human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

非現実の非所有

これほどの長編(全6巻)を本腰を入れて読むのは始めてですが、
同じテーマが繰り返し現れる時に、
「それが長編であること」の効果を感じています。

一つ目の引用の章タイトルがないのは本を返却していて手元にないからで、
ではなぜ引用ができるのかといえば、気になった部分を複写にとっていたからです。
引用を二つ並べたことの意味はたいしてなく、
継続的に読み続け、一つ目を目にし、読み続け、二つ目を目にしたときに、
思いついたことがあり、その内容が本記事の本題ですが、
二つ目を読んだ時に一つ目の状景が思い浮かんだのでした。

因みに一つ目の太字部は『ああでもなくこうでもなく』(橋本治)に同じテーマが出てきたので、
また気が向くか、何かべつのものとリンクするか、妙に思い出した時に触れようと思います。
 ということもありますが、本記事を書いてから読み返して思いついたのは、
 ハシモト氏の広告時評連載*1は「日本で起こった事件に精神を与える」ものだ、と。

また二つ目の太字部「等々」は、「滔々」でもあって、
本文中ではここの説明部に「一瀉千里」というすごい四字熟語があてられていました。

これは、次のように要約できると、ウルリヒは主張した。われわれ人間は、何が起きるかはあまり問題にせず、誰に何処で何時そのことが起きるかを問題にしすぎる。そのため、事件の精神ではなくて事件の粗筋が、新しい生活内容の開発ではなくて既存のものの割り振りがわれわれには重要事で、それはちょうど、本当に優れた戯曲とただ成功しただけの戯曲との相違に相当する。しかしわれわれは、これから引き出される結論とはまったく反対のことをしなければならない。まず第一に、経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度を捨てなければならず、したがって、経験を、個人的で具体的なものよりも一般的で抽象的なものとみなすか、あるいは、経験がまるで絵とか歌になってしまっているかのように、個人的には経験をまったく自由なものとみなすようにしなければならない。経験を自分の方に向けてはならず、それを上方あるいは外へ向けなければならない。そしてこれでも個人的だとみなされるなら、さらに何かを集団的にしなければならない。この何かについてはウルリヒにもうまくいえなかったが、それは、葡萄搾りと葡萄酒の貯蔵と関係があり、彼はそれを精神の濃縮と名づけて、もしこれがなければ、もちろん個人は自分のことをただ無力な存在と感じて、好きなように振舞うだけだと考えるにちがいない、といった。

「第84章 ***」p.142 (『ムージル著作集 特性のない男Ⅱ』加藤二郎訳、松籟社

「そら、いつかあなた[=ウルリヒ]はいったじゃない──あたしたちの暮らしている状態には、割れ目があって、いわばそこから考えられないような状態が、こちらをのぞいているんだって。(…)それであなたは、人は怠惰と習慣のために、この穴の方に目を向けないか、それとも悪いことをいろいろやって、それから気をそらせているんだといったのよ。さあ、これからの話は簡単よ。この穴を通って、人は抜け出さなければいけない! そしてあたし[=クラリセ]にはそれができるのよ!(…)でも、あんたには、みんなわかっているわね! だって、現実には考えられない状態がある、そして人は自分の体験を自分の方に向けたり、それを個人的な現実的なものとみなしてはならず、それを、歌われたり描かれたりしたものと同様に、外へ向けなくてはいけない等々と、あなたが話したとき、あなたはそういうことを考えていたのですものね。あたしには、あなたのいったことを全部、そっくりそのまま繰り返すことだってできるのよ!」

「第123章 反転」p.188-189 (『特性のない男Ⅲ』)

下線部を読んだ時に、脳と身体のことを考えました。
そして現実と所有の、いくつかの関係を考えました。

現実とは、身体性とアフォーダンスに規定される有形のものです。
非現実は、ここでは簡単に精神とします。
所有とは、なにかを個人が私有することです。
非所有は、所有以外の所属形式を指します。
 非所有は共有も、放棄も、昇華も含みます。
 別の問題意識ですが、クラウドストレージは非所有ではない気がしています。


引用の下線部中のウルリヒの提案は、「非現実の非所有」のことをいっています。
 体験は、それそのものを現実と呼ぶのかもしれませんが、
 体験を「扱う」段になると、それは精神の側に属するものになります。
こう考えたとき、これに"対応"するものとして「現実の所有」があると思い、
僕自身の関心に即した表現になおせば、これは「身の丈の生活」です

引用下線部の前段(「経験に対するわれわれの個人的に貪欲な態度」)は、
上記にたいして「非現実の所有」をさします。
そしてこれも上記と同じく"対応"を考えると、それは「現実の非所有」になります。

これら「非現実の所有」と「現実の非所有」は、
後者がどういう状態をさすのかイメージが湧きません(あるいは忘れました)が、
どちらも「際限がない」という性質をもちます。
あるいは、両者が「お互いの際限のなさを昂進してゆく関係」にある。

こう言い換えたのは、「現実の所有」と「非現実の非所有」の関係においては、
「非現実の非所有」自体が際限のなさを二乗した性質であるにもかかわらず、
それを「現実の所有」が(適切に機能すれば)有限の枠に納められるからです。


上の説明のなかの"対応"は、この表現の説明は今思いつきませんが、
「脳と身体の対応」という言い方をするならば、これと同じような意味だと思います。

 × × ×

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

ムージル著作集 第3巻 特性のない男 3

*1:この連載が本になっている、いまはないマドラ出版が発行の(つまり絶版の)『ああでもなくこうでもなく』シリーズは全6巻で、そのインデックス版が集英社から1冊でています。

退廃から遠く離れて ─ 『根をもつこと』を読んで

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を、いちおう読了しました。
時間切れという面もありますが(おそらく日が変わりたての今日が返却日)、
読みたいと思った部分である第一部と第三部はひととおり読みました。

根をもつこと

根をもつこと

抜粋が多くなりますが、時々コメントを入れながら以下に抜粋します。
理解が及ばない文章が多いものの、今の自分に重要だとは分かって、
そのままの文章で記憶にとどめて、後になにか形をなすことを待ちます。

本書を読む間は坂本龍一のピアノ「戦場のメリークリスマス」を頭の中で流していました。
なんとなくの選曲だったのですが、読むうちに本書が、
第二次大戦中にフランスがドイツに占領されていたおり、
シモーヌ氏が亡命中のニューヨークからロンドンへ行ってレジスタンスに参加し、
戦中の戦意発揚と戦後フランスの思想的復興のために書いた文章だと知りました。

なんとなく、クリスマス。

↑関係ないです。

 × × ×

 魂の第一の要求、その永遠の運命にもっとも密接な関係にある要求は秩序である。すなわち、なんびとも、ある厳正なる義務を遂行するために他の厳正なる義務を侵害することを迫られないような、社会的諸関係の織り目である。

 最後に、さまざまな義務の感情は、かならず、唯一にして不動なる善への渇望から、すなわち揺籃より墓場まで、万人にとってすぐそれ自体として確認される善への渇望から生じる。この渇望がわれわれの奥底でたえず活動しているために、義務が両立しえないような情況に忍従することはできない。われわれは、あるいは義務が存在することを忘れるために虚言に援けを求め、あるいは義務の存在から脱れようとして盲滅法にもがくのである。

 もし、真の人間的秩序への想念をたえず脳裏にとどめ、そのときに直面すれば、全面的な犠牲行為をも厭うべきでない対象としてこの秩序を考えるならば、われわれは、導き手もなく闇のなかを歩みつつ、しかも、おのれがたどろうと欲する方向をたえず想いめぐらす人間の境位に立つことになる。こうした旅人には、大いなる希望がある

 要求を欲望や気まぐれや悪徳と分かち、糧を珍味や毒と分かつ第一の特徴は、要求がそれに対応する糧と同様に限界を有するということである。吝嗇漢はいくら金貨を所有してもこれでよいということがない。しかしながら、ひとはだれでも、好きなだけパンを与えられた場合、もうけっこうだと言う瞬間がくる。糧は満腹感をもたらす。魂の糧についても同様である

「"秩序" 第一部 魂の要求するもの」p.30,31,32

環境問題は、事実であり、現代社会の秩序に対する破壊的な事実なのだと思います。
知った以上、背負い続けねばならず、さもないと退廃に陥る。

「旅人」という表現がいい、そして意外に思えた「希望」という言葉。
これは恐らくあとで抜粋する「純粋な善の追求」に対してだと思います。

そして、身の丈感覚。

 人間の魂に欠くべからざる糧は自由である。語の具体的な意味における自由は、選択の可能性に存する。もちろん、ここでいう可能性とは、実際的な可能性である。共同生活があるところではどこでも、共同の利益のために課せられる規律が選択を制限することは避けられない。

 規律は、十分に合理的かつ単純なものであって、そのようにのぞみ、また中程度の注意力をそなえた人間ならだれでも、それらの規律に対応する利益と、それらの規律を課した事実上の必要とを理解できるといったものでなければならない。また規律は、外国のものとか、敵のものとかみなされない権威、それに服する人間たちのものとして愛される権威から発する規律でなければならない。さらに十分に安定し、十分に数少なく、十分に一般的であって、思考はそれらを決定的なかたちで自己に同化し、なにか決心しようとするたびごとにそれらと衝突することがないといった規律でなければならない。

「"自由" 同上」p.33-34

たぶんここでは明文化された規律のことをいっていて、それとは違う話になりますが、
この「規律」は、自分が見出していかねばならないものだと思います。
少なくとも僕にとってですが、これは前に書いたこと↓と深く関係しそうです。
そして見出すとは、創るのではなく、過去を照らした結果でのことです。
cheechoff.hatenadiary.jp
抜粋に共同生活で課せられる規律とある通り、これは本来集団で共有されるべきものです。
だから、見出して「自己に同化」させることは、「スタート」だということになります。

 服従は人間の魂の生命的な要求の一つである。服従はつぎの二種類に分かたれる。すなわち、既成の規律にたいする服従と、首長とみなされた人間への服従である。服従の前提になるのは、受けた個々の命令にたいする同意ではなく、万一の場合にには良心の要請に従うという唯一の留保条件のもとに、決定的なかたちで与えられる同意である。懲罰にたいする恐怖、ないしは報酬の誘惑ではなく、この同意こそ、事実上、服従の主要なる原動力をなすものであり、服従には隷属のかけらすらないということが、一般に、とりわけ首長たちによってぜひ認められなければならない。

「"服従" 同上」p.35

この「唯一の留保条件」が有効でない関係においては、知的退廃が生まれる。

 労働者の文化に対する第二の障害は、労働者という境遇には、他のすべての境遇と同様、それに対応する固有の感受性の傾向があるということである。したがって、他人によって他人のためにつくられたもののなかには、すべてなにかしら異質のものが存在することになる。
 これにたいする解決策は、翻案への努力である。つまり、大衆化への努力ではなく翻案への努力である。この両者はまったく別種のものである。(…)
 真理を置換する技術は、もっとも基本的な、しかももっとも知られていない技術の一つである。この技術が困難とされるのは、それを実践するにあたって、当人がすでに真理の中核に身を置いた経験がある、すなわち、偶然にその真理が開示された特殊な形式を越えて、赤裸々なかたちでそれを所有した経験があることが必要だからである。
 かつまた、置換は、それが真理か否かを識別する公準の一つである。置換されえないものは真理ではない。同様に、視点にしたがって外観を変えないものは実物の対象ではなく、実物のように描かれた絵にすぎない。思惟のなかにもまた三次元の空間がある。

「"労働者の根こぎ" 第二部 根こぎ」p.101-102

真理は、それと向き合う人の価値観や文化的背景に応じて、その表現を変える。
これは当り前のようにも聞こえるし、ありえないようにも思える。
「翻訳の不可能性」が言われる諸言語のレベルではない、ということは言えると思います。

 吝嗇漢は、金を蒐めはじめた当初において、吝嗇漢ではない。おそらく彼はまず、金で手に入れることのできる愉楽の想念に動かされているのだ。だが毎日負わされる努力と禁欲とが誘引力を生み出す。犠牲が当初の衝動をはるかに乗り越えてしまうと、犠牲の対象である財宝が、彼にとってそれ自体目的となってしまう。そして彼という人間をこの目的に従属させてしまう。蒐集狂もまた、同種のメカニスムのうえに成り立つ。(…)
 このメカニスムはつぎのような構造をもつ。すなわち、一つの行動は、まがりなりにも、まずその外的動機によって推進されたあと、それ自体が執着の対象となる。その結果、行動がそれ自体よいか悪いかにしたがって善か悪かが生じてくる
 フランスへの奉仕のためにドイツ兵を殺し、そのしばらくあと、人間を虐殺することに喜びを感じるようになるとすれば、それが悪であることは明らかである。
 フランスへの奉仕のために、ドイツへの強制移送から逃れようとする労働者を援け、そのしばらくあと、不幸な人間たちを救うことに歓びを感じるようになるとすれば、それが善であることは明らかである。
 あらゆる場合がこれほど明らかであるというわけではない。だが、あらゆる場合をこの方法で検討することが許されよう。
 とにかくすべてが同一条件なら、それ自体としていつでもそのなかに善への誘引力を含んでいる行動様式のほうを選ぶべきである。すべてが同一条件でないときでも、たいていはそうしなければならない。善のためにそうしなければならないというだけではなく(これは充足理由である)、さらにまた有利さのゆえからもそうしなければならない
 悪は、善よりもはるか容易に、効果的な原動力となる。しかし純粋な善がある魂の内部で効果的な原動力になると、涸れることも変わることもない推進力の泉となる。このことは、悪の場合にはけっしてみられない

「第三部 根をもつこと」p.282,284

この「純粋な善」についての文章は、そのまま吸収しておきます。
序盤で触れましたが、この一文をさして「希望がある」と書いたのではと思いました。

 その天分がきわめて純粋で、はっきりと、聖人のうちでもっとも完全な人たち特有の偉大さにきわめて近いといえるほどの天才たちが存在する以上、なにゆえその他の天才を讃美して時を浪費することがあろう? その他の天才たちを利用し、彼らから知識と愉楽とを汲み取ることはできる。だが、なにゆえ彼らを愛することがあろう? なにゆえ善以外のものに心をゆだねることがあろう?
 (…)
 散文の分野では、おそらくラブレーのなかに神秘的な純粋さが存在する。とにかく彼においては、いっさいが神秘的なのだ。

同上 p.312,313

美術や文学の分野でももっと多くの人が挙げられていますが、
なぜか気になったのでこのラブレーという人だけメモしておくことにしました。
たぶんどこかで名前を聞いた(読んだ)ことはあるんですが、覚えていません。
そういえばシモーヌ氏にも同じ感覚を抱いていましたが、
ブログ内で検索してみつけた記事によれば、『困難な自由』(レヴィナス)でした。

 かさねて言っておくが、糺弾することが正当とされるのは、見棄てられ、あわれな姿で放浪していた、かの飢えた魂の青年ではなく、彼に虚言を与え、それを食べさせた人びとなのである。彼に虚言を与え、それを食べさせたのは、われわれより年長の人たちであるが、われわれもまた彼らに似ているのである。
 現代の破局においては、死刑執行人もその犠牲者たちも、なによりもまず、われわれがその深淵に横たわっている怖ろしい悲惨についての証言を、意識せずしてともにもたらしているのだ。
 犯罪者を懲罰する権利を獲得するためには、彼らとおなじ罪がわれわれ自身の魂のなかに種々変装してひそんでいる以上、まずもってそれらの罪からおのれを浄めなくてはなるまい。だが、この努力を首尾よくおこない、ひとたびそれがなし遂げられるや、われわれはもはや懲罰にたいするいかなる欲望も有しなくなるであろう。たとえ懲罰をおこなわざるをえないと信じたとしても、最小限にとどめ、それをおこなうに際しては、極度の苦痛を受けることになろう

同上 p.318

抜粋中の「青年」=「死刑執行人」は、ヒトラーのことです。

 ある瞬間にブラジルの首府がどこかを知らなかったのに、つぎの瞬間にそれを学んだとするなら、彼は一つ余計に知識を得たことになる。だが、なんら以前より真理に近づいたわけではない。知識の獲得は、ある場合にはひとを真理に近づかせる。だがある場合には近づかせてくれない。それぞれの場合をどのように識別したらよいのか?
 ある男がひとりの女性を愛し、その女性の全幅の信頼を寄せていたのに、たまたま彼女の不倫の現場をとらえたとするなら、彼は残酷なかたちで真理を接触したことになる。だが彼と面識がなく、はじめて名前を耳にした女性が、それにおとらず彼と面識のない都市のなかで夫を裏切ったことを知ったとしても、真理と彼との関係にはなんらの変更も生じない。
 この例は問題を解く鍵を与えてくれる。知識の獲得がひとを真理に近づけるのは、ひとが愛しているものにかんする知識が問題とされる場合だけであって、他のいかなる場合でもない
 真理への愛というのは適切な表現ではない。真理は愛の対象ではない。真理は対象ではないのだ。ひとが愛するのは、存在するあるもの、ひとが思考するあるもの、その思考を通じて真理か誤謬かの契機となりうるあるものである。一つの真理とはかならず、あるものにかんする真理である。真理自体は実在そのものの輝きである。愛の対象は、真理自体ではなく実在である。真理を欲するとは、実在との直接的接触を欲することである。実在との接触を欲するとは、それを愛することである。ひとが真理を欲するのは、真理において愛するためである

同上 p.333-334

蒙を啓かれる一節です。
この一節を頭の中で回していると、言葉が溢れ出てきそうな予感があります。

 人間というものは、おのれが他人に蒙らせることをごく当然と考える不幸でも、おなじ不幸を相手がおのれに蒙らせうるとは想像しない。ところが実際にそういう結果になり、みずからその恐怖の渦中に置かれると、その不幸をごく当然と思うようになる。彼らの心情がおなじ取扱いを他人に蒙らせることを嫌わなかったために、おのれの心情の奥底に、その取扱いに対する怒りや抵抗を生み出す力の源泉を見出すことができないのだ。すくなくとも、たとえ想像力によってさえ、もはや外側からは支えになってくれるものがなにもなく、心情の内奥にしか力の源泉を見出しえない破目になった場合はそうである。いわんや、過去の犯罪がそれらの源泉を破壊してしまっているならば、弱さだけがすべてであって、いかなる度合の恥辱でも受け入れてしまうのだ。この人間の心情のメカニスムのうえに、『黙示録』のなかでつぎの文章が表現している相互性の法則が成り立っている。「ひとが相手を奴隷状態のなかに引きずり込むならば、彼もまた奴隷状態のなかに引きずり込まれるであろう」〔黙示録一三・一〇〕。

同上 p.358-359

後半が何を言っているのかよくわからないのでまた読み直すとして…

「実際にそういう結果になり」とありますが、自覚があれば、
そういう結果になる前から「その不幸をごく当然と思うようになる」。
僕はこういう経験があり、自覚がありながらそれをそのままにし、
そうして自分自身の退廃を見て見ぬふりしていたことがありました。
一度知ったことは、なかったことにできない。
そう思いながら、この退廃が自分の現状を維持していることも知っている。

あんな状況にはもう二度と陥りたくはなく、この思いが、
理想の行動より理想の状態を志向する今につながっているのではないかなと、
前に働いていたある時期を思い出しながらふと考えました。

 人間が、神のわざであると考える特別な計画は、すべて、因果的結合の無限といってもまだ足りない複雑さから切り取った断片にすぎない。われわれは持続のなかで、ある種の出来事を、それから生まれる諸結果のうち、幾千もの数あるなかから選ばれたある種の結果に結びつけることによって、かかる切り取りをおこなう。それら切り取られた断片について、それが神の意志に適合していると言うだけなら、われわれは正しい。しかしそれは、あらゆる種類の人間の精神、あるいは人間ならざるものの精神が、いかなる大きさの段階にあるかを問わず、空間と時間とのなかで、宇宙の複雑さから切り取ったいっさいの断片と、ただ一つの例外もなく、おなじ程度において真実であるにすぎない

同上 p.369

これは一つ前の記事の「本題」なんですが…気が向けば別記事にまた書きます。

 虹にかんする伝承は、あきらかにモーゼがエジプト人から借用したものであるが、世界の秩序が人間に与えるはずの希望を、もっとも感動的なかたちで表現している。
 「神は言われた。……私が雲を地のうえに起こすとき、虹は雲のなかに現れる。こうして私は、私とあなたがた、およびすべて肉なるあらゆる生き物とのあいだに立てた契約を思い起こすがゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。」〔創世記、九・一四─一五〕
 虹の描く美しい半円は、この地上の現象がいかに怖ろしいものであれ、それらすべてが一つの制御に服しているという証言なのである。この行文のすばらしい詩情は、神にたいして、制限する原理としての彼の役割を思い出させることをねがっているのだ。
 「あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、ふたたび地を覆うことのないようにされた。」〔詩篇、一〇四・九〕

同上 p.374-375

とりあえず一つ言いたいこととして、
「虹が制限を表現する」という発想に「へー!」と思いました。
雲間や森林の光芒は「直進する光の性質」を思い起こさせますが、
そういう自然原理の一例ではなく、「自然原理の統率性」の現れとみるのですね。

虹にはなにかとかきたてられる思いがします。
前に虹について書いたことをリンクしておきましょう。
cheechoff.hatenadiary.jp

 科学的探究における知性の働きは、非物質的な、力ならざる関係の網目として物質を支配する必然を想念のうちにあらわにしてくれる。この必然が完全なかたちで理解されるのは、それらの関係が完全に非物質的なものとしてあらわになったときである。そのときそれらの関係は、力に服しない魂の一点から発する、高度で純粋な精神集中の結果として、想念のうちに現前するようになる。人間の魂のなかで力に服する部分は、必要の支配下にある部分である。それらの関係を非物質的な純粋さにおいて理解するためには、いっさいの必要を忘れなければならない。その境地に達するとき、満足が必要にたいして与えられたり拒否されたりする力のからくりが理解できるようになるのだ。(…)
 自己自身の思惟、自己の個人的な思惟に魂が満たされているのを黙認するかぎり、その人間は、おのれの思惟の一番深奥のところまで、完全に必要の拘束と力のメカニックな働きとに服している。そうではないと信じるなら、彼は誤謬に陥っているのだ。しかし真の精神集中によって魂を空虚ならしめ、そこに永遠の英知への想念を流入させるならば、すべては変わってくる。そのとき彼は、自己のなかに力をも服従させる思惟を宿すことになるのだ

同上 p.378

全体的になにが言われているのかがよくわかりません。
が、下線部、とくに太字部はなんとか理解したい思いがあります。
というわけでここも、そのままのみこんでおきます。

いや、少しだけ考えてみますが、
「満足が必要に与えられる」は単純に"必要を満たすこと"で、いっぽうの
「満足が必要に拒否される」とはなにか?
必要を満たしても満足しない、ということ?
 それは「必要」なのか?
 肉体的な満足では精神は満たされない?
満足を伴わない必要がある、ということかな(あれ、同じ?)。
んー、有限的満足と無限的満足(矛盾語だな)があるということかな。
よくわかりません。



長かった…一記事では過去最長かもしれません。
なにかのきっかけでシモーヌ氏を思い出したり連想した時に、
本記事を読み返すようにしようと思います。
きっかけがないと、読み返すにも苦労する量と重さですからね。

零の禅、思惟の啓蒙、メカニスムの持続

森博嗣のVoid Shaperシリーズはいま二作目を読んでいます。
(タイトルの"blood"、"scooper"に、装幀が"bamboo"です)

主人公がゼンという侍で、スズカ・カシュウという師に山で育てられたが、
師が死に、その遺言に従って山を下りるところから(シリーズの)物語が始まります。

人物名がみなカタカナで、でも日本名なので漢字を想像させるのですが、
カシュウは「夏秋」、カシュウの旧友で住職のカガンは「彼岸」かなと、
真賀田四季からの連想で勝手にそう思っています。
(ちなみにスズカはシシオ(=志々雄)の一字ずらしかな、と)
一月前の記事↓のタイトルは(本文に関係しませんが)そういう意味です。
では、二作目で登場した同じく旧友の読書家クローチは? 
…しばらく考えておきます。
cheechoff.hatenadiary.jp

以上は余談で、以下も余談ですが、
ゼンはむしろゼロの方がいいのではと思えて、
というのは山から下りたゼンは世間知を知らずに世を渡り歩いていくのですが、
僕の感じる面白さはゼンが「ゼロから考えていく」ところにあります。

ものを考えたり状況を判断するときに、
人は常識や経験や知識を元手にしますが、
それらが自分の身につき、自分と不可分であるほど、
それらを抜きにして(括弧に入れて)考えるのは難しい。
内田樹氏はこれについて「情報を抜く」という言い方をしています。
 情報を抜く (内田樹の研究室)
原理的思考という言葉がありますが、
「〜原理主義」とは違う、本来のこの言葉の意味に近い。

余分な知識も豊富な経験もなく人と相対すれば、
その人の言葉を、身ぶりも含めてまずは受け入れる。
疑うことを知らないほど子どもというわけでなく、
疑うかどうかを判断するための情報が不足している状態。
論理的思考は師から学んでいて、だからまずは全てを吸収して思考材料とする。

ゼンと知り合うことになった人は彼に「無邪気」と言う、
けれど、だからそれは子どもっぽい=無知であるのではなく、
きちんと思考に基づいた上でそうあるべくしての純真である、
読んでいて清々しくなる理由はこのゼンになれるからかもしれない。

 × × ×

『根をもつこと』(シモーヌ・ヴェーユ)を読んでいて、
上記の二作目『ブラッド・スクーパ』を連想したのが本記事の動機でした。
なのでいちおう、ここからが本来の本題です。
(上記が若干書評っぽくなったので、寝かせてしばらくあとで書評サイトに投稿しましょう)


シモーヌ女史の本に対する姿勢は前に書いた通りで、
常識と違ったり(これは岡潔氏の本に対してとは違って時代背景の知識が自分にないので
判断できませんが)理解できない文章に出会った時に、それをすっ飛ばすのではなく、
どう解釈すればよいのかと立ち止まって考えることになるのですが、
もちろんもてる知識と思考力に応じて解釈に限界はあって、諦めて進むことになって、
しかしそれが「なぜだかわからないが頭にひっかかる文章」となって蓄積されていく。
前に「渾身系」と表現した人の本にはこういう文章が多々生じる。
これは、本を読む前と後とで変わりたいと思って読む人にとっては喜ばしい現象です。

 当然の結果として、摂理の観念もすっかり姿を変えてしまった。摂理は思考を茫然たらしめるほどの紛れもない不合理である真の信仰の神秘もまた不合理であるが、この不合理のほうは思惟を啓蒙し、知性にとって明白な真理を大量に現出させる。このほかのもろもろの不合理は、おそらく悪魔の神秘に属する。そしてこの両者の神秘は、現在のキリスト教思想のなかに麦と毒麦のように混じり合っている。

「第三部 根をもつこと」p.364-365(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』春秋社)

この抜粋の太字部にとても強い力を感じて、付箋をつけました。
宗教心がなくても宗教に関心をもつ理由はここにあるのでは、と今読み直して思いました。
本題は下線部なんですが、先にこちらに触れておきます。

たとえば内田氏の『私家版ユダヤ文化論』などに書かれたタルムードの話がこれかと思います。
口伝律法であるタルムードの内容解釈が、代々のラビ(偉大な宗教的指導者)によって異なる。
同じ一つの条文から、個々に様々な解釈によって絶えず新たな真理が生まれる。
ここでいう解釈は僕らの日常的なレベルのものではなく、抜粋の「思惟の啓蒙」と対応する。

この「思惟の啓蒙」については、本書にも書かれていると読みました。
次に抜粋する部分は「メカニスム」という言葉の説明に興味を惹かれました。
メカニズムは、保坂和志氏の思考関心の中心でもあります。

 種子にかんするいっさいの譬えは、非人格的摂理の観念に照応している。恩寵は神のところからあらゆる人間に降りそそぐ。恩寵がそれぞれの人間のなかでどんなものになるかは、彼らがいかなる人間であるかに左右される。実際に恩寵が滲透したところでは、それが結ぶ実は、メカニスムに類似した過程の結果である。かつこの過程は、メカニスムとおなじく、持続のなかでおこなわれる。忍耐の美徳、この忍耐というギリシア語〔υυπομονηη〕をもっと正確に翻訳するならば、不動の待機は、この持続の必要性に関連している
(…)
超自然的メカニスムは、すくなくとも物体の落下の法則とおなじように正確である。自然的メカニスムは、価値にたいするいっさいの考慮なしに、事件を事件として生ぜしめる条件である。また超自然的メカニスムは、純粋なる善を純粋なる善として生ぜしめる条件である。(…)
 十字架の聖ヨハネの全作品は、超自然的メカニスムの厳密に科学的な研究にほかならない。プラトンの哲学もまたそれ以外のなにものでもない。

同上 p.345,346,347 抜粋中ギリシア語のアクセント記号は省略

「メカニスムは持続のなかでおこなわれる」。
こう言われて、メカニズムは構造とは違うと気づきます。
機械の機構など、ものの仕組みのことをメカニズムとも構造とも呼びますが、
この使い方においては時間的経過、つまり持続にあまり重きは置かれていません。
内燃機関の動作などは典型的な「反復」動作で、これは「持続」と似ているようで異なる。
保坂氏が小説で書いているのは、人間関係や、人と家の関わりに関するメカニズムで、
家に住んでいた人々の"なにか"がその家に残る(猫はそれに気付いている?)といった現象は、
家族が何十年と住み続け、友人たちも頻繁に出入りするといった「持続」がもたらすものです。

あと、抜粋の「不動の待機」というのがいいなあと思ったんですが、ちょっと話を戻しまして…

上記の「知性の啓蒙」によって現出した「真理」の例を一つだけ抜粋しておきます。
…と言いながら、以下の抜粋で何が言われているのかよくわからないのですが、
「何かが頭にひっかかり」、何度読み返してもその理由がわからないので抜粋するのです。
わかりませんが、「真理」とは格言のようにシンプルに表現できるものでは実はなく、
そこから言葉を引き出さずにはいられないものを指す
、のかもしれません。

 一番遅れてやって来た雇い人の物語のなかには、葡萄畑の主人の側に気まぐれがあるように思われる。だが少し注意してみるならば、事実は逆である。彼はただ一つの賃金しか払わない。ただ一つの賃金しか所有していないからである。彼には小銭がない。聖パウロは賃金を定義して、「私が知られているように、私は知るであろう」〔コリント人への第一の手紙一三・一二〕と言っている。ここには程度の差はない。おなじように、賃金を受ける行為にも程度の差はない。呼ばれたとき、駆けつけるか駆けつけないかである。たとえ一秒たりとこの呼びかけに先んじる能力はだれにもない。やって来た時期など問題ではないのだ。また、葡萄畑における労働の量や質も考慮されないのだ。時間によってではなく、同意したか拒絶したかによって、ひとは、時間から永遠のなかに入ることが許されるか否かなのである

同上 p.347-348

寄り道が長くなってしまいました。
本題だった「摂理の観念」の併読リンクについては記事をあらためます。

水抜きに関する事前メモ

以下は、備忘録です。


予報では、今週末に岩手(盛岡)で雪が降るようです。
最低気温は-1℃。
水道管の水抜きがそろそろ気になってきたので調べてみると、
外気温が-4℃くらいが凍結し始めの目安だそうです。

やり方は水抜き・湯抜きがあって、手順がいくつかあるようです。

水抜き・湯抜き操作ポイントのまとめ / アート不動産:盛岡の賃貸アパート・賃貸マンション情報
水抜き方法(アパート・賃家の場合) / アート不動産:盛岡の賃貸アパート・賃貸マンション情報

自分が借りている戸建ては浴室の水道管(水・湯)と流しの水道管(水・湯)のそれぞれ屋外露出部にヒータがついていて、これら計4箇所には水抜きをしなくてよい…気がするんですが、ヒータがついてない管部分(たとえば(1)部屋の中は? (2)地中、はそんな冷えないのかな?)で凍ることが、あるのだろうか…よくわかりませんが、これは明るくなってからまた確認します。

屋内にあるバルブは、水抜きが洗面所流し、洗濯機用水道、トイレの計3つと、湯抜きが洗面所流しの1つで、これらを必要時に操作すればいい、と借りた時に不動産屋に言われたはずですが、半年前の話なので記憶は曖昧です。

まだ中途なので、原理をきちんと理解しておこうと思います。

水抜きはやったことのない人間からすれば面倒な作業で、怠った時の被害も大きい(軽く凍って水が出ないくらいなら日中に溶けるのを待てばいいですが、管が破裂すると水道屋を呼んでの修理を要する)ですが、雪国暮らしの生活的特徴としては水抜きも雪かきと同じで、雪かきを経験するためにひと冬留まった者としてはこれら諸々を(つまり万一の被害も含めて)身に染みようと思います
時間が惜しい生活をしていないので、そこは鷹揚にかまえていましょう。

あ、あと雪かき用具は買いましたが長靴がないのでこれも買わねばなりません。
車用の雪落としも、そういう道具は売ってましたが…雪かきで兼用すると、まずいのかな?
一気にドッと積もることはないと信じて、長靴も雪落としも保留にしておきましょう。

なぜ魔法陣は二次元か

「魔法"陣"なんだから、そりゃ二次元だろう」という話ではなくてですね…

本記事はひとつ前↓の副産物です。
結果的にSF的現象の論理的考察になりました。
cheechoff.hatenadiary.jp
先に、あるものに対するカテゴリの関連づけによって、
所属カテゴリとは別の二次元平面が発生すると書きました。

このとき「平面と平面が交わるさま」を想像したんですが、
(高校数学でいえば数学ⅠAでやる幾何でしょうか)
交わった部分は線分になるので「うーん」と思って絵的には追求しませんでした。
というのも、ものと言葉のひとつの対応を集合(閉領域)で考えていて、
閉領域は二次元ですが線分は一次元だから「合わないなあ」と思ったのです。
ついでに、たぶんその集合の属するカテゴリはその閉領域を含む平面と考えていた。
「ではこの"線分"とは何だろう?」ですが、本記事ではそれはさておき。


平面と平面が交わる領域は線分(直線)になります。
そして平面と平面が交わるためには、両平面を含む空間が想定されます。
つまり、以下「空間」を省略して書きますが、こういうことが言えます。

 「二次元と二次元は、三次元において一次元的に重なる」

これを見てなにかこう、次数の行ったり来たりが面白いなあと思って、
じゃあ次数を一つ上げてみよう、とするとこうなります。

 「三次元と三次元は、四次元において二次元的に重なる」 ・・・(*)

三次元(空間)は現実空間のことで、しかし四次元はなかなか想像しづらい。
三次元と三次元の重なりを「立方体同士の部分的包含」でイメージすると、
共通部分も三次元になってしまいますが、これは三次元的に重なっているから間違いです。
では四次元的に重なる、とは…?

ここで、最後の「二次元的に重なる」という部分が気になりました。
二次元はわかるし。
…これがわかれば四次元のイメージ構築につながるのでは?


と思って、しばらく考えて、「魔法陣」を思いつきました。
あの、SF世界内で別の場所にワープできる、杖を手に地面にカリカリ描くやつです。
これは上の答えというよりは、逆に上の論理からこちらの形式が導かれたはずで、
つまり、「魔法陣は三次元空間同士の重なり」なのですね。

ここで大事な点として(いや大事かどうか知りませんが)、
魔法陣は四次元とつながっているわけではありません。
異なる三次元の間をいわば「四次元的に」つなぐ、
言い換えれば、魔法陣による移動において四次元が垣間見られる、
というのが(*)における「四次元において」の意味です。

これに対して、今思いつくのはドラゴンボールですが、
「瞬間移動」は、あれは四次元空間を移動していることになります。
前記事で森博嗣氏の本の内容を紹介しましたが、
「突然光る球が浮かび上がる」がこの瞬間移動に対応します。

瞬間移動によって、移動対象の全体が、同時に(無時間的に)別の空間に移動する。
一方で魔法陣による空間移動は、陣という平面を介するので、
移動対象が平面をヌルッとくぐり抜けるだけの時間を要する。
(こう書いて、ドラえもんの「机の引き出し」は魔法陣系だと気づきました)

…そうか、この所要時間が「四次元的に」ということですね。
 

連想の契機、四次元の意識空間

『博士、質問があります!』(森博嗣)に、SFのテーマで4次元の解説があって、
その中に「厚さ方向にだんだんと表情を変える金太郎飴」という例があります。

 二次元空間にいる人(たとえば紙に描かれた人)が、
 空間を通過するその金太郎飴を見ると、
 たとえば「笑顔からだんだん怒った表情になる顔」に見える。
 金太郎飴は三次元なので、この例は二次元と三次元の交わりにおける認識を示す。

 あるいはその紙のどこかに(三次元にいる人が)指を置いたとすると、
 二次元にいる人には「ある場所に突然円が発生した」ように見える。

 ここから三次元空間にいる現実の人が四次元をどう認識するかを類推できる。
 たとえば部屋の中に突然光る球が浮かんだとすれば、
 その球(別に光っている必要はない)は四次元空間からの賜物ということになる。


という話を思い出したのは、前↓の最後に書いた「"〜でない"の集積による表現」の関連です。
cheechoff.hatenadiary.jp

言葉とものの対応を領域のメタファで考えることを集合論の利用は前提しますが、
集合論における閉空間はふつう二次元を想定します。

が、それは「せまい」かなと、さっき『特性のない男』を読んでいて思いつきました。

この本では主人公のウルリヒが友人との会話から「特性のない男」と呼ばれるようになり、
長い物語の中で「特性のない男の"特性"」について小出しに触れられていきます。
 考えてみれば、特性が「ない」と言ってるので"〜でない"の典型で、
 その特性の説明が非限定的言明で構成されるのも当然ですがそれはさておき、

あるものについて"それはAでない"と言ったとき、
上記の二次元閉空間で考えれば、Aという閉集合が一つ生じ、
「あるものは閉集合Aに含まれないものである」ということを意味します。
が、そも言葉とものの対応において「その二次元閉空間とは何なのか?」という疑問があって、
(この疑問は今出てきただけなのですばやく棚上げしますが、)
"それはAでない"と言ったときに「Aを含む別の二次元閉空間が発生する」と考えてもよい。

これを絵で描こうとするとたぶん面倒です。
概念で考えるとわかりやすくて、
あるものに対して"Aでない"と言ったときに、
あるものとAが異なるジャンルに属する(容易に結びつかない概念同士である)場合には、
あるものをAが属するジャンルに即して思考する契機が発生する
ということです。

 でも特性のない男は非音楽的だったのかしら?
 適切な答えが思いつかなかったので、この考えをそのままにして、彼女は先に進んだ。
 だがしばらくして、思いついた──ウルリヒは特性のない男だ。じゃあやっぱり、特性のない男は音楽的ではありえない。でも、非音楽的でもありえないのではなかろうか?
「第97章 クラリセの神秘的な力とその使命」p.231(ムージル『特性のない男Ⅱ』)

だがクラリセはこの力を、特性のない男で立証してみたいと、しばらく前から考えていた。それがいつからかは、彼女には正確にいえなかろうが、そう考えたのは、ヴァルターが言い出し、ウルリヒが同意した「特性のない男」というこの名前と関連していた。(…)だが「特性のない男」というこの言葉は、例えばピアノの演奏を想起させた。つまり、それは本物の情熱ではないにせよ、演奏中にすごい早さで横切ってゆくあの憂愁、歓喜のほとばしり、怒りの爆発などのことを
同上 p.242

「特性のない男」が、音楽的かどうか?
それを「音楽的でも非音楽的でもありえない」と言って、何を言ったことにもならない。
とりたてて何も意味しないこの疑問と答えが、しかし「ピアノの演奏を想起させた」。

 × × ×

「意味の空間」あるいは「言葉とものとが対応する空間」。
これと「意識(思考)の空間」とを、それらがあるものとして比べたとき、
まったくべつものかもしれないし、似たようなものかもしれません。
が、似たようなものとして考えたほうが便法的にわかりやすく、
そうだとしてここで「意識の空間」というものを考えようとします。

というのも、冒頭に書いた「突然光る球が浮かぶ」というメタファが、
意識の流れについても親和するからで、
そうすると「意識の空間」は少なくとも四次元以上ということになります。
もちろんこれには、"人が想定できるうえで"という前提がつきます。


意識というものは奔放でとらえどころがなく、制御できながらし切れない部分があり、
行動が伴えばはっきりもするし、ただ空想をもてあそべば曖昧にもなります。
それは行動の原動力にもなり、恐怖で身をすくませる麻痺剤にもなり、
従ってそれに全幅の信頼を寄せることも、悪魔のごとく忌み嫌うこともあります。

そういった様々な両面性があって、
しかし終生まで身近に付き合っていくことだけは確かなことであって、
その意識の「とらえどころのなさをとらえようとする」アプローチは、
互いにうまくやっていく上でなんらかの助けになると思われます。

 × × ×

森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!

森博嗣の半熟セミナ 博士、質問があります!

感情における規則性の生命について

本記事もここ最近の投稿内容と関連します。


抜粋部(ウルリヒの発言です)から、
「壁と卵のメタファ」(@村上春樹)についてまず連想しました。
すなわち、システムと個人について。

以下、話のスケールがかなり雑です。

「非常に多くの人たちが科学を非難して、科学には魂がなく、科学は機械的だといい、そして科学が触れると、みな魂のない機械になってしまうといっています。ところが驚いたことに、心情にかかわる事柄には、頭脳にかかわる事柄よりも、はるかに腹立たしいほどの規則性があることに、誰も気づいていないのです! なぜならば、感情がほんとうに自然で単純なのはいつでしょうか? それは、どの人にでも、同じ状況で、機械的に、感情が現れることが期待できる場合です! もし高潔な行為が任意にしばしば繰り返せる行為でないとしたら、どうやってすべての人に徳を望むことができましょう!(…)」

「第85章 市民精神を秩序づけようとするシュトゥム将軍の努力」p.159(ムージル『特性のない男Ⅱ』)

心情、感情の規則性、それは個人に関わるけれど個性とはあまり関係がない。
規則性は個性(や文化)を超えて、人々に共通するものを指している。
この規則性は、たしかに機械的と言えないことはない。
与えられた入力に対して、一定の(量ではなく質の)出力を返す。

最初に書いたシステムは、ある意味で機械的統制と言い換えられる。
システムで秩序立てられた人々*1は、抜粋のように、
「感情がほんとうに自然で単純」に反応することを、
幸福と感じるだろうか?

そんなことはない、ではそれはなぜだろう?
と、抜粋部を前にしばらく考えていて、
「そうか、期待か」と気づきました。

「それは、どの人にでも、同じ状況で、機械的に、感情が現れることが期待できる場合です!」

人間の機械化、あるいは人間関係の機械化は、
夢の例外なき実現が転化した悪夢」だと思いました。
期待は、それが外れることがあるから、する。
規則にはつねに例外がある。

いっぽう機械的統制においては、「外れ」は例外ではない。
統制を外れたものは、エラーであり、バグである。
思い通りに入出力が繰り返されることを、システムは「期待」するわけではない。
思い通りに入出力が繰り返されない場合に、それを設計ミスと呼ぶ。

感情や心情の規則性は、ときにそれが裏切られることを含んでいる
非常識、狂気の発露、火事場の馬鹿力(これはちょっと違う?)。
その実現を恐れ、憎む「期待外れ」の存在が、この規則性の生命である

 × × ×

ふと思いついた余談ですが、

例外を許容しない「システム」と、
異文化の排除、多様性の否定とが同じものの別側面だとすれば、
アベ政権やトランプ大統領、イギリスのEU離脱を、
「夢の例外なき実現」という視点で見ることができます。

あるいは夢と悪夢も、人によっては同じものの別側面なのかもしれません。
 

*1:本記事冒頭の「スケールが雑」という言い訳も雑ですが、読み返して変だなと思って考えて、この部分がいちばん意味不明だと感じました。「システム」が何を指すかは、エルサレムスピーチをあらためて読み返してもうまく言葉にできませんが、ここで言いたかったのは、「システムに魂を売ってしまう」ことで、機械化された人間関係でないものを許容できなくなる、ということです。

moving motivation

抜粋を足がかりに、前の続きです。
象徴、役割、無名性、と、人間関係、それから、
肩書き(これについてはまた後で抜粋するかも)などについて。

 余談、その三、あるいは、答え、その四──だから、歴史の道は、一度突かれると一定の軌道をとって進む玉突の玉の道ではなくて、雲の道に似ており、路地をうろついている男のとる道に似ている。ここでは影に出会い、あそこでは人の群れとか家並みの正面の変な建築ミスに出会って方向を変えて、結局は見も知らない、行こうとも思っていなかった場所にたどりつく。世界史の経過には、いわば「道に迷う」といった風情がある。(…)新しい世代のものは、驚いていつもこう尋ねるものだ──おれは誰なのか、そして、おれの先祖は何だったのか、と。だが、むしろ彼らは、おれはどこにいるのかと尋ねるべきであり、そして、彼らの祖先とは別の種類のものではなく、別のところにいたんだと、決めてかかる方がいいのである。こうすれば、それだけでもう得るところがあるだろう、と彼[ウルリヒ]は考えた

「第83章 千遍一律の世、または、なぜ歴史を創案しないのか」p.138 (『ムージル著作集 第二巻 特性のない男Ⅱ』松籟社

肩書きについて、今朝だったか広告時評連載の橋本治氏の文章で読みました。

 「その意味について考え込ませる肩書きは無意味だ」。
 たとえば、ある人物について知れ渡っていて、
 彼(彼女)の名前を見ればどういう人かが分かっているという人に対して
 使う肩書きがそれであり、それは無意味である。そして、
 「肩書きでなんとなくわかった気にさせちゃう短絡は文化の頽廃である」。

とりあえず記憶を頼りに書いてみました(ので違ってるかもしれません)が、
「役割」のことを最近考えていたので、その思考にこれらが混ざってきました。


肩書きは象徴である。
が、役割が形をもつことで担う象徴とは、少し違う。
「言葉で表せないものをも含む」と、象徴について前に定義をしてみましたが、
肩書きは形をもたない名辞であり、
肩書きという象徴は「言葉で表せるもののみ含む」。

役割がある定型の姿をまとっているとして(『海辺のカフカ』の二人の兵隊のように)、
その恰好を見る、または、その肩書きの名前を聞く。
これはどちらも、彼らが兵隊であることの認識を導く。
けれど、何か違うかもしれないという視点で考えてみると、
 肩書きは「彼らが何であるか」を表す一方で、
 役割は、「彼らが何でないか」と表す
のではないかと思いつきました。

これは抜粋の下線部、とくに太字部と関係があります。
(というか、これを前に考え込んで上の思いつきが生じた気がします)
結論というか、先にこれを書いてしまいます。
 "おれは誰なのか"は「自分が何であるか」を表す。
 "おれはどこにいるのか"は「自分が何でないか」を表す

前に人間関係と個性との関わりについて書きましたが、
たぶんこれともつながります。
 "個性を主張する人間関係*1"は「自分が何であるか」を顕在化する。
 "個性を問わない人間関係*2"は「自分が何でないか」を顕在化する
「顕在化」という言葉は抽象的ですが、
「意識の強化」くらいでしょうか。

なんというか、
本記事は「僕自身の関心のあぶり出し」になったようです。

 × × ×

「言葉はつねに、言い足りないか言い過ぎるかのどちらかである」
とは、たしかウィトゲンシュタインの言葉です。

定義の正確性を追求していくと、
ある対象の定義は、
「〜である」という限定の一文の形をとらず、
「〜でない」の羅列に陥ります。

集合論(数学)では、
内に閉じる一領域を「集合」とする。
無限平面に数多ある集合のいずれにも含まれない対象は、
「いずれの集合にも含まれない要素」と認識されますが、
要素がある男性で、集合が人々の集団だとして、
彼はその認識によっていかなるアイデンティティを導けるか。

"それ"は、運動です。 
 

*1:前はこれを「個性を執拗に問う人間関係」と表現しましたが、こちらの方が正確なので言い直します。異文化を異文化として受け入れない、くらいの意味です。

*2:同上、これは前の「個性を伴わない人間関係」の言い換えです。相手の自分と違うところを認識し、その認識に基づいて関係を成り立たせる。

「身の丈の必要」を探る思想について

前の続きです。
無名性、象徴、役割、そういったものに関して。
そして新たなトピックとして、自給に関して。

 × × ×

kurahate22.hatenablog.com

自給について、いろいろな表現が試みられたturumuraさんの記事のなかで、
いくつか、僕に合うものがありました(記事の中でスターをつけたもの)。
これらについて連ねてみたい言葉については、後で書くかもしれません。

 ・自律的なものに出会う方法。
 ・備わるものを生かすこと。流れを掴むこと。
 ・あるものにゆだねること。主体になること。
 ・必要を知り、必要に応じること。探り、確かめていくこと。

僕は一般にいう自給自足の生活をしていません。
畑もなく、自分でなにかを作って糧を得ているわけではない。
でも、「身の丈の必要性」を知ろうとし、それに従う生活をしています。
それは自給生活をすれば自ずと(必要にせまられる形で)実現するはずのものです。

僕においては「自ずと」ではなく、つまり意思に基づいている。
その、生活中の個々の行動を導く意思は、思想に基づいている。
そうしないと実現できないから、そうしている。
そしておそらくそうしたいから、そうしている。

 × × ×

人間関係の、象徴や無名性との関わりについて考えています。
生活に自ずと生じる人間関係には、象徴や無名性がついてくる。
言い換えると、そこに個性は、表立っては出てこない。
「個性と個性のぶつかり合い」と表現されるような人間関係は、
人間関係のための人間関係のことを指している。

家族の関わりは複雑で、おそらく両者を含むと思います。
後者の例として…
いや、サービス業やサークル活動がその例だと思ったのですが、
これらも、両者を含みますね。
前者の例として、近所付き合い、学校や職場の交友関係など、
と…これらも、両者を含みます。

どんな人間関係にも上に分けて書いたものの両面性をもっていて、
その比重が変わるとすれば、関係の深さと相関するのではないか。
これは比較的単純な考え方で、それが当てはまることも多いけれど、
たぶん僕は、このようではない場面、について考えようとしています。


話は変わりますが橋本治という人はとても個性的な作家で、
しかし彼の文章には驚くほどの普遍性がある。
ものを書くことは、人に伝える文章を書くことで、
自分だけで閉じない文章はもちろん必然的に、普遍性の獲得を目指す。

「個が普遍に至る」という表現を氏について何度も使ったことがあって、
けれどそれは「個性的であり過ぎて普遍に行き着く」なのか、
「個性的であることを超えてはじめて普遍へ至る」なのか。
この2つの違いもわかりにくいですが、
おそらく後者には、どこかで質的な変化がある。
そして後者の現象には、
個性と、無名性あるいは象徴との作用が、関係している。

いや、身体性という側面を忘れていました。
身体は、各個で異なりながら、同じである。
「異なる=同じではない」とは脳の判断で(大きさ、美観、等々)、
身体にとっては、ほかの身体に対して同じも違うもなく、
これに対する脳の妥協的解釈が「同じ」となる。
(たとえば、生理的側面、各身体部位の機能性、等々)
この、身体の「同じ」という側面が、そのまま普遍性につながる
言葉とは脳が操るもので(と常識的には思われていて)、
しかし身体が言葉を語れば、あるいはそういう状況を脳が導ければ、
彼の語る言葉は普遍性を獲得する

「無名性」と「象徴」を並列して使ってきたので今自分で混乱していますが、
身体はまず(上記の「同じ」という側面において)無名性を帯びている。
…今思ったのですが、
「象徴」は、脳を身体につなげる「なにか」を指すのではないか。
あるものの「象徴」といった時、その意味を言葉にして解説はできても、
「象徴」が指すのは、そのあるものの言葉にならないなにかをも含んでいる


話を人間関係に戻しますが、
「個性を伴わない人間関係」というものが、
現代では重きを置かれなくなっているのではないか
とふと思います。
上で触れた比較的単純な考え方からすれば、それは「浅い関係」だからです。
でも、そうとは限らない。
つまり、それは本当に「浅い」のか?

僕の関心の話ですが、
おそらく言葉でよく考えるようになってから(=読書が生活になってから)、
自分が関係をもつ人に、なにかしら普遍性を見出す*1ようになりました。
それで、最近の経験もあって、
「個性と個性がぶつかる関係」と上に書きましたが、これは言い換えると
「個性が執拗に問われる関係」でもあって、これがつまり
「個性を伴わない人間関係」の対極にある関係で、…

なんだろう、急にくだけるんですけど、
「そればっかりだと、つまんなくない?」
と思います。

 × × ×

さいきん何が言いたいのかわからない文章ばかりです(それは別にかまいませんが)。
そして新たなトピックと書いた「自給」の話が未だ出てきません。
唐突なれどそれをこの記事に登場させたからにはつながりがあるはずです。
という見込みが「知性への信頼」で、そのために頑張らねばなりません。


直感で書きますが、
「個性を伴わない人間関係」は、身の丈感覚(志向)と関係があります
それは、その逆を考えるとなんとなくわかります。

人が個性に拘れるようになったのは、身の丈の必要性が満たされたからです。
生きるのに汲々としていれば、個性にかかずらう余裕なんてない。
その時は、象徴的であっても、それを言葉にする必要はなかった。
(「象徴的」と言っているのは、現代の視点からです)


「貧乏を知っているアジアは、発展ではなく"貧乏の豊かさ"を示すべきだ」
みたいなことを広告時評でハシモト氏は言っていますが、
過去に経験したある状況があって、その状況に「戻る」という時に、
なにもかもそのまま「昔と同じ」にはなれない。
物資的な充実を知ってから貧乏に戻るには、
思想をたずさえて行かねばならない。
その思想は「知っている」からこそ構築できるし、そうせざるを得ない。

身の丈の必要がとうに満たされた現代の日本社会で、
その必要をあらためて探るためには思想が「必要」である

と、すぐ上に書いたことを個人レベルで言い換えるとこうなります。

 × × ×

turumuraさんのブログから抜粋した言葉を再掲します(一部太字化)。
以下に書くことはもちろん、この言葉を僕が吸収した上でのことです。
スターをつけたのは、これらを「自分の中に吸収できる」と思ったからです。

 ・自律的なものに出会う方法。
 ・備わるものを生かすこと。流れを掴むこと。
 ・あるものにゆだねること。主体になること。
 ・必要を知り、必要に応じること。探り、確かめていくこと。

ここにある「必要」とは、「身の丈の必要」のことだと解釈します。

「自律的なもの」は、本記事でこれまで書いてきたことを踏まえると、
「現代日本社会で身の丈感覚の維持を助ける"なにか"」を指します。
ある人物かもしれないし、考え方かもしれないし、畑仕事かもしれない。
それに出会えれば、自分は「自律」できる。
それに出会う方法がわかれば、自分以外の人の「自律」を助けることができる。

「備わるもの」。
この言葉からすぐ連想したのは「ブリコラージュ」です。
「器用仕事」と訳されるレヴィ=ストロース(『悲しき熱帯』)のこの言葉は、
内田樹氏のざっくばらんな言い換えだと「ありものでなんとかする」。
つまり「備わるもの」=「ありもの」です。が、
「ありもの」が具体的に何を指すかが、現代ではとても難しい。
便利な世の中で、(自分にとっての)「ありもの」の吟味をすること、
これは上に書いた思想=生活思想の大きな仕事の一つです

 

*1:本記事をいちど書き上げて読み返している間に思いついたのですが、これは畑仕事をしている時に感じる「大地とつながる」のメタファではないかと思います。すごいですね、これ。

灯台守の無名性について

灯台守、センチネル、ゲートキーパ。
これも非常に興味のあるテーマです。

 鳥検番はペラル山脈にあるシシナン山のふもとに住んでいた。鳥はそのペラル山脈を越えてやってくる。鳥検番は、そういう鳥を動かし、気象を左右する力があると言われ、町の人々から怖れられていた。この世の人間として付き合うにはあまりにあの世に近づいていたからである。それでも鳥検番がいないければ鳥の統率がとれなくなる。鳥の統率がとれなくなるということは、あの世の魑魅魍魎が野放しになるようなものである。人々にとって、それ以上の恐怖はなかった。それで当番制を組み、鳥検番には定期的に食物が運ばれ、彼の仕事に滞りが起きないよう、協力する慣わしだった。鳥検番になるものは、捨て子の出自を持つ者と決まっていた。無名性が重要だったのだ。捨て子の資格なら、ピスタチオに勝るものはいなかった。

梨木香歩『ピスタチオ』

これは「物語の中の物語」からの抜粋です。
前に自分が書いたもの↓を読み返してから、
どうも「物語の中の物語」の方が物語よりも現実に近いような気がしていて、
自然と本書の「本編」とは読む姿勢が変わっていました。
cheechoff.syoyu.net

それはさておき、この「鳥検番」も灯台守の一種、
つまり「集団の内と外の境界にいて集団を守る番人」です。
読んでいて灯台守という言葉が最初に浮かんだのは、
前に読んだ同じく梨木氏の小説『沼地のある森を抜けて』の中の物語に、
この役目を担う生き物(たしか人ではなかったような…)が出てきたからです。

そして、下線を引きましたが、この鳥検番という役目の説明の中にある
「無名性」という言葉がなぜか周りから浮き上がって見えたために、
なにかを書こうと思ったのが本記事の動機です。


無名性は、匿名性とは違います。
匿名性においては、名前がない(名前を隠す)ことは、
手段、あるいは特定の機能を果たすための性質でしかありません。
無名性は、それとは違うのか。
それを、今書きながら考えています。

個性が表にあらわれない、この点は両者で共通している。
…この書き方は正確でないかもしれない。
匿名性は、個性が消されていることで機能を発揮する。
無名性は、個性が、人に宿るのではなく、役割に宿る

上の抜粋部を噛み締めているうちに連想した『海辺のカフカ』がヒントになりました。

 やがて二人の兵隊が僕の前に姿を見せる。
 二人とも旧帝国軍の野戦用軍服を着ている。(…)彼らは二人並んで平べったい岩の上に腰をおろしている。戦闘の姿勢はとっていない。三八式歩兵銃は足もとに立てかけられている。
(…)
「僕がここにやってくるのはわかっていたんですね?」
「もちろん」とがっしりしたほうが言う。
「我々はここでずっと番をしているから、誰が来るかはちゃんとわかる。我々は森の一部みたいなもんだから」ともうひとりが言う。
「つまり、ここが入口なんだ」とがっしりしたほうが言う。「そして俺たち二人がここの番をしている

村上春樹海辺のカフカ(下)』

カフカ少年が四国の森を徒手空拳になって、奥深く進んでゆく場面。
二人の兵隊が、ゲートキーパとして登場する。
その彼らはこんなことを言う。

「どうして我々がいまだにこんな重い鉄のかたまりをかついでいるのか、君は不思議に思うかもしれない」と背の高いほうが振りかえって僕に声をかける。「なんの役にもたたないのにね。だいたい弾丸だって入っちゃいないんだ」
「つまり、これはしるしなんだ」とがっしりしたほうが僕のほうを見ずに言う。「俺たちが離れてきたものの、あとに残してきたもののしるしなんだ」
象徴というのは大切なものだ」と背の高いほうが言う。「我々はたまたま銃をもって、こんな兵隊の服を着ているから、ここでもまた歩哨みたいな役を引きうけている。役割。それも象徴がみちびいているものだ
「あんたはなにかそういうものをもっているか? しるしになるようなものを」とがっしりした方が言う。

同上

役割を、象徴がみちびく。

二人の兵隊はこのような会話の最後に、ことのついでのように名前を尋ねる。
「田村カフカ」という少年の答えには、「変わった名前だ」という感想がひとつだけ。
無名の兵隊は名乗らず、過客の名前にも頓着しない。

鳥検番において無名性が重要であることと、同じことを言っている、ように見える。


「無名性」というキーワードが念頭にある中で「物語の中の物語」を読み進めて、
出会って驚いた言葉がありました。
これはどういうことだろう、よくわからないが、知りたい、と思う。

 次にパイパーは、鳥の本当の名前を、探し出すように言った。鳥には秘かに隠し持つ本当の名前が──それは「ヒヨドリ」というような群れの名前ではなく、その個体の持つ名前なのである──あり、それが見抜ければ、その鳥と鳥検番の間には見えない糸のような関係性が生じる。そうなれば、鳥の首に操り糸をかけたようなものだ。群れ全体を動かしたいと思うときは、群れの名前の向こうに、一羽一羽の鳥の名前が浮かび上がるように念じる。

梨木香歩『ピスタチオ』

「本当の名前」を知って動物を操るという話は、『ゲド戦記』にもあったと記憶します。
たしかその「本当の名前」は古代言語で表され、ゲドはそれを師について学ぶという。
思いついて書きましたが、これも関係するかはわかりません。

抜粋中のパイパーは、「物語の中の物語」の主人公ピスタチオが弟子入りする鳥検番です。
そのパイパーが、ピスタチオに鳥検番の技術を教えている場面です。

「無名性」を背負う鳥検番が、「本当の名前」を探す
僕が驚いたのは、この…何といえばいいのか(論理?)、これです。


どういうことだろう…と思考の糸口を探していて、
ふと内田樹氏が浮かんできました。

氏は長く神戸女学院大の教授をやって、教育に携わってきたこともあり、
氏のブログにはよく「センチネル」「歩哨」といった言葉が出てきます。
今ではウチダ氏自身が教育界、あるいは社会常識における灯台守の役目を
担っていると、出版界からの期待もあり、また自認もしているかもしれません。

そんな氏が、だいぶ前に、孔子の特徴だったか思想だったかについて、
述べて作らず」と表現したことがありました。
孔子の書き物のオリジナリティは自身にはなく、先賢にある
そしてこれはウチダ氏自身の著作にも当てはまります。
(たしかこんな話が『日本辺境論』のまえがきに書いてあったかもしれません)


オリジナリティは、個性と言い換えてよい。
個性が存在せず、しかしそこに物事を動かす力が宿ることがある。
 しかし?
 …「だからこそ」?
 物事を動かす?
 …正確に言い直せば、「境界を守る」、「基盤(土台)を支える」。

象徴を備えた役割の無名性が、境界を守り、集団を支える

話がつながったような、
ぐるぐる回っているような…

 × × ×

結局なにが言えたのかもよくわかりませんが、
最後にもう一箇所だけ『ピスタチオ』から抜粋しておきます。
海辺のカフカ』の抜粋中の兵隊の言葉である
 「我々は森の一部みたいなもんだから
と、共鳴していると感じました。

この抜粋は、物語本編の主人公のライター「棚」についての記述です。
ライターだった彼女が、「流れ」に導かれ、物語を書くようになる。
物語を書く者も、現実と物語の境界にいる。

小さい頃から気象の変化に興味があった上に、空の広いケニアに滞在して、大気の状況に自分の体がダイレクトに反応することに、文字通り他人事ではない興味を覚えたのだった。
 あの頃、風に流れる雲が、地上のあらゆる物へと同じように自分の上にも影を落とし、移動していくのがよく分かった。そしてまた次の雲が通過していくのも。その微妙な温度変化や風の質の変化が、草にも土にも自分にも、すべて「平等に」起こっていることに恍惚となり、このまま溶けてしまいそうだと思った瞬間、自分が何かの一部であることが分かった。自分は、何か、ではなく、何か、の部分なのだと。部分であるからには全体とのバランスのなかに生きればいい