human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

moving motivation

抜粋を足がかりに、前の続きです。
象徴、役割、無名性、と、人間関係、それから、
肩書き(これについてはまた後で抜粋するかも)などについて。

 余談、その三、あるいは、答え、その四──だから、歴史の道は、一度突かれると一定の軌道をとって進む玉突の玉の道ではなくて、雲の道に似ており、路地をうろついている男のとる道に似ている。ここでは影に出会い、あそこでは人の群れとか家並みの正面の変な建築ミスに出会って方向を変えて、結局は見も知らない、行こうとも思っていなかった場所にたどりつく。世界史の経過には、いわば「道に迷う」といった風情がある。(…)新しい世代のものは、驚いていつもこう尋ねるものだ──おれは誰なのか、そして、おれの先祖は何だったのか、と。だが、むしろ彼らは、おれはどこにいるのかと尋ねるべきであり、そして、彼らの祖先とは別の種類のものではなく、別のところにいたんだと、決めてかかる方がいいのである。こうすれば、それだけでもう得るところがあるだろう、と彼[ウルリヒ]は考えた

「第83章 千遍一律の世、または、なぜ歴史を創案しないのか」p.138 (『ムージル著作集 第二巻 特性のない男Ⅱ』松籟社

肩書きについて、今朝だったか広告時評連載の橋本治氏の文章で読みました。

 「その意味について考え込ませる肩書きは無意味だ」。
 たとえば、ある人物について知れ渡っていて、
 彼(彼女)の名前を見ればどういう人かが分かっているという人に対して
 使う肩書きがそれであり、それは無意味である。そして、
 「肩書きでなんとなくわかった気にさせちゃう短絡は文化の頽廃である」。

とりあえず記憶を頼りに書いてみました(ので違ってるかもしれません)が、
「役割」のことを最近考えていたので、その思考にこれらが混ざってきました。


肩書きは象徴である。
が、役割が形をもつことで担う象徴とは、少し違う。
「言葉で表せないものをも含む」と、象徴について前に定義をしてみましたが、
肩書きは形をもたない名辞であり、
肩書きという象徴は「言葉で表せるもののみ含む」。

役割がある定型の姿をまとっているとして(『海辺のカフカ』の二人の兵隊のように)、
その恰好を見る、または、その肩書きの名前を聞く。
これはどちらも、彼らが兵隊であることの認識を導く。
けれど、何か違うかもしれないという視点で考えてみると、
 肩書きは「彼らが何であるか」を表す一方で、
 役割は、「彼らが何でないか」と表す
のではないかと思いつきました。

これは抜粋の下線部、とくに太字部と関係があります。
(というか、これを前に考え込んで上の思いつきが生じた気がします)
結論というか、先にこれを書いてしまいます。
 "おれは誰なのか"は「自分が何であるか」を表す。
 "おれはどこにいるのか"は「自分が何でないか」を表す

前に人間関係と個性との関わりについて書きましたが、
たぶんこれともつながります。
 "個性を主張する人間関係*1"は「自分が何であるか」を顕在化する。
 "個性を問わない人間関係*2"は「自分が何でないか」を顕在化する
「顕在化」という言葉は抽象的ですが、
「意識の強化」くらいでしょうか。

なんというか、
本記事は「僕自身の関心のあぶり出し」になったようです。

 × × ×

「言葉はつねに、言い足りないか言い過ぎるかのどちらかである」
とは、たしかウィトゲンシュタインの言葉です。

定義の正確性を追求していくと、
ある対象の定義は、
「〜である」という限定の一文の形をとらず、
「〜でない」の羅列に陥ります。

集合論(数学)では、
内に閉じる一領域を「集合」とする。
無限平面に数多ある集合のいずれにも含まれない対象は、
「いずれの集合にも含まれない要素」と認識されますが、
要素がある男性で、集合が人々の集団だとして、
彼はその認識によっていかなるアイデンティティを導けるか。

"それ"は、運動です。 
 

*1:前はこれを「個性を執拗に問う人間関係」と表現しましたが、こちらの方が正確なので言い直します。異文化を異文化として受け入れない、くらいの意味です。

*2:同上、これは前の「個性を伴わない人間関係」の言い換えです。相手の自分と違うところを認識し、その認識に基づいて関係を成り立たせる。