human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「測量術」のこと

 ソローは、本が売れなかったから、人の家でまき割りをしたり、鉛筆を作ったりして生活を支えるのですが、もう一つの収入の道があった。それは測量です。プラグマティズムの哲学者には、測量技法を身につけた人が多い。パースは、光の波長を使う測量術を考え、G・H・ミードも、学生アルバイトで測量をしていた。測量とプラグマティズムの関係は非常に深いんです
「手作りの思想」p.28(鶴見俊輔『読んだ本はどこへいったか』)

ここを読んで、久しぶりに「勉強がしたい」と思いました。
特定の分野に絞った体系的な勉強、という意味です。
今週の土曜に、本屋に行って測量の本を探しに行こうかしら…
とまで思いましたが、そこで「ん?」と思う。

たぶん、三角法で山の高さを見積もりたいとかいう話ではありません。
「ものを測る確固とした一つの見方」に興味が湧いたのだと思います。
正確には、確固とした見方を備えた人の思考からの派生的な興味です。
そう考えた時、この「測量術」とはある程度の比喩的表現となります。

学生の頃に弁理士の資格試験の勉強をして以来ですが、あれとは別物です。
体系を身につけたい、とは思っても、それは自分なりに活かしたいがためです。
資格はとりあえずの目標か、体系の会得の目安程度のものと考えます。
『図書館の主』(篠原ウミハル)の御子柴氏は「証になる」と言っていました。

それは他者に対してということですが、その発言のあった話の文脈上のことです。
(たしか高卒の同僚司書が図書館の利用者にその経歴を軽んじられた、という)
資格は社会が定めた制度ですが、社会に対する意識はどこかで自分に返ってきます。
目標はないよりある方がいい、いったん打ち込めば最初とは違う景色が見えてくる。

図書館の主 4 (芳文社)

図書館の主 4 (芳文社)

いきなりマンガの話になりましたが、この本は児童図書館が舞台です。
「図書館もの」に目がない僕はこれを見つけて早速好きになりました。
(家には『鞄図書館』(芳崎せいむ)と『くおんの森』(釣巻和)があります)
影響されて、会社の図書室になぜかある「図書館用語辞典」を気分転換に読んでいます。

話を戻しますが、まだ全然具体的な話ではありません。
本屋に行って何かがピンとくれば、何か勉強を始めるかもしれない。
あるいは始めないかもしれないが、この感覚はきっと忘れないと思います。
プラグマティズムは、僕が自分の生き方としたい思想だからです。

 プラグマティズムの考え方の中心は何かというと「あなたはそう言うけど、どうやってそれを測るの」ということに尽きる。つまり、何を目安にしてものを考えるのか。その時に、彼らが目安にしたのは、自分の身体や身近な生活です。あなたのテープレコーダーはどのくらいの大きさ? まあ私の拳骨一つよりちょっと大きいかな、これですよ。直接的に自分の肉体的な行動を思い起こすでしょ。そうした物差しで考えなさい、そうすれば自分の考えをはっきりさせることができるとした。そういう哲学がアメリカにはフランクリン以来流れ、今の私の中にも入っている。
同上 p.28-29


本記事は前に書いた方法論の話↓にとても近いです。同じかもしれない。