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読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『孤独の価値』(森博嗣)を読んで

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

以下、抜粋とコメント。

小説を呼んだり、ドラマを見たり、といったフィクションの世界に浸ることもできるし、また、現実を基にして、自分が想像した虚構を楽しむこともできる。(…)
 虚構が崩れるのは、その虚構が現実の他者に支えられている構造を持っているときだ。すべてが自分の内にあれば、簡単には崩れない。他者に依存しているため、その他者の行動が自分のイメージに反していれば、虚構が成り立たなくなる。(…)
 大事なことは、そのダメージを受けたとき、つまり、寂しいとか孤独だなと感じたときに、自分がどんな虚構の「楽しさ」を失ったのか、と考えてみることである。場合によっては、それがった一つの特定できる原因であり、また別の場合では、よくわからない沢山のものの積み重ねのように感じられるだろう。
 (…)
 考えることは、基本的に自身を救うものである。考えすぎて落ち込んでしまう人に、「あまり考えすぎるのはよくない」なんてアドバイスをすることがあるけれど、僕はそうは思わない。「考えすぎている」悪い状況とは、ただ一つのことしか考えていない、そればかりを考えすぎているときだけだ。もっといろいろなことに考えを巡らすことが大切であり、どんな場合でも、よく考えることは良い結果をもたらすだろう

「第1章 何故孤独は寂しいのか」p.50-52

虚構についての思考は、とても参考になります。
虚構の構築に生きがいを感じるのであれば、同様に虚構の崩落に致命的なダメージを受ける。
じゃあ虚構に深入りするなということではなく、虚構についてよく考えよう、と。
すべての人が、「虚構の当事者」なのだから。
 

すなわち、「寂しい」のが悪いという理由は、「死」を連想させるものだから、というだけのことで、「死」そのものではない。その正体がわかってしまえば、さほど恐くはない。たとえば、多くの人は、人が何人も死ぬドラマや映画を平気で見ることができる。恐ろしい場面が頻出するスリラものも、「楽しむ」ことができるではないか。
 いや、フィクションの寂しさと自分に降りかかった寂しさは全然違う、と言う人もいるかもしれないが、自分に降りかかったその寂しさの根源は、貴方が頭の中でただぼんやりとイメージした夢のような「死」への予感にすぎないのである。これは、まちがいなくフィクションだろう。
 寂しさを紛らすために、なにか手を打たなければならないし、そのための苦労が面倒だ、これは実害ではないか、と主張するかもしれない。しかし、その寂しさがフィクションだと考えれば、気持ちを切り換えるだけの「面倒」で済む問題なのである。
 このように物事を突き詰めて考えることで、自分が囚われている得体の知れない感情を克服することができる。考えれば考えるほど、気持ちは楽になり、自分を自由にすることができる。これが、たぶん本書で僕が書きたい最も大切なテーマだ、と思われる

「第2章 何故寂しいといけないのか」p.74-75

長々と抜粋をしました。
 

 現代人は、あまりにも他者とつながりたがっている。人とつながることに必死だ。これは、つながることを売り物にする商売にのせられている結果である。金を払ってつながるのは、金を払って食べ続けるのと同じ。空腹は異常であって、食べ続けなければならない、と思い込まされているようなものだ。だから、現代人は「絆の肥満」になっているといっても良いだろう。
 つながりすぎの肥満が、身動きのできない思考や行動の原因になっていることに気づくべきである。ときどきは、断食でもしてダイエットした方が健康にも良い。つまり、ときどき孤独になった方が健康的だし、思考や行動も軽やかになる。

「第3章 人間には孤独が必要である」p.128-129

下線部の比喩は、今の僕にはとても身近に感じられます。
空腹に慣れすぎて空腹感がよくわからなくなっている気もしますが、適度な空腹時の方がそれ以外の状態の時よりも、身体もよく動くし頭もよく回ります。
「脳が時々感じる不安が空腹を不健康にしている」という実感もあったので、なるほど、です。
 

 人はいずれは死ぬ。それは究極の「寂しさ」だろう。孤独とは、つまりは死への連想でもある。死ねばもう誰とも話ができない。誰にも会えない。この世から自分だけが隔離され、なにも見えなくなり、誰にも認められない状態になることだ。しかも、何人もそれを免れることはできない。拒絶しても、必ず訪れる。
 そういったものから目を逸らすのではなく、逆に目を向け、そこに美を見出す精神というのは、この人類最大の難題を克服する唯一の手法だろう。芸術とは、最大の不幸を価値あるものへと変換するものだ、という逆転は、ここにその極致を見ることができる

「第4章 孤独から生まれる美意識」p.138-139

この少し前では日本の「わびさび」について述べられています。
わびさびは古さを尊ぶ、古さとは過去、もうなくなった人やものに導く。
直接こう書かれてはいませんが、「わびさびは死に目を向け、美を見出す」という考えにはじめて触れました。
武士道の腹切りも美の表現かもしれませんが、あれは「死の実践による美の表現」で、ここでいうわびさびとは異なる。
古さは、それが極まると人の生の短さの表現、つまり死を連想させるもので、しかしその古さそのものに、長い時間の経過によってこそ獲得される古さに美しさを感じることで、死と美しさを結びつける。
骨董趣味の動機はここにあるのでしょうか。
 

 友情も愛情も、相手に向かう気持ちのことであって、相手から恵みを期待するものではない。もし、自分が相手からなにかを受けたいと期待しているなら、それは本当の友情、真の愛情ではなく、単なる妄想である。したがって、友情や愛情に満ち足りた人生もまた、自分自身が孤独であることには変わりないはずだ。孤独を知っている者だけが、友情や愛情に満たされる、と言い換えても良いだろう。

「あとがき」p.182

うまく言えませんが、非常にタイムリーな指摘に思えました。
つまり、岡氏のいう「無私」と関係がありそうだ、という。


自覚は大事で、
その徹底はしかし自己を濃密にすることではなく、
むしろ自己を透明にするものである

最初の抜粋で下線を引いた「考えることは、基本的に自身を救うものである」というのも、
これと同じことを言っている。

そういうことではないか。