human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「横文字」的現象について(ホントなんだっけな…)

一つ前の記事を書いてる途中なんですが、
(途中でもう投稿しちゃいましたが)
「タイムリー」の話になったので寄り道します。

今日偶然読み始めた『ゲド戦記』(ル・グウィンの原作小説の方)もそうなんですが、
なにかの節目にそれとなく読む文章が非常に高確率で身に染みます
こういうの横文字でなんていったっけな…
セレンディピティ」ではなくって…
内田樹氏がよく使うんですが。

漸く落ち着いて - human in book bouquet

ちょっと前に書いたこの「横文字」がなんなのかが相変わらず思い出せなくて、
こういう事態が過去に何度もあった記憶もあってけっこう「かゆい」んですが、
そんな中またこの「横文字」についての文章を見つけて、何重にか驚きました。

ウチダ氏のこの「横文字」の使い方としてはたとえば、
自分が考えているあるテーマを氏の友人(たとえば平川克美氏とか名越康文氏)も
特にそのテーマで喋ったわけでもないのに同じ時期にそのテーマに関心を持っていて、
対談なんかをしてそのテーマの話になった時にお互い「おお!」とびっくりする、
といったもの。

僕が上の記事で使ったのは、
自分がちょうど今関心をもっているテーマが偶然手に取って読んだ本に書かれていて、
まるで本が自分を呼び寄せたのではないかという気持ちになる、
といった意味でです。

 『図書館の主』(篠原ウミハル)の児童図書館司書の御子柴は、
 悩みを抱えた子どもや時には大人に「まさに今自分が読むべき本」だと
 その人が思える、自覚するような本を手渡せるスーパー司書ですが、
 もちろん時々はハズレを薦めたりもして、まあそれはいいんですが、
 そんな時に御子柴氏はこう言う。

 「お前が本を選ぶんじゃない。本がお前を選ぶんだ

 いいですね。
 これは事実ではもちろんなく自覚のレベルの話で、
 だから御子柴氏のような司書がいるかどうかとか、
 そんな司書がいたらいいとかなれるかどうかではなく、
 人と本がいればそういうことが起こりうるし、
 図書館がそういう出会いを生み出せるのなら、
 図書館は司書であり、御子柴氏なのですね。

話をもとに戻して、
今日出会った「横文字」的現象について書かれた文章を抜粋しておきます。
何重にか驚いた、の意味は…
あれ、なんだったかな、話がそれた間に忘れちゃいました。
入れ子構造」というキーワードだけ覚えてるんですが…
あ、この言葉もこの本↓の中に出てきます。

(…)けれど、何だろう、この一致は。
 こういうことは棚には比較的よく起こる。棚の周囲を織りなすそれぞれ独立した流れであったはずのものたちが、いっせいに何かの符号[ママ]のように同じ合図を送ってよこすのだ。だからといって、すべてに意味があるわけではない。何十年も自分を生きてきたのだから、そんなことは分かっていた。そこに必要以上の意味を読み込もうとするのは野暮だ。楽しめばいいのだ、すべてを面白い偶然の一致として。今まではそう思ってきたが、さすがに今回はちょっと、眩暈がするような気がして、棚はしばらく目を閉じた。

梨木香歩『ピスタチオ』(筑摩書房、2010、[913.6/ナシ])

「棚」というのは主人公の女性ライターのペンネームで、つまり人名です。

この小説冒頭でその説明があって、画家のターナーが由来らしいのですが、
その画家の画風について、
何か明確でないものを明確でないままに描こうとしていた人だったな」
と書かれてあるのを図書館で立ち読みで目にして、
これを読もう、と僕は手に取ったのでした。

と、「横文字」的現象に出くわすとついその偶然性を説明したくなるんですが、
抜粋にある通り、ある程度の傾向とその「面白い偶然の一致」によるもので、
説明し過ぎると意味を見出す姿勢になってきて「野暮」になります。

そうだ、抜粋して気づきましたが、「符号」はきっと「符合」の誤植ですね。
…いや、どっちでも意味通るのかな。