human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

情報化と身の丈について

 だからこそ、価値や規範というものが失われ、やみくもなブランドへの追従が流布する状況が生じてきているのだろう。そしてその背景に、ケータイの普及に代表される社会のIT化の影響が潜んでいるのだとすれば、すなわち社会の高度情報化は私たちが自分が社会においてどう認識されているかを見えにくくする環境を提供しているという結論にいたる。これは一見、論理矛盾である。
 はぜなら、情報技術の進歩によって人間は互いに、以前より容易にかつ効率的に情報を交換することができるようになったというのが、一般的な常識というものだからである。それが、どうして周囲からのフィードバックを得にくくしているというのか?
「第4章 文化の喪失」p.139(正高信男『考えないヒト』)

本書のこの抜粋の続きには「これは論理矛盾ではない」という展開がなされています。
生態学的集団認知的集団といったキーワードが出てくるのですが、本記事では別の話をします。
僕は昨日、下線部を読んで「自分以外の宛先の情報が溢れている」とページに書き込みました。
言葉の、あるいは文章の宛先については、わりといつも念頭にあるテーマです。

IT技術は情報収集の効率を上げますが、この収集する情報とは何だろうと思います。
たとえば仕事や生活の役に立つ情報、でしょうか。
自分がその情報を有用と思えば、その情報の宛先に自分が含まれると考えることはできます。
ただ、この考え方は、このやりとりの中だけで完結するものではありません。

何かを選ぶことは、何かを切り捨てることです。
ネットの海の中で有用な情報を選ぶことは、無用と判断した情報を捨てることの裏返しです。
有用な情報が自分に宛てられたと思えば、無用な情報は自分とは無関係と思うことになる。
これは、本来は送り手が決めるはずの宛先を受け手が判断していることを意味します。

この感覚はネット上にとどまらず、日常生活における価値観として浸透しているはずです。
ネットでの情報収集と、日常の対面でのコミュニケーションが同一視されると、どうなるか。
言葉のやりとりが情報交換となり、交感する情報の価値判断が臆面なく行われる。
これが「他人をネタとしか思っていない人間」の内実ではないかと思います。

こういう人間を見たことがあるのでこう命名したのですが、これは極端な例です。
そして極端であれ、「情報が氾濫する社会で正気でいるための方策」に違いはありません。
得られる情報は多いほどよい、そして効率良く取捨選択して自分や周囲の人間にに役立てる。
このような姿勢は情報化社会を前提とした時、正しい振る舞いであるはずです。

しかし、情報の多さは既に身の丈を遥かに越えているため、脳と身体は引き裂かれます。
器用な人は、情報収集と対人コミュニケーションとで、脳と身体を使い分けられる。
それが難しい人びとの間で、情報化社会における振る舞いは二極化します。
一方の極が上に書いた通りで、社会に合わせて脳化する方策です。

もう一方の極は、あくまで身の丈を維持しようとして「情報の氾濫」に近づかない方策です。
僕は実は後者が理想で、読書やブログもこの価値観と齟齬がないようにしたいと思っています。
…自分の話になるとは思わなかったのでちょっとどうしようという感じですが、
そろそろこのテーマでがっつり考えて書くのも良いのかもしれません。

話を戻しまして…「情報を身の丈で扱う姿勢」はこの先、必ず重要となってくるはずです。