human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

感情における規則性の生命について

本記事もここ最近の投稿内容と関連します。


抜粋部(ウルリヒの発言です)から、
「壁と卵のメタファ」(@村上春樹)についてまず連想しました。
すなわち、システムと個人について。

以下、話のスケールがかなり雑です。

「非常に多くの人たちが科学を非難して、科学には魂がなく、科学は機械的だといい、そして科学が触れると、みな魂のない機械になってしまうといっています。ところが驚いたことに、心情にかかわる事柄には、頭脳にかかわる事柄よりも、はるかに腹立たしいほどの規則性があることに、誰も気づいていないのです! なぜならば、感情がほんとうに自然で単純なのはいつでしょうか? それは、どの人にでも、同じ状況で、機械的に、感情が現れることが期待できる場合です! もし高潔な行為が任意にしばしば繰り返せる行為でないとしたら、どうやってすべての人に徳を望むことができましょう!(…)」

「第85章 市民精神を秩序づけようとするシュトゥム将軍の努力」p.159(ムージル『特性のない男Ⅱ』)

心情、感情の規則性、それは個人に関わるけれど個性とはあまり関係がない。
規則性は個性(や文化)を超えて、人々に共通するものを指している。
この規則性は、たしかに機械的と言えないことはない。
与えられた入力に対して、一定の(量ではなく質の)出力を返す。

最初に書いたシステムは、ある意味で機械的統制と言い換えられる。
システムで秩序立てられた人々*1は、抜粋のように、
「感情がほんとうに自然で単純」に反応することを、
幸福と感じるだろうか?

そんなことはない、ではそれはなぜだろう?
と、抜粋部を前にしばらく考えていて、
「そうか、期待か」と気づきました。

「それは、どの人にでも、同じ状況で、機械的に、感情が現れることが期待できる場合です!」

人間の機械化、あるいは人間関係の機械化は、
夢の例外なき実現が転化した悪夢」だと思いました。
期待は、それが外れることがあるから、する。
規則にはつねに例外がある。

いっぽう機械的統制においては、「外れ」は例外ではない。
統制を外れたものは、エラーであり、バグである。
思い通りに入出力が繰り返されることを、システムは「期待」するわけではない。
思い通りに入出力が繰り返されない場合に、それを設計ミスと呼ぶ。

感情や心情の規則性は、ときにそれが裏切られることを含んでいる
非常識、狂気の発露、火事場の馬鹿力(これはちょっと違う?)。
その実現を恐れ、憎む「期待外れ」の存在が、この規則性の生命である

 × × ×

ふと思いついた余談ですが、

例外を許容しない「システム」と、
異文化の排除、多様性の否定とが同じものの別側面だとすれば、
アベ政権やトランプ大統領、イギリスのEU離脱を、
「夢の例外なき実現」という視点で見ることができます。

あるいは夢と悪夢も、人によっては同じものの別側面なのかもしれません。
 

*1:本記事冒頭の「スケールが雑」という言い訳も雑ですが、読み返して変だなと思って考えて、この部分がいちばん意味不明だと感じました。「システム」が何を指すかは、エルサレムスピーチをあらためて読み返してもうまく言葉にできませんが、ここで言いたかったのは、「システムに魂を売ってしまう」ことで、機械化された人間関係でないものを許容できなくなる、ということです。