human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

生活としてのボルダリング

ふと思いつき、ボルダリングのグループに参加してみました。
登壁について言葉にするモチベーションになるかと思います。

hatenablog.com

自分はスポーツとしてよりは、生活として登っています。
また、自分の興味関心との相互作用も念頭に置いています。
今即座に思いつく興味関心としては、身体性の賦活と、武道。
武道との関連は、前↓に一度だけ検討したことがあります。

本記事では身体性の賦活について少し具体的に書きます。

cheechoff.hatenadiary.jp

まず、「身体を鍛える」という考え方をしません。
局所的に負荷を与える筋トレは基本は行わない。
具体的には、道具を使ったトレーニングはしない。
身体一つで行えるストレッチを登る前後にやるだけ。

体幹をはじめ腕力や脚力、指の把持力は登壁のみを通じて向上させる。
木登りやアスレチックを通じて運動能力を獲得していく少年のように。
だから登れるコースの傾向は必然的に偏ってきます。
現状をいえば、強傾斜と「指ガッツリ系」が苦手です。

逆にスラブは、他の壁よりも上級をクリアできる傾向があります。
僕の身体が、上半身より下半身の方が「出来ている」からだと思います。
継続的なスポーツの経験はない一方で、最近の歩き遍路の経験がある。
一本歯下駄で2ヶ月間歩き通して、それなりに鍛えられたはずです。

そのような現状をとりあえず自然状態として、全体的に伸ばして行く。
課題のクリアは、モチベーション向上の一種としてとらえる。
連想的思考の回転を楽しむためにクロスワードを解くようなものです。
懸賞を狙うわけでもなく、もちろん暇潰しではさらさらない。

僕が通う北上のジムでは、ジュニアスクールが週二で行われています。
入門的なベーシックコースと、高レベルのアスリートコース。
子どもは大人より体が小さいので、ジュニア用コースが別途作成されます。
大人では珍しく、毎週コツコツと増えるそのジュニア課題を好んでやっています。

また、コースに関係なくトラバース(横移動)もよくやります。
これをやるのもジュニア課題をやる理由と共通する部分があります。
とにかく、いろんな身体の動かし方をすること
覚えたムーブの活用は二の次で、即興的な登りの自然さを探索する。

もちろんシール付きの既定コースを練習することも必要です。
ジムの人がしっかり考慮したムーブのエッセンスがそこに詰まっている。
ただ僕の考え方としてそれは、どこまでも基礎である。
ムーブがどれほど難しくとも、ムーブ単体は「流れ」を形成するための基礎

といったことを考えながら、岩手の地で登り始めて、はや半年になります。

free dialogue in vivo 3

流れを断ち切らないような動き。
流れは速度とイコールではない。
自然と速くも遅くもなる一連の。
体幹とホールド群間の相互作用。

乗せる足先、踏ん張る脚、弛める股関節。
把持する手先、引き張る腕、支える背中。
末端の連動を安定させるのは中枢の連動。
上下の半身を分断しない流路としての腰。

流れの自然さは傾斜壁でより体感できる。
最低限の固定力が必要な溜めを決定する。
余力を残せるコースで身体に問いかける。
この登りは心地良いか、爽快か、充実か。

free dialogue in vivo 2

動きへの問いを生への問いに結びつける;

脳の先手。
頭が動きを想定し、身体がそれに追従する。
再現できれば良し、違えば問いを立てる。
想定は妥当か?
進路に対しての動き、身体に対しての動き。
進路に適っても、身体が対応し切れなければ再考。
身体がさばけても、進路に対して不自然なら再考。
想定通りに身体が動き、進路を遂げる。
脳と身体の対話がひとつ、立証される;

身体の先手。
動きを頭で想定せずに徒手で進路を行く。
思わぬ失敗と、思わぬ成功。
失敗は納得を呼び、成功は驚きを呼ぶ。
納得は頭の想定を再開させる。
驚きは対話の提案を生む。
元は身体の無言の提案;

身体は無数の提案を成す。
脳はそのごく一部のみ解する。
身体は対話を求めてはいない。
脳は必要最低限で済ませる。
一挙一動を膨大な検討で細分化はできない。
経験と、習慣に基づいた自然が、対話を最小限に留める。
動きの質を変えるには、最小限からかさ上げせねばならない。
同時に細分化で動きの流れを澱ませてはならない。
気にしつつ、気にしない。
脳のダブルバインド
身体はそれを待っている。
脳が主導権を緩める時を;

free dialogue in vivo

世のなかの疑問;

誰かのための行動が、別の誰かのためにならない。
選択と排除。
視野の広さと狭さが互いを非難していること。
ふたつの目で見える広さと、はりめぐらされた情報網の広さ。
身体と脳のバランス。
個の定義;

ひとりの人間が個だとすると、現代の脳は重すぎる。
ひとりの人間とは別の身体は定義可能か?
身体と脳のバランスがとれる、身体の範囲。
人の集まり? 人間以外も、ネットワークも含む?
最初の疑問、バランスがとれた状態とは;

脳のあくなき亢進を、どこかで鎮める影響力を持てる身体。
インターネットの構造上、それ単体では不可能。
それは、付帯的な作用に限定される;

拡大し続けないことを仕組みづけられた情報網。
新聞社のニュースの取捨選択はその一例になるか?
バナー広告のような金の回り方はまず排除せねばならない。
供給される情報が、有限の需要に対せねばならない。
選択肢の多さは、ある度合いを超えると選択の自由を劣化させる;

需給関係を淘汰圧で調整する市場原理。
必要が満たされても、回り続ける歯車。
必要の定義をどんどん変えて。
市場原理は脳と身体のバランスを考慮しない。
このシステムも、単体では不可能。
それは、付帯的な作用に限定される;

拡大された身体をたとえば社会として、それは個人の反映となるか?
技術革新以前の昔も、今も、おそらくなっている。
単純に昔の生活には戻れない。
技術を捨てる必然がない。
個人なら実現できても、現代で普遍性を持たない;

資源の問題、地球環境の問題。
南北問題、西洋の植民の歴史。
歴史は一つだが、遡れば無数にある分岐。
未来の一部は、過去のなかにある。
人間がその発生以来、多くの性質を持ち続けている以上は;

仕組みを考えるのか、生き方を考えるのか。
社会集団の価値観か、個人の価値観か。
ひとりがとれる解決方法は、はっきりしている。
身の丈の感覚をともなった、グラスルーツ行動。
ここに問題はあるようであり、ないようでもある。
必然に導かれる以上は、問題はありようがない。
あるとすれば、必然の見極めにある。
そこにしかない;

じっとしている、たえず動き回る。
いずれにせよ必然はそこにある。
必然には時間軸がない。
その必然は因果の連鎖ではない。
必然は個別具体的にしか宿らない。
その必然の見極めは抽象的視点にしか基づかない;

待つ間は待ち続け、風が吹けば動く。
待つ間は動くときのためにあるのではない。
身の丈感覚の維持は、動くためだけにあるのではない。
待つも動くも、身体はひとつ、必然もひとつ。
ただ脳だけが勘違いをやりたがる。
それもこれも繰り込み、待ち、やがて動く;

病中後の審美的生活メモ

今週は過動で体調を悪くして、寝飽きるくらいずっと寝込んでいました。
過労ではなくて「過動」(ボルダリングは生活の一部)、登り過ぎです。
一日おきの一日7時間は、あまり休憩を挿まないにしては負担が大きい、
という教訓を得ました(3日以上間を空けたのは初めてかもしれません)。

そういえばここひと月ほど、指の皮(指紋の部分)が薄くなってきて、
回復には3日(ジムのオーナ)から14日(いちクライマ)はかかる、
という幅広い情報を得ていていつ対処しようかと考えていたんですが、
これを機会に指の皮を分厚くして、発展的復帰を図りたいと思います。

体はまだ本調子ではなく、月〜木は一歩も外に出ず、
行こうと思っていた花南巻温泉へ金になんとか行き、
その日に月一で通う紫波図書館へもなんとか行って、
やっと今日掃除と洗濯ができるくらいになりました。

原因は過動だけではなく、生活習慣と衛生面にもありそうです。
一日二食はまあいいんですが、登った後の夜に食べ過ぎていた。
今後は腹八分目、「もう少し食べれる」の一歩手前で止めたい。
外食がラーメンか台湾料理のみなので、自炊の頻度も一定度は。

掃除を週に一度は必ずやることにしましょう。
講習中は終盤までなんとか守れていましたが、
寒くなってくると途端にやる気が落ちました。
埃が多いからですが、この時期はカビが大敵。

結露がひどくて、寝室の和室は天井の一部に水滴がびっしり付きます。
特定の場所なので配管か配線かと思いますが、油断すると畳に落ちる。
畳は布団を敷いていた中心付近に埃が溜まりやすい、どうしてだろう、
とメガネでよく見たらカビで、処理して布団を敷く場所も変えました。

このたびの体調悪化でとくに喉がやられたのはきっとカビが一因で、
今まで見たことのない所に発生するのを岩手に来て何度も見ました。
ペールボックス、まな板、しゃもじ、箸入れ、壁紙、掛け布団など。
今こう書きながら、根本的な湿気対策をする気に初めてなりました。

ちょっと調べて、氷水ペットボトルか竹炭をやってみようと思います。

<生活メモまとめ>
 ・週一で家を掃除する *1
 ・適度な運動量を探る *2
 ・腹八分目に食事する *3
 ・部屋の湿度を下げる *4

p.s.タイトルの「審美的」の意味はブラウザ次第で判明します。

 × × ×

昨日借りた6冊のなかに、こんな本があります。

今までにない職業をつくる

今までにない職業をつくる

「今までにない職業」とは甲野氏の古武術研究家のことでしょう。
こういう視点も今なら持てるな、と思いつつ読んでみるつもりです。

この本はいくつかの縁に導かれて借りました。
(Iターンの本などがある特設コーナ「まちづくり全般」に配架されていました)

つい最近連想した「限界芸術」と本書の副タイトル「市民芸術」との呼応。
これは連想元の『特性のない男』とも繫がる。
また、本書まえがき冒頭に宮沢賢治の言葉が引用されていたこと。
今住んでいる花巻は、宮沢賢治が生きた地域です。

その冒頭、『農民芸術概論綱要』の一節を孫引きしておきます。

 職業芸術家は一度亡びねばならぬ
 誰人もみな芸術家たる感受をなせ
 個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
 然もめいめいそのときどきの芸術家である

「止むなき」とは、それが必然であることです。

*1:登壁2日休みの二日目に。

*2:無理はよくないが現状維持でもない?
生活ボルダリングの目的たる身体性の賦活が「維持」かどうかは謎なので「探る」です。

*3:空腹と体重減を不安にしない。

*4:ホームセンターに竹炭を買いに行こう。

限界芸術と「身の丈、ありもの生活」

『特性のない男』の三冊目を今日読み終えました。
どの巻も最後の章はとくに思索に富んでいるのですが、
三冊目終章の以下の箇所を読んでいて、鶴見俊輔氏の「限界芸術(論)」を連想しました。

「限界」という単語がそうさせたのでしょうが、
この連想における双方の「限界」の使われ方が違っていて、
それが何か思考を生みそうな気がしました。

ああ、それだけではなく、
引用後半の「世俗の人間として」というのもキーワードでした。

ところで、この兄妹の間で進行していることの手がかりをまだつかめていないような人は、この報告をどうか脇に置かれるように。なぜなら、そういう人には、けっして是認してもらえないような冒険が、この報告には書かれるからである。すなわち、不可能なものや自然に反するものの危険、いや嫌悪の念を起こすものの危険に軽く触れながら、いやときにはそれ以上のことをしながらする、可能なものの限界への旅が、ここで記述されるからである。それは、真理に至るために、時折不条理な数値を利用する数学の自由をしのばせる、制限された特殊な妥当性の「限界のケース」(ウルリヒは、それをその後こう呼んだ)のことである。彼とアガーテは、神に陶酔したものの仕業と多くの点で共通性のある道に踏みこんだのだ。しかし彼らは、敬神の念もなく、神も魂も信じることなしに、もちろんまた彼岸や彼岸での再生さえも信じることなしに、この道に入ったのである。彼らは、世俗の人間として、この道に踏み入り、そして世俗の人間として、この道を歩んだ。そしてこれこそが注目に価することだった。

第2巻第3部 第12章「聖なる会話。波乱にとんだ継続」p.313(R.ムージル『特性のない男Ⅲ』松籟社

鶴見氏のいう限界芸術とは「限りなく芸術に近い、生活から生み出されたもの」です。
芸術性を意図せず、ただ生活を営む中で作られたものが、
審美眼に耐え、あるいはとてつもない美しさを獲得する。
たとえば、シンメトリでない和製陶器とか。
具体的なモノであったり、遊びであったり、その対象はいろいろで、
ちくま学芸文庫の『限界芸術論』にたっぷり書かれていますが、
具体的なところは忘れました。
(「遊び」は、歌留多とか、あるいは影踏みのようなものも含んでいたはずですが、
 これは限界芸術の例ではなく別の著作に書かれていたことかもしれません)

限界芸術における「限界」は、境界のような意味を指しています。
つまり、生活と芸術の境目のギリギリのところに限界芸術がある。
対して引用中の「限界」は、極限の意味をもちます。

極限だってある意味で境界ですが、違うところといえば、
極限にはその先、境界の向こうにあるものが分からないことです。
数学でいう極限、高校では数Ⅲで習う無限大(∞)がそのよい例です。

「限界」が境界と極限の2つの意味を持ち、
その2つは厳密には異なりながら共通した概念領域をもち、
だからこそこれらは同じ言葉で表されているわけですが、
このことが意味することもまたある気がしたのでした。

それを概念的に先に言えば「交換可能性」で、
今回の話では、「境界たる限界」は「極限たる境界」でもあるだろう、と。
この可能性は論理の正しさの水準で問題にされることではなく、
つまり言葉の緻密さではなく曖昧さに機能性を見出すことで生じます。


話を戻しますが、
限界芸術は「芸術に限りなく近いもの」で、
生活と芸術の境目、あと一歩で芸術の域に踏み入る創作物、
生活の必要から生じた「創作の意図のない創作物」ですが、
このような表現はそのまま受け取れば、
限界芸術に芸術へのベクトルを感じてしまいます。
芸術性への意図はないが、芸術に近ければ近いほどよい、というような。
(だからここでいう「ベクトル」は志向のことではありません)

上述の「交換可能性」の具体的なところを考えた時に思ったのは、
鶴見氏の表現の意図もたぶんそうだと思いますが、
限界芸術の「芸術への近さ」は「ある美しさを獲得している」ことしか意味せず、
限界芸術とは芸術とは方向性の異なる創作物である
、と。
つまり、共通の基準で限界芸術と芸術を比較することはできない、または意味がない。

芸術は、ある美しさの極限を追求する。
限界芸術は、芸術とは関係なく、また別の美しさの極限を追求する
「美しさの追求」という性質を持つ言葉が「芸術」以外にあれば、
もしかしたら限界芸術は、これとは異なる表現を得ていたかもしれない。

表現のことはつい思いついて書いただけであまり興味ありませんが、
限界芸術が美しさを追求するのはもちろん生活のなかであって、
僕はこの点に興味というか、魅力というか、当事者感覚をもちます。
「身の丈感覚」の「ありもの工夫(ブリコラージュ)*1」の生活
この全く創作と関係のない必要性に応じる生活が、
これを洗練させれば「ある美しさ」を獲得する可能性をここに見出せるからです。


自分の生活のなかでこのことでなにか具体例が出せるかな、と考えて、
上の必要性を必然性(というか「流れでそうなった」)に言い換えてになりますが、
今の生活の中心軸の一つであるボルダリングを思い浮かべました。
登壁にあまり思考を介在させないようにするために、
これまでボルダリングについて言葉にすることは(初期を除けば)控えていましたが、
まあこれもいい機会なのでちょっとやってみようと思います。

記事が長くなったのでこの話は次にしましょう。

 × × ×

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

限界芸術論 (ちくま学芸文庫)

*1:学術的にはブリコラージュは「器用仕事」ですが、これはカッコに入れて、自分で表現を考えてみました。語呂のよい七字になりました。

驚いたので

うーん、これは。
花巻は盛岡よりは寒くない、とジムの人が言ってましたが、
これはどうなるのだろう。

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WeatherEye - お天気ポータルサイト -

水抜きは寝る前にするものだと思ってましたが、
出掛ける前にした方がよさそうです。
というか出掛けられるのか…
まだ凍った路面を車で走ったことがありません。

ジムがホールド配置換えでお休みなので、
近所の温泉(花巻南温泉郷)まで行こうと思ってるんですが。
いま外は雪でなく雨なので、案外大丈夫な気もします。

ちょっとした自慢ですが温泉までは、
家から主要道に出れば直進だけで行けます。
30分前後かかります。

なにぶん生活がストイックなのでまだ二、三度しか行っていませんが。

「土着の玄人」の安定感

二人の言うことは同じではありませんが、
共通のなにかを見ることができます、
ということの中身について書きます。

ハシモト氏の文章には説明がいらないほど克明かつ大胆なので、
氏の文章の他との関連を見出せた時には、
その「関連先」を理解する大きな手がかりとなります。

2つの引用の下線部、太字部がそれぞれ対応しているように見えます。

クロートにとっての「自分」とは、「自分の技術」という樹木を育てる土壌のようなもので、土壌はそれ自体「樹木」ではないのである。一本の木しかないことが寂しかったら、その土壌からもう一本の樹木を育てればいいのである。それを可能にするのが「自分」という土壌で、土壌は、そこから芽を出して枝を広げる樹木ではないのである。だからクロートの自己表現は技術の上に現れるもので、技術として昇華されない自己は、余分なものでしかないものである。余分なものがチラつくからこそ、「下手」なのである。ところがしかし、シロートは技術を持っていない。技術を持っていないからこそシロートで、そのシロートは「自分」を覆い隠すことが出来ない。すぐに「自分」を露呈させてしまう。ただ露呈させるだけではなく、露呈させた自分を問題にしてしまう──「自分とはなんだ?」などと。
 クロートはもちろん、「自分とはなんだ?」なんてことを考えない。それは、シロートだけが考える。クロートは、考えるのなら、「自分の技とはなんだ?」と考える。「自分のやってきたことはなんだ?」という悩み方をする。クロートが「自分とはなんだ?」と考えてしまうのは、自分を成り立たせて来た技術そのものが無意味になってしまった廃業の瀬戸際だけで、そんな疑問が浮かんだら、時としてクロートは、それだけで自殺をしてしまう。技術とはそういうものであり、クロートとはそういうものである。近代ではどう考えるか知らないが、そう考えるのが前近代の常識なのである。

「90「下手」とはいかなることか」p.347-348 (橋本治『ああでもなくこうでもなく3 「日本が変わってゆく』の論)

 高めることと低めること。鏡をみながら化粧している女は、自分を──すべてのものを眺めることができるこの無限の存在を──小さな空間に閉じ込めていることを恥ずかしく思わない。同様に、自我(社会的自我、心理的自我、等々)を高めるとき、どんなに高く上昇させても、われわれがただそれだけにすぎないものになれば、際限なく下落する自我が低められている場合は(エネルギーが自我を欲求に高める傾向がないかぎり)、われわれが自分がそれだけにすぎないものではないことを知っている
 非常に美しい女は、鏡に自分の姿を映し見ながら、それが自分であると思いこむことが十分にありうる。みにくい女は、それが自分ではないことを知っている。

「遡創造,7」(シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』)

ハシモト氏の「土壌」の人間的な比喩から、「土着」を連想します。
土壌を耕すには、その地に「根づく」必要がある。
また土壌に気を配ることは、樹木の維持管理でもある。
木の成長は「一面」で、土壌の土着的安定性が、盛衰のサイクルを成立させる

2つの引用をリンクさせると、タイトルのような言葉が浮かんできました。

人間のなかに自然界の秩序を見る話は、そういえば少し前↓にも書きました。
このテーマが、最近の自分には関心が高いようです。

cheechoff.hatenadiary.jp

p.s.
"enracine"で検索して、とある博士論文をみつけました。
序文には「『根をもつこと』に述べられている思想に関する包括的な研究」とあります。
印刷しないと読めませんが(目が弱いので)、機会があればぜひ読みたいです。

存在しない神を愛する

と、こう言った時に、
「神は死んだ」(ニーチェ)の近現代が念頭にあるように聞こえますが、
最初にそう思って、けれど読むうちに違うと気付きました。
エレクトラって、ギリシャ神話ですもんね。

 単なる想像上の報酬(たとえばルイ十四世の微笑)は払われた労力と正確に等しい価値をもつ。なぜなら、それは払われた労力の価値を過不足なくもっているからである──ところが、現実の報酬は、それが現実のものであるかぎり、余分であるか、でなければ不足である。したがって無制限の努力にエネルギーを供給するのは、たとえばルイ十四世の微笑のような、もっぱら想像上の恩典だけである。(…)
 宗教の場合もある程度まで同じである。ルイ十四世の微笑という報いがないので、われわれにはほほえみかけてくれる神をこしらえるのである。
 さもなければ、さらに自分自身を崇める。価値の等しい報酬が必要なのである。これは重力と同じように避けようがない。
(「真空と埋め合わせ」, 19部分、太字部は本文傍点)

 死んだオレステースのために嘆くエーレクトラー。もし人が神が存在しないと考えながらも神を愛するならば、神はその存在を顕示するであろう
(「執着から抜け出すこと」, 16)

 エーレクトラーは、権力者たる父の娘であるが、奴隷の境涯に陥り、自分の弟にしか希望をつないでいなかったが、ある青年がこの弟の死を告げ知らせた──そして、悲嘆がその極に達したとき、この青年が弟であるとわかった。
 「婦人たちはそれが園丁だと思っていた」〔ヨハネ福音書二〇・一五〕。見知らぬ男のうちに自分の兄弟を認めよう。宇宙のなかに神を認めよう
(「読み」, 2)

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
(「遡創造」, 1部分)

シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵

4つ目は、一つ前の記事でも取り上げた抜粋で、
一つ前の記事を書いている時に、この抜粋について最初はこう書こうとしました。

"神は存在しない"という認識は、神による人間の遡創造の帰結である

こう書いてみて、論理的に考えればこうなるがまさかそんな不敬なことではあるまい、
と思って消してしまったのですが、書き上げて夕食をとってから読書に戻り、
2つ目の抜粋箇所に行き当たって「まさか」と思い驚き、本記事を書いています。

たぶんこの4つの抜粋で、タイトルの意味がわかるはずです。
説明はいらないのかもしれませんが、とりあえずなにか書いてみます。


脳=意識の特性は「際限がない」ことで、この点において身体と対立します。
今は身体の話はしませんが、この脳の際限のなさは脳にとっての「自然」で、
物欲=身の丈の必要に限界があってそれが満たされても経済が発展し続けるのは、
経済がもはやマネーゲームと化しているからで、しかしこれも脳には「自然」です。

脳が欲する想像上の報酬は無制限で、しかしそれを受け入れるシステムが宗教にはある、
別に宗教にだけあるのではないが、というのが一つ目の抜粋。
想像上の報酬を神から授かる場合、その神は想像上の存在であり、つまり存在しない。
神が存在してしまうと、その報酬は現実のものとなり、過不足が生じる。

神が存在しないがゆえに、神から無制限の報酬を授かることができる

では「存在しない神」をどうやって愛することができるのか?
その方法は本書に(ストイックなことが)たくさん書かれていて、
3つ目の抜粋に書かれているのは「その結果の一例」です。
僕はこの断章を咀嚼しながら、アニミズムとの類似性を考えていました。

僕の認識ですが、「八百万(やおよろず)の神」という思想は物神崇拝の一種で、
これは石ころや草木や、あらゆるものに神が「宿る」と考える。
石ころが神様それ自体なのではなく、神の媒質として、いくらかの神性を帯びている。
媒介者は現実に存在し、しかし本体はたぶん想像上の存在であり、つまり存在しない。

アニミズムにおいて「存在しない神」を愛する方法は、ただ一つ、
媒介者を「媒介者として」愛する
これは、物への執着を薄めてくれます。
大切に扱ういたわりも、役目を終えての供養も、執着に基づくものではない。

アニミズムは脳の「自然」を自然界に馴染ませる、知恵のあるシステムだと思います。

遡創造と不確定性原理

『根をもつこと』を返却した日に、もともと書架の傍に並んでいた、
重力と恩寵』を借りました。

重力と恩寵

重力と恩寵

断章の形式で書かれていて、
一つひとつは短く、一息で読めますが、難しい。
使われる言葉は難しくないが、
断章にはその短さとは比較に絶する意味を含む重さがある。

何度も読み返しながら、立ち止まって考えるよりは、
なにか共鳴すると思われる断章をリンクさせることで、
理解が進むような手応えを感じています。

 愛する人が私の期待を裏切る。私は彼に手紙を書いた。私が彼にかわって心のなかで考えたとおりのことを、彼が返事してよこさないはずはない。
 人びとがわれわれに負うもの、それはその人びとが与えてくれるだろうとわれわれが想像しているものにほかならない。彼らにこの負債を免除してやろう。
 彼らがわれわれの想像の創りなしたものではないことを認めること、それは神の行為としての放棄を模倣することになる。
 私もまた、自分がそうであると想像しているものとは異なる。そのことを知ること、それがゆるすことである

「真空と埋め合わせ」p.23 (シモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』渡辺義愛訳、春秋社、2009、[135.5/べ])

引用太字部「神の行為としての放棄」には註があり、「遡創造」の章を参照とあります。
この遡創造(原語は"decreation"でシモーヌ氏の造語)という言葉に惹かれたのですが、
当の章をあたってみると、とても難しい。
上述の通り、リンクする断章をいくつか探してみました。
各断章末の数字は、「遡創造」の章(p.60-74)のいくつ目かを指します。

 遡創造。ある創られたものを、創られずに初めから存在するもののうちに移り行かせること
 破壊。ある創られたものを、虚無のなかに移り行かせること。遡創造の不届きな代用品(エルザッツ)。[1]

 創造は愛の行為であり、絶えず繰り返されている。どんな瞬間においてもわれわれの生存は神のわれわれに対する愛である。しかし、神は自分自身しか愛することができない。われわれに対する神の愛は、われわれをとおして神自身に向けられた愛である。このように、われわれに存在を与える神は、われわれの心のなかの、存在しないことへの同意を愛する。[2,部分]

 放棄。創造における神の放棄に倣うこと。神は──ある意味で──すべてであることを放棄する。われわれはなにものかであることを放棄しなければならない。それだけがわれわれにできる唯一の善である。
 われわれは底のない樽である。底があることを理解しないでいるかぎりは。[6]

 われわれは自分が放棄するものしか所有しない。放棄しないものは手から逸れていく。この意味で、神の手を経ずになにかを所有することはできない。[9]

 神の現存。それは二通りに理解される。神は創造者である。それゆえ存在するすべてのもののなかに神は現存する──それらのものが存在するからには。一方、神が創られたものの協力を必要とする現存がある。それは創造者としてではなく、霊としての神の現存である。第一の現存は、創造の現存である。第二の現存は遡創造の現存である(われわれの助けなしにわれわれを創ったおかたは、われわれの同意なしにわれわれを救うことはないであろう アウグスティヌス)。[26]

 放棄することによる所有([6,9])。
 余談ですが、このことは一つ前の記事の非所有を連想させますが、
 たぶん「現実の非所有」ではなく「非現実の非所有」のほうです。

書こうと思ったことは、この章からの引用の一つ前、
最初の引用下線部を読んでいて思ったことについてです。

この下線部は、相手の存在をまずは留保なしに認めること、
価値観の違いがあってもそれは意味付ける以前に存在であること、
といった道徳的な内容に読めますが、たぶん、
その強度を「神の行為の模倣」によって担保すること、
その行為が「放棄」であることへの興味が、
「遡創造」の章を詳細に読ませたのだと思います。 

 × × ×

一つ目の引用下線部を読んで、僕はふと、
ハイゼンベルク不確定性原理」を連想しました。
前にちょっと触れたハイゼンベルクの自伝『部分と全体』をいま併読していて、
ちょうど昨日、この原理が生まれた時の出来事が書かれた部分を読みました。

確かにわれわれは、いつでも霜箱の中における電子の軌道は観測することができる、と軽々しく言ってきた。しかしひょっとすると、人が本当に観測するものはもっとわずかなことであるのかも知れない。(…)だから正しい設問は次のようなものに違いない。量子力学において次のような状態を表現することができるか? その状態では、一つの電子が、ある程度の不正確さでもって、ある一つの与えられた場所に存在し、また同時に、再びある程度の不正確さでもって、前もって与えられた速度の値を持ち、そしてこの不正確さの程度を、実験との間に困難をきたさないように、できるだけ小さくすることができるか? と。そのような状態を、数学的に表現することができて、そして不正確さについては、後に量子力学の不確定性関係と名づけられた、あの関係が成り立つことを研究所へ帰ってからのちょっとした計算が証明したのであった。場所と運動量(…)との不確定さの積は、プランクの作用量子より小さくはなり得ない。これでもって霜箱の中における観測と量子力学の数学との間の結びつきが遂に整えられた、と私には思えた。

「新世界への出発」p.127 (W.ハイゼンベルク『部分と全体』山崎和夫訳、みすず書房、1999、[289.3/ハ])

量子力学は大学で習いましたがその記憶はなく、
(ただ本書のような専門的記述の多い自伝を抵抗なく読める*1のは講義のおかげでしょう)
不確定性原理について覚えていることは、
観測する行為そのことが測定系に影響を与える」ということ。
顕微鏡でなにかを見る時に、電子線なりガンマ線なりを照射しますが、
測定対象がどんどん小さくなる(=解像度が高くなる)と、
その照射による測定対象の状態変化が観測結果に現れてくる。

この自伝には、科学研究と政治や歴史、宗教との関係の対話があり、
その中に「科学の進歩が宗教や哲学に新たな認識をもたらす」といった言葉がありました。
量子力学という学問の発展がまさにその一例で、
直観で理解できるニュートンの物理学から量子力学へは、
認識における大きな飛躍があります。
ただこの「新たな認識」とは、
科学が宗教や哲学に先んずるという意味ではなく、
科学が宗教の力を弱める(あるいは宗教に別の役割を与える)、
宗教や哲学が古くからもっていた思想に科学が後ろ盾を与える、
などの様々な影響のことをさします。

今書いた「後ろ盾を与える」が、
不確定性原理の遡創造に対する関係かもしれない、
という思考の端緒が、
後者から前者への連想に含まれていたかもしれない、
という思いがここまで書いてきた動機の一つですが…

宗教における言葉と科学における言葉とで、
同じ言葉(たとえば「存在」)でも指す意味が異なる、
ということについてのハイゼンベルクとボーアの対話が、
自伝の中に収録されています。
宗教の言葉は価値を表す一方、科学の言葉は事実を表す、
そうきっぱり割り切れればよいが(プランクはそういう人だったらしい)、
宗教の言葉が事実をも表していたとされる過去の宗教が、
その形を変えずに残っていることは科学の言葉によって力を削がれることと相関する。
そして宗教の「社会統治システム」の側面に長い歴史がある、
あるいは人間社会の本質が含まれている以上、
その側面において科学が宗教になることも避けられない。
(自伝には科学信奉者ディラックをパウリが警句的に茶化して諌める場面が出てきます)

何を書こうとしたのか、
もう書きたいことを書いたのか、
よくわからなくなりました。

この自伝は専門的な記述も多いですが、
量子力学という一つの学問分野の発展の中での、
非常に人間的な過程(内容の多くを研究者たちの対話や討論が占めます)を通じて、
科学の「プラクティカルでない側面」について多くを知ることができます。
この側面の認識は、日本で漠然と生活する限り、決して得られないと思います。

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話

*1:専門用語に見覚えがあること、登場人物に馴染みがあること、など。本書には、定理や公式にその名が冠された人びと、たとえばパウリ、ボーア、プランクアインシュタインディラックなど数多く登場し、彼らがそれぞれ、彼ら自身の言葉で語ります。もちろんハイゼンベルクの頭の中で、ということですが。