human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

図書館員と「可能性の感覚」

一段落して、読書生活を再開し、またこれまでを振り返ったりしています。

大した文章ではないですが、講習の応募のために書いた文章を載せます。

 私は大学院を出てから去年の9月末まで6年半、神奈川県の○○○で働きました。それから約半年の準備期間を経て、一本歯の下駄で2ヶ月かけて四国を一周しました。四国遍路から戻りこれから先のことを考えた時、司書資格を取得しようと思い、△△大学の司書講習に応募しました。
 受講の動機は、とにかく本に関わる仕事をしたいと思ったからです。就職口が少なくても、働く条件が不安定でも構わない。それなりに面白い仕事と安定した生活だけでは長くは続けられないということを、一度働くことで身に染みるように感じました。
 本には自分の頭で思考を深めることの充実を教わりました。高校までは読書感想文の時にしか本を読みませんでしたが、『下流志向』(内田樹)を大学生の時に読んでからは社会批評や教育論など幅広い分野に興味を持ち、読書が生活の一部になりました。この本は父の書棚にありましたが、本が人に与える影響の大きさにとても驚きました。研究所では人のために働きながら、実際は会社の短期利益を確保するシステムのために働いていました。しかし本のために働けば、長い目で見て人の成長や変化を手助けすることができます。
 住まいを変えるたびに近所の図書館に通っています(本講習を受けるべく、現在は△△図書館の近くに住んでいます)が、司書の方とは貸出・返却手続の時以外で話したことはありません。それでも、図書館の本が司書の方々によって維持され、守られていることは肌に感じています。本質的に個人の営みである読書は、スマホで過剰に繫がるネット社会において、ますますその陰ながらの存在感を増すことでしょう。冊子形態で読むという身体性も、同様の文脈で重要だと考えています。図書館で働けるか否かに関わらず、本を大切に扱ってきた図書館の歴史と現在を学び、ゆくゆくは「本を守る」仕事に就きたいという意思により、司書講習の受講を希望します。

この応募文に引いた下線部のことを、『孤独の価値』(森博嗣幻冬社新書)を読んでいて思い出したのでした。
そうか、自分はこういうことを言いたかったのだ、と。

ものを考えるときには、誰もが一人である。ものを発想する、創作するという作業はあくまでも個人的な活動であって、それには、「孤独」が絶対に必要である。(…)もちろん、だからといって、他者を無視しろというわけではない。個人の知能には限界がある。他者とのやり取りから生まれるものも非常に多い。それでも、その多くは書物を通して得られる情報である。読書をするときは、やはり一人で静かな方が良い。
 こうしたことは、かつては当たり前に認識されていただろう。静かに一人で過ごす時間の大切さは、どの文化でも語られているし、また、それは贅沢で貴重なものだと多くの人が認識していた。それが、ここ数十年の情報化社会において、少し忘れられているところではないかと思う。現代は、個人の時間の中へ、ネットを通じて他者が割り込んでくる時代であり、常に「つながっている」というオンライン状態が、この貴重な孤独を遠ざけている構図が見える

森博嗣『孤独の価値』(幻冬社新書366、2014、[914.6/モ])p.78-79

図書館は「資料と利用者との確実な出会いを提供する」場であり、図書館員はその仲介の任を負う。
でも、その出会いがゆくゆくは利用者が読書の本質に行き着くことを願う気持ちは、講習前に書いた文章の通りで、今もそのまま変わりません。

叶うまでが遠く、時間がかかり、そしてその事実すら滅多に知ることができない願い。
ムージルの言葉を借りて、一種の「可能性の感覚」と呼ぶべきこの願いを保ち続けられる能力は、図書館員として仕事をしていくうえで核たる思想を形成するだろう
と、今考えています。

だが現実感覚があるのなら──そしてそれにはその存在理由のある事を誰も疑わないだろうが──可能性の感覚と名づけてしかるべきものもやはりあるにちがいない。(…)可能性の感覚とは、現実に存在するものと同様に現実に存在しうるはずのあらゆるものを考える能力、あるいは現実にあるものを現実にないものよりも重大視しない能力、と規定してもよいだろう。(…)彼の考えは、それがむだな妄想でないかぎり、いまだ生まれざる現実にほかならないのだから、彼ももちろん現実感覚の所有者なのだ。しかしこれは、可能的現実に対する感覚であり、たいていの人がもつあの現実可能性に対する感覚と比べると、はるかにゆっくりと目的に達するものである。いわば彼は森をほしがり、他の人たちは立木をほしがる。森、これは表現困難なものであるが、これに反して立木の方は、一定品質の山林の坪数を意味するものだ。

加藤二郎訳『ムージル著作集 第一巻 特性のない男Ⅰ』(松籟社、1992、[948/ム])p.16-18