして訊ねた。実際、それはわたしが生まれて初めて本というものを目撃した瞬間だったろうから。
「そうだよ、霧慧トァンさん。わたしが持ってたのは、本。いつも持ち歩いているし、教室で休み時間には大体これを読んでるよ」
 そう言ってミァハがカバンから取り出してみせてくれた本の表紙には、「特性のない男」という文字が書いてあった。
「なんだか、つまらなそうなタイトルだね」

< harmony / > Project Itoh p.26-27 ; 2010 printed ; Hayakawa Mystery

『特性のない男』(ムージル)の主人公ウルリヒは、「私がなにか本を書きたいと考えたら自殺しようと思っています」と義兄に淡々と告げる。世間話のついでに。
「特性のない男」を完膚なきまでにリスクヘッジされた児童公園で読み耽る御冷ミァハは、自作した拒食症を発症する薬を飲み、近未来健康至上社会で「公共物」となった子供の身体を毀損するべく自殺を遂げる。ミァハの2人の友人のうち一人である『ハーモニー』の主人公霧慧トァンは同じ薬を飲むが生き残る。
『特性のない男』を読み終え、『ハーモニー』を読み始めた男は、

 × × ×

今日、『心臓を貫かれて』(M・ギルモア、村上春樹訳)を読み始める。
脳内BGMはうみぬこPの「アンドロメダの哀しみ」
「家族の虐殺の話」であり、どう展開するかわからないが、プロローグから静けさが感じられたため。
違和感があればまた変わるだろうと思う。

 × × ×

寝しなに読み始めて幾月、昨晩ようやくbook3に入る。
語り手がいきなり「牛河」になって少々面食らう。
その前、天吾が意識のない病床の父を前に回想を語る。

もともと中心のない人生ではあったけれど、それまでは他人が彼に対して何かを期待し、要求してくれた。それに応えることで彼の人生はそれなりに忙しく回っていた。しかしその要求や期待がいったん消えてしまうと、あとには語るに足るものは何ひとつ残らなかった。人生の目的もない。親友の一人もいない。彼は凪のような静謐の中に取り残され、何ごとに対しても神経をうまく集中することができなくなった。

村上春樹1Q84 book2』

そうかもしれない。

『コンヴィヴィアリティのための道具』を最後まで読むための覚え書き

返却期限までに読み終えることができませんでした。
もう一度借りるか、買うか、どちらかをしたい。
という思いを形にするべく印象をメモしておきます。
(後記:やはりいくらか書評調になってしまいました)

 × × ×

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

行き過ぎた産業主義を政治的に抑制する。
社会主義」という言葉が本書中にあります。
(よく知りませんが、イリイチがそういう人なのかもしれません)
民衆が自立的な工夫や努力でもって、仕事を、生活を成り立たせる。
コンヴィヴィアリティは「自立共生」と訳されています。
共生、の意味は、自立が「他者の自立を阻害しなくてもできる自立」であること。

本書は理想的な社会の構想が語られたものではない。
民衆が自ら望むあり方の社会をつくりだすための概念的道具が述べられている。
上に書いた「政治的に抑制する」ことが眼目で、政治を担うのは民衆である。
庶民一人ひとりが自立共生について考え、自己に基づく指標を打ち立てることが前提となる。
政略に堕した政治を「あるべき社会を成員が参画して決める場」に変えるツールが本書にある。

それゆえ、効率至上主義や言葉の貧困化などの過度の産業主義を批判するだけでは終わらない。
「過度」がどの程度のものか、どういう種類(波及的影響)があるか、も語られる。
読み手は、批判に同調して溜飲を下げるだけで満足することはできない。
その目的で読むにしては内容の抽象性が高く、そして説得的ではないからだ。
説得的ではないとはつまり、書かれているのが説明ではない。
道具の提案があり、歴史や由来が紹介され、使用法が例示される。
だがその使用法は、単独の目的を持たない、自立共生的な使用法である。
読み手は考えて、自ら導き出さねばならない。
この道具を、いかに活かすことができるのか。

本書に書かれた政治的構想が、読み手の自発性を刺激する。
意外にも、政治を身近に感じることができる一冊として推薦できるかもしれない。
あるいは、政治は身近な問題意識からしか生まれないことを示唆する一冊として。

 × × ×

最後まで、あるいはもう一度読もうと思った理由を追記しておきます。

上記の通り、本書は読んだ内容をそのまま糧にするものではない。
考えるツールが提示されているが、哲学書ではない。
自分がいま、どういう時代に生きているのか。
あるいはこの先、時代がどう限界を迎え、破綻しうるのか。
それを読んで理解するというより、読めばそれを考えることができる気がする。
自分の頭で、自分の経験をもとにして。

一つ前の記事と関わることだけど、
これも一つの(生産性と関わりのない)創造性の発揮で、
それが嬉しく、
同時にそれが政治と結びつくことに驚いているのだと思います。

以前『新リア王』(高村薫)を読んだ時に、政治についての充実さを覚えた記憶があります。
その時の感じと今がどう違うのか、今少し興味がわきました。

新リア王 上

新リア王 上

それともう一つ。
抽象性の高い思考が、人を動かす力を持っていること。
僕は文章を書くのは好きですが、小説を書けるとは思いません。
(ディテールを読むのは好きで、けれど小説的なそれを想像して文章化する能力はない)
僕が好んで書ける文章は、抽象性の高いものです。

コロコロ話が変わりますが、言葉(思考)の動性は、抽象化と具体化の往還にあります。
小説は細部が肝心ですが、その縁の下では教訓が土台を担っています。
小説を読むことはこの意味で、教訓をディテールの形で吸収する具体化作用です。
一方で抽象的な文章を書くことは、文字通り日々の経験や思考の抽象化作用です

もしかして、僕の中でこのように読むことと書くことが循環しているのかもしれません。

free dialogue in vivo 4

「そういものが、あるとしての話です」


現実とは何か?
畑を耕したり、車の部品を組み立てたり、そういうことだけではない。
本を読むことも、一人でご飯を食べることも、そういったことも含む。
現実は、生活と言い換えてもよい。

生産性という観点に立てば、現実や生活はなにかしら生産に貢献しているかもしれない。
ものを生み出すことに直接携わる仕事。
ものを生み出すための道具や身体を維持する間接的な行為。

形の有無を問わないとして、生産の対象を広げて考えてもよい。
その場合に問題となるのは、生産の成果を捉えにくくなること。
形のないものは、一人の従事によって、いつ、どれだけ生まれるのか?
この問題の看過を許さないのは、生産性を評価分析する目があるからだ。

評価分析は個人の営みではない。
自分以外の人のための仕事を媒介するためにそれはある。
それゆえ自己分析は他者を挟んで評価分析が二重になったものだ。

仕事の評価は、その円滑な遂行が目的である。
社会生活における遅滞なき仕事の進行は、個人生活を豊かにする。
よって個人生活の内側で閉じる評価分析はその本来の役割を見失う。

「前に進むことがそのまま、あの頃に戻ることだったらいいのに」


有機物はすべて変化の機能を自らの奥深くに秘めている。
機能は、原理であり、必然であり、宿命であり、消尽である。

人間の脳における変化は、人間の身体を含めて他のあらゆる有機物と異なる特徴をもつ。
脳内の複雑怪奇な神経ネットワークに宿る変化は、創造性と直に結びつく。

意識は時間経過における同一性を認識のベースに置いている。
自己を一定とみなし、地位や関係に固執し、過去の記憶に撞着する。
不変の志向とも思われるこの意識作用はしかし、創造性の発揮には不可欠の基盤である。
変化現象を了解する前提は、以前と以後の両状態の把握およびその差異の認識である。

ところで、ここで了解される変化は、創造性の過程で認識しうる側面に限られる。
意識は可知対象を拠り所にせざるを得ないが、その深い底に充満する靄を無視できない。
靄の中をうつろう影の本体を見定めようと、手を突き入れて掻き回す。
創造性は、無秩序な影遊びと、勝敗の決まらぬ影縫いの、時空を超えた戯れである。

「もう、終わりにしましょう」


始めるために、終わらせる。
終わってほしくない思いは、始まりの予祝である。
始まりの期待は、終わりの未知に同期する。

現実は、いつも始まっていて、いつも終わっている。

 × × ×

パロール・ジュレと紙屑の都

パロール・ジュレと紙屑の都

コンポステーラの記憶、歩く必然

四国遍路の回想記↓は、序盤の山場手前で長らく更新が途絶えています。
司書講習が始まる前の、時間を少々持て余していた時期に書き始めたものです。
社会的立場は今もその時と変わりませんが、今はなかなかその時間が現れてきません。
大沢温泉(値段の安い自炊部)に連泊して、集中的に書く気がないでもありません。

とにかく遍路の話は、まずは回想記に書こうと思っていました、が。

cheechoff.hatenadiary.jp

序盤の山場とは3日目の12番焼山寺の山越えのことです。
急勾配の山を越え、下りは長々と緩く、5日目は平地でお寺が密集した所を歩きます。
その後、たしか6、7日目だったか、「第二の山場」の麓まで進みます。
アップダウンの激しい2つの山と、それぞれの高所にある2つのお寺。

いろいろ名前を忘れていますが、その第二の山場の麓にある民宿での話です。


公式*1その民宿のほかに麓に宿がなく、僕が泊まった日は多くの宿泊客がいました。
夕方前に宿に着いて、早めのお風呂に入った時も、遍路が数人いました。
その中の一人、旅の年季の入った風体の男性から、湯船に浸かる間に少々話しました。
話したというより一方的に聞いていたのですが、淀みない口調も旅慣れたものでした。

ヨーロッパの巡礼で有名なのが、たしかスペインの「なんたらコンポステーラ*2」への巡礼。
男性は過去にその巡礼を行ったらしく、四国遍路との違いを説明してくれました。
国をまたがる数千キロの道のり、多国籍の巡礼者、巡礼然とした道と宿場街。
安く簡素な宿、街で素材を調達しての自炊、あって有り難い冷シャワー。

今追って想像するに、巡礼者の年齢層も、四国遍路とは違うのでしょう。
定年を過ぎた年配より、前途を見はるかす若者の方が多いに違いない。
歩く理由も、それに応じて違ってくるでしょう。
具体的に想像はつきませんが、「歩く理由の多様さ」という点において。

 × × ×

そんな大した記憶ではありませんが、今日ふとこのことを思い出しました。
例のごとく読中長編『特性のない男』の、ウルリヒの特性の描写にあたって。
そして自分の海外への興味について、新たな視点を得ました。
大陸へ行く必然は、定住ではなく巡礼にあるのかもしれない、と。


僕はビザを取ったことがなく、つまり日本を離れたことがありません。
外国への興味はつねにあって、そしてその内実は日本を外から見ることにある。
きっと自分はかなり日本的で、日本的な性質が好きで、しかし同時に嫌いでもある。
嫌いなのは、おそらく日本人の集団特有の、多数派的な諸々の性質。

そういった好きも嫌いも、日本で暮らし続けて感得するに至ったものです。
このことに良いも悪いもありませんが、この認識は固定化される運命にある。
いくら分析し掘り下げても、日本にいる限りは「身体丸ごとの視点」は変わらない。
その内容がどうあれ、自分のなにかが固定化されることは、好ましくない。

これが日本を外から見ることの動機で、しかしこれは単なる旅行では達成されない。
行きそして「戻ってくる」ことを前提とした旅行は、軸足を母国に残したままとなる。
そう考えると、自分の思想の基盤を揺るがす変化は、外国に住むことでしか起こり得ない。
異文化の異質に触れ、それが自分の身ぶりに決定的に影響するような状況としての定住。


と、こういった考えは今言葉にしてみて、そのまま持ち続けていることを知りました。
考えの中で想定した状況に至る必然の「ひ」の字もないことも含めて、そのまま。
この必然ということを考えた時に、巡礼と結びついたのは、それが「歩くこと」だからです。
歩くのが好きな僕は、どういう事情で歩くことになっても、難なくそれを受け入れてきました。

 それがどれだけ常識外れで、無意味で、徒労で、そして過酷であっても。

ここまで書けば、あとは簡単。
「認識の固定化」を打破する必然に、どうすれば自分は導かれるのか?
…歩けばいい。
大陸の「とある地点」に降り立ち、そこから歩き始めるだけでいい。

これも前↓と同じく、今の生活が許す奔放な想像の一例ではありますが。
cheechoff.hatenadiary.jp

 × × ×

彼は、むかし旅の途中で汽車を降りてしまい、目的地に行かなかったことがあったなと、このときなんとなく思い出していた。なぜそうなったかといえば、やり手ばばあのようにいわくありげに、あたりの風景からヴェールを剝ぎとる澄みきった日が、彼を駅から散歩に誘い出した。そして日が暮れたころには彼は見捨てられて、荷物をもたずに何マイルも離れた村に置きざりになっていたからである。とにかく彼は、自分でもわからなくなるほど長時間外を歩いて、そしてけっして同じ道を戻らないという特性を、自分がつねにもっていたということを、いま思い出していた。

「第23章 ボーナデーア、あるいは病気のぶりかえし」p.158 (ムージル『特性のない男Ⅳ』)

*1:知る人ぞ知る、あの「黄色い地図」のこと。

*2:書き上げてから一応調べました。正式名称はこれのようです。 サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 - Wikipedia

病中後の審美的生活メモ

今週は過動で体調を悪くして、寝飽きるくらいずっと寝込んでいました。
過労ではなくて「過動」(ボルダリングは生活の一部)、登り過ぎです。
一日おきの一日7時間は、あまり休憩を挿まないにしては負担が大きい、
という教訓を得ました(3日以上間を空けたのは初めてかもしれません)。

そういえばここひと月ほど、指の皮(指紋の部分)が薄くなってきて、
回復には3日(ジムのオーナ)から14日(いちクライマ)はかかる、
という幅広い情報を得ていていつ対処しようかと考えていたんですが、
これを機会に指の皮を分厚くして、発展的復帰を図りたいと思います。

体はまだ本調子ではなく、月〜木は一歩も外に出ず、
行こうと思っていた花南巻温泉へ金になんとか行き、
その日に月一で通う紫波図書館へもなんとか行って、
やっと今日掃除と洗濯ができるくらいになりました。

原因は過動だけではなく、生活習慣と衛生面にもありそうです。
一日二食はまあいいんですが、登った後の夜に食べ過ぎていた。
今後は腹八分目、「もう少し食べれる」の一歩手前で止めたい。
外食がラーメンか台湾料理のみなので、自炊の頻度も一定度は。

掃除を週に一度は必ずやることにしましょう。
講習中は終盤までなんとか守れていましたが、
寒くなってくると途端にやる気が落ちました。
埃が多いからですが、この時期はカビが大敵。

結露がひどくて、寝室の和室は天井の一部に水滴がびっしり付きます。
特定の場所なので配管か配線かと思いますが、油断すると畳に落ちる。
畳は布団を敷いていた中心付近に埃が溜まりやすい、どうしてだろう、
とメガネでよく見たらカビで、処理して布団を敷く場所も変えました。

このたびの体調悪化でとくに喉がやられたのはきっとカビが一因で、
今まで見たことのない所に発生するのを岩手に来て何度も見ました。
ペールボックス、まな板、しゃもじ、箸入れ、壁紙、掛け布団など。
今こう書きながら、根本的な湿気対策をする気に初めてなりました。

ちょっと調べて、氷水ペットボトルか竹炭をやってみようと思います。

<生活メモまとめ>
 ・週一で家を掃除する *1
 ・適度な運動量を探る *2
 ・腹八分目に食事する *3
 ・部屋の湿度を下げる *4

p.s.タイトルの「審美的」の意味はブラウザ次第で判明します。

 × × ×

昨日借りた6冊のなかに、こんな本があります。

今までにない職業をつくる

今までにない職業をつくる

「今までにない職業」とは甲野氏の古武術研究家のことでしょう。
こういう視点も今なら持てるな、と思いつつ読んでみるつもりです。

この本はいくつかの縁に導かれて借りました。
(Iターンの本などがある特設コーナ「まちづくり全般」に配架されていました)

つい最近連想した「限界芸術」と本書の副タイトル「市民芸術」との呼応。
これは連想元の『特性のない男』とも繫がる。
また、本書まえがき冒頭に宮沢賢治の言葉が引用されていたこと。
今住んでいる花巻は、宮沢賢治が生きた地域です。

その冒頭、『農民芸術概論綱要』の一節を孫引きしておきます。

 職業芸術家は一度亡びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である

「止むなき」とは、それが必然であることです。

*1:登壁2日休みの二日目に。

*2:無理はよくないが現状維持でもない?
生活ボルダリングの目的たる身体性の賦活が「維持」かどうかは謎なので「探る」です。

*3:空腹と体重減を不安にしない。

*4:ホームセンターに竹炭を買いに行こう。

限界芸術と「身の丈、ありもの生活」

『特性のない男』の三冊目を今日読み終えました。
どの巻も最後の章はとくに思索に富んでいるのですが、
三冊目終章の以下の箇所を読んでいて、鶴見俊輔氏の「限界芸術(論)」を連想しました。

「限界」という単語がそうさせたのでしょうが、
この連想における双方の「限界」の使われ方が違っていて、
それが何か思考を生みそうな気がしました。

ああ、それだけではなく、
引用後半の「世俗の人間として」というのもキーワードでした。

ところで、この兄妹の間で進行していることの手がかりをまだつかめていないような人は、この報告をどうか脇に置かれるように。なぜなら、そういう人には、けっして是認してもらえないような冒険が、この報告には書かれるからである。すなわち、不可能なものや自然に反するものの危険、いや嫌悪の念を起こすものの危険に軽く触れながら、いやときにはそれ以上のことをしながらする、可能なものの限界への旅が、ここで記述されるからである。それは、真理に至るために、時折不条理な数値を利用する数学の自由をしのばせる、制限された特殊な妥当性の「限界のケース」(ウルリヒは、それをその後こう呼んだ)のことである。彼とアガーテは、神に陶酔したものの仕業と多くの点で共通性のある道に踏みこんだのだ。しかし彼らは、敬神の念もなく、神も魂も信じることなしに、もちろんまた彼岸や彼岸での再生さえも信じることなしに、この道に入ったのである。彼らは、世俗の人間として、この道に踏み入り、そして世俗の人間として、この道を歩んだ。そしてこれこそが注目に価することだった。

第2巻第3部 第12章「聖なる会話。波乱にとんだ継続」p.313(R.ムージル『特性のない男Ⅲ』松籟社

鶴見氏のいう限界芸術とは「限りなく芸術に近い、生活から生み出されたもの」です。
芸術性を意図せず、ただ生活を営む中で作られたものが、
審美眼に耐え、あるいはとてつもない美しさを獲得する。
たとえば、シンメトリでない和製陶器とか。
具体的なモノであったり、遊びであったり、その対象はいろいろで、
ちくま学芸文庫の『限界芸術論』にたっぷり書かれていますが、
具体的なところは忘れました。
(「遊び」は、歌留多とか、あるいは影踏みのようなものも含んでいたはずですが、
 これは限界芸術の例ではなく別の著作に書かれていたことかもしれません)

限界芸術における「限界」は、境界のような意味を指しています。
つまり、生活と芸術の境目のギリギリのところに限界芸術がある。
対して引用中の「限界」は、極限の意味をもちます。

極限だってある意味で境界ですが、違うところといえば、
極限にはその先、境界の向こうにあるものが分からないことです。
数学でいう極限、高校では数Ⅲで習う無限大(∞)がそのよい例です。

「限界」が境界と極限の2つの意味を持ち、
その2つは厳密には異なりながら共通した概念領域をもち、
だからこそこれらは同じ言葉で表されているわけですが、
このことが意味することもまたある気がしたのでした。

それを概念的に先に言えば「交換可能性」で、
今回の話では、「境界たる限界」は「極限たる境界」でもあるだろう、と。
この可能性は論理の正しさの水準で問題にされることではなく、
つまり言葉の緻密さではなく曖昧さに機能性を見出すことで生じます。


話を戻しますが、
限界芸術は「芸術に限りなく近いもの」で、
生活と芸術の境目、あと一歩で芸術の域に踏み入る創作物、
生活の必要から生じた「創作の意図のない創作物」ですが、
このような表現はそのまま受け取れば、
限界芸術に芸術へのベクトルを感じてしまいます。
芸術性への意図はないが、芸術に近ければ近いほどよい、というような。
(だからここでいう「ベクトル」は志向のことではありません)

上述の「交換可能性」の具体的なところを考えた時に思ったのは、
鶴見氏の表現の意図もたぶんそうだと思いますが、
限界芸術の「芸術への近さ」は「ある美しさを獲得している」ことしか意味せず、
限界芸術とは芸術とは方向性の異なる創作物である
、と。
つまり、共通の基準で限界芸術と芸術を比較することはできない、または意味がない。

芸術は、ある美しさの極限を追求する。
限界芸術は、芸術とは関係なく、また別の美しさの極限を追求する
「美しさの追求」という性質を持つ言葉が「芸術」以外にあれば、
もしかしたら限界芸術は、これとは異なる表現を得ていたかもしれない。

表現のことはつい思いついて書いただけであまり興味ありませんが、
限界芸術が美しさを追求するのはもちろん生活のなかであって、
僕はこの点に興味というか、魅力というか、当事者感覚をもちます。
「身の丈感覚」の「ありもの工夫(ブリコラージュ)*1」の生活
この全く創作と関係のない必要性に応じる生活が、
これを洗練させれば「ある美しさ」を獲得する可能性をここに見出せるからです。


自分の生活のなかでこのことでなにか具体例が出せるかな、と考えて、
上の必要性を必然性(というか「流れでそうなった」)に言い換えてになりますが、
今の生活の中心軸の一つであるボルダリングを思い浮かべました。
登壁にあまり思考を介在させないようにするために、
これまでボルダリングについて言葉にすることは(初期を除けば)控えていましたが、
まあこれもいい機会なのでちょっとやってみようと思います。

記事が長くなったのでこの話は次にしましょう。

 × × ×

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

*1:学術的にはブリコラージュは「器用仕事」ですが、これはカッコに入れて、自分で表現を考えてみました。語呂のよい七字になりました。

「土着の玄人」の安定感

二人の言うことは同じではありませんが、
共通のなにかを見ることができます、
ということの中身について書きます。

ハシモト氏の文章には説明がいらないほど克明かつ大胆なので、
氏の文章の他との関連を見出せた時には、
その「関連先」を理解する大きな手がかりとなります。

2つの引用の下線部、太字部がそれぞれ対応しているように見えます。

クロートにとっての「自分」とは、「自分の技術」という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体「樹木」ではないのである。一本の木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが「自分」という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だからクロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。余分なものがチラつくからこそ、「下手」なのである。ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは「自分」を覆い隠すことが出来ない。すぐに「自分」を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう──「自分とはなんだ?」などと。
 クロートはもちろん、「自分とはなんだ?」なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、「自分の技とはなんだ?」と考える。「自分のやってきたことはなんだ?」という悩み方をする。クロートが「自分とはなんだ?」と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートは、それだけで自殺をしてしまう。技術とはそういうものであり、クロートとはそういうものである。近代ではどう考えるか知らないが、そう考えるのが前近代の常識なのである。

「90「下手」とはいかなることか」p.347-348 (橋本治『ああでもなくこうでもなく3 「日本が変わってゆく』の論)

 高めることと低めること。鏡をみながら化粧している女は、自分を──すべてのものを眺めることができるこの無限の存在を──小さな空間に閉じ込めていることを恥ずかしく思わない。同様に、自我(社会的自我、心理的自我、等々)を高めるとき、どんなに高く上昇させても、われわれがただそれだけにすぎないものになれば、際限なく下落する自我が低められている場合は(エネルギーが自我を欲求に高める傾向がないかぎり)、われわれが自分がそれだけにすぎないものではないことを知っている
 非常に美しい女は、鏡に自分の姿を映し見ながら、それが自分であると思いこむことが十分にありうる。みにくい女は、それが自分ではないことを知っている。

「遡創造,7」(シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』)

ハシモト氏の「土壌」の人間的な比喩から、「土着」を連想します。
土壌を耕すには、その地に「根づく」必要がある。
また土壌に気を配ることは、樹木の維持管理でもある。
木の成長は「一面」で、土壌の土着的安定性が、盛衰のサイクルを成立させる

2つの引用をリンクさせると、タイトルのような言葉が浮かんできました。

人間のなかに自然界の秩序を見る話は、そういえば少し前↓にも書きました。
このテーマが、最近の自分には関心が高いようです。

cheechoff.hatenadiary.jp

p.s.
"enracine"で検索して、とある博士論文をみつけました。
序文には「『根をもつこと』に述べられている思想に関する包括的な研究」とあります。
印刷しないと読めませんが(目が弱いので)、機会があればぜひ読みたいです。

存在しない神を愛する

と、こう言った時に、
「神は死んだ」(ニーチェ)の近現代が念頭にあるように聞こえますが、
最初にそう思って、けれど読むうちに違うと気付きました。
エレクトラって、ギリシャ神話ですもんね。

 単なる想像上の報酬(たとえばルイ十四世の微笑)は払われた労力と正確に等しい価値をもつ。なぜなら、それは払われた労力の価値を過不足なくもっているからである──ところが、現実の報酬は、それが現実のものであるかぎり、余分であるか、でなければ不足である。したがって無制限の努力にエネルギーを供給するのは、たとえばルイ十四世の微笑のような、もっぱら想像上の恩典だけである。(…)
 宗教の場合もある程度まで同じである。ルイ十四世の微笑という報いがないので、われわれにはほほえみかけてくれる神をこしらえるのである。
 さもなければ、さらに自分自身を崇める。価値の等しい報酬が必要なのである。これは重力と同じように避けようがない。
(「真空と埋め合わせ」, 19部分、太字部は本文傍点)

 死んだオレステースのために嘆くエーレクトラー。もし人が神が存在しないと考えながらも神を愛するならば、神はその存在を顕示するであろう
(「執着から抜け出すこと」, 16)

 エーレクトラーは、権力者たる父の娘であるが、奴隷の境涯に陥り、自分の弟にしか希望をつないでいなかったが、ある青年がこの弟の死を告げ知らせた──そして、悲嘆がその極に達したとき、この青年が弟であるとわかった。
 「婦人たちはそれが園丁だと思っていた」〔ヨハネ福音書二〇・一五〕。見知らぬ男のうちに自分の兄弟を認めよう。宇宙のなかに神を認めよう
(「読み」, 2)

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
(「遡創造」, 1部分)

シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵

4つ目は、一つ前の記事でも取り上げた抜粋で、
一つ前の記事を書いている時に、この抜粋について最初はこう書こうとしました。

"神は存在しない"という認識は、神による人間の遡創造の帰結である

こう書いてみて、論理的に考えればこうなるがまさかそんな不敬なことではあるまい、
と思って消してしまったのですが、書き上げて夕食をとってから読書に戻り、
2つ目の抜粋箇所に行き当たって「まさか」と思い驚き、本記事を書いています。

たぶんこの4つの抜粋で、タイトルの意味がわかるはずです。
説明はいらないのかもしれませんが、とりあえずなにか書いてみます。


脳=意識の特性は「際限がない」ことで、この点において身体と対立します。
今は身体の話はしませんが、この脳の際限のなさは脳にとっての「自然」で、
物欲=身の丈の必要に限界があってそれが満たされても経済が発展し続けるのは、
経済がもはやマネーゲームと化しているからで、しかしこれも脳には「自然」です。

脳が欲する想像上の報酬は無制限で、しかしそれを受け入れるシステムが宗教にはある、
別に宗教にだけあるのではないが、というのが一つ目の抜粋。
想像上の報酬を神から授かる場合、その神は想像上の存在であり、つまり存在しない。
神が存在してしまうと、その報酬は現実のものとなり、過不足が生じる。

神が存在しないがゆえに、神から無制限の報酬を授かることができる

では「存在しない神」をどうやって愛することができるのか?
その方法は本書に(ストイックなことが)たくさん書かれていて、
3つ目の抜粋に書かれているのは「その結果の一例」です。
僕はこの断章を咀嚼しながら、アニミズムとの類似性を考えていました。

僕の認識ですが、「八百万(やおよろず)の神」という思想は物神崇拝の一種で、
これは石ころや草木や、あらゆるものに神が「宿る」と考える。
石ころが神様それ自体なのではなく、神の媒質として、いくらかの神性を帯びている。
媒介者は現実に存在し、しかし本体はたぶん想像上の存在であり、つまり存在しない。

アニミズムにおいて「存在しない神」を愛する方法は、ただ一つ、
媒介者を「媒介者として」愛する
これは、物への執着を薄めてくれます。
大切に扱ういたわりも、役目を終えての供養も、執着に基づくものではない。

アニミズムは脳の「自然」を自然界に馴染ませる、知恵のあるシステムだと思います。

遡創造と不確定性原理

『根をもつこと』を返却した日に、もともと書架の傍に並んでいた、
重力と恩寵』を借りました。

重力と恩寵

重力と恩寵

断章の形式で書かれていて、
一つひとつは短く、一息で読めますが、難しい。
使われる言葉は難しくないが、
断章にはその短さとは比較に絶する意味を含む重さがある。

何度も読み返しながら、立ち止まって考えるよりは、
なにか共鳴すると思われる断章をリンクさせることで、
理解が進むような手応えを感じています。

 愛する人が私の期待を裏切る。私は彼に手紙を書いた。私が彼にかわって心のなかで考えたとおりのことを、彼が返事してよこさないはずはない。
 人びとがわれわれに負うもの、それはその人びとが与えてくれるだろうとわれわれが想像しているものにほかならない。彼らにこの負債を免除してやろう。
 彼らがわれわれの想像の創りなしたものではないことを認めること、それは神の行為としての放棄を模倣することになる。
 私もまた、自分がそうであると想像しているものとは異なる。そのことを知ること、それがゆるすことである

「真空と埋め合わせ」p.23 (シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』渡辺義愛訳、春秋社、2009、[135.5/べ])

引用太字部「神の行為としての放棄」には註があり、「遡創造」の章を参照とあります。
この遡創造(原語は"decreation"でシモーヌ氏の造語)という言葉に惹かれたのですが、
当の章をあたってみると、とても難しい。
上述の通り、リンクする断章をいくつか探してみました。
各断章末の数字は、「遡創造」の章(p.60-74)のいくつ目かを指します。

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
 破壊。ある創られたものを、虚無のなかに移り行かせること。遡創造の不届きな代用品(エルザッツ)。[1]

 創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する神の愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、われわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。[2,部分]

 放棄。創造における神の放棄に倣うこと。神は──ある意味で──すべてであることを放棄する。われわれはなにものかであることを放棄しなければならない。それだけがわれわれにできる唯一の善である。
 われわれは底のない樽である。底があることを理解しないでいるかぎりは。[6]

 われわれは自分が放棄するものしか所有しない。放棄しないものは手から逸れていく。この意味で、神の手を経ずになにかを所有することはできない。[9]

 神の現存。それは二通りに理解される。神は創造者である。それゆえ存在するすべてのもののなかに神は現存する──それらのものが存在するからには。一方、神が創られたものの協力を必要とする現存がある。それは創造者としてではなく、霊としての神の現存である。第一の現存は、創造の現存である。第二の現存は遡創造の現存である(われわれの助けなしにわれわれを創ったおかたは、われわれの同意なしにわれわれを救うことはないであろう アウグスティヌス)。[26]

 放棄することによる所有([6,9])。
 余談ですが、このことは一つ前の記事の非所有を連想させますが、
 たぶん「現実の非所有」ではなく「非現実の非所有」のほうです。

書こうと思ったことは、この章からの引用の一つ前、
最初の引用下線部を読んでいて思ったことについてです。

この下線部は、相手の存在をまずは留保なしに認めること、
価値観の違いがあってもそれは意味付ける以前に存在であること、
といった道徳的な内容に読めますが、たぶん、
その強度を「神の行為の模倣」によって担保すること、
その行為が「放棄」であることへの興味が、
「遡創造」の章を詳細に読ませたのだと思います。 

 × × ×

一つ目の引用下線部を読んで、僕はふと、
ハイゼンベルク不確定性原理」を連想しました。
前にちょっと触れたハイゼンベルクの自伝『部分と全体』をいま併読していて、
ちょうど昨日、この原理が生まれた時の出来事が書かれた部分を読みました。

確かにわれわれは、いつでも霜箱の中における電子の軌道は観測することができる、と軽々しく言ってきた。しかしひょっとすると、人が本当に観測するものはもっとわずかなことであるのかも知れない。(…)だから正しい設問は次のようなものに違いない。量子力学において次のような状態を表現することができるか? その状態では、一つの電子が、ある程度の不正確さでもって、ある一つの与えられた場所に存在し、また同時に、再びある程度の不正確さでもって、前もって与えられた速度の値を持ち、そしてこの不正確さの程度を、実験との間に困難をきたさないように、できるだけ小さくすることができるか? と。そのような状態を、数学的に表現することができて、そして不正確さについては、後に量子力学の不確定性関係と名づけられた、あの関係が成り立つことを研究所へ帰ってからのちょっとした計算が証明したのであった。場所と運動量(…)との不確定さの積は、プランクの作用量子より小さくはなり得ない。これでもって霜箱の中における観測と量子力学の数学との間の結びつきが遂に整えられた、と私には思えた。

「新世界への出発」p.127 (W.ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房、1999、[289.3/ハ])

量子力学は大学で習いましたがその記憶はなく、
(ただ本書のような専門的記述の多い自伝を抵抗なく読める*1のは講義のおかげでしょう)
不確定性原理について覚えていることは、
観測する行為そのことが測定系に影響を与える」ということ。
顕微鏡でなにかを見る時に、電子線なりガンマ線なりを照射しますが、
測定対象がどんどん小さくなる(=解像度が高くなる)と、
その照射による測定対象の状態変化が観測結果に現れてくる。

この自伝には、科学研究と政治や歴史、宗教との関係の対話があり、
その中に「科学の進歩が宗教や哲学に新たな認識をもたらす」といった言葉がありました。
量子力学という学問の発展がまさにその一例で、
直観で理解できるニュートンの物理学から量子力学へは、
認識における大きな飛躍があります。
ただこの「新たな認識」とは、
科学が宗教や哲学に先んずるという意味ではなく、
科学が宗教の力を弱める(あるいは宗教に別の役割を与える)、
宗教や哲学が古くからもっていた思想に科学が後ろ盾を与える、
などの様々な影響のことをさします。

今書いた「後ろ盾を与える」が、
不確定性原理の遡創造に対する関係かもしれない、
という思考の端緒が、
後者から前者への連想に含まれていたかもしれない、
という思いがここまで書いてきた動機の一つですが…

宗教における言葉と科学における言葉とで、
同じ言葉(たとえば「存在」)でも指す意味が異なる、
ということについてのハイゼンベルクとボーアの対話が、
自伝の中に収録されています。
宗教の言葉は価値を表す一方、科学の言葉は事実を表す、
そうきっぱり割り切れればよいが(プランクはそういう人だったらしい)、
宗教の言葉が事実をも表していたとされる過去の宗教が、
その形を変えずに残っていることは科学の言葉によって力を削がれることと相関する。
そして宗教の「社会統治システム」の側面に長い歴史がある、
あるいは人間社会の本質が含まれている以上、
その側面において科学が宗教になることも避けられない。
(自伝には科学信奉者ディラックをパウリが警句的に茶化して諌める場面が出てきます)

何を書こうとしたのか、
もう書きたいことを書いたのか、
よくわからなくなりました。

この自伝は専門的な記述も多いですが、
量子力学という一つの学問分野の発展の中での、
非常に人間的な過程(内容の多くを研究者たちの対話や討論が占めます)を通じて、
科学の「プラクティカルでない側面」について多くを知ることができます。
この側面の認識は、日本で漠然と生活する限り、決して得られないと思います。

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

*1:専門用語に見覚えがあること、登場人物に馴染みがあること、など。本書には、定理や公式にその名が冠された人びと、たとえばパウリ、ボーア、プランクアインシュタインディラックなど数多く登場し、彼らがそれぞれ、彼ら自身の言葉で語ります。もちろんハイゼンベルクの頭の中で、ということですが。