human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

free dialogue in vivo

世のなかの疑問;

誰かのための行動が、別の誰かのためにならない。
選択と排除。
視野の広さと狭さが互いを非難していること。
ふたつの目で見える広さと、はりめぐらされた情報網の広さ。
身体と脳のバランス。
個の定義;

ひとりの人間が個だとすると、現代の脳は重すぎる。
ひとりの人間とは別の身体は定義可能か?
身体と脳のバランスがとれる、身体の範囲。
人の集まり? 人間以外も、ネットワークも含む?
最初の疑問、バランスがとれた状態とは;

脳のあくなき亢進を、どこかで鎮める影響力を持てる身体。
インターネットの構造上、それ単体では不可能。
それは、付帯的な作用に限定される;

拡大し続けないことを仕組みづけられた情報網。
新聞社のニュースの取捨選択はその一例になるか?
バナー広告のような金の回り方はまず排除せねばならない。
供給される情報が、有限の需要に対せねばならない。
選択肢の多さは、ある度合いを超えると選択の自由を劣化させる;

需給関係を淘汰圧で調整する市場原理。
必要が満たされても、回り続ける歯車。
必要の定義をどんどん変えて。
市場原理は脳と身体のバランスを考慮しない。
このシステムも、単体では不可能。
それは、付帯的な作用に限定される;

拡大された身体をたとえば社会として、それは個人の反映となるか?
技術革新以前の昔も、今も、おそらくなっている。
単純に昔の生活には戻れない。
技術を捨てる必然がない。
個人なら実現できても、現代で普遍性を持たない;

資源の問題、地球環境の問題。
南北問題、西洋の植民の歴史。
歴史は一つだが、遡れば無数にある分岐。
未来の一部は、過去のなかにある。
人間がその発生以来、多くの性質を持ち続けている以上は;

仕組みを考えるのか、生き方を考えるのか。
社会集団の価値観か、個人の価値観か。
ひとりがとれる解決方法は、はっきりしている。
身の丈の感覚をともなった、グラスルーツ行動。
ここに問題はあるようであり、ないようでもある。
必然に導かれる以上は、問題はありようがない。
あるとすれば、必然の見極めにある。
そこにしかない;

じっとしている、たえず動き回る。
いずれにせよ必然はそこにある。
必然には時間軸がない。
その必然は因果の連鎖ではない。
必然は個別具体的にしか宿らない。
その必然の見極めは抽象的視点にしか基づかない;

待つ間は待ち続け、風が吹けば動く。
待つ間は動くときのためにあるのではない。
身の丈感覚の維持は、動くためだけにあるのではない。
待つも動くも、身体はひとつ、必然もひとつ。
ただ脳だけが勘違いをやりたがる。
それもこれも繰り込み、待ち、やがて動く;