human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「井桁崩し」のクライミングへの応用

まえおき

今住んでいるアパートの部屋にはロフトがあって、
ロフトに上がるハシゴをバーにひっかけて登りますが、
そのバーが手を伸ばせばぎりぎり届く距離にあって、
ちょっと体を伸ばしたい時に日常的に掴むことがあります。

この部屋には二、三年は住んでいて、
その最初の頃から上記の習慣があったのですが、
初期は片足立ち背伸びで、
・左手はぎりぎり指が上向きの4本中3本(小指除く)掛かり、
・右手は掌が若干バーから浮くけどまあ握れるかな、
という届き具合だったのですが、
それが今になると、ちょうどさっきバーに手を伸ばしてみて、
右手も左手も、バーをしっかり握れるようになりました。

「背が伸びた」という可能性もないことはないですが、
年齢から考えてあまりないでしょう。
「腕が伸びた」という可能性も同様に考えられます。

というわけで身体の使い方が変わったのだとすると、
(1)つま先立ちがよりシビアにできるようになった
(2)肩関節がゆるくなって腕の(長さ方向の)可動域が広がった
(3)胴体部分の骨(肋骨ー鎖骨)が「井桁崩し」然に動けるようになった
といったあたりが思いつきます。

実際にありそうなのは2と3で、
このうち掘り下げると面白そうなのは3です。
用語解説も要りますね。

本題

「井桁崩し」は古武術研究家・甲野善紀氏の術理用語です。
四角形の各頂点が(位置可変の)ヒンジ運動の支点となれば、
その四角形は「ひしゃげる」変形により平行四辺形になれる。
剣術・棒術・手裏剣術などの身体運用において、
「肩や肘や手首など各関節のヒンジ運動」といった部分分解ではなく、
身体全体の(「鰯の群泳」のような)同時協調的な動きの表現のために、
身体のある範囲において「井桁崩し」的動作が行われていると仮定する。

その「ある範囲」というのは確かいろいろありうると想定されていて、
その「いろいろ」の具体的なところは覚えていませんが、
一つだけ印象的で記憶に残っているのが「肋骨ー鎖骨」部分です。

ここが本記事の要点なんですが、
胴体を、左右を短辺とした縦長の長方形と見立てた時に、
その「長方形がひしゃげる運動」において決定的に重要なのが、
胴体の全体を貫いて張り巡らされている「肋骨ー鎖骨系」だということです。

冒頭に書いた、ロフト梯子のバーに背伸びして掴むという話に戻って解説すると、
「片足つま先立ち」とは右手でバーを掴む時には左足が接地(右足は浮き)で、
つまりその時の両手両足(先端)の配置は平行四辺形の各頂点に擬せるわけで、
その体勢における身体全体の「リーチ」は平行四辺形の(長い方の)対角線で、
その対角線に従う(沿う)ような左足ー右手間の身体各部の配置が望ましく、
「リーチ」の中間部にある胴体は、
それが長方形であるより平行四辺形である方が(リーチが伸びる意味で)望ましく、
その平行四辺形が大きくひしゃげるほど、身体全体のリーチも長くなる。

本題の本題

いや、そもそもその「長方形がひしゃげる運動」とは何なのか?
と言われると、武術的にはいろいろあるのでしょうが、
ここでやっとボルダリングの話になります。

「ダイアゴナル」と呼ばれる基本的なムーブがあります。
右手で取りに行く時は、右足を高い位置で踏み、
(取ったあとの)右手と左足が平行四辺形の対角軸となるように動くこと。
ここにもう、「平行四辺形」が出てきています。

が、僕自身が「肋骨の井桁崩し」を実感しやすいと思うのは、
ダイアゴナルよりはむしろ、「逆足」で取りに行くムーブです。


右手で右上にあるホールドを取りに行きたい、
しかし踏める足ホールドが左下にしかない場合、
右足で踏んでダイアゴナルで出ようとすると身体が大きく傾いてしまう。
安定性は変わらず高いのですが足が踏みにくくなる。
この場合、右足ではなく左足で踏むことで、
身体を壁に対して正面に向けたまま出ることができます。
ただ、左足と左手を支点として右手を出す(右足は壁か浮いた状態)ので、
身体の左端を支点とした(左右方向が軸の)ヒンジ運動が発生します。
この、右半身から壁から離れていく運動を抑えるためには、
浮いた右足を右側で壁と摩擦させる(スメアリング)、
もしくは左に流す(フラッギング)といったムーブがあり、
これらは「逆足」の場合に身体を安定させるうえで必須です。

さて、この逆足ムーブにおいては、
身体が大きく(上の例では、右に)傾きます。
…と、
ここまで書いてやっと気づいたんですが、
身体が傾くこと自体はダイアゴナルも逆足も同じですね。
…ややこしくなってすみません。

それでも僕自身の「井桁崩しの実感しやすさ」の差は両者にはあって、
それはなぜだろう…
と今あらためて考えてみると、
逆足のほうがムーブにおいて胴体部が動員されやすい、
あるいは少なくとも意識されやすいからではないかと思います。


変なたとえですけど、
トランポリンでハイジャンプをやるとして、
ひと跳びの長い滞空時間のあいだは、
手や足(の特に先端)にはほとんど意識が向かないはずです。
宙に浮いている間は手も足も「空を切る」わけで、
逆にその「わたわた」した動作をすると姿勢が乱れてしまう。
そう、滞空時の喫緊の課題は姿勢制御にあって、
その制御のために顕在意識が動員されるのは体幹のはずです。
(また、徒手空拳での綱渡りを思い浮かべると、
 腕振りでバランスを取るのは「奥の手」とするのがコツな気がします)

ハイジャンプと(この話のなかで)全く逆の場合を考えると、
たとえば今まさに僕がやっている、パソコンの打鍵操作です。
こまごまとボタンが並んだキーボードの表面において、
その一つひとつを指先が瞬間的に「ちまちま」と選び取っている。
手の先端部の細かい動作に意識を集中させることができるのは、
身体の姿勢がどっしりと安定しているからです。
この場合、体幹はもちろん使われているが、意識はされない。
注意力のリソースが末端に多く割かれるだけ、中枢は感知されない。
だから首や肩が凝ったり、背中がバキバキになったりする。

結論

これらのたとえを先ほどのムーブの話に引き寄せてみます。

ダイアゴナルより逆足ムーブの方が安定性が低いために、
ムーブ進行中の姿勢制御に身体操作のリソースが多く割かれる。
ところでその姿勢制御とは、身体の中枢部に対する意識的動員である。

それはたとえば、鎖骨や肋骨を意識することであったり、
それら胴体骨を全体として平行四辺形にへしゃげることであったりする。

そういうことではないか。

そういうことも、あるのではないか。

あったら面白いな。

という仮説ですが。

翻って、逆足ムーブで井桁崩しができるようになれば、
それはダイアゴナルにも返ってきます。
身体(胴体)が斜めになるのは同じなので、
安定した取りの一手においても肋骨の変形を動員できるようになる。
結果的に、スタティックムーブのリーチが伸びる。

といいな☆

 × × ×

「武道的ボルダリング」というテーマがいつも念頭にあって、
それは武道だけでなくヨガや太極拳といった身体操法も対象です。
といって武道は本の知識(とそこからの個人的実地)でしかないし、
ヨガと太極拳にいたっては単なるイメージの域を過ぎませんが、

おそらく共通して言えることは、
「身体全体をいかに使うか」、

その例としては上でも触れた、
「身体全体の協調的動作」や、
「身体の各部をいかに繊細に意識できるか」、
「日常生活では使わない身体部分をどれだけ使えるようになるか」、
など、いろいろ言い方はあります。


甲野氏はそのいくつもの著書で、
武術的な身体運用は日常生活のそれとは全く違っていて、
完全に習慣づいて意識されなくなった「普段の身体の使い方」を、
いかに(顕在意識化し、バラバラにすることで)解除できるか

それが大事だ、というか、
それによってようやくスタート地点に立てる
といったことを書いていたと記憶しています。

甲野氏の術理がバスケやラグビーや楽器奏法に応用されたり、
氏が主宰する研究会の出身者が「古武術介護」を立ち上げられたりしたのは、
武術的身体運用が現代社会の実利に結びついた一例ですが、
その現代的な実利の起点には「現代習慣(常識)の解除」があったことは重要です。
(別の話ですが、少子高齢化・経済成長鈍化の後退戦を迎える現代日本では、
 これを思想として多分野に活かしてゆくことは有効な生存戦略に思われます)

その可能性はあらゆる分野において潜在しますが、
僕自身はクライミングボルダリング)の中にそれがあり、
その認識と敷衍によって生計を立てることができるだろう、
と考えています。

「ゲシュタルトクライミング」 〜アフォーダンスがクライミングを進化させる〜

 
最近造語ばかりしてますね。
まあ、それが文章を書きながら考えてみようという動機の発端になってはいます。

 × × ×

先日出品したセットの作成過程で、佐々木正人氏の本を少し読み直しました。

3tana.thebase.in

前に読んだのは学生の頃なので10年以上前で、
その時はいろいろと衝撃を受けたんですが、
今読み返しても面白いし、発見も着想も多々あります。
そのうちのひとつ。


アフォーダンスとは、本書によれば「周囲環境に含まれる意味」のことで、
この概念のキーポイントは、環境が人の行為を発動させることにあります。
環境と言うと漠然とするので言い換えると、
人が動くにつれて、連続的に変化する環境情報。

アフォーダンス創始者ギブソンの用語には「包囲光」というものがあって、
人を取り囲む空間や物を客観的な静止物と見るのではなく、
視覚はそれらが反射する光の連続的な変化をとらえるのであり、
その光には連続面、境界、肌理(の細かさ・粗さ)などの分別が含まれます。

…という理論解説は用語が怪しいのでさておいて、
ライミングボルダリング)にアフォーダンスはどう応用できるか
という観点で、自分はあらためて読み直してみたのでした。
以下は、思いつき(というか、これから思いつくであろうこと)です。

 × × ×

ライミングに限らず、スポーツ全般において、
身体をどう動かすか、という観点で語られることが多い。
ライミングなら、指をどう使う、腕だけでなく肩や背中を使う、云々。
これらは全て、考察が人体の内部で閉じている。

ボルダリングでは、ホールドをいかに有効に使う(効かせる)かも重要です。
形状や表面粗さから、持ちやすい持ち方や効かせやすい方向を知ることができる。
これは、人体と対象物(ホールドや壁)の相互作用という観点です。
ただ、理論としては、力学(物理学)ですべてを語ることができる。


ここで、アフォーダンスを登場させます。
壁にあるホールドは、「クライミングアフォーダンス」を持っている。
真下に引きたくなる、横に押したくなる、踵を引っ掛けたくなる「佇まい」をしている。
個々のホールドだけでなく、周囲のホールドや壁(の形状、傾斜)との関係込みで。

自分がアフォーダンスについて考える時にいつも出てくる例を挙げるんですが、
地上の街を歩いていて、地下鉄の入り口の階段にさしかかった時、
それまで一定だった歩幅が、階段を降りる直前の数歩、狭まったり広がったりする。
むろん階段の降り始めで踏み外さないためですが、それはだいたいが無意識になされる。

行為において、人は周囲環境のアフォーダンスを無意識に(時には意識的に)活用している。
言い方を変えると、アフォーダンスの無意識的活用は「自然な動作」である。
これを逆に言えば、考え込んで解読を要する周囲環境は(その始めは)不自然な動作に帰結する。
自然と不自然の差は、一連の動作の持続が長時間にわたるほど、顕著となる。


ホールド一つの効かせ方と、ムーブ全体におけるアフォーダンスの把握は、恐らく次元が異なります。
ムーブに含まれる個々のホールドの有効活用の総和が、そのアフォーダンスとなるわけではない。
この観点からして、ライミングにおけるアフォーダンスは「ゲシュタルト的」であるとも言えます。
ゲシュタルトを簡単にいえば「還元的・部分分析的姿勢の正反対に位置するもの」でしょうか。

課題の個々のムーブをバラして登れても、通すと上手くいかないことはよくあります。
その原因が体力不足にだけあるのではないことと、今している話とは関係があります。
「ムーブの流れの良さ」と言えば、これは身体動作からの視点による表現となります。
同じことに見えそうですが、これを「アフォーダンスの有効活用」と言えば、違う意味が生まれます。

自然な動作は、アフォーダンスの無意識的理解が導くものだと先に言いました。
トライする課題に対して、こう登るのが自然だ、違和感がない、気持ちいい、という感覚。
それは、慣れないムーブを繰り返して習熟することと、完全にイコールではありません。
「ホールドがこう持てと身体に囁いている」、あの「ゴーストがそう囁くのよ(@攻殻機動隊)」というやつ。

…かどうかは知りませんが、身体と課題(=ホールドと壁)の心地よい協調に意思が従うということ。
もちろん、無理やりとか力づくで登る課題だってあります。
それは言い換えれば、特定部位(腕とか指)を激しく動員する必要のある課題です。
そのような課題でも、無駄な動きや、ホールドの活用ミスがあれば、さらなる違和感として表れます。


話を少し変えますが、佐々木正人氏の先の本の中に、J・ピアジェの理論の話が出てきます。
赤ん坊のリーチング(ものに手を伸ばす行為)の研究を通して、人間の動作の習得のことを、
「見ている世界」と「自分の運動について知っている世界」の、安定した幸福な結合と表現しています。
これを読んで僕は、ボルダリングの醍醐味が的確に表現されているなあと思いました。

リーチングにおいては、「見ている世界」とは周りの大人の動作を指します。
一方、それを真似しようとして手足をバタバタさせたり、頭が左右に揺れたりする、
思い通りかどうかに関係なく、赤ん坊の動きそのものが「自分の運動について知っている世界」です。
この前者と後者が一致する、目の前にあるおもちゃを掴む瞬間が「幸福」として体験される。

ボルダリングとは、この赤ん坊の「幸福な体験」をひたすら繰り返す営みだと言うこともできます。
スタッフさんや他の人の手本ムーブを見ることは、クライミング行為における「見ている世界」です。
その中には、どうやって登ろうかと頭の中で色々と想像するオブザベーションも含まれます。
そして、その通りに登れた時に、「自分の運動について知っている世界」がそれと一致する。


話はまた逸れますが、僕はこの点からすると、クライマーと観客は両立するのかと疑問を感じます。
両立と言うと変ですが、要は他人のムーブばかり見ていると「幸福な体験」から離れていかないか、と。
自分より上手な(強い)人の動きは参考になりますが、それが今の自分に明らかに再現不可能な場合、
「見ている世界」が肥大して「自分の運動について知っている世界」からどんどん遠ざかっていく

僕自身は、これからトライする課題の正解を自分で見つけようとするのが好きで、
最終的に知らないまま終わってもよく、従って(特に強い)人が登るのをあまり見ないタチなのですが、
これを「自分の感覚が狂うから」とだけ思っていたのですが、今こうして考えていてなるほどと思います。
自分はボルダリングの面白さを、多くの課題をこなせるようになるだけでなく、

赤ん坊が身体動作を習得するのと似た充実にも感じるのだ、と。


話をアフォーダンスに戻します。

ボルダリングアフォーダンスの概念を取り入れると、「良い課題」の考え方も変わってきます。
例えば、こう動けば自然だろうな、とオブザベで思わせ、実際そう登れば気持ち良く落とせる課題。
アフォーダンス的には、このような課題を「良い」(少なくとも「自然な」)課題と見なせます。
もちろん、見てすぐわかってしまう課題は、打ち込み甲斐がない意味ではマイナスでもあり得ます。

だとすれば、オブザベで散々悩ませ、いろんなムーブを試させるトライを重ねていくうちに、
ふと流れが繋がって、最初から最後まで(あまり力まずに)気持ち良く登れた。
そのような課題は、身体の自然な動きや身体とホールドの自然な相互作用を新たに発見させる、
クライマーのアフォーダンス把握能力を向上させてくれる「良い課題」だということになります。

この見方によれば、課題におけるホールドの使い方にも新たな意味を見出せます。
見た目からは想像もつかないホールドの使わせ方をする課題は、パズル解読としては魅力的です。
が、その使わせ方があまりに不自然であれば、アフォーダンス読み取りの違和感にもつながります。
身体動作の流れ(ムーブ)が自然であっても、その動作を課題に適用する段階で不自然な場合がある

…こともあるかなあと頭で考えてはみましたが、これも一概に言える話でもありません。
動作の実現においていっけん不自然に見える周囲環境を、着眼点を変えるなどして、
身体に自然に作用する環境に読み替えることを、アフォーダンス把握能力と考えることもできるからです。
ゲシュタルトライミングの探求には、力学だけでなく、生理学や心理学にも通じる必要があります。

 × × ×

思いつくまま脈絡なくバリバリ書いてしまいましたが、
ゲシュタルトライミング」という考え方は、掘り下げていけばとても面白そうです。
甲野善紀氏の著書に触発されて武道をクライミングに活かせないかと思いつき、
その時キーワードにした「武道的ボルダリング」ともリンクというか、相性の良さを感じます。

イワシの群れが方向転換するような身体運用」という比喩を甲野氏(や内田樹氏)はよく使います。
中枢(脳)からの命令ではなく、身体全体が同時瞬間に協調的に(一方向あるいは多方向に)動く。
これも、手や足や胴体の動きを足し合わせれば全身の動きになる、という単純総和とは異なる観点で、
つまりはゲシュタルト的な身体運用であると言えます。


今後は、古武術だけでなく、アフォーダンスも意識しながら登っていこうと思います。
 
 × × ×

ボルダリングジム遠征記録から何を生むか

ここ何週間か、忙しい日々が続いていたのが、今日でひとまず一段落つきました。

仕事が立て込んでいるうえ、長距離ランナーの早朝ジョギングのようにボルダリングが完全に生活の一部になっていて、デスクワーク続きで調子が悪くなる前に登りに行っていたので、週末も含めて一日家でゆっくりする日がしばらくありませんでした。

出ずっぱりの日が続くと、それはそれでどこかで風邪なり引いて調子を崩すのも以前の傾向だったんですが、今回なんとか持ちこたえたのは、適度に登りに行って身体周期(使ったり休んだりということ)がうまく流れたからだと思います。
あるいは、仕事の重圧感というか責任感のおかげかもしれなくて、こちらだと(一時的にせよ)開放された今日明日にでも風邪を引きかねませんが…

さておき。

文章を書くというか、頭の中で論理を組み立てることをしばらくしていなかったせいか、今こうして書きながらも頭の回転数が低いなあと感じています。

書く習慣も、書かない習慣も、どちらも続けば習慣と化す。
恐ろしいもので、気をつけていないと、ふと気付いたときには前の習慣のことがすっぽりと頭から抜け落ちることにもなる。
知らぬが仏、忘れたもの勝ち、と開き直るには、まだ(少なくとも身体は)若い。
脳年齢というのは、ひょっとして思い込みでどうにでもなるのでは…

飛躍してますね。本題に入ります。

 × × ×

今回のごとく忙しい時期もなんとかコンスタントに登っていて、オフィス近くのホームジム(大正区のガレーラ)の月パスを持っている期間はほぼそこに行きますが、パスが切れた時期や今月のようにホームジムの課題が少ない(先月末に壁一面ホールド替えがあって、今月末までマンスリー課題がないのです)時は別のジムへ行きます。

行ったことがあって、月イチくらいで行っておきたいジム(梅田のボールド、江坂のクラックス大阪、香里園のルクルなど)のほか、行ったことのないジムにも時々行きます。
ホームジムでいつも同じ時間帯に登る仲間が何人かいて、予定が合えば外ジムでも一緒に登ることもあります(自分が命名した「ガレーラ昼組遠征班」のメインは現在3人です)。

新しい所へ行くとみんなで情報交換をするんですが、ついさっきその仲間から「遠征記録をブログに書いてみたら」と言われて、ちょっと考えてみようかと思いました。


僕は技術的にそれほど上手いわけではありません。
登り始めてちょうど2年くらい経って、どこのジムへ行っても4,3級あたりがちょうどよいレベルで、スラブや垂壁のバランス系課題なら時々2級も登れる、という程度です。

だから、なのかどうかはわかりませんが、ジム紹介とか、特色の解説とか、そういったことを書くには未熟というか、たぶんクライミングスタイルが偏っているので(相対的に、体幹・足技系は強くて強傾斜や指酷使系は弱い。キャンパーを全く触らないので指パワーが不足気味)、どこのジムに対しても同じようなことを書きそうな気がする。

いや、内容どうこうより、僕がこのブログ全体で貫こうとしている、「書きながら考える、書くことで新しい何かに気付く」という意志に沿ったことを書きたい。

そうすると、知っていることを書くというよりは、よく分からないが考えてみると面白そうなことを書く方がいい。

自分が行ったジムに対してそういう意図で書いた文章を何と呼べばいいのか、うん、今書いていて、よくわかりません。

でも、そういうことこそ、書くに値することのようなのです。

 × × ×

身体感覚というのは、頭で考えたことよりも、ずっと深く残っているようで、あっという間に消え去ってしまうようでもある。
それが矛盾ではないのは、感覚としては身に刻まれていても、言葉にするには(時間が経てば)手応えがなくなりすぎている、といったことだと思います。

だから、以前の身体記憶を掘り起こして文章にするのは大変な作業だとはわかっているのですが、それでもとにかく、やれるものならやってみよう。


岩手のジム(花巻市クラムボン。もはや時も距離も遠いなあ)で始めて、1年は花巻に籠り(そのあいだに盛岡の2ジムにも行きました。正月のクラムボンでは帰省していた伊藤ふたばを見かけました。知らずに見ると普通の女の子でしたね)、大阪に来る前にドライブ旅行で全国(東北〜四国。新潟のクラウドナイン、滋賀のグッぼる、愛媛のイッテなど)のジムを巡り、鶴見区→北区と大阪に来てちょうど1年経つまでに大阪・京都・兵庫のジムへ行き。
単純にカウントすれば、20は超えて、30近くのジムへ行ったことになるでしょうか。

その数自体に価値があるわけではなく、数が意味するのは多様性、その多様性は言葉にする緒(いとぐち)の多さに結びけることができます。



と、意気込みだけだらだらと書いてきました。
思えば節目としてキリのいい時期でもあるので、ちょっと余裕ができるはずの来週から、ちょくちょく取りかかれればと思います。


…続き物の記事を初っ端から放り出すのが本ブログの習慣になってしまっていますが、「続けたくない習慣」はどこかで打ち破らねばなりません。

謎の異交通 - free dialogue in vivo 6

 
 言葉が通じているかが不明。
 返事がない、ただの独り言のようだ。
 問いかけた同じ数の沈黙が降り積もる。
 それでもこちらは言葉にするしかない。

 問いかけを自分で聞いている。
 答えを想像することはない。
 沈黙に耳を澄ませる。
 問いの反響が仮想域に長く谺する。


 ふと閃きが訪れる。
 静寂の欠片が幽かな燐光を帯びる。
 意想外の出力が眼前に現象する。
 光の残像は熱の記憶を跡に残す。

 決意の刹那。
 意図に紛れ込む無形の呼び水。
 偶然と決然が必然を導く。
 情報の奔流、大河の一滴


 眠りと覚醒の常態。
 言葉の単交通からそう解釈せざるを得ない。
 同時に相手の目を仮想構築。
 宛らこちらは唄う水飲み鳥か。

 粒子であり波動であるもの。
 不定であり螺旋であるもの。
 次元は座標軸を失いメビウスと化し。
 連想は既成を無視し量子跳躍を試み。

Red Research, Purple Physics 3/n

 
 "Colorless insight makes outsight colorful."

 × × ×

──クライミングをやっていて、体幹という言葉をよく聞くようになりました。腕の筋力とか指の把持力とか、そういう末端というか、局所的な力とは反対のものを指すようで、たとえば「体幹を鍛える」なんて言えば、僕の解釈ではそれは全身のバランスをとるためのエクササイズのことで、具体的には背中とか腹筋とか、あと股関節が体幹の指すイメージです。今挙げた部位も、身体の一部という意味では局所にあたるんですが、全身を動かすうえでの中枢となる部分です。鍛えるというよりは「うまく使う」と言った方がしっくりきますが、つまり身体が動く時にその中枢部をしっかり起動させる、指先や足先に負荷をかける時にそれを中枢部が支える。あるいは末端の負荷を全身に分散させる。体幹を活かせれば、末端が持つパワーや持久力に限定されないパフォーマンスを発揮できる。
 もちろん末端を鍛えれば鍛えた分だけ、より強く登れるようになりますが、それは線形というか、努力と効果の関係がはっきりしています。僕はそこにあまり興味はなくて、たとえば話は逸れますけど、昨日初めて行ったジムでオーナーさんがお客さんと話しているのを小耳に挟んでいたんですが、『今のクライミングの世界って、ひたすら鍛えることだけを考えていて、寝て起きて登って食って(で時々セックス)、っていう生活ができる奴が強いんだよね』なんてことを言っていて、要はお金とクライミング環境が実力に直結していて、クライミングだけに集中できる生活の余裕がない人間はトッププレイヤーにはなれない。これは別にクライミングに限らず、あらゆるジャンルのプロスポーツの現状に当てはまると思います。別にそれ自体は世界が豊かになったことの当然の帰結であって、良し悪しを判断することでもありませんが、僕はこういった予定調和な、やることをやれば思った通りの未来がやってくるという『ああすればこうなる』式の事柄には関心がありません。予想通り、という展開を人はよく好みますが、それは大体の予想が外れるからであって、確実な未来があるとしたら、それはもはや現在であって、想像の対象には入らない。

──なにか、現代は頭を使う人間が減ったという印象を勝手に持っているんですが、それはたぶん、想像をしなくなった、する価値がなくなったから。頭を使うのは、欲しいものを手に入れるとか、やりたいことをするために、何をすべきか、どういう手順でどれだけ時間がかかるか、といったこと。いや、これは現代に限ったことではありませんが、なんというのか、確実さ、「実現可能性の高さ」に対する格別の重み付けが、現代特有ではないかと思うのです。それができるのか、できないのかが、高い確度で判断できて、できるのならばやる、できないのならばやらない。博打をしない堅実さの現れという見方もできますが、僕はそれは一種の平和ボケ、人生がそもそも博打であることを忘れているだけだと見ます。別に僕は賭博に興味はないし、一か八かの人生の選択が生きる醍醐味だなんて思ってもいませんが、たぶん、想像に重きを持つ人間として、「こちら側」にいるんだろうなあと今考えて思いました。生活が常に未知に開かれていることを目指せば、自然と堅気から離れていく。変化のないルーティン的な日常が下地にあってこそ微細な変化に気づき、その色彩やかさを感知できる、という次元を上げた堅気というのもあって(内田樹氏はこれでしょう)、僕はこちらを目指したいですが、難しいのは「次元を上げること」を当然の認識とすることです。たぶん、生活のなかで具体性と抽象性を同時に追求する姿勢が必要で、そして具体的なところをしっかりさせると普通はそちらにかまけて抽象性が薄まっていくんですが、できる人間は具体性の充実をそのつど抽象性に昇華できる。個体→気体を昇華といいますが、この逆も昇華なので、ここでこの比喩を使うのはなかなか適切で、つまり具体性と抽象性の循環のことを指しています。今の僕はこの「同時追求」を実行しつつも、具体性の側に堅気の安定が不足しています。これは別に、抽象性の側に求めてもいいのですが。なんだか、すごく抽象的な話になってしまいました。

──話がズレたので戻します。何度も言ってきたことですが、僕は単純にクライミング技術向上を目指してボルダリングをしているわけではありません。では何のためか、というと、一つは身体性の賦活であると。こう言って、身体性について言葉にしていく難しさがあっていつも挫折してきたのですが、今回は少し頑張ってみようと思います。昨日はジムに8時間近くいて、ほとんど休憩もしなかったので最後の方はよれよれだったのですが、ヨレて登りながら、ふと身体に感じるところがありました。
 ヨレるというのは、これもクライミング用語で、指や腕に力が入らなくなって、元気な時に登れるコースが全然登れなくなる状態を指します。ふつうはヨレてから登ると思わぬケガにつながったり(手のコントロールが利かなくてホールドにぶつけたりとか、変な落ち方をして足や腰を痛めるとか)、筋肉疲労以上のダメージを身体に与えたりするので推奨はしませんが、一方では、無理をしないで軽めのコースを登ることで「力の使わない登り方」を探索することができます。これは体幹を活かした登り方に通じるところがあるので、僕はヨレてからも課題のグレードを下げながら継続的に登り続けることにしています。
 ここからちょっと詩的な表現が多発するかもしれませんが、まあ書きます。力を使わない登り方、つまり変に力まないということですが、これができると、意識が身体の中心にありながら手足を動かせているような気がします。たとえば、これはヨレている時に限りませんが、初級課題だと普通にできるんですが、ホールドを取りに行く時に、手は大雑把に次のホールドの方に向けながら、細かい位置合わせを足の踏み込みでやる。具体的にいえば、取りたいホールドの10センチ下まで手を持ってきて、あとは手も腕もそのままで、踏み込んだ足の膝を伸ばすことでその10センチを稼ぐ。これは体幹オンリーというよりは主に足を使った登り方なんですが、手という末端への意識を薄めながら掴むというやり方は、説明しようとしている「力を使わない登り方」と同じです。…体幹に足は含まれないのか、と今書きながら疑問に思ってきましたが、これは難しいところですね。現在の僕の感覚では両者をあまり分離できていないのですが、たぶん理想をいえば「別もの」だという気がします。

──ちょっと話が変わるんですが、料理の味について、書きます。いや、問題は料理じゃなくて人のほうなので、味覚についてですね。美味しいとか、あと辛い苦い云々は、あれは脳の作用ですね。味覚がなくなるのは、舌の異常もあるかもしれませんが、味蕾だったか、舌の神経と繋がった脳の一部が機能不全という場合もあると思います。何が言いたいかというと、美味しいというのは、身体が感じることではないのですね。それを昨日、ジムから帰ってきてスーパーから半額セールで買ってきた鶏肉のカツレツを食べた時に考えました。安物の、ではなくて多分肉の生っぽさが残っていたのか、レンジで温めてから食べた時に妙な生臭さがあったんですが、それとは関係なく、噛んで飲み込んだ時に身体にある種の充実を感じました。ジムで長時間登るとよくあるのですが、それは「タンパク質渇望感」と勝手に呼んでいる状態で、その時に肉を食べたり豆乳を飲んだりすると、普段それらを摂る場合とは違った感覚が生じます。「この充実感は美味しさとは別だ」と昨日思ったのは、たまたま鶏肉が少々生臭かったおかげなのです。そしてそれから思ったのは、「これは身体が感じていることじゃないのかな」ということでした。

──身体感覚そのものは、言葉にすることが困難で、そもそも意識が身体感覚をきちんと把握するのに長けていないせいもあり(上記の美味しさの話も、食べて感じるのだからなんとなく身体感覚だと思ってしまいますが、全部が全部そうではないのです)、身体を動かしている時、あるいはもっと全般的に身体が活動している時の幽かな感覚という具体例と、その感覚と相関がありそうな意識や身体状況や環境などをもとにした、具体例に対する考察によって、身体感覚の言語化を少しずつ進めていく。そしてこの姿勢、身体に対する感度を研ぎ澄ませることと意識を身体に沿わせること、これらによって身体感覚自体も少しずつ充実していくはずだと思います。話を戻せば、僕はそのための手がかりをクライミングに求めているということです。「合気道などの武道に興味を持っていたが結果的にボルダリングを始めることになった」という一見訳の分からない事情を表す一文には、このような背景が込められています。

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チョークバッグは、滑り止めの粉末チョークを入れる袋です。
厳密には、バッグ内に入れるチョークボールの内部にチョークを充填します。
チョークボールは布地のお手玉サイズの球で、握ると生地の隙間から粉が出てくることで、手に粉をつけるもの。
チョークバッグは、チョークボールから出てきたチョークを受けるためにある。

構造としては、外袋と内袋が別になっていて、紐を絞れば内袋が閉じて、粉が外に出ないようになる。
また口が円形に開いた状態を維持できるようになっていて、口の縁をゴソゴソしないでも手を入れることができる。
写真の右側が市販のものの一例です。

仕組みが単純なわりに値段が高いというイメージがあり*1、今回二つ目が必要になったので自作してみました(写真の左側)。
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【材料】○のついた4つを100円shopで購入。下写真参照。
 ○巾着袋(なんとなくデニム生地)
 ○針金(ある程度形状維持できる太さのもの。今回はφ1.6mm)
 ○ダブルクリップ(外袋と内袋を固定するため)
 ○ストッキング(これでチョークボールを作る)
 ・ビニール袋(内袋用)
 ・輪ゴム(チョークボールの口を閉める。1つor2つ)

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【ポイント】
1. 針金はバッグの口を円形に広げて維持できるように円状に整形する
2. 円状にした針金は内袋より内側に嵌める
3. クリップ3~4個で、外袋外側から針金を挟むように留める
4. しまう時は固定用クリップ1つを残して、残りは内袋の口を閉めるために使う

下の写真(上)は使用時の状態。チョークを表面に滲ませたチョークボールも見えます。
床に放り出しても、このように口が開いた状態を維持します。
写真(下)は使い終わった後。粉が出ないようにクリップでビニール袋を閉じています。
最後に外袋の紐を締めれば、粉は漏れません。

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こんなところです。
室内ジム用としては、市販のものと機能性は変わりません。
使用開始時と終了時にクリップを留めなおす手間はありますが。

チョークボールをストッキングで作るという話は何度か目にしましたが、バッグそのものの自作はあまり見なかったので、自分で考えて作ってみました。
DIYイデアの肝は、針金とクリップでしょうか。


チョークバッグ高いなあと思われたことのある方、自作を一度お試し下さい。
ちなみにチョークはこの間DIY的発想で大失敗しましたので、同じ過ちが生じぬ意図で付記しておきます*2

*1:写真の市販バッグは片手がぎりぎり入るサイズで、登りながらチョークをつけられるように腰紐がついているタイプ。三千円ちょっとします。室内ジム用の両手がすっぽり入るタイプはもっと高価。今回作ったのは中間サイズですが、要は欲しい大きさの巾着袋を入手すればよい。

*2:「家にある粉で…」と思って、小麦粉を使ってみましたが、恐ろしいほどツルツルになってしまいました(ジムの人には秘密)。卵の殻が原料のものがあるようですが、それを自分で作るには加工機械が必要でしょう。すり鉢くらいじゃ歯が立たないし。

Physics Research with Quantum Purple 2/n

 × × ×

──初期のコンセプトとして、「身体と脳を仲良くさせる」というのがあったんです。養老孟司先生がいうように現代は脳化社会ですから、仕事をしていても、街に出ても家にいても、使うのは脳ばっかりですよね。身体は補助的な役割しかなくて、脳の制御を外れて、つまり何も考えずに無心に身体を動かすなんて機会は、子どもですら滅多になくなっている。「子どもは自然だ」というのも養老先生の言葉なんですけど、その本来性が生まれ落ちて直ちに封印されてしまう社会システムになっている。それはさておき、社会がどうなろうが、人間はどこまで行っても身体であって、つまり自然です。脳の活動があって、他人がそこに意識を見いだせれば、身体がなくてもそれは人間だ、たとえば脳だけ別の場所に設置して身体は遠隔操作で動かすことができて、人がその操作対象を人間と信じて疑わないという状況は実現可能だと、これは石黒浩教授の近著にあって、販促上反則的なタイトルのなんですけどそれはよくて、森博嗣ミステリィに実際こんなSFがあるんですよね。アンドロイド、これ小説内ではウォーカロン、自律歩行型つまりWalk Aloneって呼ばれてるんですけど、ウォーカロンを引き連れた主人公が拳銃で目を撃ち抜かれて、万事休す、と思いきや彼とウォーカロンとの電信会話は続いていて、というのも主人公の脳がウォーカロンの胴体に埋め込まれていて、彼の身体はウォーカロンによって無線でコントロールされていたからなんです。僕これ学生時代に一度読んでたんですけど、最近再読した時にこの部分覚えてなくて、「斬新だなあ」って思ったんですよ。いやあ、忘れるって幸せなことですよね。ん? なんの話でしたっけ。……そう、いつか身体を必要としない人間が誕生したり、それが当たり前になったりすることも技術的には可能で、でもそうは言っても今の僕らには身体がありますから、それに脳もその身体の一部としてあるわけですから、自分の身体を無視するわけにはいかない。脳は身体を無視してぐるぐると思考しているように見えますが、じつは意識の外で身体の影響を受けている。その事実は知っていて、でも知らないふりをしようとしてしまうのが脳なんですね。で、知らないふり、精神分析的には抑圧といいますけど、これは何事につけてもあまりよくないことで、意識下の対象を抑圧すると、抑圧した時とは別の形で、すぐ先のことか遠い未来かは分からないが、仕返しにやってくる。「別の形」がどんな形かは分からない。その対象が意識の外で活動していたものであればなおさら、戻ってくる「別の形」は想像を絶するものになる。怖い話です。そもそもそういう余計なことを考えるから不安になるのであって、最初に無視したんだからそのまま無視しつづければいいじゃないか、という意見もあって、それももっともで、というか社会的にはそれが常識になっていますが、うん、まあズバッと端折れば、僕はそれはよくないと思っています。話を……だいぶ逸れたところを戻せば、脳化社会で身体を活性化、これ僕は「賦活」と言うのが好きなんですが、まあ身体を賦活するためには、それなりの工夫がいるのです。こういうことを真面目に考えるようになったのは、内田樹先生の著書に出会ってからのことで、最初に読んだ教育関係のでいろいろ衝撃を受けたのを未だに覚えていますが、内田先生は合気道をやっておられて、武術研究家の甲野善紀先生とか、介護に古武術を活かす試みをされている岡田慎一郎さんとか、身体に深く関わる仕事をされている方々の本も、内田先生の著書を通じて読むようになりました。僕は今言った方々の本を読んで武道に興味を持って、いつかどこかで実際に始められればなあとずっと思っていて、そうは言いながら、前にいた会社に合気道サークルがあって、直属の上司もやっていて誘われもしたのに結局やらなくて、その時は「必ずしも世間で活動している武道のすべてが身体性の賦活を目的としたものではない」という言い訳を持っていたと思いますが、それは一理あって、確かに甲野先生の剣道観が剣道界では異端だったり、ラグビーやバスケットで武道的な動きが実戦的に活かせることを実地に示しても拒否感をもつスポーツ選手が一定数いる、という話を読んだりもしていたのです。ここでいう武道的な身体運用というのは、身体各部の筋肉をつけて体を鍛えて局所的な出力を増強するのではなくて、鰯の群れの方向転換で喩えられるように全身を協調させる動きを目指すもので、甲野先生の思想が受け入れられないのはスポーツ界の常識が前者で長年やってきたからだと書かれていました。そういった、僕が興味深く読んできた身体に関わる本の記述内容が、どちらかといえば世間的には異端であるという認識が、僕の身の回りにあった自分がやりたがっていたはずの活動への参加に二の足を踏ませていたように思います。今話していて、ボルダリングを始めた時に「武道的な思想をボルダリングに活かしてみよう」と思ったのも同じ理由が絡んでいたのかもしれません。つまり、単純に興味があったからやってみた、応用を検討してみたというだけでなく、スポーツと呼ばれている活動を自分がやりたいように取り組むには、どこかしら異端的な発想を持ち込まねばならないのではないか、と。
──ホンマに長いですね。実はまだ、本題に入ってないんと違います?
──えーと、どうなんでしょう。
──わからんのかいな(怒)

 × × ×

Physics Research with Quantum Purple 1/n

「ダメだよ、そのスニーカー。ダメだってことは保証します」
 なぜ、果物屋が自信ありげに他人のスニーカーを評するのか。
「ハズレですな、そいつは」
 たしかに「現品限り四十%オフ。しかも箱なし」というのを買ってきたのだが、四十%オフになっていなかった段階では、それなりの値が付いていた。現に履き心地はすこぶる良いし作りだって悪くない。私だってかれこれ四十年あまりスニーカーを履いてきたのだ。良いか悪いかくらいは分かる。が、小倉君は「いけませんな、ソイツは」と派手なシャツと裏腹に、妙に老成した物言いで腕を組んだ。
「それ、ひもがほどけ散るでしょう?」

吉田篤弘『圏外へ』

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「今日はね、なんばの方へ行ってきたんですよ。なんばにもジムあります。"Gravity Research"、『重力研究』って、カッコいい名前の店なんですけど、その下にアウトドアショップがあって、靴も買えるんです」
「へえー、大正だけやないんですね」
「いろいろありますよ、市内には。まあ西区から一番近いのは大正のジムやし、他のビル街にあるジムと違って上に広々してるんで、通うんやったら僕はそこをオススメします」
「たしか岩手で始めはったんですよね。どれくらいになるんですか?」
「そですね、去年の夏前に引っ越して、司書講習が始まる前に始めたんで、1年半近くですね。1年と、4ヶ月くらいかな」
「なんかきっかけはあったんですか?」
「いや、もともと興味はあって、今まで機会がなかっただけなんですよ。岩手に引っ越して、ふと近所になんかないかなって探したら、ちょうど去年できたばっかのジムが隣の市にあったんですね。車ないと生活でけへん地域なんで中古車買ってたし、そのジムは講習受ける大学と同じ方面にあったんで、これは通えるなあ思たんですね。週6で朝から夕方まで講義で、まあ座学も多いし体動かさんとようないなあ思てたところやったんで、そしたらもう生活として始めてみようと」
「はあー。スポーツやってはらへんかったのに、できるもんなんですね」
「ええ。一般的にはニュースポーツとして大人だけやなく子どもらにも普及してますけど、僕はスポーツやないという認識でやってます」
「それは、言わはったように"生活として"ていうことですよね。他の人と競うんやなくて、自分の健康のためにやる、っていう感じですか?」
「端的にいえばそんな感じですね。ただシンプルに健康を目指してるというわけでもなくて、この辺のところはちゃんと言葉にしとかなあかんなあと普段から感じてるところなんですが」
「あ、ちょっとニュアンスちゃうんですね。その詳しいとこ、教えてもろてもええですか?」
「うーんと、時間かかりますよ?」
「かまいません」
「えーと、整理できてないんで、話が支離滅裂になるかもですけど」
「んなもんかまへんがな、もう」
「さいですか。では…」

 × × ×

昨日は朝にガレーラに行くと貸切対応中で入れなかったので、自転車で出てきたその足でなんばのGRへ行ってきました。
GRなんばは初めてでしたが、岡山へ行った時に会員カードを作ってはいました。
登ったあとに、すぐ下の好日山荘でシューズを見ていて、各メーカの旧モデル展示品がOUTLET価格で売られていたんですが、5.10のレースアップで見事にピッタリサイズのものに出会いました。
pump.ocnk.net
今は2足目ハイアングル(5.10)と3足目フューチュラ(スポルティバ)を使い分けてるんですが、ハイアングルのソールが削れて中の生地が露出し始めていて、修理キットでなんとかしのいでいる状態です。
これまで3種類使ってきて(1足目はスカルパ・フォース)、登りやすさよりはフィット感と足裏感覚を重視したいなという理想が見えてきましたが(本当は、登れるもんなら裸足で登りたい)、同時に消耗が激しいので次はなるべく低価格にしようと思っていました。
昨日見つけた旧モデルのクァンタムは、ステルスのラバーで足裏は硬そうでしたが、レースアップの効果でフィット感は抜群でした。
そして試し履きの段階で、多少きついが苦労しなくても履ける程度のサイズ感は、既に足に馴染んでいるかのよう。
ハイアングルの経験から、靴を使い込んで前後にはあまり伸びないのではとの思いもあり(フューチュラも右に同じ。逆にフォースはソールに穴が開いた最終盤はサイズもけっこう大きくなっていました)、使い込みによる今後の馴染み方も期待できそうです。

その、ラバー硬め以外は理想通りのクァンタムは「四十%オフ。しかも箱なし」で、「四十%オフになっていなかった段階では、それなりの値が付いてい」て、「現に履き心地はすこぶる良いし作りだって悪くない」、こらまさにその通りやがな、とさっき読んでいて出会った箇所をつい抜粋してしまいました。

が、ダメではありません。
ハズレでも、ありません(確信)。
たとえ「ひもがほどけ散る」としても。
たぶん。

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Galera2級初クリア、鍛えずに登る、三度入り口、etc.

galera-climbing.com
大阪へ来て、ガレーラ↑に通い始めて1月半、昨日ようやく2級課題(スラブ)を初クリアしました。
常設課題ではなく月ごとにホールドの配置が変わるマンスリー課題ですが、マンスリーの中では3級が未だ一つも登れていない中の、唐突なクリアでした(常設課題でも3級クリアは2つだけ)。
岩手のジムでも1年間の最終盤は2級をいくつかクリアしていましたが、あそこは「ボルダリングが地域に根付くように」というオーナーの方針で人工壁の全エリアが(ある級までは)中学生でも登れるホールド間隔がちょっと狭めのコースで構成されていたので、級設定もほかのジムよりは甘めに付けられていました。
なので今回の2級クリアにはひとしおの達成感があります。

もともとスラブのバランス系課題が得意というのもあり、普段は一人で黙々とやっているのが昨日はたまたま同課題をトライ中の3人で一緒に試行錯誤しながらすることになったお陰もあります。
そのせいか、ジムにいたのは3時間でしたが、帰って翌日の今日は身体がへばって、昼まで動けませんでした。
こっちは別に、珍しいことではありませんが。

 ✕ ✕ ✕

www.youtube.com

このジムでは初心者・初級者のための登り方講座をyoutubeにアップしています、ということをつい最近知りました。
動画↑に出ているジムのオーナー、むむさんが中心となって、閉店後に時々撮っているそうです。
ムーブよりも先に、こういうシンプルな「コツ」(方法以前の、心構えに近いもの)を教えてもらえると、ボルダリングに対する印象も、続けていく方向性もだいぶ違ってくるものだと僕は思います。

僕は「なるべく腕に負担がかからない登り方」を岩手で始めた頃から心がけていて、「手よりも足が大事」なのは実感としてとてもあります。
時間が豊富にあった岩手での1年間はストレッチにかなり時間をかけて(ウォーミングアップとクールダウンにそれぞれ30分以上)、登る合間に股関節のストレッチを挟んだりもして、お陰で柔軟性の高い下半身主力クライマーになりました。
(最初に書いた2級課題も、他の人が思いもつかない所でヒールを使う(踵で立つ)ことでクリアしたんですが、股関節の強さと軟らかさがあってこそのムーブだったと思います)

上の動画の中でのポイント、というか僕が「これはいい」と思ったのは、呪文として頭に刻み込んでもいい「足、足、手」です。
どのホールドを掴んで体を引き上げるか、と上ばかりを向いて登る初心者は、腕の力だけでなんとかしようとして、ろくに足元のホールドに体重を載せられずに腕がすぐ消耗してしまいます(男性で、特にスポーツ経験者で腕っぷしが強い人だとそれでも登れてしまい、その登り方がクセになってある段階で行き詰まってしまうことがあります。「ボルダリングは女性の方が向いている」と言われるのも同じ理由で、腕の力がない分だけ自然と体全体で登ろうとするからです)。
壁にはりついた状態で動きがストップするとどんどん消耗していきますが、そうなることを嫌がって焦らずに、「どのホールドに足を乗せれば体重をしっかり預けられるか」を、下を向いてしっかり見極める。
人工壁でいちばん簡単なコースはどのジムでも「足自由」(手は指定されたホールドのみ使うが、足はどれを使ってもよい)ですが、足自由課題の本来の意味というか、それでこその活かし方がこの「足のせ感覚をつかむこと」にある、と動画では解説されています。

この登り方講座の第2弾がつい昨日アップされました。
僕も近いうちに見ようと思います。
(動画の説明書きからすると、ダイアゴナルとかちょっとムーブ的な話になっていそうです)
www.youtube.com

そうそう、大事なことを…
ボルダリングは身体を敢えて鍛えなくても、けっこう登れるようになります。
片手指数本でぶら下がる、みたいな常人離れした動きをするには相当かつ効果的なトレーニングがいるでしょうが、ジム通いを日常生活に組み込んで、週1ででも登っていれば、登るために必要な力は勝手についてくる、とクラムボン(僕のホーム、岩手・北上のジム)のオーナー、オサムさんは言っていました(オサムさんは実際「片手指でぶら下がれる人」ですが。生で見た時は(ミラーニューロンの働きで)自分の指がちぎれる思いがしました)。
僕は初心者の頃に聞いたその言葉を呑み込んで、筋力トレーニングはせず(ストレッチのみ)、登ったあとにプロテインを飲むこともしませんでした(疲労回復のブドウ糖摂取と、あと一度タンパク質渇望感に襲われてからは豆乳を飲んでいます)。
柔軟性だって、足(というか体全体)を意識して登っていれば勝手についてくるものだと思いますが。

 ✕ ✕ ✕

書き始める前に書こうとしたことまでたどりつきませんでした。
ボルダリングに絡めての、ものづくりの仕事として「つくりたいもの」と、身体性(の賦活)、そしてコンヴィヴィアリティの話(つまりこれの続き)にまで到達できそうな予感があったんですが、脇道に長居してしまいました。

まあ、身体を動かしていると自然と至る感覚(身体感覚の活性に導かれた思考の活性)なので、いずれまた戻ってこれるでしょう。

でもちょっとだけ。

ボルダリングによる身体性の賦活とコンヴィヴィアリティ(=自立共生。イリイチの用語。適度にローテクな(広義の)道具の活用を通じて、人が生活や仕事で自主性・創造性を発揮すること。←自分の言葉で今考えて書いたので、いい加減な定義説明です)とがさっき頭の中でリンクして「あっ!」という驚きがあったことだけはメモしておきます。

 ✕ ✕ ✕

生き延びようとする衝動は生物の性、
けれど意識をもった人としては
「生きたい」という意志をもって生き延びたい。
社会が、世界がどうあっても。

この、意識の底また底にあるものと、仕事とが結びつけば、仕事はその重みを格段に増すことでしょう。
それが苦しみであるとして、僕自身はそれを引き受けるべき苦しみだと思っている。
苦しむのが嫌なら、死んで楽になればいい。
もしかして、「生きたい」と公言する恥辱は、それが「苦しみたい」と同義であることの隠れた認識に端を発するのではないか。

この掘り下げは、形式に、手段に堕さない言葉が息を吹き返す一つの道になるという予感がある。

中央線ボルダリング事情

仕事の行き帰りの途中で通えるジムを探していました。
途中とは、主には高井田〜九条間(中央線)か、横堤〜ドーム前千代崎鶴見緑地線)。
晴れていて特別な用事がなければほぼ通勤は前者の中央線です。

これまでに森ノ宮と本町のジムに行きましたが、(前者はショッピングモール内なのになぜか)ビル仕様で天井が低く、自分が始めた北上のジムと比べて圧迫感がありました。
(大阪に住む前に一度帰省したときに行った、心斎橋と堺筋本町の間にあるジムも同じでした)

今日行ったのは大阪市内で4つ目になるんですが、大正区のジム・ガレーラ。
工場街にあり、当然建屋が広い。
のびのびとやるならここかなと感じました。
(コースの傾向などは何か解説できるほど把握はできませんでしたが、BGMがほかのジムにありがちな重低音バリバリの大音量でなかったのは僕の好みでした)

galera-climbing.com

最寄りの大正駅鶴見緑地線の終点ですが、地下鉄を使わずとも九条のシェアオフィスから自転車で行ける距離にあります。
いいなと思ったのは、九条で着替えていけばジムには靴とチョークだけ持っていけばいいこと、そしてそれらの用具をオフィスに置いておけること、あとは仕事の途中で気分転換に登りに行けること(今日は仕事を始める前に行きました。これよく考えたらかなりの利点で、ふつうのサラリーマンだと仕事終わりの夕方以降に来るので、平日日中の空いた時間に来れるってことですね)。
それと、帰りに周辺をうろついていると銭湯も見つけました。汗だくになったらスッキリできますね。空調がけっこう充実したジムなので夏でもそこは意外と平気かもしれません。

最初は電車での途中下車を前提にして考えていましたが、こっちだといろいろ融通が利きます。
とはいえ、ジムそのものがいちばん通いたいところであることがまず大事な点。

あとは、通える頻度を調整して、月パスを購入できるかどうか。
いや、購入自体は単純に費用の問題ですが、ボルダリングが生活の一部になるかどうかの一つの指標にはなります。


ブリコラジールの方でもボルダリングを「今後関わりたい仕事分野」として掲げている以上、自分なりに深めていきたい思いもあります。
どう仕事にするか(たとえば「どう設計とからめるか」)は、うーん、これからですね。

趣味を仕事にしたい、という方向性ではなく、趣味の知見を本業に活かしたい、と思っています。

 ✕ ✕ ✕

そういえば通っていた高校が大阪城のすぐそばで、僕自身は学校周辺しか地元感はありませんが、市内から通っていた同級生はもちろんたくさんいて、今も市内在住という旧友がちらほらいます。
主に彼ら彼女らに向けてなんですが、ボルダリングに興味があれば気軽に一声かけて下さい。連れて行って面白さを伝授します。
子供の頃の木登りと一緒で、身体を動かすだけで楽しめる活動で(僕は自分の登壁コンセプト上、スポーツとは呼びません)、道端でこけたら骨折するような虚弱体質でなければ誰でもできます。
(岩手で司書講習をやってる間に同期の方々を(結果的に)誘って何人も連れていきましたが、動機はいろいろあれスポーツ経験者もそうでない人もみんな楽しそうでした)

野生の目覚めがあるかもしれません。ぜひ。