『鞄図書館』と「鎖書空間」
これまで幾冊もの本を取り上げてきた。小説はもちろん、伝記、旅行記、闘病記、日記、童話、詩集、歴史書……等々、ジャンルは多岐に亘る。本の選択は私に任されており、どんなにアンバランスな組合せになっても(例えば『武蔵野夫人』と『不思議の国のアリス』と『ヴァージニア』。またある時は『奥の細道』と『阿呆列車』と『狭き門』)文句を言われる心配はない。一見無節操に並ぶ書棚の本たちが、他人には分からない関係でつながり合っているのと同じく、あらすじもまた隣同士に並んだ途端、互いの秘密を共有し合う。
「一月のある日(木)スカンクのピンバッジをつけて…」p.98
小川洋子『原稿零枚日記』集英社、2010
引用したのは、主人公である小説家女史がバイトとして、
公民館のカルチャーセンターで「あらすじ講座」なるものを担当しているという章から。
講座といっても、女史が受講生と円座を組んで淡々とあらすじを語るだけの内容。
その単純さに反して、彼女があらすじに懸ける並々ならぬ熱意に不思議な魅力が宿る。
引用した一節はその「あらすじ講座」の概要ですが、
文中のあらすじを鎖書に置き換えればまさに自分の本の仕事の説明のようだと、
終わりまで読まずとも気付きました。
まあそれはそれでと、先を読もうとしたのですが、
いろいろと想像が膨らんで、それをもっと膨らませるのが面白そうだったので、
この短編の途中でしたが一旦本を置きました。
× × ×
『鞄図書館』(芳崎せいむ)というマンガがあります。
世界中のあらゆる本が(四次元ポケットの如く)収納されたボストンバッグと、
その鞄を手に世界各地で本を必要とする人々に届ける旅をする司書さんのお話。
僕はまだ1巻しか読んでいませんが、
たしかその後半に「鞄図書館」の内部描写が出てきます。
命綱を腰に巻きつけて司書のおじさんが、革製のその鞄の口から中に入っていく。
図書館の内部は底なしの回廊で、
閉じられた無数のドアがぐるりと並び、際限なく下方に続く。
ドアの一つを開ければ、そこには「場面」がある。
時間が止まっているようで、現実の一部を絵画的に切り取ったようで、
でも紛れもなく、そこが現実であるかのような一つの「場面」。
× × ×
僕が営んでいる鎖書店(ネット古書店)では、
いちおう在野の司書を自任して活動しています。
その活動の場を即物的な表現でいえば、
街の商店街の古本屋と大して違わない、
「雑多な本に囲まれた空間」ではあります。
それが、
小川洋子氏の「あらすじ講座」の話を読みながら、
芳崎せいむ氏の「鞄図書館」の館内構造を連想することで、
鎖書店のイマジナリーな内部空間に初めて想像が及びました。
もちろん、「こうだ」というのではなく、
「こう考えると面白い」という話ですが、
いや想像上の話というのはみんなそうなのでしょうが……
× × ×
その前にちょっと寄り道をします。
鎖書店では情報発信としてインスタグラムとツイッターを利用しています。
前者の方は、新たに追加したラインナップの告知を載せていますが、
(現状は)生活の一部である趣味のボルダリング動画も併せてアップしているため、
そのどちらかにしか興味のない利用者には大変煩雑な状態に見えます。
アカウントを2つに分ければ単純に解決しますが、それはさておき(理由はあります)。
情報の混在状態を少しでも整理しようと、
鎖書のラインナップ告知のほうにハッシュタグをつけることにしました。
「#鎖書」は自分の命名なので既存タグとしてはもちろん存在しませんが、
英語に直訳した「#chainbook(s)」のほうは、既にありました。
単数形の方は、中世ヨーロッパの図書館に実在した「鎖で繋がれた本」のこと。
利用者は書架に鎖で繋がれた本を、その場で立ちながら読むことしかできなかった。
本の貸出などとんでもない、利用者の入退館も厳密に管理された時代がありました。
複数形の方は、たぶんですが、意訳すれば「数珠つなぎ読書」を意味しているようです。
一つの本を、フォロワー同士かなにかで繋がった人々が読んで、感想や意見を述べ合う。
あるいは、ある本を読んだ人が別の人に別の本を「お題」として出すのかもしれません。
「一人の個人が連想で複数の本を関係づける」
という意味を与えた「鎖書」とはニュアンスが似ているようで違いますが、
インスタではとりあえず複数形の方を使わせてもらっています。
いや、なぜ寄り道したかといえば、
開店準備中に「鎖書」というネーミングにけっこう悩んだことを思い出したからです。
候補はほかに5つ6つは作って、
例えば語義としてはより適切な「縁書」(何らかの縁で繋がった本)等もありましたが、
最終的には「語呂」、言葉の言いやすさで決めました。
「鎖」といわれれば、ジャラジャラした金属で頑なな接続というイメージもありますが、
実際のところ「想像上の鎖」だから、実物の質感は括弧に入れてよかろう、
といった判断もあり。
× × ×
閑話休題。
鎖書店のイマジナリーな(想像上の)内部空間、
これを鎖書空間と仮に呼んでおきましょう。
このイメージの外観(内観?)イメージは、「鞄図書館」をそのまま拝借します。
鎖書空間には、無秩序に無数のドアが散らばって存在する。
ドアは閉まっているが、カギはかかっていない。
ノブを回せば、いや引き戸でもけんどん式(おかもちのアレ)でも構いませんが、
簡単に開くし、同時にいくつ開けても構わない。
ただ、ドアを同時に2つ以上開けると、ちょっと大変なことになる。
一つのドアは、一冊の本の入り口です。
(鞄図書館がそうだったかは覚えていません。ちょっと違っていた気がします)
そのドアを開けることで、その本を読む、つまりその本の世界に立ち入ることになる。
たとえば一冊の本をじっくり読むことは、鎖書空間においては、
一つのドアを開けて中に入り、後ろ手にドアを閉めることです。
場合によってはその時にカギをかけたりもする。
また例えば、何冊かの本を併読すると言えば、
一つの本の世界に短時間滞在し、一度そこを出てきちんとドアを閉め、
鎖書空間に戻ってから、また別のドアを開けて入ること。
通常の読書行為においては開くドアは1つだけで、
同時に複数のドアが開けっ放しになることはない。
ところが、鎖書の選書(僕の仕事の中核部分)は、読書とイコールではありません。
文脈からお分かりと思いますが、通常の読書と決定的に異なる点は、
鎖書空間に散在する幾つものドアを「開けっ放しにする」ことです。
一冊の本の世界に浸り切ってその場を味わうのではなく、
その世界を別の(基本的に関係が希薄な)世界と繋げる。
これが鎖書店主の使命なのだから、「それ」は当然の状況です。
そして、先に「大変なこと」と布石を打った理由についてですが、
一つのドアを開ければ、鎖書空間には、そのドアの内部世界の「空気」が吹き込みます。
もともと真空でなければ無味乾燥でもない、謎めいた雑多な雰囲気を醸す鎖書空間が、
その世界内ではそれなりに整然とした一冊の本からの「空気」の流入によって、
その謎も、そしてその雑味もまた、複雑化の途に着く。
ドアを2つ開けていれば、異種の「空気」達が不思議空間において渦を巻くことになる。
同時に開いたドアが増えるほど、鎖書空間はその「収拾つかなさ」をより強靭にする。
鎖書店の司書の仕事は、その空間に身を置き、しかし(シンプルな想定を裏切って)、
カオティックな状況に「収拾をつける」ことではありません。
混沌に満ちた状況を整理し、破綻や矛盾を除去することで失われるエネルギー、
その躍動的ともいえるエネルギーの逸失を可能な限り抑えながら、
なお何らかの「秩序」をその場に打ち立てる。
それは、傍目にはカオスでしかなくとも3つの世界を経巡る後に体感できるような秩序。
(「3つの」というのは、鎖書店では主に3冊で1セットを組んでいるからです)
× × ×
…こう書いてきて、
「鎖書空間というのは結局、頭の中の比喩ではないか?」
と思われたでしょうか。
たしかにそう考えると分かりやすい、イメージがしやすい。
複数のドアを開け放てば「空気」が混ざり、世界が混ざるというのだから。
ですが、僕は「否」と答えておきます。
鎖書空間に(命綱つきで)降り立ち、ドアを開けて中に入るのは僕の全体、僕自身です。
この空間は、イマジナリーという意味で僕の脳内に展開されてありながら、
あくまで僕の外部にあり、僕を包み込む存在です。
鎖書空間に佇み、複数の開いたドアから流れ込む「空気」にもみくちゃにされながら、
そのもみくちゃ経験が一冊の本に対するスタティックな読書にはない独特なものであり、
その入り口(すなわち上述の「秩序」)を拵える活動を通じて、この経験を世に広める。
鎖書店のコンセプトを、このように表現してもよいかと思います。
× × ×
- 作者:小川 洋子
- 発売日: 2013/08/21
- メディア: 文庫