human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

ボルダリングとアフォーダンスと「必然的な動き」

長いですが最初に引用します。

武道的な考え方が西洋近代とうまく噛み合わないのは、武道では人間の身体は「力の通り道」だと考えるからです。巨大な自然のエネルギーが、調えられた身体を通って発動する。エネルギーは自分から出るわけではありません。源は外部にある。それが自分の中を通過する。水道管と同じです。巨大な水流を通そうとしたら、その水圧に耐えられるだけの、分厚い、抵抗の少ない水道管を用意しなければならない。薄手の管では、水圧に耐えられずに壊れてしまう。また管の表面が滑かでなければ、水流が滞留してしまう。ですから、野生の巨大なエネルギーを身体に通そうと思うなら、それを通しても傷つかないように身体を調えることが必要になります。武道修行の要諦はそこにあります。それは必ずしも自分の運動能力を高めるという表現では尽くせない。筋力を強めるとか、動体視力を高めるとか、反射速度を上げるとか、闘争心を持つとか、そういうことでは尽くせない。本来の武道修行とは、野生の巨大なエネルギーが通過しても傷つかないように心身を調えることにあります。人間の外部にある力を、人間の身体を通して発動し、それを制御する。その技術のことだと思います。
能楽と武道 (内田樹の研究室)
太字は引用者

内田樹氏のブログや著書から武道に興味を持って、実際にはやらないまでも、氏のいう武道的な思考をあちこちに応用できないかと考えてきたし、考えています。
歩き方の研究*1や一本歯を履き始めたこと、それで四国遍路に出たことも、氏の武道に関する論理的な文章に端を発しています。
四国遍路へ出る準備期間だけ通っていたプールでも、古式泳法を調べたりクロールや平泳ぎとそれを融合してみたりしましたが、水泳については手応えのあるところまでたどり着けませんでした*2

そのような志向が僕の中に通底していて、ウチダ氏の曰く「いつもの話」を読んでいると、ボルダリングのことが思い浮かびました。


筋肉の少ない女性や子どもでも90°以上の壁(オーバーハングといいます)ひょいひょいと登れるのはパワーに頼るのではなく、全身を使う、壁のホールドの状況に合わせて効率良く身体を使う方法を知っているからです(体の軽さもある程度の利にはなっていますが)。
筋肉があると身体の使い方を知らなくてもパワーだけで登れてしまって上達が頭打ちになる傾向は男性の方が多いのでしょう。
前の記事で「オーバーハングエリアは筋肉がついてから」と書きましたが、これをあまり言葉として頭に留めておくのもいけなくて、筋肉とは「身体の理にかなった登り方を邪魔しない(アシストする)筋肉」であるという注釈を忘れてはいけません。

理にかなった登り方とは、最近ボルダリングの本を読み始めた知識からいえば、壁の傾斜やホールドの配置に合わせて指や腕の力だけでなく肩や背中も使う、体幹(胴体)をねじる力や足を振る遠心力も利用する、等々。
そういう身体の使い方は日常生活で身につくものではなく、ボルダリングを行うにあたって技という形で身につけていく。
技は見よう見まねの他に、知識として頭で理解してから実際の動きに移して体得していく場合もあるが、実際に登っている時は手足の動きのいちいちを考えて繰り出すよりは、目先にあるホールドに対して自然に手が出て足がのびるのが理想だ*3
自然な動きとは、ホールドの配置に対して身体が覚えている効率のよい動きが思考を介さずに発揮されること、という意味で書きましたが、これは自分が登り方を選ぶのではなくホールドの配置という周囲環境が登り手(の身体)をして登り方を選ばせるアフォーダンス的現象*4として考えた方がしっくりきます。


と、以上が前段で、ここから引用した内容に繫げるべく書いてみます。

引用部を読んだ時にボルダリングを連想して、「武道的な登り方はできるだろうか、それより前に武道的な登り方とはなんだろうか」と思ったのでした。
筋肉を鍛えるのではなく、という部分がまず共通していて、「源は外部にある」という表現からアフォーダンスを連想して、そしてしかし、その源とは「人間の外部にある力」、「野生の巨大なエネルギー」である。
アフォーダンスとは力ではなく、という言い方も妙ですが、舟を浮かべて流れに乗る川のような物理的な力が働く場を想定しているのではなく、むしろそういう力が働くわけではないが「周囲環境が動作主体にある志向を生み出す」という話なのです。
だから力をここで持ち出せば比喩になってしまって、でも…

いや、こういう展開を望んでいたのではなかった。

地謡の地鳴りをするような謡が始まってくると、その波動がシテの身体にたしかに触れてくる。囃子方が囃子で激しく煽ってくると、そのリズムにこちらの身体が反応する。ワキ方が謡い出すと今度はワキ方に吸い寄せられる。そういう無数のシグナルが舞台上にひしめいています。三間四方の舞台であるにもかかわらず、立ち位置によって気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。
ですから、舞台上でシテがすることは、その無数シグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきところに、いるべき時に立ち、なすべきことをなすということに尽くされるわけです。自分の意思で動くのではありません。もちろん、決められた道順を歩んで、決められた位置で、決められた動作をするのですけれども、それは中立的な、何もない空間で決められた振り付け通りに動いているのではなく、その時、そこにいて、その動作をする以外に選択肢がありえないという必然的な動きでなければならない。刻一刻と変容していく能舞台の環境の中で、シテに要求されている動線、要求されている所作、要求されている謡の節が何であるかを適切に感知できれば、極端な話、シテは何も考えなくても能が成立する。そういうつくりになっているんじゃないかなということが始めて10年くらいの時にぼんやりわかってきました。
それまでは、どうしても近代演劇からの連想で、能も一種の「自己表現」だと思っていました。まず頭の中で道順を考える。角へ行って、角取りをして、左に回って、足かけて・・・・と頭の中で次の自分の動きの下絵を描きながら、それをトレースしていった。でも、そういうふうに動きを「先取り」するのを止めました。ある場所に行ったら、「決められた動作」ではなく、そこで「したい」動作をする。そこで「したい」動作が何であるかは、文脈によって決まっているはずなんです。この位置で、こちらを向いて、こう足をかけたら、これ以外の動作はないという必然性のある動作があるはずなんです。だから、それをする。謡にしても、これからこうなって・・・というふうにあらかじめ次の謡の詞章を頭の中に思い浮かべて、それを読み上げるような謡い方をしない。こう謡ったら,次はどうしてもこう続かないと謡にならない。そういう音の流れがあるはずなんです。
同上

また長い引用ですが*5、これは先の引用より前の、ウチダ氏が能の稽古を積む中で舞台上で何が起こっているかについて考察されている部分です。

下線部を読んで、これだと、まず思ったのでした。

壁を登る時に、「こう登る以外に選択肢がありえない」ような登り方があって、それは上に書いたようなアフォーダンスの要請があるにしろ、その「必然的な動き」は身体にとって快く、心地が良い。
(そうか、アフォーダンスは周囲環境が主体だから動作主体の内側への言及ができなくて、それで上では行き詰まったのか)
その心地良さは、身体のつくりに適ったものであり、樹上で生活していた頃の先祖の身体記憶を呼びさますものでもある。
(スケールが一気にとてつもなく広がりましたが…)

もちろん、技として、例えば腕をセーブするためとか胴体のひねりをうまく使うとか、一つの状況でも複数の選択肢はあり得ます。
数多くある技のどれが自然かとか、サル的かとか、そういうことはわからないし、たぶんそれは初級者だからわからないということでもない。
だから「必然」ということばは便宜的なものでもありますが、実際に登る場面ではそういう感覚は大事で、筋肉疲労やすり傷の痛さとは別のレンジで、感度を上げ耳をそば立て、身体の心地良さという一つの(かもしれない)必然に導かれるように登っていく


初級者の段階からたいそうな目標を掲げてしまいましたが(その道のりがものすごく遠いことはわかります)、そんな風に登れれば、さぞかし楽しかろうと思います。
外の岩(これをボルダーと呼び、このボルダーを登ることがボルダリングという名前の発祥らしいです)を登る楽しさを室内の人工壁と比べると「室内プールで泳ぐのと、外洋でイルカと戯れるくらいに違う」のだと本には書いてありましたが、そういうものだろうし、僕が上に書いた内容も実際のところはとてもありふれたことなのだと思います。
 

*1:西洋歩きからナンバ歩き的な歩行法へ自己流で変えました。その内容は本ブログ内で「和歩」と呼んでいくらか文章化しています。整理はしておらず、散漫に書き散らしていますが。

*2:岩手でも引き続き泳げればと思って探しましたが、市営プールは夏の間だけで、近くに通えそうなプール付きフィットネスクラブもないようです。水泳バッグはボルダリングバッグに転用しています。典型的な紐で吊るすサンドバッグタイプで、濡れた水着を分けて入れられるバッグ底の収納部にクライミングシューズとチョークバッグがギリギリ入りました。両者ともチョークで粉っぽくなるので、水泳バッグのセパレート収納が上手く活かせます。

*3:「スポーツとしての理想」とはまた違うのかもしれません。

*4:例えば、地上の歩道を歩いていて、地下鉄の入口に向かって下り階段に差しかかると、階段の一段目の手前で歩幅が自然とそれまでより小さくなる。この状況を、自分が歩幅を狭くしようと意識したのではなく、下り階段の始まりという環境が歩幅を狭くさせた、と考えるのがアフォーダンスで、前者の場合もあるにはあるが(考え事をしていて階段の直前でハッと気付くとか)、後者の場合が日常的であり「自然」である。

*5:引用元がウェブ媒体なのでつい調子に乗って長く引用してしまうのですが、本文は講演の書き起こしなのでむちゃくちゃ長いです。が、とても面白いので(僕なんか何度も似た文章を読みましたが毎回驚きがあります)ぜひ一度通読されることをお勧めします。