human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『特性のない男Ⅰ』を読んで (1)

ムージル著作集 特性のない男Ⅰ』を読了しました。
面白い。
引き続き第2巻も図書館で借りて読むつもりです。
以下、抜粋とコメント、下線と太字は引用者。

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

ムージル著作集 第1巻 特性のない男 1

 × × ×

人は、正確を旨とする精神状態の方が、審美を旨とするそれよりも、根本的には神を信ずるものだということを忘れてはならない。なぜなら、正確を旨とする精神状態は、それが神の審美性を認めるために定めた条件下で、神が顕現し給うときには、たちまちにして「神」に屈服するのだから。だがこれに反して、われらの審美的精神の持ち主の方は、たとえ神が顕現しても、神の才能は十分に独創的なものではなく、その世界観は充分はっきりしたものでもないのだから、神を真に神の恵みを受けた天才たちと同列に置くことはできないと、みなすだけだろうからだ
p.312

「天才」と聞くと真賀田四季を思い浮かべることが多いのですが、
これを読んだ時にも多分にもれず、そして思ったのは、
犀川創平は「審美的精神の持ち主」なのかな、と。

もちろん誰もがどちらの精神もいくらかもっているもので、
彼も普段は正確性が表に出ていますが、
根本のところで審美性が行動源(判断基準)になっている。

真理を欲するものは学者となり、おのれの主観をおもむくがままにしようと欲するものは、おそらく作家になろう。だが、その中間にあるものを欲するものは、何をなすべきか? ところで、この「中間」にあるものの例は、どの道徳的命令もこれを提供しているが、たとえばかの有名にして簡潔な「汝殺すなかれ」がそれである。一見してわかることだが、この命題は真理でもなく、また主観でもない。われわれ人間がかなり多くの場合には厳格にこの教えを守っていることは知られているが、他の場合には、ある種の、そして非常に多数の、しかし厳密に限られた例外が許されている。(…)この真理でもなく主観でもないものは、往々にして要請と呼ばれている
p.310

要請!
なるほど、な訳ですね。
原語(ドイツ語)のニュアンスはどんなだろう。

「要請のいたずら」なんて軽薄なシャレ、いや、
別種であれ「要請」も「妖精」と同じく、ある神秘性を帯びている。

ウルリヒの本性には、論理的体系化、偏狭な意志、決まりきった方向に向けられる野心の衝動に対して、とりとめなくはあるが相手をすくませて無力にさせるような何かがあった。そしてこれは、当時彼の選んだエッセイズムという名称とも関係があった(…)従来行われてきたように、エッセイという言葉を試論と訳すだけでは、この文学上の原型に対して、ただ不正確にその本質をほのめかすに過ぎない。(…)エッセイとは、決定的な思考が人間の内面生活にとらせる一回限りの揺がしがたい形態である。主観と呼ばれている思いつきがもつ無責任さや生半可なものほど、エッセイと縁遠いものはないのであるが、しかし真と偽、賢と愚といった概念は、このような思想には当てはめられないものである。
p.309

「特性のない男」である主人公ウルリヒにはこういう魅力がある。
ステキですね。
このこととか、一つ上の抜粋部にあるようなテーマが、本書に通底していると読みました。
非常に興味深いテーマです。

エッセイの定義、高尚ですね。
毎週読んでいる「ア・ピース・オブ・警句」(小田嶋隆)を、これを念頭に読むことにします。

 ウルリヒが、自分のことで知っていることといえば、自分はあらゆる特性の近くにいると同様にそれから遠く離れているということ、そしてそれらの特性が彼のものになっていようといまいと、奇妙なことにどれも彼には興味がないということだけだったにせよ──この三十二歳の男の輪郭を描くことはさして困難なことではない。
p.183「40 あらゆる特性をもつ男、だが彼には特性などは興味がないということ。精神の王侯が逮捕されて、平行運動が名誉秘書を獲得すること」

長い章タイトルですが、この章で起こる出来事によってウルリヒが高等遊民から、
平行運動というプロシアに対抗したオーストリアの愛国運動の中央委員会の秘書になります。
(たしか20世紀初頭の「カカニア」という現オーストリアに位置する仮想国が小説の舞台です)

この章でウルリヒの思考が長々と開陳されるのですが(無論それはこの章に限りませんが)、
この抜粋部は「仕事してないとそうなるよね」と同意したくなります。
そして先に高等遊民と書いたせいかこの抜粋を読み返して、
「可能が可能のままであったころ」という夏目漱石の言葉を思い出しました。