human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非現実の非所有

これほどの長編(全6巻)を本腰を入れて読むのは始めてですが、
同じテーマが繰り返し現れる時に、
「それが長編であること」の効果を感じています。

一つ目の引用の章タイトルがないのは本を返却していて手元にないからで、
ではなぜ引用ができるのかといえば、気になった部分を複写にとっていたからです。
引用を二つ並べたことの意味はたいしてなく、
継続的に読み続け、一つ目を目にし、読み続け、二つ目を目にしたときに、
思いついたことがあり、その内容が本記事の本題ですが、
二つ目を読んだ時に一つ目の状景が思い浮かんだのでした。

因みに一つ目の太字部は『ああでもなくこうでもなく』(橋本治)に同じテーマが出てきたので、
また気が向くか、何かべつのものとリンクするか、妙に思い出した時に触れようと思います。
 ということもありますが、本記事を書いてから読み返して思いついたのは、
 ハシモト氏の広告時評連載*1は「日本で起こった事件に精神を与える」ものだ、と。

また二つ目の太字部「等々」は、「滔々」でもあって、
本文中ではここの説明部に「一瀉千里」というすごい四字熟語があてられていました。

これは、次のように要約できると、ウルリヒは主張した。われわれ人間は、何が起きるかはあまり問題にせず、誰に何処で何時そのことが起きるかを問題にしすぎる。そのため、事件の精神ではなくて事件の粗筋が、新しい生活内容の開発ではなくて既存のものの割り振りがわれわれには重要事で、それはちょうど、本当に優れた戯曲とただ成功しただけの戯曲との相違に相当する。しかしわれわれは、これから引き出される結論とはまったく反対のことをしなければならない。まず第一に、経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度を捨てなければならず、したがって、経験を、個人的で具体的なものよりも一般的で抽象的なものとみなすか、あるいは、経験がまるで絵とか歌になってしまっているかのように、個人的には経験をまったく自由なものとみなすようにしなければならない。経験を自分の方に向けてはならず、それを上方あるいは外へ向けなければならない。そしてこれでも個人的だとみなされるなら、さらに何かを集団的にしなければならない。この何かについてはウルリヒにもうまくいえなかったが、それは、葡萄搾りと葡萄酒の貯蔵と関係があり、彼はそれを精神の濃縮と名づけて、もしこれがなければ、もちろん個人は自分のことをただ無力な存在と感じて、好きなように振舞うだけだと考えるにちがいない、といった。

「第84章 ***」p.142 (『ムージル著作集 特性のない男Ⅱ』加藤二郎訳、松籟社

「そら、いつかあなた[=ウルリヒ]はいったじゃない──あたしたちの暮らしている状態には、割れ目があって、いわばそこから考えられないような状態が、こちらをのぞいているんだって。(…)それであなたは、人は怠惰と習慣のために、この穴の方に目を向けないか、それとも悪いことをいろいろやって、それから気をそらせているんだといったのよ。さあ、これからの話は簡単よ。この穴を通って、人は抜け出さなければいけない! そしてあたし[=クラリセ]にはそれができるのよ!(…)でも、あんたには、みんなわかっているわね! だって、現実には考えられない状態がある、そして人は自分の体験を自分の方に向けたり、それを個人的な現実的なものとみなしてはならず、それを、歌われたり描かれたりしたものと同様に、外へ向けなくてはいけない等々と、あなたが話したとき、あなたはそういうことを考えていたのですものね。あたしには、あなたのいったことを全部、そっくりそのまま繰り返すことだってできるのよ!」

「第123章 反転」p.188-189 (『特性のない男Ⅲ』)

下線部を読んだ時に、脳と身体のことを考えました。
そして現実と所有の、いくつかの関係を考えました。

現実とは、身体性とアフォーダンスに規定される有形のものです。
非現実は、ここでは簡単に精神とします。
所有とは、なにかを個人が私有することです。
非所有は、所有以外の所属形式を指します。
 非所有は共有も、放棄も、昇華も含みます。
 別の問題意識ですが、クラウドストレージは非所有ではない気がしています。


引用の下線部中のウルリヒの提案は、「非現実の非所有」のことをいっています。
 体験は、それそのものを現実と呼ぶのかもしれませんが、
 体験を「扱う」段になると、それは精神の側に属するものになります。
こう考えたとき、これに"対応"するものとして「現実の所有」があると思い、
僕自身の関心に即した表現になおせば、これは「身の丈の生活」です

引用下線部の前段(「経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度」)は、
上記にたいして「非現実の所有」をさします。
そしてこれも上記と同じく"対応"を考えると、それは「現実の非所有」になります。

これら「非現実の所有」と「現実の非所有」は、
後者がどういう状態をさすのかイメージが湧きません(あるいは忘れました)が、
どちらも「際限がない」という性質をもちます。
あるいは、両者が「お互いの際限のなさを昂進してゆく関係」にある。

こう言い換えたのは、「現実の所有」と「非現実の非所有」の関係においては、
「非現実の非所有」自体が際限のなさを二乗した性質であるにもかかわらず、
それを「現実の所有」が(適切に機能すれば)有限の枠に納められるからです。


上の説明のなかの"対応"は、この表現の説明は今思いつきませんが、
「脳と身体の対応」という言い方をするならば、これと同じような意味だと思います。

 × × ×

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

*1:この連載が本になっている、いまはないマドラ出版が発行の(つまり絶版の)『ああでもなくこうでもなく』シリーズは全6巻で、そのインデックス版が集英社から1冊でています。

退廃から遠く離れて ─ 『根をもつこと』を読んで

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を、いちおう読了しました。
時間切れという面もありますが(おそらく日が変わりたての今日が返却日)、
読みたいと思った部分である第一部と第三部はひととおり読みました。

根をもつこと

根をもつこと

抜粋が多くなりますが、時々コメントを入れながら以下に抜粋します。
理解が及ばない文章が多いものの、今の自分に重要だとは分かって、
そのままの文章で記憶にとどめて、後になにか形をなすことを待ちます。

本書を読む間は坂本龍一のピアノ「戦場のメリークリスマス」を頭の中で流していました。
なんとなくの選曲だったのですが、読むうちに本書が、
第二次大戦中にフランスがドイツに占領されていたおり、
シモーヌ氏が亡命中のニューヨークからロンドンへ行ってレジスタンスに参加し、
戦中の戦意発揚と戦後フランスの思想的復興のために書いた文章だと知りました。

なんとなく、クリスマス。

↑関係ないです。

 × × ×

 魂の第一の要求、その永遠の運命にもっとも密接な関係にある要求は秩序である。すなわち、なんびとも、ある厳正なる義務を遂行するために他の厳正なる義務を侵害することを迫られないような、社会的諸関係の織り目である。

 最後に、さまざまな義務の感情は、かならず、唯一にして不動なる善への渇望から、すなわち揺籃より墓場まで、万人にとってすぐそれ自体として確認される善への渇望から生じる。この渇望がわれわれの奥底でたえず活動しているために、義務が両立しえないような情況に忍従することはできない。われわれは、あるいは義務が存在することを忘れるために虚言に援けを求め、あるいは義務の存在から脱れようとして盲滅法にもがくのである。

 もし、真の人間的秩序への想念をたえず脳裏にとどめ、そのときに直面すれば、全面的な犠牲行為をも厭うべきでない対象としてこの秩序を考えるならば、われわれは、導き手もなく闇のなかを歩みつつ、しかも、おのれがたどろうと欲する方向をたえず想いめぐらす人間の境位に立つことになる。こうした旅人には、大いなる希望がある

 要求を欲望や気まぐれや悪徳と分かち、糧を珍味や毒と分かつ第一の特徴は、要求がそれに対応する糧と同様に限界を有するということである。吝嗇漢はいくら金貨を所有してもこれでよいということがない。しかしながら、ひとはだれでも、好きなだけパンを与えられた場合、もうけっこうだと言う瞬間がくる。糧は満腹感をもたらす。魂の糧についても同様である

「"秩序" 第一部 魂の要求するもの」p.30,31,32

環境問題は、事実であり、現代社会の秩序に対する破壊的な事実なのだと思います。
知った以上、背負い続けねばならず、さもないと退廃に陥る。

「旅人」という表現がいい、そして意外に思えた「希望」という言葉。
これは恐らくあとで抜粋する「純粋な善の追求」に対してだと思います。

そして、身の丈感覚。

 人間の魂に欠くべからざる糧は自由である。語の具体的な意味における自由は、選択の可能性に存する。もちろん、ここでいう可能性とは、実際的な可能性である。共同生活があるところではどこでも、共同の利益のために課せられる規律が選択を制限することは避けられない。

 規律は、十分に合理的かつ単純なものであって、そのようにのぞみ、また中程度の注意力をそなえた人間ならだれでも、それらの規律に対応する利益と、それらの規律を課した事実上の必要とを理解できるといったものでなければならない。また規律は、外国のものとか、敵のものとかみなされない権威、それに服する人間たちのものとして愛される権威から発する規律でなければならない。さらに十分に安定し、十分に数少なく、十分に一般的であって、思考はそれらを決定的なかたちで自己に同化し、なにか決心しようとするたびごとにそれらと衝突することがないといった規律でなければならない。

「"自由" 同上」p.33-34

たぶんここでは明文化された規律のことをいっていて、それとは違う話になりますが、
この「規律」は、自分が見出していかねばならないものだと思います。
少なくとも僕にとってですが、これは前に書いたこと↓と深く関係しそうです。
そして見出すとは、創るのではなく、過去を照らした結果でのことです。
cheechoff.hatenadiary.jp
抜粋に共同生活で課せられる規律とある通り、これは本来集団で共有されるべきものです。
だから、見出して「自己に同化」させることは、「スタート」だということになります。

 服従は人間の魂の生命的な要求の一つである。服従はつぎの二種類に分かたれる。すなわち、既成の規律にたいする服従と、首長とみなされた人間への服従である。服従の前提になるのは、受けた個々の命令にたいする同意ではなく、万一の場合にには良心の要請に従うという唯一の留保条件のもとに、決定的なかたちで与えられる同意である。懲罰にたいする恐怖、ないしは報酬の誘惑ではなく、この同意こそ、事実上、服従の主要なる原動力をなすものであり、服従には隷属のかけらすらないということが、一般に、とりわけ首長たちによってぜひ認められなければならない。

「"服従" 同上」p.35

この「唯一の留保条件」が有効でない関係においては、知的退廃が生まれる。

 労働者の文化に対する第二の障害は、労働者という境遇には、他のすべての境遇と同様、それに対応する固有の感受性の傾向があるということである。したがって、他人によって他人のためにつくられたもののなかには、すべてなにかしら異質のものが存在することになる。
 これにたいする解決策は、翻案への努力である。つまり、大衆化への努力ではなく翻案への努力である。この両者はまったく別種のものである。(…)
 真理を置換する技術は、もっとも基本的な、しかももっとも知られていない技術の一つである。この技術が困難とされるのは、それを実践するにあたって、当人がすでに真理の中核に身を置いた経験がある、すなわち、偶然にその真理が開示された特殊な形式を越えて、赤裸々なかたちでそれを所有した経験があることが必要だからである。
 かつまた、置換は、それが真理か否かを識別する公準の一つである。置換されえないものは真理ではない。同様に、視点にしたがって外観を変えないものは実物の対象ではなく、実物のように描かれた絵にすぎない。思惟のなかにもまた三次元の空間がある。

「"労働者の根こぎ" 第二部 根こぎ」p.101-102

真理は、それと向き合う人の価値観や文化的背景に応じて、その表現を変える。
これは当り前のようにも聞こえるし、ありえないようにも思える。
「翻訳の不可能性」が言われる諸言語のレベルではない、ということは言えると思います。

 吝嗇漢は、金を蒐めはじめた当初において、吝嗇漢ではない。おそらく彼はまず、金で手に入れることのできる愉楽の想念に動かされているのだ。だが毎日負わされる努力と禁欲とが誘引力を生み出す。犠牲が当初の衝動をはるかに乗り越えてしまうと、犠牲の対象である財宝が、彼にとってそれ自体目的となってしまう。そして彼という人間をこの目的に従属させてしまう。蒐集狂もまた、同種のメカニスムのうえに成り立つ。(…)
 このメカニスムはつぎのような構造をもつ。すなわち、一つの行動は、まがりなりにも、まずその外的動機によって推進されたあと、それ自体が執着の対象となる。その結果、行動がそれ自体よいか悪いかにしたがって善か悪かが生じてくる
 フランスへの奉仕のためにドイツ兵を殺し、そのしばらくあと、人間を虐殺することに喜びを感じるようになるとすれば、それが悪であることは明らかである。
 フランスへの奉仕のために、ドイツへの強制移送から逃れようとする労働者を援け、そのしばらくあと、不幸な人間たちを救うことに歓びを感じるようになるとすれば、それが善であることは明らかである。
 あらゆる場合がこれほど明らかであるというわけではない。だが、あらゆる場合をこの方法で検討することが許されよう。
 とにかくすべてが同一条件なら、それ自体としていつでもそのなかに善への誘引力を含んでいる行動様式のほうを選ぶべきである。すべてが同一条件でないときでも、たいていはそうしなければならない。善のためにそうしなければならないというだけではなく(これは充足理由である)、さらにまた有利さのゆえからもそうしなければならない
 悪は、善よりもはるか容易に、効果的な原動力となる。しかし純粋な善がある魂の内部で効果的な原動力になると、涸れることも変わることもない推進力の泉となる。このことは、悪の場合にはけっしてみられない

「第三部 根をもつこと」p.282,284

この「純粋な善」についての文章は、そのまま吸収しておきます。
序盤で触れましたが、この一文をさして「希望がある」と書いたのではと思いました。

 その天分がきわめて純粋で、はっきりと、聖人のうちでもっとも完全な人たち特有の偉大さにきわめて近いといえるほどの天才たちが存在する以上、なにゆえその他の天才を讃美して時を浪費することがあろう? その他の天才たちを利用し、彼らから知識と愉楽とを汲み取ることはできる。だが、なにゆえ彼らを愛することがあろう? なにゆえ善以外のものに心をゆだねることがあろう?
 (…)
 散文の分野では、おそらくラブレーのなかに神秘的な純粋さが存在する。とにかく彼においては、いっさいが神秘的なのだ。

同上 p.312,313

美術や文学の分野でももっと多くの人が挙げられていますが、
なぜか気になったのでこのラブレーという人だけメモしておくことにしました。
たぶんどこかで名前を聞いた(読んだ)ことはあるんですが、覚えていません。
そういえばシモーヌ氏にも同じ感覚を抱いていましたが、
ブログ内で検索してみつけた記事によれば、『困難な自由』(レヴィナス)でした。

 かさねて言っておくが、糺弾することが正当とされるのは、見棄てられ、あわれな姿で放浪していた、かの飢えた魂の青年ではなく、彼に虚言を与え、それを食べさせた人びとなのである。彼に虚言を与え、それを食べさせたのは、われわれより年長の人たちであるが、われわれもまた彼らに似ているのである。
 現代の破局においては、死刑執行人もその犠牲者たちも、なによりもまず、われわれがその深淵に横たわっている怖ろしい悲惨についての証言を、意識せずしてともにもたらしているのだ。
 犯罪者を懲罰する権利を獲得するためには、彼らとおなじ罪がわれわれ自身の魂のなかに種々変装してひそんでいる以上、まずもってそれらの罪からおのれを浄めなくてはなるまい。だが、この努力を首尾よくおこない、ひとたびそれがなし遂げられるや、われわれはもはや懲罰にたいするいかなる欲望も有しなくなるであろう。たとえ懲罰をおこなわざるをえないと信じたとしても、最小限にとどめ、それをおこなうに際しては、極度の苦痛を受けることになろう

同上 p.318

抜粋中の「青年」=「死刑執行人」は、ヒトラーのことです。

 ある瞬間にブラジルの首府がどこかを知らなかったのに、つぎの瞬間にそれを学んだとするなら、彼は一つ余計に知識を得たことになる。だが、なんら以前より真理に近づいたわけではない。知識の獲得は、ある場合にはひとを真理に近づかせる。だがある場合には近づかせてくれない。それぞれの場合をどのように識別したらよいのか?
 ある男がひとりの女性を愛し、その女性の全幅の信頼を寄せていたのに、たまたま彼女の不倫の現場をとらえたとするなら、彼は残酷なかたちで真理を接触したことになる。だが彼と面識がなく、はじめて名前を耳にした女性が、それにおとらず彼と面識のない都市のなかで夫を裏切ったことを知ったとしても、真理と彼との関係にはなんらの変更も生じない。
 この例は問題を解く鍵を与えてくれる。知識の獲得がひとを真理に近づけるのは、ひとが愛しているものにかんする知識が問題とされる場合だけであって、他のいかなる場合でもない
 真理への愛というのは適切な表現ではない。真理は愛の対象ではない。真理は対象ではないのだ。ひとが愛するのは、存在するあるもの、ひとが思考するあるもの、その思考を通じて真理か誤謬かの契機となりうるあるものである。一つの真理とはかならず、あるものにかんする真理である。真理自体は実在そのものの輝きである。愛の対象は、真理自体ではなく実在である。真理を欲するとは、実在との直接的接触を欲することである。実在との接触を欲するとは、それを愛することである。ひとが真理を欲するのは、真理において愛するためである

同上 p.333-334

蒙を啓かれる一節です。
この一節を頭の中で回していると、言葉が溢れ出てきそうな予感があります。

 人間というものは、おのれが他人に蒙らせることをごく当然と考える不幸でも、おなじ不幸を相手がおのれに蒙らせうるとは想像しない。ところが実際にそういう結果になり、みずからその恐怖の渦中に置かれると、その不幸をごく当然と思うようになる。彼らの心情がおなじ取扱いを他人に蒙らせることを嫌わなかったために、おのれの心情の奥底に、その取扱いに対する怒りや抵抗を生み出す力の源泉を見出すことができないのだ。すくなくとも、たとえ想像力によってさえ、もはや外側からは支えになってくれるものがなにもなく、心情の内奥にしか力の源泉を見出しえない破目になった場合はそうである。いわんや、過去の犯罪がそれらの源泉を破壊してしまっているならば、弱さだけがすべてであって、いかなる度合の恥辱でも受け入れてしまうのだ。この人間の心情のメカニスムのうえに、『黙示録』のなかでつぎの文章が表現している相互性の法則が成り立っている。「ひとが相手を奴隷状態のなかに引きずり込むならば、彼もまた奴隷状態のなかに引きずり込まれるであろう」〔黙示録一三・一〇〕。

同上 p.358-359

後半が何を言っているのかよくわからないのでまた読み直すとして…

「実際にそういう結果になり」とありますが、自覚があれば、
そういう結果になる前から「その不幸をごく当然と思うようになる」。
僕はこういう経験があり、自覚がありながらそれをそのままにし、
そうして自分自身の退廃を見て見ぬふりしていたことがありました。
一度知ったことは、なかったことにできない。
そう思いながら、この退廃が自分の現状を維持していることも知っている。

あんな状況にはもう二度と陥りたくはなく、この思いが、
理想の行動より理想の状態を志向する今につながっているのではないかなと、
前に働いていたある時期を思い出しながらふと考えました。

 人間が、神のわざであると考える特別な計画は、すべて、因果的結合の無限といってもまだ足りない複雑さから切り取った断片にすぎない。われわれは持続のなかで、ある種の出来事を、それから生まれる諸結果のうち、幾千もの数あるなかから選ばれたある種の結果に結びつけることによって、かかる切り取りをおこなう。それら切り取られた断片について、それが神の意志に適合していると言うだけなら、われわれは正しい。しかしそれは、あらゆる種類の人間の精神、あるいは人間ならざるものの精神が、いかなる大きさの段階にあるかを問わず、空間と時間とのなかで、宇宙の複雑さから切り取ったいっさいの断片と、ただ一つの例外もなく、おなじ程度において真実であるにすぎない

同上 p.369

これは一つ前の記事の「本題」なんですが…気が向けば別記事にまた書きます。

 虹にかんする伝承は、あきらかにモーゼがエジプト人から借用したものであるが、世界の秩序が人間に与えるはずの希望を、もっとも感動的なかたちで表現している。
 「神は言われた。……私が雲を地のうえに起こすとき、虹は雲のなかに現れる。こうして私は、私とあなたがた、およびすべて肉なるあらゆる生き物とのあいだに立てた契約を思い起こすがゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。」〔創世記、九・一四─一五〕
 虹の描く美しい半円は、この地上の現象がいかに怖ろしいものであれ、それらすべてが一つの制御に服しているという証言なのである。この行文のすばらしい詩情は、神にたいして、制限する原理としての彼の役割を思い出させることをねがっているのだ。
 「あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、ふたたび地を覆うことのないようにされた。」〔詩篇、一〇四・九〕

同上 p.374-375

とりあえず一つ言いたいこととして、
「虹が制限を表現する」という発想に「へー!」と思いました。
雲間や森林の光芒は「直進する光の性質」を思い起こさせますが、
そういう自然原理の一例ではなく、「自然原理の統率性」の現れとみるのですね。

虹にはなにかとかきたてられる思いがします。
前に虹について書いたことをリンクしておきましょう。
cheechoff.hatenadiary.jp

 科学的探究における知性の働きは、非物質的な、力ならざる関係の網目として物質を支配する必然を想念のうちにあらわにしてくれる。この必然が完全なかたちで理解されるのは、それらの関係が完全に非物質的なものとしてあらわになったときである。そのときそれらの関係は、力に服しない魂の一点から発する、高度で純粋な精神集中の結果として、想念のうちに現前するようになる。人間の魂のなかで力に服する部分は、必要の支配下にある部分である。それらの関係を非物質的な純粋さにおいて理解するためには、いっさいの必要を忘れなければならない。その境地に達するとき、満足が必要にたいして与えられたり拒否されたりする力のからくりが理解できるようになるのだ。(…)
 自己自身の思惟、自己の個人的な思惟に魂が満たされているのを黙認するかぎり、その人間は、おのれの思惟の一番深奥のところまで、完全に必要の拘束と力のメカニックな働きとに服している。そうではないと信じるなら、彼は誤謬に陥っているのだ。しかし真の精神集中によって魂を空虚ならしめ、そこに永遠の英知への想念を流入させるならば、すべては変わってくる。そのとき彼は、自己のなかに力をも服従させる思惟を宿すことになるのだ

同上 p.378

全体的になにが言われているのかがよくわかりません。
が、下線部、とくに太字部はなんとか理解したい思いがあります。
というわけでここも、そのままのみこんでおきます。

いや、少しだけ考えてみますが、
「満足が必要に与えられる」は単純に"必要を満たすこと"で、いっぽうの
「満足が必要に拒否される」とはなにか?
必要を満たしても満足しない、ということ?
 それは「必要」なのか?
 肉体的な満足では精神は満たされない?
満足を伴わない必要がある、ということかな(あれ、同じ?)。
んー、有限的満足と無限的満足(矛盾語だな)があるということかな。
よくわかりません。



長かった…一記事では過去最長かもしれません。
なにかのきっかけでシモーヌ氏を思い出したり連想した時に、
本記事を読み返すようにしようと思います。
きっかけがないと、読み返すにも苦労する量と重さですからね。

零の禅、思惟の啓蒙、メカニスムの持続

森博嗣のVoid Shaperシリーズはいま二作目を読んでいます。
(タイトルの"blood"、"scooper"に、装幀が"bamboo"です)

主人公がゼンという侍で、スズカ・カシュウという師に山で育てられたが、
師が死に、その遺言に従って山を下りるところから(シリーズの)物語が始まります。

人物名がみなカタカナで、でも日本名なので漢字を想像させるのですが、
カシュウは「夏秋」、カシュウの旧友で住職のカガンは「彼岸」かなと、
真賀田四季からの連想で勝手にそう思っています。
(ちなみにスズカはシシオ(=志々雄)の一字ずらしかな、と)
一月前の記事↓のタイトルは(本文に関係しませんが)そういう意味です。
では、二作目で登場した同じく旧友の読書家クローチは? 
…しばらく考えておきます。
cheechoff.hatenadiary.jp

以上は余談で、以下も余談ですが、
ゼンはむしろゼロの方がいいのではと思えて、
というのは山から下りたゼンは世間知を知らずに世を渡り歩いていくのですが、
僕の感じる面白さはゼンが「ゼロから考えていく」ところにあります。

ものを考えたり状況を判断するときに、
人は常識や経験や知識を元手にしますが、
それらが自分の身につき、自分と不可分であるほど、
それらを抜きにして(括弧に入れて)考えるのは難しい。
内田樹氏はこれについて「情報を抜く」という言い方をしています。
 情報を抜く (内田樹の研究室)
原理的思考という言葉がありますが、
「〜原理主義」とは違う、本来のこの言葉の意味に近い。

余分な知識も豊富な経験もなく人と相対すれば、
その人の言葉を、身ぶりも含めてまずは受け入れる。
疑うことを知らないほど子どもというわけでなく、
疑うかどうかを判断するための情報が不足している状態。
論理的思考は師から学んでいて、だからまずは全てを吸収して思考材料とする。

ゼンと知り合うことになった人は彼に「無邪気」と言う、
けれど、だからそれは子どもっぽい=無知であるのではなく、
きちんと思考に基づいた上でそうあるべくしての純真である、
読んでいて清々しくなる理由はこのゼンになれるからかもしれない。

 × × ×

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を読んでいて、
上記の二作目『ブラッド・スクーパ』を連想したのが本記事の動機でした。
なのでいちおう、ここからが本来の本題です。
(上記が若干書評っぽくなったので、寝かせてしばらくあとで書評サイトに投稿しましょう)


シモーヌ女史の本に対する姿勢は前に書いた通りで、
常識と違ったり(これは岡潔氏の本に対してとは違って時代背景の知識が自分にないので
判断できませんが)理解できない文章に出会った時に、それをすっ飛ばすのではなく、
どう解釈すればよいのかと立ち止まって考えることになるのですが、
もちろんもてる知識と思考力に応じて解釈に限界はあって、諦めて進むことになって、
しかしそれが「なぜだかわからないが頭にひっかかる文章」となって蓄積されていく。
前に「渾身系」と表現した人の本にはこういう文章が多々生じる。
これは、本を読む前と後とで変わりたいと思って読む人にとっては喜ばしい現象です。

 当然の結果として、摂理の観念もすっかり姿を変えてしまった。摂理は思考を茫然たらしめるほどの紛れもない不合理である真の信仰の神秘もまた不合理であるが、この不合理のほうは思惟を啓蒙し、知性にとって明白な真理を大量に現出させる。このほかのもろもろの不合理は、おそらく悪魔の神秘に属する。そしてこの両者の神秘は、現在のキリスト教思想のなかに麦と毒麦のように混じり合っている。

「第三部 根をもつこと」p.364-365(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』春秋社)

この抜粋の太字部にとても強い力を感じて、付箋をつけました。
宗教心がなくても宗教に関心をもつ理由はここにあるのでは、と今読み直して思いました。
本題は下線部なんですが、先にこちらに触れておきます。

たとえば内田氏の『私家版ユダヤ文化論』などに書かれたタルムードの話がこれかと思います。
口伝律法であるタルムードの内容解釈が、代々のラビ(偉大な宗教的指導者)によって異なる。
同じ一つの条文から、個々に様々な解釈によって絶えず新たな真理が生まれる。
ここでいう解釈は僕らの日常的なレベルのものではなく、抜粋の「思惟の啓蒙」と対応する。

この「思惟の啓蒙」については、本書にも書かれていると読みました。
次に抜粋する部分は「メカニスム」という言葉の説明に興味を惹かれました。
メカニズムは、保坂和志氏の思考関心の中心でもあります。

 種子にかんするいっさいの譬えは、非人格的摂理の観念に照応している。恩寵は神のところからあらゆる人間に降りそそぐ。恩寵がそれぞれの人間のなかでどんなものになるかは、彼らがいかなる人間であるかに左右される。実際に恩寵が滲透したところでは、それが結ぶ実は、メカニスムに類似した過程の結果である。かつこの過程は、メカニスムとおなじく、持続のなかでおこなわれる。忍耐の美徳、この忍耐というギリシア語〔υυπομονηη〕をもっと正確に翻訳するならば、不動の待機は、この持続の必要性に関連している
(…)
超自然的メカニスムは、すくなくとも物体の落下の法則とおなじように正確である。自然的メカニスムは、価値にたいするいっさいの考慮なしに、事件を事件として生ぜしめる条件である。また超自然的メカニスムは、純粋なる善を純粋なる善として生ぜしめる条件である。(…)
 十字架の聖ヨハネの全作品は、超自然的メカニスムの厳密に科学的な研究にほかならない。プラトンの哲学もまたそれ以外のなにものでもない。

同上 p.345,346,347 抜粋中ギリシア語のアクセント記号は省略

「メカニスムは持続のなかでおこなわれる」。
こう言われて、メカニズムは構造とは違うと気づきます。
機械の機構など、ものの仕組みのことをメカニズムとも構造とも呼びますが、
この使い方においては時間的経過、つまり持続にあまり重きは置かれていません。
内燃機関の動作などは典型的な「反復」動作で、これは「持続」と似ているようで異なる。
保坂氏が小説で書いているのは、人間関係や、人と家の関わりに関するメカニズムで、
家に住んでいた人々の"なにか"がその家に残る(猫はそれに気付いている?)といった現象は、
家族が何十年と住み続け、友人たちも頻繁に出入りするといった「持続」がもたらすものです。

あと、抜粋の「不動の待機」というのがいいなあと思ったんですが、ちょっと話を戻しまして…

上記の「知性の啓蒙」によって現出した「真理」の例を一つだけ抜粋しておきます。
…と言いながら、以下の抜粋で何が言われているのかよくわからないのですが、
「何かが頭にひっかかり」、何度読み返してもその理由がわからないので抜粋するのです。
わかりませんが、「真理」とは格言のようにシンプルに表現できるものでは実はなく、
そこから言葉を引き出さずにはいられないものを指す
、のかもしれません。

 一番遅れてやって来た雇い人の物語のなかには、葡萄畑の主人の側に気まぐれがあるように思われる。だが少し注意してみるならば、事実は逆である。彼はただ一つの賃金しか払わない。ただ一つの賃金しか所有していないからである。彼には小銭がない。聖パウロは賃金を定義して、「私が知られているように、私は知るであろう」〔コリント人への第一の手紙一三・一二〕と言っている。ここには程度の差はない。おなじように、賃金を受ける行為にも程度の差はない。呼ばれたとき、駆けつけるか駆けつけないかである。たとえ一秒たりとこの呼びかけに先んじる能力はだれにもない。やって来た時期など問題ではないのだ。また、葡萄畑における労働の量や質も考慮されないのだ。時間によってではなく、同意したか拒絶したかによって、ひとは、時間から永遠のなかに入ることが許されるか否かなのである

同上 p.347-348

寄り道が長くなってしまいました。
本題だった「摂理の観念」の併読リンクについては記事をあらためます。

連想の契機、四次元の意識空間

『博士、質問があります!』(森博嗣)に、SFのテーマで4次元の解説があって、
その中に「厚さ方向にだんだんと表情を変える金太郎飴」という例があります。

 二次元空間にいる人(たとえば紙に描かれた人)が、
 空間を通過するその金太郎飴を見ると、
 たとえば「笑顔からだんだん怒った表情になる顔」に見える。
 金太郎飴は三次元なので、この例は二次元と三次元の交わりにおける認識を示す。

 あるいはその紙のどこかに(三次元にいる人が)指を置いたとすると、
 二次元にいる人には「ある場所に突然円が発生した」ように見える。

 ここから三次元空間にいる現実の人が四次元をどう認識するかを類推できる。
 たとえば部屋の中に突然光る球が浮かんだとすれば、
 その球(別に光っている必要はない)は四次元空間からの賜物ということになる。


という話を思い出したのは、前↓の最後に書いた「"〜でない"の集積による表現」の関連です。
cheechoff.hatenadiary.jp

言葉とものの対応を領域のメタファで考えることを集合論の利用は前提しますが、
集合論における閉空間はふつう二次元を想定します。

が、それは「せまい」かなと、さっき『特性のない男』を読んでいて思いつきました。

この本では主人公のウルリヒが友人との会話から「特性のない男」と呼ばれるようになり、
長い物語の中で「特性のない男の"特性"」について小出しに触れられていきます。
 考えてみれば、特性が「ない」と言ってるので"〜でない"の典型で、
 その特性の説明が非限定的言明で構成されるのも当然ですがそれはさておき、

あるものについて"それはAでない"と言ったとき、
上記の二次元閉空間で考えれば、Aという閉集合が一つ生じ、
「あるものは閉集合Aに含まれないものである」ということを意味します。
が、そも言葉とものの対応において「その二次元閉空間とは何なのか?」という疑問があって、
(この疑問は今出てきただけなのですばやく棚上げしますが、)
"それはAでない"と言ったときに「Aを含む別の二次元閉空間が発生する」と考えてもよい。

これを絵で描こうとするとたぶん面倒です。
概念で考えるとわかりやすくて、
あるものに対して"Aでない"と言ったときに、
あるものとAが異なるジャンルに属する(容易に結びつかない概念同士である)場合には、
あるものをAが属するジャンルに即して思考する契機が発生する
ということです。

 でも特性のない男は非音楽的だったのかしら?
 適切な答えが思いつかなかったので、この考えをそのままにして、彼女は先に進んだ。
 だがしばらくして、思いついた──ウルリヒは特性のない男だ。じゃあやっぱり、特性のない男は音楽的ではありえない。でも、非音楽的でもありえないのではなかろうか?
「第97章 クラリセの神秘的な力とその使命」p.231(ムージル『特性のない男Ⅱ』)

だがクラリセはこの力を、特性のない男で立証してみたいと、しばらく前から考えていた。それがいつからかは、彼女には正確にいえなかろうが、そう考えたのは、ヴァルターが言い出し、ウルリヒが同意した「特性のない男」というこの名前と関連していた。(…)だが「特性のない男」というこの言葉は、例えばピアノの演奏を想起させた。つまり、それは本物の情熱ではないにせよ、演奏中にすごい早さで横切ってゆくあの憂愁、歓喜のほとばしり、怒りの爆発などのことを
同上 p.242

「特性のない男」が、音楽的かどうか?
それを「音楽的でも非音楽的でもありえない」と言って、何を言ったことにもならない。
とりたてて何も意味しないこの疑問と答えが、しかし「ピアノの演奏を想起させた」。

 × × ×

「意味の空間」あるいは「言葉とものとが対応する空間」。
これと「意識(思考)の空間」とを、それらがあるものとして比べたとき、
まったくべつものかもしれないし、似たようなものかもしれません。
が、似たようなものとして考えたほうが便法的にわかりやすく、
そうだとしてここで「意識の空間」というものを考えようとします。

というのも、冒頭に書いた「突然光る球が浮かぶ」というメタファが、
意識の流れについても親和するからで、
そうすると「意識の空間」は少なくとも四次元以上ということになります。
もちろんこれには、"人が想定できるうえで"という前提がつきます。


意識というものは奔放でとらえどころがなく、制御できながらし切れない部分があり、
行動が伴えばはっきりもするし、ただ空想をもてあそべば曖昧にもなります。
それは行動の原動力にもなり、恐怖で身をすくませる麻痺剤にもなり、
従ってそれに全幅の信頼を寄せることも、悪魔のごとく忌み嫌うこともあります。

そういった様々な両面性があって、
しかし終生まで身近に付き合っていくことだけは確かなことであって、
その意識の「とらえどころのなさをとらえようとする」アプローチは、
互いにうまくやっていく上でなんらかの助けになると思われます。

 × × ×

森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!

森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!

梨木香歩と橋本治と「物語」

以前に「併読リンク*1」というタグを作って、
そういうタグを作ったからこのテーマが書きにくくなった、
ということについて書きましたが、
その理由を「"併読リンク"という現象が自然発火的でなくなる」と書いて、
それはそうかもしれないがそれは根本原因ではない、と今は思います。

ではその根本原因はというと、
書きにくくなった理由は、もうシンプルに、
「書きたいという衝動もなく書こうとしている」からですね。

たとえば、連想でつながった2つの文章(内容)が、
それらだけで「言い尽くされている」時には、
その連想主体の僕が言い足すことは何もない。
「言い足す」とは、もちろん、自分にとって。

言葉を換える、というか別の話になるけれど、
「連想」とは、思いついてハイおしまい、ではなく、
「そこからさらに続くなにものか」へのきっかけなのですね


最近このテーマでよく投稿しているので、
あらためて少し考えて、以上のように書いてみました。
だからといって、タグを作る気になったわけでもありませんが。
タグは後々の整理のためで、そういう動機が今はない。

以下、本題です。

 × × ×

三原のいうこともまた、真実ではあった。が、しかし、その括り方は違うと思う。起こった事態を掬い取れるだけの「つくり」になっていない、と棚は感じた。けれど、では、「起こった事態を掬い取れるつくり」とはどういうものなのか。

 片山海里の言っていたという、死者の「物語」こそがそれなのだろう、と思う。人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的に語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴や吹いた風を受け止めるだけの、深い襞を持った物語が。──そういうものが、けれど可能なのだろうか。

梨木香歩『ピスタチオ』、筑摩書房

江戸時代の日本人にとって、重要なのは、「赤の他人がしでかした事件の真相」なんかではなかった。ただ「あ、知ってる」と思うだけの事件の断片が、舞台の上で、「自分も同化出来る、自分も関係があると思われる人間のドラマ」になって行くことだった。
 "事件の真相"というものは、実は、知ってもあまり救いにはならない。真相というものは、結局のところ、"事件"という破綻に至って終わるだけのものだからだ。だからこそ、"真相"を突つき回しても、得るところはなんにもなくて、"ただ一時の騒ぎ"で終わる。それに対して、"事件の真相"なんてものに知らん顔して進められるドラマとは、「人間社会に起こりがちな、この厄介な"ドラマ"というもつれは、一体どのような方向に導かれることによって救いを得るのであろうか?」という、模索なんですね

「第二十四回 ドラマ論」p.411(橋本治『ああでもなく こうでもなく』、マドラ出版)

後者の本は、『広告時評』という雑誌にかつて連載されていた橋本治氏の時評集です。
院生の時に「人生のバイブル」のように読み込んで、それから10年弱、何度かの引っ越しに耐えて本棚に居続けたこの時評集を、最近また読み始めました(毎朝読んでいます)。
朝食時に読んでいた一つ前の本が、読了が一日遅れたら(その次の日が図書館に行く日曜だったので)次に宇沢弘文*2の本を読むつもりだったんですが、前日に読了してしまい、図書館に行く日の朝に読む本がないなと自分の本棚を眺めていてふと手に取ったのがハシモト氏のこの本でした。

時評と言いながら話は古代とつながったりして(たとえば「持統天皇野村沙知代みたいだったらどーすんだ?」みたいな。実際こういう調子=口調で書いてあるのです)、それは当時の氏が(新編?)平家物語を書いていたかららしいのですが(この理由も相当おかしいですが)、そういう時空を超えていろいろとつながる時評は当然これを読む自分にもつながってきて、併読リンクなどと言って処理し切れない事態にもなるんですが、それはそういうものとしてもう一度目に読んだ時に納得はしていて、二度目の今回は線は引かず、前の自分が書き込んだ後を眺めつつ「へえ」と思うだけにしています。

が、まあ前段に書いたとおり書きたくなったので書いているわけです。


梨木氏の本の物語は終盤へ向かっていて、そんな中で前者の抜粋を読んでいる時にハタと「ドラマ論」(=後者の抜粋)が連想されて、並べて引用してみました。
並べてみると、下線部は最初に結びついたところだったんですが、その中での太字部も、共鳴しているように思われます。

後者の抜粋の「事件の真相」とは、それを扱うワイドショーのことを指しています。
この時評の執筆時期には「貴乃花宮沢りえの離婚騒動」があったらしい。


そしてこの時評では「再現ドラマ」についても書かれています。
この論も本記事に関係してきそうなので少し抜粋します。

 再現ドラマのある番組で重要なのは、ドラマではない。ある人間の問題を「ああだ、こうだ」と討論することに主題はある。討論のための参考資料が再現ドラマで、だから、再現ドラマによって語られるものは、ドラマのあらすじであり、骨組みでしかない。だからこそ、役者の顔はいらない。(…)「"事実"こそがすさまじいのだから、余分な演技力はいらない」ということで、テロップに名前の載らない無名の役者達による再現ドラマが登場する。
(…)
普通のドラマに"真実"はなくて、あらすじだけの再現ドラマの"事実"ばっかりが有名になると、そこに生きてる人間のあり方ってのは、きっとどっかに行っちゃうな──というのは、再現ドラマの語るものは、「私の人生とは、演技力のいらない役者によって演じられるものである」ということだからだ。自分の人生から"問題=あらすじ"だけ拾って、"表情=演技力"を捨てちゃうっていうのは、かなり空しくないかなーと、「貴乃花宮沢りえのだんまり」に興奮する私は思うのでした。

p.413-414 同上

梨木氏小説の抜粋にある「人の世の現実的な営み」は、直上の抜粋の"事実"(あるいはその一つ前の抜粋の「事件の真相」)と対応して見えます。


このつながりから、またいろんな方向に連想が及ぶのですが、
(情報過多の現代人の欲求不満とか、「あらすじと分析の書評」の機能とか)
たぶんこれまで何度も考えてきたことが多いので、
そういうのはちょっとおいて、
別のことをちょっと書いておきます。


男は身体(性)の重要性について頭で理解するしかない(スタートはそこにしかない)、
内田樹氏の文章を数多く読む中で実感して、そのことを何度も書いてきました。
この実感と同じようなことが、今起こったのではないかと、書きながら思いました。

どういうことかというと、
梨木氏は架空の物語を書いていて(これは「物語についての物語」でもありますが)、
ハシモト氏は時評という現実寄りの文章を書いていて、
しかしハシモト氏のこの(抜粋の)文章も物語について書いている。
これらがつながることで、「現実よりの文章」が「架空の物語」を照射する。
照射されて、「架空の物語」はその生命性を増進させる。

でも、
というかどの接続詞を使えばいいかわかりませんが、
ハシモト氏は「徹底的に身体の人」なのです。
(若干余談ですが、内田樹氏の身体論の本『私の身体は頭がいい』のタイトルは
 ハシモト氏の言葉が由来なのだそうです。たしか時評にもそんな言葉があった)

 × × ×

物語は、現実と離れていることにその特徴と効果があって、
でも「離れている」は「関係がない」ではなくて、
つまり物語は現実と、ある面で「繫がっている」こともあって、
その、離れたり繫がったりすることによって、
物語はきっと、

 現実の中で離れたものを繋げたり、
 あるいは繫がったものを離したり、

することができるのだと思います。
 

*1:「併読リンク」とは造語で、いくつかの本を同時に読んでいて(=併読)、ある本の記述を読んで別の本の内容を連想すること。そのつながり(=リンク)を見つけること、あるいは連想によって見つけようという動機が生じること。

*2:内田樹氏がよくブログで「社会共通資本」について論じる時に引く経済学者で、そのブログで宇沢氏のことを知ってからずっと読みたいと思っていました。

シモーヌ・ヴェーユと岡潔と「渾身系」

長いまえおきですが、まず花巻近隣の公共図書館について。

 司書講習の後半くらいから、図書館めぐりをしていました。
 車があったので、高速を使って市外へも行きました。
 東北の有名どころとしては、南相馬、川崎村、一関へ行きました。
 岩手県外ではあと、仮設の名取へも行きました。
 (うろ覚えですが以上4つは福島県宮城県かのいずれかにあります)
 市内は東和以外の3つ(花巻、大迫、石鳥谷)へ行きました。
 そして花巻市のお隣の、北上、紫波へも行きました。

 各図書館の比較や批評をするつもりはなくて、
 ただ紫波町立図書館のことをちょっと書いておきたかった。

オガールという紫波中央駅前の複合施設の中にあるその図書館は、
できてからが新しく、いろいろと先進的な特徴もあります。
が、これまで二度行きましたが、ほぼ100%利用者目線で行ったので、
ここでは一利用者としての感想だけ書きますが、
蔵書がとても充実していました。

松丸本舗松岡正剛がプロデュースした書店の本棚)の紹介本があって、
そういう書評本を読むと読みたくなる本が一気に増えるので普段は近づきませんが、
この前行った時はあまり考えずに手に取ってぱらぱら眺めてしまい、
案の定で読みたくなった本が5,6冊ほど出てきて、
そのタイトルをメモして館内検索にかけると、
その全てが蔵書にありました。


家から遠いのでそう頻繁には通えませんが、
貸出延長も使って月1で行く習慣にはしようと思っていて、
今はそのペースに合わせて全6巻の『特性のない男』(ムージル)を
月に1冊ずつ読み進めようと思っていて、
それがけっこうウェイトがあって他に「重い本」を差し挟む余地は少ないのですが、
上に書いた5,6冊(どれも館内でいくらか読みました)の中で、
これは借りて帰って読もうと思ったものが1冊ありました。
(これ以外にハイゼンベルクの自伝『部分と全体』も「保留」にしてあります)

根をもつこと

根をもつこと

この人のことは「名前は聞いたことあるな」くらいの印象でしたが、
本のタイトルを見てまず『根をもつこと、翼をもつこと』(田口ランディ)を連想し、
ランディ氏はこれを読んだことがあるかもしれないと思い、
(エッセイを読んだ記憶では、たしかランディ氏は大学で哲学を学んだ時期があったはずです)
また原語タイトルが "L'enracinement" とあって、
デラシネ(根無し草)の対義語だなと思いました。
そしてT.S.エリオット(たしか詩人)が書いている本書の序文を読んで、
これは「渾身系」の本だと思いました。

「渾身系」というのは造語で、
司書講習を一緒に受けたI画伯(多分野の本に詳しい)と話す中で生まれたのですが、
手癖や手管でなく、渾身を込めて、やむにやまれず書かれた本、
あるいはそういう風に本を書く著者に対して用いる表現です。
画伯と話した中では、そういう著者として鶴見俊輔高村薫を挙げていましたが、
最近読んでいる本の中では、岡潔宮崎駿もそうだと思います。

「渾身系」の本の特徴は、
書いてあることをそのまま論理的に理解するものではない、ということ。
書かれてある言葉に、その人の人となりが陽に陰に表れていて、
正偽や虚実の視点(判断)から漏れてしまうものが多大にある。
言い方を変えれば、その人を知って読む場合とその人を知らずに読む場合とで、
読む人が受け取るものがかなり違ってくる本。
それはまた、こう言い換えてもいい。
読むことによって受け取れる、連想されるものの質、量が、
それを読む人の一人ひとりによって大きく違ってくる本*1


そういう本を今の僕はわりと選択的に読んでいる気がしていて、
それも借りた理由の一つなのですが、
もう一つ、こっちが決め手になった理由ですが、
今読んでいる、上でも触れた『特性のない男』に書いてあることが、
同じテーマで、それも同じ趣旨でこの本にも書いてあるのを見つけたからでした。

テーマをいえば「理想の国(の作り方、在り方)」というもので、
趣旨はここで簡単に触れるには力量不足なので省略しますが、
少し考えてみれば、このテーマは、
同時に今読んでいる(つい最近読んだ)別の2冊、
『ピスタチオ』(梨木香歩)、『風の帰る場所』(宮崎駿)でも触れられていたのでした。

 ちょっと脱線しますが、後者は宮崎氏のインタビュー集で、
 インタビューでもそのことに触れていますが、
 作品として実際に提示されているのが漫画版の『風の谷のナウシカ』だということでした。
 映画作品のマンガといえば、映画の映像の静止画を切り貼りしたイメージがあって、
 あまりまともに読んだことはないのですが(ジブリもたぶんナウシカ以外はそうです)、
 ナウシカはそうではなく、またストーリーも映画とは違うということをこの本で知りました。
 それでこの漫画版ナウシカも今借りてじわじわと読み進めています。

 × × ×

と、ここまでが長い前段でした。

そんなこんなで、
『根をもつこと』を借りたはいいが読むタイミングがなかなかなく、
1週間経った今日、の先ほどにやっと読み始めたのですが、
例の「横文字」的現象がまたまた起こるので、
もう書かずにはいられないと思ったのが本記事を書く最初の動機でした。

本記事のエッセンスは、一つ前の記事とおなじく「併読リンク」です。

 根こぎは、人間社会のずばぬけてもっとも危険な病患である。なぜなら、根こぎは増殖してゆくからである。完全に根こぎにされた人間には、ほとんどつぎのどちらかの態度しか許されない。すなわち、古代ローマ時代の奴隷たちの大部分とおなじように、死にほとんど等しい魂の無気力状態に陥るか、さもなければ、まだ根こぎにされていない者たち、ないしは、部分的にしか根こぎにされていない者たちを、しばしばこのうえなく暴力的な手段によって、根こぎにすることをめざす活動に飛び込むか、である。
 ローマ人は一握りの亡命者にすぎず、それが人為的に寄り集まって都市をなしたのである。彼らは地中海地域の諸住民から、その固有の生活、祖国、伝統、過去を奪い去ったが、それがあまりにも徹底的だったので、後世は彼ら自身の言葉を信じてローマ人をこの地域における文明の創始者とみなしてしまったのである。(…)スペイン人やイギリス人は、十六世紀以降、有色人種を虐殺したり奴隷化したりしてきたが、彼らのほとんどは、母国の深い生命とは接触をもたない冒険家たちだった。フランス植民地の一部にかんしてもおなじことがいえる。とにかくそれらの地域は、フランスの伝統の生命力が弱まった時代につくられたものである。根こぎにされたものは他を根こぎにする。根をおろしているものは、他を根こぎにすることはない。
「第二部 根こぎ」p.78-79(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』、春秋社、2009新版(1967初版)、[135.5/べ])

 [科学の発達における]利益に対して、害のほうはというと、戦争一つだけでも実にたっぷりと害があります。いま世界が二つに割れて相争っているのも、科学が機械を生み、その機械が科学をないがしろにしていることの結果です。しかも、その害はこれからどこまで大きくなるかわからないという現状にあるのです。いまの世の姿はギリシャ時代からローマ時代に移ったときとそっくりだと思いますが、文芸復興まで二千年間ローマ時代の文化の状態が続いたことを考えると、これからやはり二千年間はローマ時代が続くのかも知れません。五十年間でこんなありさまになったのですから、その四十倍というとどんなひどいことになるか、想像もつきません。ただ一つ確信をもっていえることは、人類はこんな大きな試練にはとうてい耐え得ないということであります。いま、真の中における調和を見る目がどれほど必要とされているかがおわかりのことと思います
「数学を志す人に」p.143(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫)、[ ]内は引用者挿入

 いまはギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか、何もかも。ローマ史を研究するつもりなら現代をながめるだけで充分だと思うんですよ。月へロケットを打ち込むなんて、真善美とは何の関係もありゃしません。智力とも関係ないんですね。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです。
「新春放談」p.170 同上

太字部はまた別の記事で書きたいことで、ここでは下線部です。

上に書いた「渾身系」というキーワードに応じて、
シモーヌ・ヴェーユの本は岡潔のように読もうと思って読み始めて、
それだからかもしれませんが、
さっそく抜粋前者を読んでいる時に岡氏を連想して、
探して見つけたのが後者の抜粋です。

とくに分析はしませんが、
「読み方はこれで間違っていない」
という認識をもたらしてくれた連想でした。
 

*1:「言葉」に"本来"期待されている機能と対極にある性質をもつ本。これはとても不思議な現象だと思います。おそらく進化や発展という文明の指標からは外れる性質でしょう。

岡潔と安西水丸の共通点

まさかこの二人がつながるとは。

 好きな画家は大観と久隅守景、外国ならゴッホ、ラプラードなどである。
(…)
 守景のは実物は見ていないが、ある画家から新聞に出ていた写真版の「夕顔欄」を見せられて好きになった。この絵には半裸の夫婦よりも、それを見ている作者の気持が描かれている。いいかえれば、日常茶飯事にあらわれている心の動きを描いている。私自身いつも情緒だけを取り出して、それを見ようとしているのだから、こんな絵が好きになるのは当り前だともいえる

「好きな芸術家」p.159(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫

何をもって普通というのかわからないが、世のなかのごく一般的な考えや仕種に以前から興味を持っていた
いつか普通な人々のことを漫画に描いてみたいと思っていた。
ぼくは本来、漫画における「ギャグ」や4コマものの「起承転結」にはほとんど興味がなく、「ギャグ」などに関しては、むしろ白ける方で、4コマものの「起承転結」も同様だった。
今や「おやじギャグ」と言われる「駄じゃれ」とほとんど同レベルのように思えてならないのだ。
まあそんなぼくの勝手な漫画に対する思想はひとまず置いておくとして、とにかく日常目にしたものや感じたことをそのまま漫画として描いてみたかった

「chapter 1 ぼくの仕事」p.36(『イラストレータ安西水丸』執筆:嵐山光三郎、安西カオリ、村上春樹

前者を読んでいて、ふと「これは水丸氏のことではないか」と思い、
そのような文章を最近読んだ気がして調べると後者に行き当たりました。

後者は水丸氏の手がけた仕事が作品例とともに紹介された本からの抜粋で、
この文章と同じページには『普通の人』という漫画から数ページ抜粋されています。

普通の人 (宝島comics)

普通の人 (宝島comics)

氏のイラストは(僕なら村上春樹氏の)本の表紙や挿絵でお馴染みで、
もちろん漫画も同じ調子で、漫画になって急に劇画っぽくなったりはしませんが、
単発で出てくる挿絵よりも漫画の方が抜粋下線部について「なるほど」と思えます。


上手い下手は関係なく、というかこれもある意味で余分な要素で、
目にしたものや感じたことをそのまま」描く、しかもそれだけを描く、
というのは大人にはすごく難しいことなのだと思います。

で、そういう絵を水丸氏が描くいっぽうで、
絵を「そういう見方」で観賞する岡氏がいる。
つまり「情緒だけを取り出して、それを見よう」とする見方。


二人の絵に対する姿勢について、
「抽象性」という言葉が最初に浮かんで、
言葉が足りないかとその説明を考えているうちに、
「ものすごく具体的」という言葉も出てきました。

「批評的態度から遠い」と別の視点からも言えて、
これについては抽象的、ものすごく具体的、の双方に当てはまる。

違わないはずはないのに、
この両者の違いが分かりません。
どういうことだろう…

 × × ×

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

イラストレーター 安西水丸

イラストレーター 安西水丸

「横文字」的現象について(ホントなんだっけな…)

一つ前の記事を書いてる途中なんですが、
(途中でもう投稿しちゃいましたが)
「タイムリー」の話になったので寄り道します。

今日偶然読み始めた『ゲド戦記』(ル・グウィンの原作小説の方)もそうなんですが、
なにかの節目にそれとなく読む文章が非常に高確率で身に染みます
こういうの横文字でなんていったっけな…
セレンディピティ」ではなくって…
内田樹氏がよく使うんですが。

漸く落ち着いて - human in book bouquet

ちょっと前に書いたこの「横文字」がなんなのかが相変わらず思い出せなくて、
こういう事態が過去に何度もあった記憶もあってけっこう「かゆい」んですが、
そんな中またこの「横文字」についての文章を見つけて、何重にか驚きました。

ウチダ氏のこの「横文字」の使い方としてはたとえば、
自分が考えているあるテーマを氏の友人(たとえば平川克美氏とか名越康文氏)も
特にそのテーマで喋ったわけでもないのに同じ時期にそのテーマに関心を持っていて、
対談なんかをしてそのテーマの話になった時にお互い「おお!」とびっくりする、
といったもの。

僕が上の記事で使ったのは、
自分がちょうど今関心をもっているテーマが偶然手に取って読んだ本に書かれていて、
まるで本が自分を呼び寄せたのではないかという気持ちになる、
といった意味でです。

 『図書館の主』(篠原ウミハル)の児童図書館司書の御子柴は、
 悩みを抱えた子どもや時には大人に「まさに今自分が読むべき本」だと
 その人が思える、自覚するような本を手渡せるスーパー司書ですが、
 もちろん時々はハズレを薦めたりもして、まあそれはいいんですが、
 そんな時に御子柴氏はこう言う。

 「お前が本を選ぶんじゃない。本がお前を選ぶんだ

 いいですね。
 これは事実ではもちろんなく自覚のレベルの話で、
 だから御子柴氏のような司書がいるかどうかとか、
 そんな司書がいたらいいとかなれるかどうかではなく、
 人と本がいればそういうことが起こりうるし、
 図書館がそういう出会いを生み出せるのなら、
 図書館は司書であり、御子柴氏なのですね。

話をもとに戻して、
今日出会った「横文字」的現象について書かれた文章を抜粋しておきます。
何重にか驚いた、の意味は…
あれ、なんだったかな、話がそれた間に忘れちゃいました。
入れ子構造」というキーワードだけ覚えてるんですが…
あ、この言葉もこの本↓の中に出てきます。

(…)けれど、何だろう、この一致は。
 こういうことは棚には比較的よく起こる。棚の周囲を織りなすそれぞれ独立した流れであったはずのものたちが、いっせいに何かの符号[ママ]のように同じ合図を送ってよこすのだ。だからといって、すべてに意味があるわけではない。何十年も自分を生きてきたのだから、そんなことは分かっていた。そこに必要以上の意味を読み込もうとするのは野暮だ。楽しめばいいのだ、すべてを面白い偶然の一致として。今まではそう思ってきたが、さすがに今回はちょっと、眩暈がするような気がして、棚はしばらく目を閉じた。

梨木香歩『ピスタチオ』(筑摩書房、2010、[913.6/ナシ])

「棚」というのは主人公の女性ライターのペンネームで、つまり人名です。

この小説冒頭でその説明があって、画家のターナーが由来らしいのですが、
その画家の画風について、
何か明確でないものを明確でないままに描こうとしていた人だったな」
と書かれてあるのを図書館で立ち読みで目にして、
これを読もう、と僕は手に取ったのでした。

と、「横文字」的現象に出くわすとついその偶然性を説明したくなるんですが、
抜粋にある通り、ある程度の傾向とその「面白い偶然の一致」によるもので、
説明し過ぎると意味を見出す姿勢になってきて「野暮」になります。

そうだ、抜粋して気づきましたが、「符号」はきっと「符合」の誤植ですね。
…いや、どっちでも意味通るのかな。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (2)

前回の続きです。

だが興奮状態や興奮した行為の状態にあっても、彼の態度は情熱的であると同時に無関心だったのである。彼はかなりいろいろな経験をしてきたし、かならずしも自分には意味のないことでも、それが彼の行動意欲を刺戟さえすれば、いつでも身を挺しかねない、と感じていた。したがって、ほとんど誇張なしに、彼の人生におけるすべてのことは、彼自身によるというよりは、むしろ相互の関係で起こったものだ、といってもよかったのである。(…)それゆえ彼は、このようにして獲得した個人的な特性も、彼のものというよりはむしろ相互の関連によるものだと信じるほかなかったし、くわしく調べてみると、個々の彼の特性は、それをもっていると思われる他の人たちよりも、彼とより親密な関係にあったわけではなかったのである。
p.180「30 特性のない男は男のない特性で構成されているということ」

今もう一度これを打ちながら読んでみて、これは「前科学的自己認識」だと思いました。
ここでいう科学とは、要素還元主義の別名です。
あるいはレヴィ=ストロースの「構造主義」と共通するところもありそうです。
鷲田清一氏の臨床哲学的に言えば、個の境界を曖昧にしていく方向性をもった思考。

すごく共感して、「主体的か受動的かどちらかなんてのはなくて、発生を考えれば人間はみんな受け身に決まってる」という生活の逐一の判断に適応するにはすごく大枠の認識と同様に「これは"そう考えればそういうことになる"話だよな」と最初に読んだときに思って、このすぐあとに僕がこう思ったことがそのまま書いてあるのを見て「やっぱり」と思いました。
「このすぐあと」を以下に抜粋します。

だが確かに彼は、常に自力を信じている人間だった。いまでも彼は、自分独自の体験と特性をもつということと、こういうものとは無縁だということとの相違は、ただ態度の上での相違にすぎないことを──これは在る意味では、一般性と個人性の間でなされる意志決定、ないしはその間で選択される度合いに過ぎないことを──少しも疑っていなかった。平たくいえば、人の身に起こったり、人がする事柄に対して、人はより一般的な態度もとれるし、より個人的な態度もとれる、ということだ。
p.181

この章にはとても重要なことが書いてあって、この本を読んでしばらくして「ああ、ウルリヒって自分みたいだな」と思ったことは前の記事に書きましたが、そう思った理由はウルリヒの問題意識の対象に僕自身とても興味を持っていること、それと関連して本記事の上に抜粋したような個人的性質(考え方)を僕も「もっている」(これと「興味がある」との違いはそう大きくない)ことなんですが、話を戻してその重要なこととは、本書のタイトルでありウルリヒと名の与えられている「特性のない男」とは現代人の別名である、ということ。

これに反して今日では、責任の重心は人間の中にあるのではなく、事物関係の中にある。体験が人間から独立したことに、人は気づかなかったのだろうか。体験は劇場へ移ってしまった。また書物の中へ、研究所の報告書や研究旅行の報告書の中へ、社会的実験の試みに見られるような、他を犠牲にして何か特別な体験を育成する思想団体や宗教団体の中へ、移ってしまった。そして体験がかならずしも稼動しているとはいえないかぎり、それはただ宙に浮いたものとなる。今日のように、じつに多くの人たちが容喙して、怒っている当人以上にその怒りについてよく知っている場合、自分の怒りが事実ほんとうに自分の怒りだといいうる人がいるだろうか?! 男のない特性の世界、つまり人間を抜きにした特性の世界が、体験するもののいない体験の世界が、出現したのである
p.182

 

 彼は腹が立った。
 自我の薄暗い領域から発生して根深くはびこり、病的にもつれて体にはよくないものを、解きほぐして取り除くという、医者たちが発見した有名な思考の能力は、おそらく個人を他の人や物と結びつけるという社会的で対外的な思考の特質によるものだと言って過言ではあるまい。だが残念なことに、思考にこのような治癒の力を授けるものは、思考の個人的体験性を減少するものと同一物らしい。鼻についた一本の髪の毛についてちょっと言及することの方が、最も重要な思想よりはるかに重みがあるし、行為や感情や感動は、たとえそれがどんなにありきたりで非個人的なものであろうとも、それが繰り返されると、一つの事件に、多少なりと個人的な大きな出来事に立ち会ったという印象を与えるのである。
 「ばからしい」とウルリヒは考えた。「だが、事実そうなるのだ」。それは、自分の肌の臭いを嗅いだときに感じる、刺戟的でじかに自我に触れる、ばかばかしいほど深い印象を思い出させた。
p.137 「28 思考の仕事に格別意見をもたない人なら、読み飛ばしてよい章」

面白い章タイトルです。
そしてウルリヒには「自覚」があります。

ウルリヒが怒っているのは、偉大な思考が「取るに足りない現実」より取るに足りないという現実にちょうど居合わせたからで、それで「残念なことに」という表現にここではなっていますが、もちろん「思考の個人的体験性を減少するもの」が思考にあってこその思考の抽象性で、「だが、事実そうなるのだ」とは何かというと、つまりは「やれやれ」と。


改めて抜粋のために読み直して、非常に僕にタイムリーな箇所だと気づきました。
なにしろ、しようがないものは、しようがないのだから。
 

『孤独の価値』(森博嗣)を読んで

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

以下、抜粋とコメント。

小説を呼んだり、ドラマを見たり、といったフィクションの世界に浸ることもできるし、また、現実を基にして、自分が想像した虚構を楽しむこともできる。(…)
 虚構が崩れるのは、その虚構が現実の他者に支えられている構造を持っているときだ。すべてが自分の内にあれば、簡単には崩れない。他者に依存しているため、その他者の行動が自分のイメージに反していれば、虚構が成り立たなくなる。(…)
 大事なことは、そのダメージを受けたとき、つまり、寂しいとか孤独だなと感じたときに、自分がどんな虚構の「楽しさ」を失ったのか、と考えてみることである。場合によっては、それがった一つの特定できる原因であり、また別の場合では、よくわからない沢山のものの積み重ねのように感じられるだろう。
 (…)
 考えることは、基本的に自身を救うものである。考えすぎて落ち込んでしまう人に、「あまり考えすぎるのはよくない」なんてアドバイスをすることがあるけれど、僕はそうは思わない。「考えすぎている」悪い状況とは、ただ一つのことしか考えていない、そればかりを考えすぎているときだけだ。もっといろいろなことに考えを巡らすことが大切であり、どんな場合でも、よく考えることは良い結果をもたらすだろう

「第1章 何故孤独は寂しいのか」p.50-52

虚構についての思考は、とても参考になります。
虚構の構築に生きがいを感じるのであれば、同様に虚構の崩落に致命的なダメージを受ける。
じゃあ虚構に深入りするなということではなく、虚構についてよく考えよう、と。
すべての人が、「虚構の当事者」なのだから。
 

すなわち、「寂しい」のが悪いという理由は、「死」を連想させるものだから、というだけのことで、「死」そのものではない。その正体がわかってしまえば、さほど恐くはない。たとえば、多くの人は、人が何人も死ぬドラマや映画を平気で見ることができる。恐ろしい場面が頻出するスリラものも、「楽しむ」ことができるではないか。
 いや、フィクションの寂しさと自分に降りかかった寂しさは全然違う、と言う人もいるかもしれないが、自分に降りかかったその寂しさの根源は、貴方が頭の中でただぼんやりとイメージした夢のような「死」への予感にすぎないのである。これは、まちがいなくフィクションだろう。
 寂しさを紛らすために、なにか手を打たなければならないし、そのための苦労が面倒だ、これは実害ではないか、と主張するかもしれない。しかし、その寂しさがフィクションだと考えれば、気持ちを切り換えるだけの「面倒」で済む問題なのである。
 このように物事を突き詰めて考えることで、自分が囚われている得体の知れない感情を克服することができる。考えれば考えるほど、気持ちは楽になり、自分を自由にすることができる。これが、たぶん本書で僕が書きたい最も大切なテーマだ、と思われる

「第2章 何故寂しいといけないのか」p.74-75

長々と抜粋をしました。
 

 現代人は、あまりにも他者とつながりたがっている。人とつながることに必死だ。これは、つながることを売り物にする商売にのせられている結果である。金を払ってつながるのは、金を払って食べ続けるのと同じ。空腹は異常であって、食べ続けなければならない、と思い込まされているようなものだ。だから、現代人は「絆の肥満」になっているといっても良いだろう。
 つながりすぎの肥満が、身動きのできない思考や行動の原因になっていることに気づくべきである。ときどきは、断食でもしてダイエットした方が健康にも良い。つまり、ときどき孤独になった方が健康的だし、思考や行動も軽やかになる。

「第3章 人間には孤独が必要である」p.128-129

下線部の比喩は、今の僕にはとても身近に感じられます。
空腹に慣れすぎて空腹感がよくわからなくなっている気もしますが、適度な空腹時の方がそれ以外の状態の時よりも、身体もよく動くし頭もよく回ります。
「脳が時々感じる不安が空腹を不健康にしている」という実感もあったので、なるほど、です。
 

 人はいずれは死ぬ。それは究極の「寂しさ」だろう。孤独とは、つまりは死への連想でもある。死ねばもう誰とも話ができない。誰にも会えない。この世から自分だけが隔離され、なにも見えなくなり、誰にも認められない状態になることだ。しかも、何人もそれを免れることはできない。拒絶しても、必ず訪れる。
 そういったものから目を逸らすのではなく、逆に目を向け、そこに美を見出す精神というのは、この人類最大の難題を克服する唯一の手法だろう。芸術とは、最大の不幸を価値あるものへと変換するものだ、という逆転は、ここにその極致を見ることができる

「第4章 孤独から生まれる美意識」p.138-139

この少し前では日本の「わびさび」について述べられています。
わびさびは古さを尊ぶ、古さとは過去、もうなくなった人やものに導く。
直接こう書かれてはいませんが、「わびさびは死に目を向け、美を見出す」という考えにはじめて触れました。
武士道の腹切りも美の表現かもしれませんが、あれは「死の実践による美の表現」で、ここでいうわびさびとは異なる。
古さは、それが極まると人の生の短さの表現、つまり死を連想させるもので、しかしその古さそのものに、長い時間の経過によってこそ獲得される古さに美しさを感じることで、死と美しさを結びつける。
骨董趣味の動機はここにあるのでしょうか。
 

 友情も愛情も、相手に向かう気持ちのことであって、相手から恵みを期待するものではない。もし、自分が相手からなにかを受けたいと期待しているなら、それは本当の友情、真の愛情ではなく、単なる妄想である。したがって、友情や愛情に満ち足りた人生もまた、自分自身が孤独であることには変わりないはずだ。孤独を知っている者だけが、友情や愛情に満たされる、と言い換えても良いだろう。

「あとがき」p.182

うまく言えませんが、非常にタイムリーな指摘に思えました。
つまり、岡氏のいう「無私」と関係がありそうだ、という。


自覚は大事で、
その徹底はしかし自己を濃密にすることではなく、
むしろ自己を透明にするものである

最初の抜粋で下線を引いた「考えることは、基本的に自身を救うものである」というのも、
これと同じことを言っている。

そういうことではないか。