human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ロトの勇者の歩き方について

昨日閃いたことを忘れないうちに書いておきます。

繰り返しの前置きをしますと、和歩とは僕が考えるナンバ歩きの派生です。
安田登氏のいう「和のウォーキング」に刺激され、歩き方を変えてみようと思いました。
平尾剛氏のその引用や、甲野善紀氏の著書などをヒントに自主開発です。
そのヒントとして覚えている言葉を列挙してみます。

・身体、つまり上半身と下半身をねじらない@甲野氏のナンバ歩きの解説
・同じ側の手と足を一緒に前に出す@同上
・歩幅は狭く、スタスタ歩く@安田氏の「和のウォーキング」
(そういえば、ですが、ナンバ歩きと「和のウォーキング」の関係はよく分かりません)

…思った以上に覚えていませんでした。
とにかく、このヒントをもとに普段歩きながら試行錯誤をしています。
最初の頃は発見が多く、「身体論」のタグでに多く投稿していました。
最近は歩き方が安定してきたのか、閃きが少なかったのでした。


それで昨日ですが、測量術のことを考えながら帰っている時にふと思いつきました。
最近は思い付きが少ないとはいえ、何も意識せずに和歩で歩くわけではありません。
上半身の左右の傾き具合、肩の入れ方、足の着地などこまめに微調整をしています。
身体がねじれているかいないかが、実はまだよく分かっていないこともあります。

また、車が横を通らない時に目を瞑りながら歩くことも試しています。
瞑る時間が経過していくと、まず進行方向が左右どちらかに逸れていきます。
地面や風の影響もありますが、やはりまっすぐ進めた方が理想とは考えています。
和歩の身体運用を微調整しながら、まっすぐ歩けるかどうかも試行を重ねています。

ある時に、臍下丹田を意識すれば、より持続してまっすぐ歩けることに気付きました。
身体の一部が傾いたり力加減が偏ると、進行方向がズレるものだと想像できますが、
その何かしら偏った身体の一部を意識しても、その偏りが解消されるとは限りません。
むしろ特定部位に意識を集中させず、身体全体を満遍なく把握する方がよいかもしれない。

臍下丹田への意識は、「特定部位を意識しないための意識だ」と前に書きました。
意識してもしにくい部位だからこそ、意識が分散する。
甲野氏は「骨のない所を支点にする」という興味深い仮説を著書で語っていました。
臍下丹田はモノとしてあるかどうかは不明ですが、実効的には存在すると考えてよい、と。


それで昨日ですが(2回目)、丹田を意識しつつも点ではなく軸を思いました。
前に丹田を意識して歩く姿勢を「両側に蝶番がついたドアが進む様」に喩えました。
いい喩えと思いつつ言葉足らずなんですが…別の言い方をすると、「指人間」です。
人差し指と中指を足に見立ててトコトコ歩く仕草をする時の、まさにアレです。

あれを、二本の指を伸ばしきった状態でやってみると、僕の言いたい姿勢に近くなる。
足(指)を踏み出すごとに、身体全体が踏み出した側に傾きます。
この身体全体の傾きは進行に対してロスになるので、ナンバ歩きはスピードが遅い。
重心はまっすぐ進んでも、多分ギザギザに歩いていることになるのだと思います。

今までが点の話で、それで昨日ですが(3回目)、軸の具体例を言った方が早い。
歩きながら閃いて最初に出てきた絵は「ひょっこりひょうたん島」でした。
人形の中心を回転軸となる棒が通っていて、回れ右をする時などはそれをくるっとやる。
あの軸のイメージで、足を踏み出すごとに軸をくいくいひねると考えてはどうか、と。

つまり、重心(か丹田)を通る軸を中心とした回転運動によって歩くということです。
実際地面に着くのは足で、その軸は宙に浮いているのでなかなか難しいことではある。
けれど、今まで研究してきた和歩の応用として、わりとすんなりできる気がしました。
その歩き方で目を瞑ってまっすぐ歩くと、覿面に効果が現れたように感じました。

これも前の話ですが、和歩は肩で風を切らないと書いたことがあります。
同じ側の手足をタイミング良く出せれば、ウォーキングマシンの上を歩く感覚になる。
つまり、身体としては前に進んでいるが、空間座標は変わっていないという感覚です。
本記事の軸回転歩行がまさにこれに該当して、つまり本当に「軸をひねるだけ」という。

この「ひねるだけ」のイメージは、今ちょっと調べましたが、「でんでん太鼓」です。
これは紐の先についた球が連続して太鼓に当たるように、小刻みに回転方向を変えます。
軸回転歩行は、踏み出した足が着地するごとに丹田軸の回転方向が変化するのです。
でんでん太鼓が如く回すだけなのになぜか身体は前に進む、という感覚が理想です。

それで、その理想像は実は「ひょうたん島」を思いついたそばから連想していました。
それがタイトルで、これはFCでドラクエをⅠからやった人にしか分からない話なのですが、
RPGでは初期の頃からフィールド等で主人公キャラは進行方向を向いて歩いていますが、
実は最初期の頃、ドラクエでいえばDQⅠは、主人公は前しか向けませんでした。

その主人公の絵は2コマで、手と足だけがパタパタするという…たぶん。
もはや記憶は曖昧ですが、要は「手足以外は全くブレない歩み」ということですね。
手足以外が動かないわけではないですが、身体全体として統制がとれている。
…本当かしら。

うーん、タイトル倒れですが、イメージは「ひょうたん島」の方がいいかな。

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そういえば、矢萩氏の著書を連想していたことを思い出しました。

アレクサンダーが、二本の足が重力に依って大地から引っ張られていると考えるのではなく、むしろ頭部の頂点が天から引き上げられることをイメージして歩くとスムーズに雨後変えると主張したのもその一つであった。(…)確かにわたしが実際に天から引き上げられていると想像して歩いてみると、まるで操り人形の様に足が軽くなったと感じられたのである。それまで足を持ち上げながら歩いていた時と違って、歩くということは、地面の前方に足を片方ずつ軽く添えるだけでいいと理解出来た。
「序章」p.21(矢萩喜従郎『平面 空間 身体』)

操り人形、これですね。
本記事の場合は、上から吊るされているのではなく、下から軸を通されている。
自分の下に大きい誰かがいて、その軸をくりくりひねると、僕は歩き始める。
このイメージも面白そうなので、しばらく試してみようと思います。