human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ゆくとしくるとし '18→'19 3

実家の庭掃除をしました。

竹箒でアスファルトの上をガシガシ掃いていると、抵抗の強さと相性の悪さが身に染みます。
竹の枝一本ずつが触手となり、しかしそれらは巨大な非弾性体を前に、交信の余地なくはじき返される。

落ち葉を竹箒で集めてから、合成樹脂の箒と掃き口にゴムのついたちり取りを使いました。
小さな枯葉が中に吸い込まれていく効率の良さとは別に、先程までまざまざと感じていた抵抗がなくなって、何かが曖昧になり、もやもやとした感覚が生じました。

抵抗がないこと、それにふと、恐ろしさを感じることもある。

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これは家の庭の南天です。

 × × ×

2019年になりました。

今年は平成31年なのですね。
去年のあいだ、ずっと平成29年だと思って、その認識が改められた記憶がないのですが(いくつかの紙に29と書いたのは覚えています)、だからどうだということもない。


紅白歌合戦からずっと、「平成最後」という言葉を繰り返しテレビで聞いています。
「時代の終わり」のような雰囲気があります。

新年号が4月のはじめに発表されるようですが、なんだか、その名前を知らない今は、終わりだけがあって始まりが見えないような、展望がないというのか、宙ぶらりんの状態であるように思えます。
「未来の展望がない」、どうもこの認識も、当たり前になってしまったらしい。
人口減とか、経済の停滞のせいではなく、現在主義、「今がよければそれでいい」という無時間モデルで社会を動かしてきたのが原因でしょう。

僕は、派手なことが流行らなくなる、「縮小社会」としてこぢんまりとして、世相が落ち着いていく、こういった流れができていくことを、十分にポジティブな「未来の展望」だと思っています
人のために生きる、と言う時、このような認識を分かち合って、関わる人の個人の顔が見えて、各々が落ち着いた表情をしていればいい、それが一つの「自分があるべきあり方」だと考えています。


「べき」という当為の言葉をいま使ったのでちょっと脇道にそれます。

この表現は、あるいは責任という言葉も同じですが、自分に使うものだと思います。
他人に向かって使う時、その言葉は相手に届く前に、自分の中で響いている。
「自分ができないことを人に言うな」ということと、似ているようで少し違います。

相手の身を考えない、無責任な発言。
宴会の席ではそういった調子の良い言葉が飛び交うことでしょう。
あるいは、まじめに話している時に、自分はこうは考えないが、相手の考え方に沿って、自分が信じてもいない助言をすることもある。

それが、いけないのではない。
「自分が信じていないこと」を言って、それが何かの結果を招いた時に、自分の発言が自分自身には遠いものだったという理由で、その結果に関心を持たないこと。
これは、自分の言葉に対する裏切りなのです。
言葉への信頼を考えるとき、本当に大事なのは発言の内容ではありません。
自分の発言という事実を軽視すること、言葉をその場限りのものとして使い捨てる・消費することが、自分の言葉を、もっと言えば自分が考えることを、自分自身からどんどん遠いものにしていきます。

たとえば、そのようにして言葉は、感情の道具となって、論理の実質を失っていく。


感情に奉仕する論理、それは単語の一つひとつがすべて感嘆詞になるようなもの。
そういう言葉遣いを流行らせる人間には自覚があるが、その流行を享受し、波に乗ること自体に楽しみを見出す人々には自覚は芽生えない。
なぜなら、自覚がないこと自体が、波に上手く乗る条件だから。

こんな話になったのは、今朝の朝日新聞の文化欄に大塚英志が書いていた内容を読んだからだと思います。
その一部を抜粋します。

 ウェブは個人が自分の考えを持ち、他者と言葉を通じて合意をしていく近代、そして民主主義のツールになりえたはずでしたが、感情的な「共感」を促すインフラとしてむしろ今はある。しばしば問題とされるポピュリズムとは、民主主義の「感情化」であり、近代をサボったツケです。言語による合意形成をスルーし、感情で一体化する社会のリスクは歴史が証明しています。

「感情振動 ココロの行方 1」大塚英志インタビュー記事(2019年1月1日 朝日新聞

スマートフォンはわかりませんが、PCの画面の前に座って言葉を打ち込む時、感情的であることはほとんどありません。
感情的な文章を書こうとする場合、そこには「感情的になろうとする意識」があるために、感情の発露は意識を挟んだ間接的なものになる

痴話喧嘩のような、意味の欠落した言葉の応酬は、相手の顔が目の前にあってこそ成立する。
言葉に意味がなくとも、感情は全身で、また発言の形式で表現でき、伝わるからです。
これと同じことを、液晶画面に向かってできるという時、さぞや想像力の豊かな持ち主がいるものだ、と思っていました。
その解釈が、僕にとって「しっくりくる」ものだったから、それ以外には想像できなかった。

それが、言葉の運用方法という視点を与えられた時に、別の可能性があることを知りました。

言葉が感情と状況に付随して、論理の効果を封印されて使用されることがある。
これが「感情的な言葉」の本来のあり方です。
その一方で、
「感情的な言葉」を使いさえすれば、感情にも状況にも関係なく、感情表現ができる(ことになった)。
上と対比させた言い方をすれば、
感情と状況が言葉に付随して、感情と状況が言葉に含まれているという合意形成がなされて、本来の感情と状況の、言語情報以外のすべてが骨抜きにされて、仮想化した。

「感情社会」のメカニズムは、このようなものではないかと、今考えてみました。


「仮想こそが現実である」、街中でスマホを見ながら(しかし行く手の索敵は怠らずに)歩ける人間は、このことを体現していると言っていい。

うろ覚えですが、今読中の森博嗣のWシリーズ(4作目『デボラ、眠っているのか?』まで読みました)のどこかに、「現実と仮想が入れ替わったのかもしれない」といったことが書いてありました。
このシリーズは西暦2200年台の、人間の寿命がバイオ医療によって百年を超える伸びを見せ、ウォーカロンと人間の区別が見かけではつかなくなった遠未来世界が舞台ですが、抽象性の高いこの物語は、抽象性の高さによって現代社会を映すことが可能となっています。

技術には進歩の段階があり、それを段飛ばしで駆け上がることはできず、発展のスピードは遅々として、踏み締めるべきステップに1つ1つ足跡をつけていく宿命にある。
けれど、個人の思想には原理的に階梯はなく、飛躍が可能で、価値観を規定すると思われている生活物資の影響を受けながらも、つねに予想外の変化の可能性に満ちている。

言いたいのは、あるSFに描かれた、ある未来の技術水準とその社会の価値観に対して、現代社会の技術水準とその社会の価値観は、同じ関数で対応しているわけではないことです。
たとえばの話ですが、SFのその技術水準に、あと二百年もすれば達するかもしれない一方で、同じSFが描く価値観と、現代社会の価値観にはそう大きな違いはない、という見方があり得る。


話を少し戻しますが、
仮想領域が現実性を帯びていくほど、思考の意味するものは重要になってきます。
AIが進歩して労働がどんどん機械に代替できるようになっていくというのも、同じ流れです。
人間のみが担い、駆使できる意識・思考というものを、社会が軽視できない状況に進んでいます。

AIの研究や脳神経科学は、意識・思考の解明をめざすものですが、その(社会的な)目的は、それを随意に操作できるようにすることにあります
研究者個人の志向は様々あると思いますが(たとえば阪大の石黒浩教授はそんなこと考えてもいないでしょう)、研究が純粋に個人事業としてできない以上それはそういうものです。

「研究が純粋に個人ではできない」、書いたそばからなんですが、これは嘘です。
意識の研究なんて、人間なら誰でもできるはずです。
「意識の研究ができる」、人間をそう定義しても違和感がないくらい。

意識の研究、その成果の社会的な利用、この流れは明らかに、二極化へ向かいます。
本当は誰でもできること、それをすることで、この二極化を冷静に見つめることができるでしょう。
これが傍観となるか、流れの変化につながるかは、社会ではなく、個人の側に決定権があります。