human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「村上春樹的測量術」のこと(前)

先週の続きです。

結果的に有言実行となりました。
今日いつも通りBookOff日高屋→Veloceのあと、本屋に寄りました。
念頭にあったのは「測量術」という言葉だけで、それを頭の中で転がすうち、
「現代的な測量術を考えんといかんな」と思いました。


本屋ではまずはいつも行くごとに捕まる「哲学」の棚で新刊情報を確認しました。
古本と戯れる日常で、唯一の情報源だった朝日新聞の日曜書評欄と別れて久しい。
内田樹氏はまだまだ引っ張りだこのようですね…それはよいことだと思います。
街場シリーズがどんどん増えていますが、僕はまだ『街場の現代思想』止まりです。

話を戻しまして、念頭の言葉のもと、まず機械加工本の棚を見に行きました。
小関智弘氏の本を読んだ直後だったので、板金、鋳造、旋盤といった文字に惹かれる。
機械加工全般の原理や仕組みが絵で分かる本がほしいなとちょっと思いました。
いくつか見て、各種工具の切削例が模式図で沢山載っていた本↓に目星をつける。

絵とき 機械工学のやさしい知識(改訂2版)

絵とき 機械工学のやさしい知識(改訂2版)

新品の本はすぐには買わず、何度か本屋に足を運んで覚えていれば買うことにします。
それまでに古本で似た系統でピンときたものがあれば、そちらは衝動買いもあり得ます。
本に関しては値段と価値の相関は無いも同然で、価格は売り手が勝手に決めるものです。
その事情とは別に、僕は「値段の安さ」と「偶然の出会い」を縁としています。

話が逸れていきますが、僕は消費者的な感性とは距離をおきたいと思っています。
現代人はイコール消費者という時代で避けようはないので、価値観の問題になります。
その感性の最たるものが「欲しいものを欲しい時に手に入れる」です。
それを当然と思うか思わないかは、生活の仕方によって選ぶことができます。

「読書は人を孤独にする」とさきほど立ち寄ったあるブログに書いてありました。
それはその通りで、その限りでの読書は流行とは無縁となります。
上で触れた本の売り手の事情の一番大きな要素がこの流行です。
流行が過ぎても本の内容は変わらず、つまり孤独な読書は新刊とは無縁なのです。

もう一つ、「自分のことは実は自分もよく分からない」というのがあって、
例えば、ある物を手に入れてから「実はこれが欲しかった」と思うことがあります。
それは偶然の作用によるし、新たな発見でもあり、しかし自分はどこかで知っていた。
縁を活かすことは、「自分が知らない自分」に対する信頼に繋がります。


話を戻しまして、機械加工本のあとは、「測量」の文字を見つけた棚を見てみました。
河川工学、建築、設計論、「世界の美しい図書館」…。
あまりピンとくるものはなく、資格本にも興味が湧きませんでした。
いや、図書館の写真集は「すげー」と見とれましたが、測量とは何の関係もない。

厚木の有隣堂なんですが、2階の階段から手前半分くらいはざっと確認しました。
もう半分は来週にして店を出て、寮近くのスーパーまで歩く間に考えていました。
それが本記事の最初に書いた「現代的な測量術」のことで、
考えているうちになぜか和歩の方で閃いたのですが、これは身体論の記事に書きます。


やっと最初に書こうと思ったことに辿り着きました。いつも前置きでバテてますが…
測量術、という言葉にあまり囚われずに想像しようと思いました。
要はプラグマティズム、実践的な生き方の助力となる「何か」なのです。
学科的学問かもしれず、哲学・思想かもしれず、実用科学かもしれない。

考えたのは、まず脳的なもの(都市化、人工物、思考、…)が関わるだろうと。
そして身体的なもの(日常生活、コミュニケーション、…)も関わるだろうと。
脳化社会の脳偏重に対してどう身体性を賦活するか、は常に興味のあるテーマです。
自分の考える測量術は、これに深く関わるだろう、と思いました。

それで先に名前が出てきたのですが、それが本記事のタイトルになります。
なにかといえば、「生活から教訓を導き出す術」です。
ハルキ氏の教訓好きはエッセイにも書かれています。
以前に別の話題でその部分を抜粋した記事のリンクを張っておきます。

教訓を導く力は、抽象力(具体的な出来事を抽象的に表現する力)でもあります。
教訓を人に垂れたがる人がいる一方で、そんな説教聞きたくないという人もいます。
今日歩いていて、僕はこの両者が同じ人でもあり得るのではないかと思いました。
これは抽象化(帰納)と具体化(演繹)の往復に関わります。

ある出来事が教訓的であるとは、人がその経験から学べることがあるということです。
個別具体的な経験に、一般的な、普遍的な要素が含まれていた。
それを経験した本人が教訓を導く場合、それは本人にとって好ましいと思える。
一般化できるということは、自分の経験が他の人のためになり得るからです。

ところが、自分の経験を他人に一般化される、ある教訓で括られると話は変わります。
その教訓が自分にフィットしない限りは「他の人と一緒にするな」となります。
自分の経験から別の視点で教訓が導かれるのも興味深いことではあります。
それも他の人のためになっていますが、自分の思う独自性からは離れることになる。

同じ人でありうるとは、要は本人が経験からどう教訓を導くかが問題だということ。


脳化社会で恙なく生きるには、身体偏重もマズくて、脳と身体のバランスが大切です。
マスコミはじめ飛び交う情報に流されると、自然と脳的に生活することになる。
養老孟司氏の耳タコの言葉を借りれば「ああすればこうなる」的価値観ですね。
たぶん、脳化自体に善悪はなく、自覚のない脳化が身体性を損なうのだと思います。

僕が今のところ考える測量術は、この「脳化の自覚」を助けてくれるはずです。


話がぐちゃぐちゃしてますね…全然終わらないので次に続きます。