human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

教訓について

もし彼女が『風立ちぬ』を読んで健康の重要性を痛感できたのだとしたら、これは間違いなく文学の力である。笑ってはいけない。そういう立場に立ってもう一度『風立ちぬ』を読みかえしてみれば、必ず「うーん」とうならされるところが何カ所かあるはずである。教訓というものはある場合には類型に堕してしまうことはあるが、またある場合には別の意味での類型を突き崩してしまうこともあるのである。
「教訓的な話」(村上春樹安西水丸『村上朝日堂の逆襲』)

教訓というのは、まず言葉です。
しごく教訓的な教訓というのは、かっちりした論理で構成された言葉です。
しかし時に、そうではない教訓があります。
例えば、印象を語る教訓があります。

一つのまとまった話を聞いて、一言でまとめてみたいと思う。
あるいは自分がちょっとおかしな経験をして、その経験の意味を考える。
そのようにして導き出されるものが教訓です。
では、教訓を導出する内実にはどのようなものがあるか。

まとまった話を総括するように言葉を選ぶこともある。
一つの経験の中で、特に心に残った部分だけ取り出すこともある。
例えばこの二つの導出法は、同じ経験を対象としても全く異なる結果を出力する。
しかしそれを敢えて「教訓」という一語で括ってしまうところに妙味が生まれる。

教訓の導出とは、言葉に意味を与えることと同じ構造を持っています。
その言葉と、与えた意味とに違和感がなければ、それを類型と呼ぶ。
その言葉と、与えた意味とがうまく繋がらない時、まず人はそのことに惹かれる。
深く考えたり時間が立てばその来歴が分かることもあり、全く偶然のこともある。

あるいは「教訓」という言葉に、通常は実用的という響きを感じると思います。
上で「妙味」と書いたこととこれは関係していて、バッファの機能がある。
つまり、直接に実用的と書かずに、実用的にも見える「教訓」と書くことで、
「実用的」の意味そのものを問いたくなるような仕掛けになっているのです。

「教育は本質的に効率とは馴染まない」というと似ていますね。