human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「変化を映す鏡」について

 彼女は一種不思議なさびしさを感じた。それは財産を惜しむ心でもなく、また財産が与えるものを惜しむ心でもなかった。理由は、彼女が、これまでの生活にあって、ジャックほども、無駄な剰余というものは知らずに暮してきたのだから。ただ彼女は今、自分の新生活にあっては、この無駄な剰余にだけ、自分が富むことになると気づいた。ところが彼女には、それは必要でなかった。ただ、彼女に必要な永続性の保証が、今後、彼女から失われるはずだった。それが彼女には辛かった。以前彼女は思っていた、物の方が自分より永続するはずだと、自分はやがて一日、物から保護されるものとして、認められ、受け容れられ、かしずかれてきたのであったが、今ではかえって自分の方が物より永続することになってしまったと
「南方郵便機」p.186-187(サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

自分が子どもの頃を思い返すと、誰しも頷けるのかもしれません。
物心ついた時からそばには沢山のものがあり、それらはずっとあったように思われる。
自分が生まれる前からあり、古びて見えるそれらは、これからもずっとあるに違いない。
僕の実家のリビングには、恐らく僕より年上の大きなテーブルがあります。


社会人の新生活といえば、そうした古びたものはそばにほとんどありません。
寮暮らしを始めるとなれば、家具や家電などゼロから揃える場合も少なくない。
光沢のある冷蔵庫、キズ一つない本棚、あるいはまっさらなフローリングとクロス。
清新な空間と新生活に心新たな自分、古びたものなど何一つない。

という感覚が当然で、「一番古いのはこの自分か」などと考えることは通常ありません。
別に僕が新社会人の時にそんな斜に構えていた、という話でもありません。
抜粋の「物から保護される」という表現から、少し考えてみたのでした。
人は年をとろうがいつでも、自分が参照できる拠り所が必要なのではないか、と。

そして「新しいものだけに取り囲まれた人」には参照先がないのか、と。
あると安心するかもしれないが、無くても困らないのは経験上確かです。
しかしそれは、「参照先がなくても大丈夫である」ということを意味するのだろうか。
あるいは、ものではない別の何かがあるのか。


ふと思ったのは、「自分(の身体)」がその参照先になるのでは、ということです。
意識が芽生えた時には、既に自分の身体は存在していた。
そう考えれば、「自分の身体は意識よりも古い」と言えなくもない。
ただ、参照するためには「参照元」と「参照先」がなくてはなりません。

テーブルでも万年筆でもいいですが、年月を経たそれらのものを人が参照できるのは、
自分の生きてきた時間と、「もの」が経た年月とを想像上ですが比べられるからです。
そしてその比較ができるのは、自分と「もの」は違うからです。
一方で意識が身体を参照することが難しいと思われるのは、どちらも自分だからです。

というわけで、自分で自分を参照するのはどうやら難しいと思われる。
が、最初に思った時の直感も捨てがたい。
それは「ものを参照すること」のベースに「人を参照すること」がある、ということ。
話がまっすぐ進んでいませんが、ものを参照できるのはそれが変化するからです。

古びたものに年月を感じられるのは、それが古びて見えるからです。
長い間使っていても、ステンレス食器など経年劣化が見えにくいものもあります。
その、変化する特性というのは、「もの」だけに備わるものではありません。
という言い方は変で、人だって「ある種のもの」と似たような物質だからです。

上では家電や家具を指していましたが、ここでの「ある種のもの」とは有機物ですね。
植物でも食物でも、あるいは動物でも構いません。
「もの」でもこの「ある種のもの」でもいいのですが、これらと人を比べた時、
前者の方が参照しやすいのは、変化の前後がわかりやすいからです。

人も年をとれば大きくなったりシワが増えたりと、目に見える変化があります。
その変化のスピードは、「もの」と比べて特に異なるものでもない。
ただ、人は変化しますが、変化前は変化後に吸収されてしまいます。
動的イメージとしての人は今しか存在せず、過去のイメージはその都度上書きされる。

写真や動画に残すこともできますが、それはいわゆる「もの化」です。
「もの」の方が参照しやすいと書いたのは、それが静的イメージを持つからです。
この意味では、上で「ある種のもの」に動物も加えましたが、
カタログや動物園の動物と違って、ペットは人と同様と考えてよさそうです。


話が進まないので(週末ならもう少し頑張りますが)書きたいことを書いて締めます。
変化が見やすいのは「もの」ですが、変化という性質の源は人にあります。
ただそれを見るのは、自分自身ではなく他者においてです。
自分の変化は、他者(他者自身、あるいは他者の自分を見る目)の変化を介して知れる。

「もの」も自分を映す鏡として他者たりえますが、静的な他者なのでしょう。

そして自然(上に書いた「植物や食物」とは違います)はまた別の話、なのかな…


うーん、抜粋の「永続性」とは別の話ですね。まあ触発されたということで。。